渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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4.パラサイト 半ノウのニート。

 

 

 

 

「君」

 頭上から降ってきたその声に、微睡みの沼を漂っていた少女の意識は水面へと吸い上げられる。

 

 高架下の空き地。巨大な高架を支えるコンクリート製の橋脚を背にして、膝を抱えて眠っていた少女。うっすらと瞼を開き、ゆっくりと顔を上げると、そこには赤色灯を持ったヘルメット姿の警備員が立っていて、少女を見下ろしていた。

「ダメだよここで寝ちゃ」

 

 少女は眠たい目を擦りながら周囲を見渡す。

 作業着とヘルメット姿の男たちが何人も行き交い、ブルドーザーやショベルカーなどの重機を乗せたトラックが空き地の中へ続々と入ってきている。

「家出かい? 早く帰ってやりなよ。親御さん、心配してるよ?」

 少女は背後の壁に助けられながら、少しずつ体を起こしていく。

「…帰る…」

 少女の小さな呟き。

「そっ。おうちに帰りなよ。じゃ、あっちから出てってね」

 

 

 

 

 少女は黄色と黒のフェンスの前に立っていた。

 部外者の立ち入りを制限する黄色と黒のフェンスの向こうには、見慣れた集合住宅。

 今にも崩壊してしまいそうな、くたびれた集合住宅。その壁に。

 

 ドン!

 

 巨大な鉄球が襲い掛かり、建物の崩壊を促進させている。

 

 巨大なクレーン車にぶら下げられた巨大な鉄球。クレーン車のブームが右に大きく振られ、それに釣られてぶら下げられた鉄球も右に大きく振られ。今度はブームが左に大きく振られ、それに釣られて鉄球も左に大きく振られる。

 

 ドン!

 

 今、巨大な鉄球が襲った場所。

 そこは4階。建物の端の階段からから2つ目の部屋。

 

 2日前まで寝泊まりしていた部屋が一瞬にして粉々に砕ける様を、少女は彼女にしては珍しく唖然とした表情で見上げていた。

 

「君」

 

 背中に声を掛けられる。

 振り返ると、そこには赤色灯を持ったヘルメット姿の警備員。

「ここは危ないよ。離れて離れて」

 

 

 

 

 歩道を歩いていると、30分ごとに警察官に声を掛けられた。

 

「君、学校は?」

「おうちはどこ?」

「親の連絡先を教えなさい」

 

 彼らが投げてくる問い掛け。

 それらは全て、少女には答えたくても答えることができないものだった。

 

 答えられないものだから、警察官に声を掛けられるたびに、少女は走って逃げる。

 

 自然と、少女の足は市街地を外れ、郊外へ続く道へと向かう。

 

 

 * * * * *

 

 

 いつの間にか周りは鬱蒼とした森。

 森の中の坂道を、ぐんぐんと登っていく。

 2日前から歩き通し。少女の足は、すっかり棒になってしまった。ゼリー食のパウチや水の入ったペットボトルを詰めた学生鞄は、あの赤い大地から逃げ出した時に何処かに置いてきてしまった。今、少女の荷物は粗末な藁人形一個だけ。

 この道が一体どこに向かっているのか。あの街から出たことのない少女にとって、街から郊外へと延びる道の全ては、未知の道だった。

 

 坂道の途中から道はアスファルトで固められることを放棄され、未舗装の土の道へ。

 やがて森は途切れ、坂道は平坦な道へと変化し、木陰を失った路上を容赦ない陽射しが降り注ぐ。

 視界が開け、現れた風景。

 少女は息を呑んだ。

 

 目の前一杯に広がる青。

 

 青い空。

 

 その下に広がる、青い海。

 

 それは少女にとって、初めて見る光景だった。

 

 少女が立つのは海岸に面した高台。海から拭く風が、少女の肩まで伸びた空色の髪を、優しく撫でていた。

 

 

 目の前に広がる、きらきらと光る青い海。

 その海を見入る少女の瞳も、きらきら光っている。

 腕の中の藁人形をぎゅっと抱きしめ、その場にしゃがみ込んだ。

 

 海と空との狭間にぽつぽつと浮かぶ白い雲。

 海に白波を立てて進む小さな舟。

 海上をゆったりと舞う海鳥たち。

 

 変化に乏しく、決して表情豊かとは言えない風景を、少女は路上に座り込んだまま、飽きもせずに眺めていた。

 

 

 

 

「ああもう…。上手くいかないもんだな」

 

 その声は不意に背後から聴こえてきた。

 少女の耳にもその声は確かに届いていたはずだが、しかし少女は振り返って声の在り処を確かめようとせず、抱き寄せた膝に顎を乗せながら、ぼんやりと海を眺め続ける。

 

 背後では、パシャパシャと、何かが水を弾く音。

 不規則な水の音が、暫く続いた。

 

 そして。

 

「うわ、わわっ!」

 

 パシャン!

 

 素っ頓狂な悲鳴と共に、大きな水の跳ねる音。

 ようやく少女は背後を振り返る。

 

 少女の視線の先には大きな水溜まり。

 その水溜まりの真ん中で、一人の少年が仰向けになって倒れていた。

 

 つなぎの作業服にワークキャップ、首には巻いたタオルという出で立ちの少年。

 そんな少年が、水溜まりに膝下まで突っ込み、空を見上げた状態で倒れている。

 

 そんな無様な姿の少年を、少女は無感動に見下ろす。

 少年は水溜まりの淵に立つ少女の存在に気付いたらしい。

 

「やあ…、こんにちは…」

 

 無様な姿を見せてしまい恥ずかしいのか、少し震えた声で挨拶する少年。

 

「ごめん。ちょっと体起こせないんだ。助けてくれると、ありがたいんだけど」

 

 その少年の声に、少女は目をぱちくりとさせる。そして周囲をきょろきょろと見渡した。ここには少年と、自分以外誰も居ない。

 少年に視線を戻す。少女は首を傾げながら右手を上げ、その人差し指で自分自身を指差した。

 

 少年はにっこりと笑う。

「うんうん、君だよ。君にお願いしてるんだ」

 

 少年にはっきりと助けを乞われ、少女は再び目をぱちくりとさせる。そして再び周囲をきょろきょろと見渡した。

 少年の助けになりそうな道具が何もないことを確認し、改めて水溜まりの上の少年に視線を戻す。

 

「え、えっと…」

 何もアクションを起こそうとしない少女に戸惑う少年。

「僕の手を引っ張って、起こしてくれるかな?」

 具体的な指示を受け、少女はようやく動き出す。

 

 少女は人形を大事そうにそっと道路に置くと、水溜まりの淵に立つ。水溜まりは未舗装の道路よりも30cmほど低い位置にあり、灰色の水で満たされている。少女はそんな底の見えない水溜まりの水面に、白いスニーカーと黒の靴下を履いたままの右足を、おっかなびっくり近づけていく。

 スニーカーが灰色の水の中に沈む。

 少女はてっきり靴底はすぐに水溜まりの底に付くと思っていたらしい。スニーカーはあっという間に灰色の水の中に沈み、黒の靴下も脹脛までが一気に沈んだ。そこまでいってようやく靴底は水溜まりの底につく。少女は水溜まりの中に入るため、右足に体重を預け始めた。

 たちまち、少女の右足は膝までが一気に沈んでしまう。水溜まりの底は泥濘んでいてまるで底なし沼のよう。

 危うい足場にバランスを崩してしまった少女は、慌てて左足を前に出して踏ん張ろうとする。そしてたちまち水溜まりの底に深く沈んでしまう左足。

 大きく股を開いたままの状態で、身動きが取れなくなってしまった少女。

 どうにかしてこの事態から抜け出そうと、じたばた足掻いてみる。何とか頑張って、右足だけでも引き抜こうとして。

 どうやら泥濘の下でスニーカーが脱げてしまったらしい。

 急に右足が泥濘の中からすっぽ抜け、少女の体は大きくバランスを崩す。そして。

 

「ぐへえ!」

 

 蛙を潰したような声が少年の口から漏れた。

 前のめりに倒れてしまった少女の額が、少年の鳩尾に見事なヘッドバットを決めてしまったのだった。

 

 少年は仰向けに倒れ。

 少女は前のめりに倒れ。

 ちょうどT字状に折り重なる少年と少女。

 

 泥濘に嵌ってしまった2人。

 その格好のまま3分。

 結局少年は立ち上がるのを諦め、背泳ぎの要領で水溜まりの中を移動し始める。そして少女も四つん這いのまま這って水溜まりを移動する。

 水溜まりの淵まであと50センチの位置まで来た時、少女の目の前に手が差し出された。

 見ると、先に水溜まりから脱出していた少年が、道路の上から少女に向かって手を差し伸べていた。

 少女は少年の顔と少年の手とを交互に見つめて。

 おずおずと少年の手に自身の手を伸ばす。

 躊躇いがちに伸ばされた少女の手を一気に掴んだ少年は、

「よっと」

 少女の体を水溜まりの中から一気に引き上げる。

「あらら」

 引き上げようとして、少女の体が想像以上に軽かったらしく、引き上げた勢いで手を掴んでいた少女ごとそのまま後ろに倒れ込んでしまった。

「ぐほぉ!」

 一緒に倒れてしまう少女の体だけは守ろうと庇うように背中から倒れたところ、少年の鳩尾に今度は少女の左肘がめり込むことになる。

「いつつつ…、ごめんごめん、大丈夫かい?」

 少しだけ鼻を打ってしまったらしい少女は、少年の体の上で赤くなった鼻を摩りながら小さく頷いた。

 少年も少女も、ふう、と溜息を吐いて道路に座り込む。

「どうもありがとう。助かったよ」

 結局、最終的に水溜まりから助け出されたのは少女の方だったが、一応は助けようとしてくれた少女に感謝を伝える少年。

「ああ、ごめん。泥だらけにさせてしまったね」

 少年は自分の首に巻いていたタオルを解くと、泥だらけの少女の顔に当てる。タオルで少女の頬を拭き、鼻を拭き、瞼を拭き、額を拭き、唇を拭き。少年のやや遠慮のないタオル捌きに、少女は目を閉じて為されるがままの様子。

 顔をある程度拭き終えると、少女の泥だらけのうなじ、鎖骨の辺りを拭き、腕を拭き。ついでに灰色に染まってしまった服も拭いてやろうと、ブラウスの背中やお腹、胸なども拭いてやるが、泥はすでに布地に染み込んでしまっているため、タオルで拭いた程度では大して汚れは落ちなかった。少年は続けてタオルの端っこを捩じってひも状にすると、それを泥が入り込んだ少女の左耳の孔に突っ込み、掃除してやる。左耳が終わったら、続いて右耳も。その間も、少女は目を閉じて為されるがままの様子。

 少年は最後に少女の髪についた泥を拭いてやろうと少女の頭にタオルを被せようとする。

 が、ここまで為さるがままだった少女が初めて動きを見せた。少年が少女の頭にタオルを被せ、そのまま両手で少女の頭をわしゃわしゃしようとしたら、少女はすっと手を上げて少年の手を止めたのだ。

 少年はすぐにタオルから両手を離す。少女は自分自身の手で頭をわしゃわしゃさせ、頭に付いた泥を拭っていく。

 少女の頭からタオルが取り払わると、そのタオルの下からボサボサ頭の少女の顔が出てきた。

 少年はそんな少女の顔にくすりと笑いながら、タオルを受け取る。

「あまり落ちなかったみたいだね」

 タオルで多少落としたとはいえ、少女の体は泥だらけのまま。

 もともと泥だらけだった服だ。少女は構わないと頭を横に振る。

 

 少年は体を倒し、道路脇に置いていたお盆に手を伸ばす。お盆を手もとに引き寄せると、お盆に乗せていた薬缶を手に取り、その隣の茶碗に中身のお茶を注ぐ。

 茶碗に口を付け、ぐいっと呷る少年。

「はあ、生き返るねえ」

 ふう、と一息を吐きながら、その風貌には相応しくないオッサンくさいセリフを漏らす少年である。

「あ、どうだい。君も」

 少年は茶碗にお茶を注ぎ直し、少女に渡してやる。

 少女は渡された茶碗に口をつけ、ちゅるちゅるとお茶を啜って。そして、

「ふ~…」

 少年と同じように、一息を吐く。

 少年は少女の手から茶碗を受け取ると、茶碗の中に残っていたお茶を一気に飲み干し、改めて茶碗の中にお茶を注ぎ、ぐいっと呷り。

「は~…」

 空の茶碗にお茶を注いで隣の少女に渡し、少女はお茶をちゅるちゅると啜って。

「ふ~…」

 

「は~…」

「ふ~…」

「は~…」

「ふ~…」

 少年と少女との息が交互に続く。

 

 

 久しぶりに喉を潤すことができた少女は、その視線を目の前の水溜まりへと向ける。

 水溜まりと言うには深すぎる水深。泥濘んだ底。その水面には、距離を空けてぽつぽつと細長い葉っぱが顔を出している。

 

「ああ、これかい?」

 少女の視線に気付いた少年。

「今日から田植えを始めてみたんだけどさ。これが全然ままならないんだ」

 少女は少年の顔を見る。少し目を丸くして。

 そんな少女の顔に、少年は恥ずかしそうに後ろ頭を掻く。

「僕、まだ農業初心者でさ。ほらあれ」

 少年は水溜まり、いや、田んぼの上を指差した。

 田んぼの上には、斜面に連なる段々畑が広がっている。

「3年続けてようやく畑の方は形になり始めたから、今年から米にチャレンジしてみようかと思ったんだけどね」

 少年は今までの苦労を表すかのように、大きな溜息を吐いた。

「知ってるかい? 稲作って、ほんとうに大変なんだよ。田植えに入るまでに、アゼ塗とか荒代とか、やらなくてはならないことが沢山あるんだ」

 自分がどれだけ苦労したかを訴えるような少年の口調。そんな少年の言葉に、少女は頷いてみせる。

「ええ…。お米づくりは…、とても大変…」

 田んぼの水面をぼんやりと見つめながら、ぼんやりと呟く少女。そんな少女の横顔を、少年は意外そうに見つめる。

「へー。君って、米作りしたことあるんだ」

 その少年の言葉に少女は目をぱちくりとさせ、少年の顔を見る。ゆっくりと顔を横に振った。

「ふーん。あっ、そうだ」

 何かを思いついたように、少年は目を輝かせる。

「じゃあさ。やってみようか? 田植え」

 突然の提案に、再び少女は目をぱちくりさせる。

「泥だらけになっちゃったんだからさ。ついでにもっと泥だらけになってみるのもいいんじゃないかな?」

 目をきょとんとさせている少女。

 決め兼ねている様子の少女に、少年は決定打を出す。

「終わったらお夕飯、ごちそうするよ」

 少女のお腹がくぅ~と鳴った。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 畦道の上に裸足で立つ少女。

 膝丈のスカートを太ももまでたくし上げて裾を縛った格好。露わになった白い足は、灰色の泥水に染まっている。コバルト色のスカートも、白のブラウスも、どこもかしこも泥だらけ。泥まみれの腕は、大事そうに藁人形を抱えている。

 そんな出で立ちで少女は畦道に立ち、目の前に広がる大海原を眺めている。

 西の方では、真っ赤な太陽がまもなくそのお尻を水平線へと着底させようとしており、海面には陽光が作り出す光の道が少女が立つ高台に向かって伸びていた。空は茜色と紺色のグラデーション。

 

「綺麗だね」

 

 いつの間にか少女の後ろに立っていた少年が、少女の背中に声を掛けた。

 少女は少年に降り返ることなく、口を半開きにさせたまま、その双眸に夕陽の光を湛えながらゆっくりと頷いた。

「晴れた日は毎日こんな景色が見られるんだ。無償でこんな素晴らしい景色を与えてくれる自然というものは、ただただ偉大であると言う他ないよ」

 そう言いながら、少年は少女の足もとにサンダルを置いてやる。

「これ履いて。君のスニーカーは泥だらけになっちゃったからね」

 少女は自然が織り成す芸術に見入りながら、少年が置いたサンダルに泥まみれの足を入れる。

 そうしている間に、太陽はついにその体を水平線へと沈めた。

「じゃあ行こっか。真っ暗になる前に片づけをしないといけないからね」

 少年は重ねた育苗箱を抱え上げ、歩き始める。

 少女は水平線上を彩る真っ赤な夕焼けを名残惜しそうに見つめながら、少年の後を付いていった。

 

 

「いやあ、それにしてもさ」

 少年は歩きながら感心したように言う。

「まさか今日だけで全部苗を植えることができるとは思わなかったよ。君、本当に田植えは初めてなの?」

 少年の問い掛けに少女は頷いて答える。少年は少女の前を歩いているというのに、それでも少年はまるで背中に目でもあるかのように少女の首肯を感じ取る。

「ふーん。才能ってやつだね」

 少年に言われ、少女は泥だらけの手を眺めている。

 

 

 少女は実に慣れた手つきで苗の手植えをこなしていった。中腰になりながら3本1セットの苗を泥濘の中へと埋めていく。1セット植えたら一歩下がり、1セット植えたら一歩下がり。1セット1セット丁寧に、かつ迅速に。少女が植えた苗は天へと真っすぐ伸び、苗の列は綺麗に一直線に伸びていた。

 

 一方の少年の手植えの腕は実にへたっぴだった。少女が一列を植え終える間に、少年は3回尻餅を付いていた。へっぴり腰で植えた苗は蛇行し、うち何本かは倒れてしまっている。少女が受け持った田んぼの一面を植え終えた時、少年は受け持った田んぼの3分の1も済ませていなかった。

 

 

「はい、着いたよ」

 畦道をしばらく歩いていると、少年と少女の前を少年たちの背丈くらいの生垣に囲まれた一件の家、と言うか小屋に辿り着く。

 傾きかけたトタン屋根の木造の小屋。ひと度突風でも吹けば、あっという間に吹っ飛んでしまいそうな、粗末な小屋。

 少年は少女を小屋の中へと招き入れる。

 中へと踏み入れると前時代的な土間の壁側には釜土があり、釜土の反対側の上がり框の向こうには6畳程度の板の間があった。

 

 土間の出入り口で、立ちすくむ少女。

 少年は頭を掻く。

「ごめん、こんなあばら屋で」 

 今でこそ全身泥だらけの酷いナリをしている少女だが、その佇まいは何処となく垢ぬけており、少年は少女をこんな辺ぴなところに迷い込んでしまった都会の女の子と判断していた。おそらく、こんな古い日本家屋に立ち入ったのは初めてに違いない。

 申し訳なさそうに言う少年に、少女はゆっくりと頭を横に振る。そして静かに口を開いた。

「何だか…、懐かしい感じ…、する…」

「ふーん。もしかして農家の子なの?」

「…分からない…」

「え? 分からないって…」

 そう訊ねて、少女が瞬時に目を伏せてしまったのを認めた少年。

「おっと。暗くなっちゃう暗くなっちゃう」

 それ以上追及するのは止め、上がり框に置いていたランタンに灯をともす。うっすらと土間の中が明るくなった。

「ここ、電気もガスも通ってないから。ああ、そこに座ってて」

 少年に勧められるままに、少女は上がり框に座る。

 

 少年は釜土に向かうと、釜土の掛け口に木の細い枝を何本か突っ込み、続いて焚き口に薪と棒状に丸めた新聞紙を突っ込む。作業着のポケットからマッチを取り出し、火を点けると焚き口の中に放り込んだ。投げ込まれたマッチの火は新聞紙に燃え移り、その勢いを広げ始める。釜土の上に置いていた火吹竹に口をくっ付け、ふーと息を吹き、釜土の中に空気を送り込む。それを何回か繰り返しているうちに、釜土の中にくべた薪にも火が回り始めた。

 

 気が付けば、すぐ側に少女が立っていた。少女は両手を膝に付き、中腰になって、釜土の中の火を興味深そうに見つめている。

 少年は口許を綻ばせ、少女の前に火吹竹を差し出した。

「やってみるかい?」

 少女は一度だけ目をぱちくりとさせ、少しだけの間を置いて、そして少年の手から火吹竹を受け取る。

 釜土の前にしゃがみ込み、少女は少年の見よう見まねで火吹竹の先端を焚口の中に入れ、もう片方の先端に自身の口を付け、火が燻っている薪に向かって息を吹き掛けた。するとたちまち火が大きくなり、薪を包み込む様を見て、少女は驚いたように目を丸くする。

 肺の中の空気を一気に吐き出し終えた少女。

 吐き切ったら、今度は吸わなくてはならない。

 

「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ」

「はっはっは。ダメだよ。息を吸うときは口を離さなきゃ」

 釜土の中の熱を喉に入れてしまい、咳き込んでしまっている少女の背中を、少年は笑いながら摩ってやった。

 

 

 釜土で湯を沸かした少年は、大きなタライにお湯を入れ、さらに水を足して適温にすると、タライをうんせうんせと抱えて外に出て、土間の出入り口の横に置く。

 釜土の前でしゃがみ込み、火をぼんやりと見つめている少女に、少年は綺麗なタオルを差し出す。

「あれで体を洗うといい」

 差し出されたタオルと、少年の顔とを交互に見つめる少女。

「ごめん。この家、お風呂もシャワーもないから」

 少女は頷いて少年の手からタオルを受け取ると、立ち上がる。

 そしてその場で肩からスカートの吊り紐を外し、スカートを下げ始める。

「おおっと。そーゆー子か」

 少年は少々面食らった顔をしながら、少女の背中を押して小屋の外へと追い出した。

 

 

 タライの中のお湯に体を浸し、タオルで体の泥を洗い落とす。温かいお湯に体が温められ、少女の表情が少しずつ和らいでいく。

 小屋の中から少年の声。

「着替え。ここに置いとくよ」

 頷く少女。顔など見えていないはずなのに、少年は少女が首肯したことが分かっているかのように、続けて言う。

「お湯は捨てちゃだめだよ。あとで君の服を洗うときに使うから」

 やはり頷いて答える少女。

「それが終わったら夕ご飯だ」

 頷いて答える少女。

 

 

 泥を洗い落とした少女は、土間の出入り口に用意されていた緑色の2本線ジャージに袖を通す。おそらく少年の物なのだろう。少女よりも頭1つ半分ほど背の高い少年のジャージ。余ったズボンと上着の裾を折り曲げ、手と足を外に出す。藁人形を両手で抱き締め、土間へと入る。

 土間の隣の板の間にはちゃぶ台が置かれ、少年が皿を並べていた。

「さあ。上がって上がって」

 少年に促されるまま、少女は板の間へと上がり、ちゃぶ台の横の円座にちょこんと座る。膝の上に藁人形を置いて。少年も少女と対面の円座に座る。

 

「じゃあ食べよっか」

 少女は、ちゃぶ台に置かれた皿をじっと見つめた。

 ちゃぶ台に置かれた皿は、2枚だけ。少年の分と、少女の分。しかも手のひら程度の、小さな皿。

 その皿の上には、さつま芋が1つ。

 湯気が立つ、蒸かされたさつま芋を、じっと見つめる少女。

 

「ごめん」

 

 向かい側からこの日何度目かの「ごめん」が聴こえ、少女は声の主に顔を向ける。

「お夕飯、これだけなんだ」

 申し訳なさそうに苦笑いしながら頭を掻く少年。

「あ、でも朝ごはんはもう少し豪華だよ。これに味噌汁がつくから」

 暗に、この家の主食は芋であることを伝える少年。

「お味噌汁…?」

 殆ど表情を変えることのない少女の顔に、少しだけ喜色が浮かんだ。

「うん。え? 味噌汁、好きなの?」

 少女はあえて2度、大きく頷く。

「お味噌汁は…、この世界で一番のごちそう…」

「ふーん」

 この、どう見ても中学生か高校生にしか見えない少女。これくらいの年ごろだったら、お洒落な洋食だったりスイーツだったりを喜ぶだろうにと、意外そうな顔をする少年である。

「じゃ、明日の朝ごはんは御馳走だね」

 少女は再び、うんうん、と2度頷く。

 そんな少女に少年はにっこりと笑いかけ、

「じゃ、今はこれで我慢して、温かいうちに食べてしまおう」

 そんな少年の言葉に、少女はふるふると頭を横に振る。

「これも…、とても美味しそう…。ありがとう…」

「どういたしまいて」

 少女の感謝の言葉に少年は満足しつつ、少年は細長いさつま芋を半分に折り、断面の皮を剥いて中身にかぶり付こうとして。

 

「いただきます…」

 

 ちゃぶ台の向こうからか細い声が聴こえ、動きを止める。

 見ると、ちゃぶ台の向こうでは、少女が皿の上のさつま芋に向かって手を合わせている。

 少年は慌てて皮を剥いた芋を皿に置き、自分も手を合わせて「いだきます」と言った。

 それは少年にとって、久しぶりに口にする言葉だった。

 

 少女は蒸かしたての芋の味をいたく気に入ったようで、あっという間に平らげてしまった。

 

 

 

 

 食事の後片づけを終え、白湯の入った茶碗を少女の前に置いてやる。

 少年は自分の分の白湯をずずずと啜って、ふうと深い息を吐く。

「さて…と」

 少年はちゃぶ台に頬杖を付き、尖がらせた唇を茶碗の淵にくっ付けて白湯をちゅるちゅると啜っている少女を見る。

「そろそろ教えてくれるかな?」

 

 突然始まった尋問。

 少女は茶碗をちゃぶ台に置き、膝の上に置いていた藁人形をぎゅっと両腕で抱き締め、目を伏せる。

 明らかな心理的防衛姿勢。

 

「ああ、違うよ。違う違う」

 少年は苦笑いしながら否定する。

「君の名前だよ。僕が教えてほしいのは、君の名前」

「名前…?」

 上目遣いに少年を見つめる。

「そう。まだ聴いてないよ?」

「名前…」

 再び目を伏せてしまう少女。

 

 おそらく家出少女の類だろう。

 何にせよこんな辺ぴなところにほぼ着の身着のままでやってきた少女には、それなりののっぴきならない事情があるのだろうが、それでも少年はいきなり身の上や家出理由まで根掘り葉掘り聴こうとは思っていなかった。

 ところが少女のこの態度を見ると、名前すらも教えるのに憚れるらしい。

 

「あ、そっか」

 少年は肝心なことを思い出す。

「僕の自己紹介がまだだったね」

 少年のその声に、再び上目遣いで少年を見つめる少女。

「僕、「カジ」って言うんだ」

「かじ…?」

「うん。「加える」に地球の「地」と書いて、加地。加地リョウジだ。よろしくね」

「よろしく…」

 少年の自己紹介に、少女はぎこちなく挨拶する。

「リョウジって名前は、どうも父親と同じらしいんだ。僕が生まれる前に死んでしまったらしんだけどね。ちなみに母親は何処の誰かも知らない」

「そう…」

「あ、ごめんごめん。暗い話しになってしまった。気にしないで」

 一通り自己紹介を終えた少年はにっこり笑いながら、

「じゃあ、君は?」

 

 そしてやはり目を伏せてしまう少女である。

 少年は戸惑った表情を浮かべる。

「名前…、教えたくないの?」

 その少し残念そうな少年の声に、少女は2度ほど瞬きをする。

 少年の顔と、腕の中の人形の頭との間を、何度か視線を行き来させて。

 意を決したように、顎を上げて少年の顔を正面から見つめた。

 

 

「私…、自分の名前が分からないの…」

 

「え?」

 

 少女の告白に、少年の表情が固まってしまう。

 

「自分が誰で…、何者なのか…、よく…、分からないの…」

 話している間に辛くなってしまったのか、少女の視線が再び人形の頭へと落ちてしまう。

「何日か…、何週間か前に目を醒ました日の…、それ以前の記憶が…、とても曖昧なの…」

「……」

「目を醒ました部屋も…、取り壊されるからって…、追い出されたの…」

「……」

「記憶も…、帰るおうちも…、ないの…」

 

 少年は俯いてしまった少女の空色の髪を、じっと見つめていた。少女には聞こえない程度の大きさで深く長い溜息を吐く。

 

「そっか…」

 少女の俄かには信じがたい告白を、心の中で何とか受け入れようとしているのか。

「…そっか…」

 そう繰り返す少年である。

 

「だったらさ」

 次に少年の口から出された声はとても明るい声だった。

「君、ここで住み込みで働かない?」

「え…?」

 少年の意外な申し出に、少女は顔を上げる。

 きょとんとした表情の少女を、少年はにっこりとした顔で見つめ返す。

「あれだけ田植えが得意なんだ。君には農業の才能があるんじゃないかな。そんな君がここで働いてくれたら、畑も田んぼたちもとっても喜ぶと思うんだけど」

「でも…」

「お給金は出せないけど三食昼寝付きでどうだい? もちろん、毎朝味噌汁付きだ」

「やる」

「ははっ。じゃあ決まりだ」

 少年のにっこりとした顔に釣られるように、少女も少しだけ口元を綻ばせた。

「じゃあ、仕事仲間である君の呼び名を決めないとね。…ん?」

 何かに気付き、少年は身を乗り出して顔を少女に近づける。急に顔を近づけてきた少年に、少女は少しだけ目を丸くする。

「つばめ…」

「え…?」

「君の名前。ツバメちゃんじゃないの?」

「つばめ…?」

「うん。だって、ほら」

 少年はそう言いながら、少女が抱く藁人形へと手を伸ばす。

 咄嗟に、少女は身を捻り、少年の手から藁人形を遠ざける。

 まるで抱いた我が子を守るような少女の行動に、

「ああ、ごめんごめん」

 少年はすぐに伸ばした手を引っ込めた。

「それ、大切なものなんだね」

 少年の言葉に、少女はこくこくと2度頷く。

「その人形が着ている服に、「つばめ」って書いてあるんだけど」

 少年の指摘に、少女は抱き締めていた藁人形を少し体から離した。

 藁人形が巻く群青の布。

 その布に、確かに酷く不細工な字で、「つばめ」と殴り書きされている。

「つ・ば・め」

「君の名前ではないのかい?」

「つ…ば…め…」

「違う?」

 少女はゆっくりとした動作で人形から目を離し、少年を見つめる。

「そうかも…、しれない…」

「ははっ。良かったよ。君の名前が分かって」

 少年は安心したように笑う。

「じゃあ改めてよろしく。ツバメちゃん」

 そう言って、少女に手を差し出す少年。

 差し出された手を、少女はじっと見つめる。

「仲良くなるための…、おまじない…」

 少年の手を見つめたまま、掠れた声でぼそりと呟く少女。

「え? なんだい?」

「ううん…。よろしく…、加地くん」

 少年と少女の手が交差した。

 

 

 

 

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