渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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3.ニート、家を出る。

 

 

 

 

 集合住宅の4階分の階段を降り切ったまでは良かった。

 問題はそこから。

 

 団地の敷地から出て、表通りへと出る。

 

 何となく見覚えのある街並み。

 何となく歩いた記憶のある道。

 見慣れているはずなのに、初めて訪れたような感覚。 

 曖昧な頭の中の地図。

 

 団地の前を通る道。

 歩道を行き交う人々。

 

 少女の足は団地の敷地を出て右の方へ。

 数歩ほど歩みを進めて。

 前から日傘を差した年配のご婦人が歩いてきた。ご婦人はすれ違いざまに少女に向かって軽く会釈をして、通り過ぎていく。そんなご婦人の背中を見つめて。少女はふらふらとご婦人の後を付いていって。十歩ほど歩いてみて、今度は前方からジョギング中の青年がやってきて、少女はすれ違った青年の背中を追いかけてふらふらと歩き、すると続いて前から犬を連れた男の子がやってきて、ふるふると揺れる犬の尻尾を追って歩いて。

 団地の前で右に左にと彷徨う少女。向かうべき方向を決められないまま、10m程度の間をひたすら行き来したまま、30分が過ぎる。

 

 

 プシュー。

 同じ場所をぐるぐると回り、いい加減目が回ってきた少女。

 そんな少女の前に、一台の古びたバスがエアブレーキの音を響かせながら停車した。

 

 バスのドアが開き、何人かの乗客が降りていく。

 運転手の視界に、歩道で佇む学生服姿の一人の少女が入った。少女は、ぼんやりとバスを見つめている。

 

「乗るの?」

 バスの中から運転手に声を掛けられ、少女はふるふると頭を横に振った。

 ガタンガタンと音を立てて閉まる折りたたみ式の自動ドア。

 バス停にエンジン音と排気ガスと一人の少女を残して、バスは走り去っていく。

 

 遠ざかっていくバスを見つめる少女。

 バスの壁面には大きな路線図の表示。

 

 『〇ケ丘団地前』 → 『〇×町商店街』 → 『□△図書館』 →

 

 これからあのバスが辿る路線のバス停の名前が表示されている。

 

 その中に。

 

 『第三新東京市立第壱中学校前』

 

 少女の足は、バスが走り去っていった方へ向かって歩き始める。

 

 

 

 見覚えのあるような、ないような商店。

 見覚えのあるような、ないような神社。

 見覚えのあるような、ないような公園。

 

 追うべきバスの姿はとっくの昔に見えなくなっていたが、歩き始めれば不思議と少女の足は迷いを見せなかった。交差点も、歩道橋も、次々と現れる分岐を迷うことなく選んでいく。

 

 やがて少女の目に、小高い丘の上に立つ鉄筋コンクリート製の白い建物が見えてきた。丘の上の建物に続くなだらかな坂を上っていくと、敷地と道路を仕切る門が現れる。門の立派な表札には、大きな字で「第三新東京市立第壱中学校」の表記。

 

 3階建ての校舎を見上げる。

 

「…ここ、…知ってる…」

 

 自分自身に言い聞かせるように呟いた。 

 

 

 学校。

 学び舎。

 子供が教育を受ける場所。

 同じ年齢の子たちが、同じ教室で、同じ時間を過ごす場所。

 子供たちの唯一の社会。

 大人たちの社会の縮図。

 

 

 無機質な鉄筋コンクリート製の校舎。

 それでも、なぜかその校舎を見上げていると、心が温かくなるような気がする。

 

 ここで過ごしたことがあるような気がする。

 

 そんなに多くの時間ではないけれど。

 

 大切な誰かと、掛け替えのない大切な時間を、ここで過ごしたことがあるような気がする。

 

 

 何かに導かれるように、ふらふらと校門へと向かった。

 スライド式の門扉は半分しか閉まっておらず、誰でも簡単に出入りできるようになっている。その門から校庭の中に足を踏み入れようとして。

 

 校内放送用のスピーカーから、音割れした大きなチャイムの音が木霊する。

 その音にびっくりしてしまったらしい少女は、門の前で足を止めてしまった。

 

 やがて騒がしくなる校内。校舎から、続々と生徒たちが出てきた。

 学生鞄やショルダーバッグを抱えた、下校姿の少年少女たち。何十人、何百人の生徒たちが、一斉に門へと向かう。

 

 門から次々と溢れ出す生徒たち。 

 生徒の群れの中に佇む少女。

 あっという間に人の波に飲み込まれ、身動きが取れなくなる。

 

 

 門から出てくる生徒たち。

 男の子たちはチェック柄の学生ズボンに白のワイシャツとネクタイ。

 女の子たちは、白のブラウスに男の子のズボンと同じチェック柄のリボンタイ、そしてチャック柄のプリーツスカート。

 同じズボン、同じワイシャツを着た男子生徒たち。そして同じスカート、同じブラウスを着た女子生徒たちが、門から続々と出てくる。

 

 教室という名の牢獄から解放され、下校の途につく生徒たち。帰りの寄り道の相談や、昨晩見たドラマの話、流行りものの話。それぞれの集団がそれぞれの話題で盛り上がっている中。

 

「ねえ、なに? あの子」

「門の前に立たれて邪魔なんですけど…」

「見慣れない学校の制服だね」

「なんだか前時代的ぃ~」

「あっ、てかあたし知ってるあの制服」

「え? どこのガッコ?」

「いや、うちの学校だよ。うちのママもイッチューの卒業生なんだけどさ。ママの卒業アルバム見たことあるけど、確かあれとおんなじ制服着てたよ」

「へ~、じゃああのコ、うちらの先輩?」

「いや、うちの学校があの制服だったの、確かサードインパクトの頃だったはずだから。あのコ、うちらとおんなじくらいの年ごろだよね」

「じゃあなんであんなカッコしてんのよ。え? もしかしてタイムスリップしてきたんだったりして」

「ってゆーかさ。気にするべきは格好よりもあっちの方じゃない? 気持ちワルっ」

「なにあれ。呪いの人形? マジキモイんですけど」

「近寄らない方がいいんじゃない」

「ってか先生呼んだ方がよくない?」

「うん、どー見ても怪しいよ。何だか目の色おかしいしさ」

「髪もすんごい色してるし」

「おーい、誰か先生呼んできてー」

「あっ」

「あっ」

「どっか行っちゃった」

 

 

 人ごみをかき分け、駆け足で坂を下る。

 坂を下り切った先にある神社の境内に、転がり込んだ。

 

 境内の隅っこで蹲る。

 乱れに乱れた呼吸を落ち着ける。

 

 生垣の隙間から、ピンク色に染まった顔をひょこっと出す。

 

 神社の前を通る生徒たち。

 見覚えのある校舎から、見覚えのない制服で出てきた生徒たち。

 まるで獲物を求めて彷徨う狼の群れから身を隠す小動物のような表情で、少女は学び舎から放たれた子供たちを見つめていた。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 全身を覆う冷たい感触に身震いをしながら目を醒ます。身に纏った服が、露出した肌や髪が、しっとりと濡れていた。

 板張りの古い床から、夜露の臭いと古い板の臭いとが染みついてしまった体を起こす。

 

 少女が一夜を明かしたのは、古い木造神社の縁側だった。

 神社を囲む木々の向こうでは、朝を迎えつつある街の様子が見える。人通りは殆どなく、時折新聞配達のバイクの音が遠くから聴こえるくらい。

 

 

 にゃお

 

 

 その鳴き声は不意に足もとから聴こえてきた。

 視線を足もとに落とすと、縁側の下に居たのは黒と白のぶち猫。地面の上にちんまりと座ったぶち猫が、少女を見上げている。

 そのぶち猫の背中からは、そのぶち猫の子と思しき子猫たちが2匹、ちょこん、ちょこんと顔を覗かせている。

 

「猫さん…」

 

 猫の親子を見て、少女は目を丸くする。

 興味深そうに、猫の親子を見下ろす。

 自然と、少女の唇が柔らかな曲線を描いた。

 

 少女は腰を浮かせて縁側から滑り降りると、地面に立ち、そして膝を折る。

 そしてこちらを見上げている猫に向けて、手を伸ばした。

 

 

 な~ご

 

 

 途端に、猫は瞳孔を丸くさせ、髭を逆立たせ、歯を剥き出しにして唸る。

 明らかに威嚇を示している親猫。子猫たちは親猫の背中に隠れてしまった。

 少女は伸ばし掛けた手を引っ込める。

「ごめんさい…、ここは…、あなたたちのおうちなのね…」

 猫の親子からゆっくりと離れ、縁側に置いていた学生鞄と藁人形を手に持つ。

 少し離れた場所で、猫の親子を見つめる。親猫はあからさまに警戒した様子で少女を見ている。

「私…、おうちがないの…」

 無意味と知りつつ、猫に語り掛ける。

「どこに行ったら…いい…?」

 少女が予想した通り、猫は唸るばかりで何も答えない。

 

 

 神社の境内から出る。

 街中は薄い朝靄が漂い、その風景はまるで一日の始まりを前に、街全体が毛布にくるまって微睡んでいるようだった。

 

「どこに行ったら…いい…?」

 微睡む街に問いかける。

 答える者は誰も居ない。

 

 顔を俯かせ、足もとのアスファルトを見つめる。

 

「私の…おうち…」

 

 神社の近くにある丘の上を見つめる。昨日訪れようとして、直前で引き返した学校の校舎が見えた。

 

「私の…おうち…」

 

 今度は丘とは反対方向へと伸びていく道路を見つめる。昨日、少女が歩いてきた道。この道の先には、昨日少女が出ていったばかりの集合団地。

 

「私の…おうち…」

 

 ふと、視界の隅に動くものがあり、少女は視線を向けた。

 高架の上を音もなく走る、モノレール。

 

「私の…おうち…」

 

 少女は高架に向かって歩き始める。

 

 

 高架下まで辿り着くと、そこには高架へと上がる階段があった。

 階段を昇り切るとモノレールの駅舎があり、出入り口には自動改札口が待ち構えている。

 朝の通勤客の姿がちらほらとあり、皆、自動改札に切符を入れたりカードや通信端末機などを翳して改札口を通り抜けていく。

 

 少女は学生鞄の中を探る。中には昨日詰め込んだ下着やペットボトルくらいしかなく、財布やカード入れらしきものはない。

 仕方なく、少女は駅舎を後にし、階段を下りた。

 

 頭上を見上げる。

 鉄筋コンクリート製の巨大な高架橋が、延々と続いている。

 少女はその高架橋に沿って、歩き始める。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 街中を走る高架。次第に高いビルが増え、人や車の行き来も増えてくる。

 その中を、少女はとぼとぼと歩く。

 モノレールの駅舎の下ではラッシュ時の通勤客で溢れ、人波に慣れていない少女はすれ違う人々に何度も肩や腕をぶつけられ、転びそうになり、それでも鞄と人形は守りながら、人波をかき分けて進んでいく。

 

 やがて人影はまばらとなり、少しずつ高い建物は減っていき、そして道の端々に積み上げられた瓦礫の山が目立つようになり、やがて更地ばかりが広がるようになり。

 そして高架も途絶えた。

 

 あの神社から出発して、どれだけの時間を費やして歩いてきたかは分からない。

 少なくとも、太陽は一番高いところまで昇ってしまった。

 

 高架を辿ってずっと歩き続けてきた少女。

 彼女が頼ってきた高架は無くなり、そして少女の目の前には少女の背丈の3倍はあろうかという高いフェンスが立ち塞がっていた。

 

 

 右に左に、視線を振ってみる。

 てっぺんに有刺鉄線を張り巡らせたやたらと厳重なフェンスは遥か彼方まで伸びており、少女が立つ場所からではとてもその終わりは見えない。

 

 そしてフェンスの向こう側に広がるのは、まるで砂漠のような荒涼とした大地。

 灰色の大地は、しかしその途中から赤く染め上げられている。

 

 フェンスに掲げられた看板に目をやる。

 

『警告 高濃度汚染区域 立入禁止』

 

 アルミ製の黄色い板に黒の文字ででかでかと書かれた看板。

 

 その物々しい看板の下に掲げられているのは、白の板に細かい字で書かれた看板。

 

『これよりL結界密度危険水準地域のため、一切の立ち入りを禁じます。大変危険ですので、近寄らないで下さい。許可なく立ち入ると災害対策基本法により罰せられます。フェンスに異常を発見した方は、下記までご連絡ください。 第3新東京市危機管理課』

 

 フェンスのすぐ側に立ち、フェンスの大きな網の目に手の指を掛ける少女。

 網の目の向こうに広がる、赤い大地。その赤い大地の先にかすかに見える、ぽっかりと開いた、黒い大きな穴。

 

「私の…、おうち…」

 

 

 ふと見ると、物々しくはあるものの、古くて朽ちてしまったフェンスとフェンスの間に、隙間が生じていた。細身の少女であれば、十分に通れる幅の隙間。

 改めて警告の看板を見る。

 

『…L結界密度危険水準地域…』

 

 その文言の意味するものが一体何なのかよく分からないけれど。

 

「私なら…、大丈夫…」

 

 何故かそんな期待が少女の頭に過った。

 看板から目を離し、フェンス越しの赤い大地を見つめる。フェンスの網を握る少女の手に、ぎゅっと力がこもった。

「パイロットの私なら…、大丈夫…」

 自分に言い聞かせるように、ぼそりと呟く。

 呟いて、瞼を2回ほど瞬かせた。

 

「パイロットって…、なに…?」

 

 少女は身を屈ませると、フェンスの隙間に体を滑り込ませた。

 

 

 

 

 文明の粋を集めた都市から一転して、まるで地球から遠く離れた無人の惑星のような場所に降り立つ。

 そんな未踏の荒野に、右手には学生鞄。左手には藁人形という出で立ちで歩き始めた少女。

 乾いた地面。ゴム製のスニーカーが地面を踏みしめる度に、地面から砂埃が舞い上がり、白いスニーカーをたちまち灰色に染めていく。

 

 すり抜けたフェンスは随分と遠くに離れた。

 フェンスが遠ざかるにつれて、前方に広がる赤い大地が近づいてくる。

 

 てくてくと歩みを進めて。

 

 ついに少女の足は灰色の大地と赤い大地との境目まであと10歩のところまで迫った。

 

「私なら…大丈夫…。私なら…大丈夫…」

 

 そして少女の足は、赤い大地へと踏み入れる。

 

「私なら…大丈夫…。私なら…大丈夫…」

 

 まるでおまじないのように同じ言葉を繰り返しながら、赤い大地のさらに向こう。大地にぽっかりと開いた、大きな穴を目指す。

 

 

 

 少女の細い肩の揺れが激しくなる。 

 

 少女の息が荒くなる。

 

 少女の視界が狭くなる。

 

 無視しがたい体の変調。

 

 ついに少女の膝が折れ、土埃を立てて地面に崩れ落ちる。

 

 地面に四つん這いになった少女の口から、黄色い液体が溢れ出し、少女は慌てて口を塞ごうとして、顔に近づけた両手が赤く光っていることに愕然とする。

 手の平だけでなく、手の甲も、腕も。上肢のあちこちが赤く光っている。

 少女は立ち上がろうとした。途端に膝が地面に着いた。立ち上がろうにも、立ち上がれない。足の感覚が無い。膝から下が、無いように感じる。視線を足の方へとやって、とりあえずまだ2本の足は健在であることを確認する。しかしその両足とも、赤く光っている。立ち上がろうとすれば、その赤く光る足は掛かる負荷に耐え切れず、たちまち液体となって弾けてしまいそう。

 体中のあちこちを、違和感が襲っていた。目、鼻、口、耳、腕、足、背中、胸、腹、腹の中身、脳。それらが1つ1つバラバラになったような感覚。それらを繋ぎ止めるボルトが、すべて抜けてしまったように、まるで統一性が無い。

 こんな体では、とても立ち上がれそうにない。

 とても走れそうにない。

 

 だから少女は這い始めた。

 

 少女は四つん這いのまま、赤い大地から這って逃げ出した。

 

 

 這って、這って。

 

 全身を砂まみれにして。

 

 何とか赤い大地の外。

 灰色の大地へと身を投げることに成功する。

 

 

 するとバラバラだったはずの全身のあちこちの部位が少しずつ統一性を持ち始め、そしてあちこちで赤く光っていた肌が、もとの白い肌へと、いや、砂まみれの灰色の肌へと戻っていく。

 吐き気は和らいでいき。

 視界も少しずつ安定していき。

 呼吸も落ち着いていき。

 

 少女は地面に蹲ったまま顔だけを上げ、後ろを振り返る。

 

 赤い大地のその向こう。

 ぽっかりと開いた、黒い大きな穴。

 

「……私の……、おうち……」

 

 まるで青い空を見つめるような黒い瞳のように、ぽっかりと開いた大きな穴。

 その穴を、少女は望郷の眼差しで見つめる。

 

 肩を震わせ、下唇を噛み締めた。

 

 少女は顔を伏せ、額を地面に付ける。

 

「碇くん…」

 

 嗚咽混じりの少女の声。

 

「私…、エヴァのない世界じゃ…、生きられない…」

 

 腹の底から絞り出されたような少女の声。

 

 少女の細い指の爪が、土を抉る。

 

「エヴァ…って、…何…?」

 

 見開いた少女の目が、地面を見つめた。 

 

「碇くん…って…、誰…?」

 

 少女の問いは誰の耳にも届くことなく、反響物のない荒野の虚空にあっという間に吸い込まれ、消えていった。

 

 

 

 

 

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