渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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5.にいとと!

 

 

 

 

 トン、トン、トン、と何か硬いものを叩く音に目を覚ます。

 粗末な煎餅布団とはいえ、布団は布団。3日ぶりの布団の中で熟睡していた少女は、目を擦りながら体を起こす。気だるげな動作で四つん這いのまま布団から這い出し、布団のすぐ側の引き戸を開ける。引き戸の向こうに現れたのは土間。少女に与えられた寝室は、土間の隣の納戸だった。

 土間の炊事場に立つ少年。まな板で、大根を切っている。どうやら朝餉の準備をしているようだ。

 腫れぼったい目で引き戸の隙間から顔を出す少女に気付いた少年は、笑顔を向ける。

「やあ。もう少しで朝ご飯できるから。あっちで顔を洗っておいでよ」

 少年に言われ、少女はもそもそと納戸から這い出ると、土間に降りてサンダルを履く。左手で藁人形を抱えながら、少年が視線で示した、板の間への上がり框に置かれた洗面器へと向かう。

 炊事場に立つ少年の背後を通り過ぎながら、

「おはよう…」

「え? あ、ああ、おはよう」

 背中に投げ掛けられた、少女の掠れたような声での朝の挨拶。少年は慌てて返事をした。少女は上がり框に座って、洗面器の中の水で顔を洗い始めている。

「ふふっ、おはよう…か…」

 少年は嬉し気にその言葉を口の中で転がしながら、切った大根をお湯が煮立った鍋の中に入れた。

 

 

 ちゃぶ台を囲む2人。

 2人の前にはそれぞれ、昨日と同じ蒸かした芋が1個ずつ乗せられた皿と、そしてお椀に入った味噌汁。

 少女はやや前のめりになりながら、木製のお椀に入った味噌汁を、目をまん丸にして見つめている。時折、ゴクリと生唾を飲み込みながら。

 

 自分が作った味噌汁を大いに期待してくれているらしい少女に、少年は嬉し気に目を細めている。

「じゃあ、食べよっか」

 そう言って少年はちゃぶ台の上に置かれた箸に手を伸ばそうとして、ちゃぶ台の向こう側で少女が手を合わせて「いただきます」と言ってるのを見て、少年も箸を持つ前に手を合わせて「いただきます」と言った。

 

 少年はお椀を持つと、ずずずと中身を啜り始める。

 少女は自分の前に置かれたお椀と味噌汁を啜る少年とを交互に見比べて。

 そしてお椀を両手で包むようにそっと持ち上げ、顔に近づけ、尖がらせた唇の先端をお椀の淵に付ける。

 こく、こく、こく、と小さな喉仏を3回ほど控えめに鳴らして。

 唇をお椀から離し、ゆっくりとお椀をちゃぶ台の上へと置く。

 

 お椀の中の味噌汁を見下ろす少女。どこか、怪訝そうな表情で。

「どうかした?」

 少年は剥いた芋に噛り付きながら訊ねる。

 少女は顔はお椀に向けたまま、視線だけを少年に向ける。

「これは…、なに…?」

「え? なにって…、味噌汁だけど…」

 少年の答えに、少女は肩を戦慄かせた。

「これがお味噌汁というのなら…、それはお味噌汁さまに対する冒涜…」

「えっ? えー? そうかなあ?」

 少年は首を傾げつつ、お椀を持って味噌汁を啜ってみる。

「うーん、普通の味噌汁だと思うけど」

 納得いかない表情を浮かべる少年。少女は改めて味噌汁を啜ってみる。

 

「まずい…」

 

 実にストレートな表現で食レポをする少女である。

「えー、だったらさあ。明日はツバメちゃんが作ってよ、味噌汁」

「私が…?」

「うん。そこまで言うんだったらさ、僕よりも美味しい味噌汁が作れるんだよね?」

 

 少女は天井を睨む。

 暫く思案した後。

 

「分かったわ…」

「よっし」

 ちゃぶ台の下で小さくガッツポーズをする少年である。

 

 

 

 タイル張りの流し台で朝ご飯の後片付けをしている少年。その後ろでは、上がり框に座った少女が両腕で藁人形を抱きながら、少年の後姿をぼんやりと眺めている。

 食器を洗い終えた少年はタオルで濡れた手を拭くと、少女に言った。

「それじゃあ畑に出よっか。君の寝床に作業着用意してるから。それに着替えて」

 少女は頷いて応え、そしてその場でジャージを脱ぎ始めた。

「はいはい。ここは着替える場所じゃないですよ」

 そう言って、少年は少女の背中を押し、納戸兼少女の寝室へと向かわせる。

 

 

 オーバーサイズのだぼだぼの作業着に着替えた少女に少年は麦わら帽子を被せ、首にタオルを巻き、長靴を用意してやる。

「準備オーケーだね。じゃあ行こうか」

 少年は農耕器具が入ったバケツを手に持ち、外へと向かう。

「今日は、何を植えるの…?」

 どこか期待を込めた声で訊ねる少女に対し、少年は振り向いて言った。

「ツバメちゃん」

「なに…?」

「農作業の大半は草刈りと害虫駆除だよ」

 

 

 農家ホームステイ2日目の午前中は、少年の宣言通り草刈りで潰されることになった。

 段々畑と田んぼの間の畦道。「Kaji’s Farm」と書かれた木の看板を背に、腰を下ろす少女。その腕に藁人形を抱いて、畦道から見える青い海と空を眺めている。

「海が好きなんだね」

 お櫃と薬缶を抱えた少年が少女の隣に座る。少女はよく分からないといった様子で、首を傾げている。

「青い海…。見るの初めてだから…」

「ふーん。海がないところで育ったんだね」

 少女はふるふると頭を横に振る。

「私…、赤い海しか見たこと…、ないから…」

「赤い海…?」

「ええ…」

「赤い海って…。それって14年前の「あれ」以前の話じゃないの?」

 少女は少年の顔を見る。

「14年前…?」

「うん。14年前の、「アディショナルインパクト」のことだけど。サードインパクトで生命が滅びかけて、その14年後のフォースインパクトで世界が消滅しかけて、でも直後のアディショナルインパクトで世界が生まれ変わったって、偉い学者さんたちは言ってるけど」

 少女は2度ほど瞬きをする。

「今は何年…?」

「今? 西暦2043年だよ」

「2043年…」

「うん。確かにセカンドインパクトからアディショナルインパクトの間は、海は赤かったらしいね」

 少女は少年から目を離し、膝を抱えてその上に顎を乗せる。少女の太ももと胸に挟まれた藁人形が、窮屈そうに縮んでいる。

「ま、でもこれで1つ分かったじゃないか」

 「何が」と、視線だけ隣の少年に目を向ける少女。

「君は少なくともビフォーアディショナル世代ってことさ」

 そう言いながら、少年はお櫃から本日のお昼ごはん(もちろん蒸かした芋である)を少女に渡してやった。

 

 

 * * * * *

 

 

 引き戸がガラガラっと音を立てて開いた。

「ツバメちゃーん、朝だよー」

 空いた戸の隙間から少年が顔を出す。布団の隙間から顔を覗かせる少女。安眠を妨げた少年に対し、明らかな不満顔を向ける。

「え? だって昨日約束したはずだよ? 朝の味噌汁を作ってくれるって」

「うぅぅぅぅ…」

「唸ったって駄目だよ。ほら、起きて起きて」

「うぅぅぅぅ…」

 

 

 少女は、決して上手いとは言えないが取り立てて下手と言うほどでもない、あえて言えばちょっとゆっくりでちょっと大雑把な包丁捌きで刻んだ大根、菜っ葉を、沸騰させた鍋の中に入れていく。

「うーん」

 少女の調理の様子を、隣で芋を蒸かしながら眺めていた少年。

「僕の作り方と、そこまで変わらないと思うんだけどな~」

 首を傾げながら言う。

 

 ちゃぶ台に並んだ、蒸かした芋を乗せた皿と、湯気を立てるお椀。

「いただきます」

「いただきます…」

 重なった2人の声を合図に、朝食が始まる。

 少年は味噌汁が入ったお碗を手に取った。

「ふふっ」

 茶碗の中の味噌汁を見て、笑みを零してしまう。そんな少年の顔に、「なに?」と視線を投げる少女。

 少年は「何でもないよ」と首を横に振りながら、お椀に口を付けた。

 一口、二口と味噌汁を啜り、口の中で汁を少し転がし、咽頭部を通過させ、体内へと収める。

 

 ゆっくりと、お椀をちゃぶ台に置く。

 

 味の感想を待っているのだろう。少女は上目遣いで少年を見つめている。

 そんな少女を、少年も見つめ返す。

 そして首を斜め45度に傾けた。

 

「んんんんんんんん…」

 

 唸る少年。

 少年から「美味しい」という言葉が返ってくるのを期待して待っていたらしい少女は、少年のその態度に目をぱちくりとさせた。

 すぐに自分の前に置かれたお椀を手に取り、中身を啜ってみる。

 一口二口と飲み込んで。

 口からお椀を離して。

 お椀の中身を見つめて。

 

「まずい…」

 

 ストレートな食レポをする少女。

 少年は慌ててフォローする。

「いやいや。まずいってことはないよ。…でも、僕が作った味噌汁と大して変わらないな~、って思ったりして…」

「それはつまり、まずいということ…」

「ツバメちゃん…。僕が何言われても傷つかないって思ってる?」

 

 

 この日も午前中は草刈りと害虫駆除に追われた2人。

 お昼ご飯を終えた少女が畦道の看板を背に座り、藁人形を抱きながら海を眺めていたら、どこからかトットットという駆動音が響いてきた。この家にやってきて、初めて耳にする文明の音。

「ツバメちゃーん」

 見ると、原付バイクに跨った少年が生垣の向こうから現れた。

「僕、ちょっと下の町まで出かけてくるから」

 少女は頷いて応える。

「あ。なんだったら君も行くかい? これ、2人乗りできるよ」

 少女は首を横に振る。

「そっか。じゃあ、あとはあっちの法面の草引きだけやったら、今日はもう終わりでいいから」

 少女は頷いて応える。

「じゃ、行ってくるねー」

 少年は年季ものバイクを駆って、高台から下る坂を走っていった。

 

 

 

 

 太陽が大きく西に傾いた頃に少年は帰ってきた。

 出かけた時と、帰ってきた時とで、寸分違わず同じ姿勢で畦道に座っている少女を見つけて、びっくりしてしまう少年である。草引きを指示した法面を見ると、一面きちんと草が抜かれていた。

 バイクを停め、少女のもとへと行く。少女は藁人形を腕に抱いて、ぼんやりとした表情で夕陽を眺めている。

「ずっと海を眺めてたの?」

 頷く少女。

「よく飽きないね」

 頷く少女。

「って、ツバメちゃん。顔、真っ赤になってるよ? 陽に当たりすぎじゃないかな?」

「平気…」

「いやあ、タカオのおばさんが言ってたよ。若い頃の油断が将来の大きなしっぺ返しを呼ぶって」

「大丈夫…」

「うーん」

 

 

 * * * * *

 

 

 朝の食卓の風景。

 お椀の中の味噌汁を、眉間に皺を寄せて睨み付ける少女。

 

「まずい…」

 

 少年は慌ててフォローする。

「いや、だから十分美味しいと思うよ」

「…加地くんは…、バカ舌…」

「ツバメちゃんって…、結構容赦ないよね…」

 

 

 

 お昼ご飯を済ませ、いつもの様に畦道の看板を背に座り、いつもの様に藁人形を抱き、いつもの様に海を眺めている少女。

 ふと陽が陰り、少女は空を見上げる。見ると、空の半分が黒く欠けていた。

 少年が大きなパラソルを少女の頭上に広げてくれたのだ。

「熱中症になってもいけないしね。今度から晴れた日に海を眺める時は、このパラソルの下で見たらいいよ」

 少年が看板の支柱にパラソルの柄をロープで巻いて固定しながら言う。

「ありがとう…」

「僕。今日も午後は出かけるけど、君も一緒に行かない?」

 少女は頭を横に振る。

「そっか。じゃあ、今日はあっちの畑の草引きと水やりをしてくれたら、もう終わっていいよ」

 

 

 太陽が西に大きく傾いた頃に帰ってきた少年。

 やはり出かけた時と変わらない姿勢で海を眺めている少女を見て、半分笑い、半分呆れ気味に溜息を吐いた。

 

 

 * * * * *

 

 

 朝の食卓の風景。

 お椀の中の味噌汁を、まるで親の仇を見るような表情で見下ろす少女。

 

「まずい…」

 

「前世は海原雄山かな…?」

 

 

 

 午前の作業が終わると、少年は大きな木槌と少年の肩と同じくらいの高さの大きな木製の杭を2本担いでやってきた。

「ちょっと手伝ってくれるかな?」

 少女にそう告げ、少年は段々畑の斜面を上がっていく。少女は素直に少年の背中についていく。そしてこの農園で一番高い場所、眺めの良い場所にやってきた。

「じゃあこの杭を、こう地面に立てて、支えててくれる?」

 少女は少年に言われるままに、杭の先端を地面につけて垂直に立てる。

 少年は持っていた木槌を振りかぶり、その先端を思い切り杭のお尻に向かって打ち付けた。木槌の衝撃で、杭を支えていた少女の手がビリリと痺れる。10回ほど打ち付けると、杭は深く地面に突き刺さった。

 今度はもう1本の杭を、1本目から5歩ほど離れた地面に、やはり木槌で打ち付けて突き刺す。

「ありがとう」

 少年は少女にお礼を言うと、それぞれの杭の上の方にロープを括りつける。何をしてるんだろう、と興味深げに少年の様子を見守る少女。そんな少女の眼差しに、少年は「出来てからのお楽しみ」とばかりに黙々と作業を進める。今度は大きな布を持ち出し、その布の端っこにある輪っかの中に杭に括り付けたロープを通し、結び目を作る。もう一つの杭のロープもやはり布の別の輪っかに通し、結び目を作る。杭と杭の間に吊るされた布。

「はい、完成」

 出来上がったものを、得意げに少女に見せる少年。

 少女は首を傾げた。

「なに…? これ…」

「え? ハンモックって知らないかな?」

 少年の問いに少女は頷く。

「ほら、こうやって」

 少年はロープで吊るされた布の真ん中に腰を下ろしてみる。

「ほら、こんな感じ」

 少年が地面から足を浮かせると、体重を預けられた布が少しだけ沈み、布を支える両端のロープがピンと張った。少年のお尻は地面に付くことなく、少年の体全体が布に支えられ、宙をぶらぶらと舞う。

 どうだと言わんばかりに両手を広げて見せる少年に、

「で…?」

 冷めた声で返す少女である。

「いや…、面白そうに見えない?」

「面白いって…、なに?」

「むぅ、質問に質問で返すか…。とりあえず乗ってみなよ。面白いってことがどんなものか、分かると思うから」

 少女が頷いたので、少年は反動をつけてハンモックから飛び降りる。

 空いたハンモックの布に、少女はおずおずと腰を下ろし始める。完全に腰を下ろすと、少年がやったように地面から両足を浮かせる。地面から少女の体が完全に離れた。

 少年がそっと少女の背中を押してやると、少女の体が前後にゆらゆらと揺れる。

 ハンモックに揺られながら、少女は上下する海の水平線と少年の顔とを交互に見つめ、

「で…?」

 と少年に訊ねる。

「あれ? こう、心がウキウキしたりとか、何だか自然に笑顔になりそうだったりとか。そんな感じしない?」

 少女は、んーー、と首を傾げている。

「むう、そっか。僕はハンモックが大好きなんだけどな」

 少女にはあまり気に入ってもらえなかったようで、残念がる少年である。

「ま、折角だから、今日はここでお昼ごはんを食べよう。ちょっと待っててね。今、持ってくるから」

「ええ…」

 

 

 少年がお昼ご飯を取りに段々畑の斜面を下りていく。

 残った少女は、腰掛けたハンモックにぶらぶらと揺られている。

 規則正しく、ゆっくりと揺れるハンモック。

 目の前に広がる青い空と青い海。

 青い空から降り注ぐ、ポカポカの陽気。

 青い海から吹く穏やかな風。

 少女の肩まで伸びた空色の髪が、ふるふると揺れた。

 

 

 

 お昼ご飯の入ったお櫃と薬缶を抱えて斜面を上がってきた少年。

 ハンモックまで戻り、目にした光景に目を丸くし、そして口元を綻ばせた。

「なんだ。気に入ってくれたんじゃないか」

 ハンモックの上では、藁人形を抱き締めた少女が横になり、猫のように体を丸めてすやすやと寝息を立てていた。

 

 ハンモックの側に立つ。

 少女の顔を覗き込んだ。

 無造作に切り添えられた空色の髪。その隙間から覗く白磁のような白い肌。髪と同じ色の、長い睫毛。桃色の薄い唇。

 お天道さまの下では麦わら帽子を被り、小屋の中で過ごすのは朝と晩の暗い時間帯なので、こんな明るい場所で少女の顔をまじまじと見る機会は滅多にない。

 少女の瞼に掛かる前髪を、少年は人差し指で軽く梳いてやる。

「早く…、自分が誰か…、分かったらいいね…」

 相手を起こしてしまわないよう、とても小さな声で、眠りの少女に囁き掛けた。

 

 その後少年は再び斜面を下り、大きなパラソルを抱えて戻ってくると、ハンモックの側に立ててやり、日光に晒されている少女の体に日陰を作ってやった。

 杭の側に腰を下ろし、一人で蒸かし芋を食べ、お茶を啜り、杭を背にお昼寝を始める。

 

 

 

 




 

2021年3月30日
綾波さん誕生日記念。



 
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