渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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6.ニートと魔法の白い粉。

 

 

 

 

「まずい…」

 

「これって、いつまで続くのかな?」

「加地くんに本当のお味噌汁を食べさせることができる、その日まで…」

「嬉しいんだか怖いんだか…」

 

 

 

「ツバメちゃーん」

 納屋から原付バイクを引っ張り出し、出かける準備を終えた少年は、少女の名前を大声で呼ぶ。

 返事はない。

 少女が小屋の周辺に居なければ、その居場所は一つしかない。少年は段々畑の斜面を上っていく。斜面を上り切ると、案の定ハンモックに揺られて横になっている少女がいる。

「ツバメちゃん。僕、出かけるよ」

 少女はハンモックに横になったまま、少年に向かって小さく手を振りながら、小さな声で「いってらっしゃい」と言う。

 

 畑仕事には熱心に取り組み、最近は朝の味噌汁作り以外にも水汲みや洗濯、掃除などの家事も手伝ってくれるようになった少女だが、それ以外の時間ははっきり言って怠惰だ。晴れた日は、暇があればいつもこうして、藁人形を抱き締めながらハンモックに寝そべって、海を眺めている。

 

「ねえ、ツバメちゃん」

 少年はハンモックの端に腰を掛ける。2人分の重さに引っ張られ、ハンモックが大きく沈んだ。

「ツバメちゃんがここに来て結構経ったけどさ。まだ一度もこの農場の外に出たことないよね。どうだいたまには。僕と一緒に外に出てみないかい?」

 少女は視線を海にやったまま、ふるふると頭を横に振る。

 そんな態度の少女に、少年はふー、と鼻息を吐く。

「こんなところにずっと居たんじゃ、体も心も朽ちてしまうよ? 街にでも行ってみようよ。もっと世間と触れあわなくちゃ」

 少女は相変わらず頭を横に振る。

「人間は社会性の生き物だ。君も僕と同じ人間である以上、人との繋がりを断っては生きてはいけない宿命なんだよ」

 少女は視線を海の方へやったまま、右手の人差し指をピンと伸ばし、少年を指差す。

「加地くんが居る…」

 少年は困ったように笑う。

「僕との絆を感じてくれているのは嬉しいけど、それだけではいけないよ。ねえ、どうだい?」

 少女の肩を軽く揺さぶってみるが、

「んんんん」

 少女は少年の手から逃げるように抱いた藁人形のお腹に顔を埋めて唸るだけである。

「もう」

 少年は鼻で溜息を吐いた。

「じゃあ僕、行ってくるけど。今度は一緒に行こ。ね?」

「んんんん」

 少女は相変わらず唸るだけである。

 

 

 

 少年が乗る原付バイクの音が遠ざかっていく。

 少女は藁人形から顔を離し、瞼を薄っすらと開けて視線を青い海に向けた。

「人との繋がり…」

 少年の言葉を呟く。

「エヴァでしか、人と…繋がれなかった私…」

 藁人形を抱く腕に力を籠める。

 目をぎゅっと閉じた。

 

「エヴァって…なに…?」

 

 

 * * * * *

 

 

 夕暮れ前に帰ってきた少年。段々畑のてっぺんを見上げると、ハンモックがゆらゆらと揺れている。

「まったく…」

 少々呆れ気味に呟きながら、段々畑の斜面を上がっていく。

 

 案の定、茜色の空の下、少女がハンモックの上で横になって、小さな寝息を立てている。

 まるで十年以上もまともに寝ていなかったかのように、暇があれば睡眠を貪っている少女。このハンモックを作ってからというもの、することがない時の大半はここで寝ている。夜も夜で夕ご飯を食べたらさっさと寝室兼納戸に引っ込んで寝床についてしまうので、少女の一日は起きている時間よりも寝ている時間の方が多いのではないかと疑ってしまう。

 

 少女を起してしまわないよう、ハンモックの端にそっと腰を下ろす。

 少女の寝顔を見つめた。茜色の光を色素の薄い肌と髪が反射し、少女の顔の周りがキラキラと光って見える。そんなどこか浮世離れした少女の横顔を見つめて。

「だいぶ髪、伸びてしまったね…」

 少年は少女の背中まで伸びた空色の髪に手を伸ばす。左右に分けなければ顔全体を覆ってしまうまでに伸びた前髪をそっと梳き、いつも前髪に隠れていて滅多に見ることができないおでこを出させてみる。

「君は…、いったい…、誰なんだい…?」

 少女を起こさない程度の小声で囁き掛け、少女の前髪を梳く。指と指の隙間を滑る空色の髪。手の甲に感じる柔らかな肌。手全体から感じ取る、少女の温もり。

 

 

 

 おでこの辺りに感触。

 薄っすらと瞼を開く。

 開いたはずなのに、視界が何かで塞がれている。

 それは人の手。

 人の手が、少女の視界を塞いでいる。

 その手は少女の視界を上下に、ゆっくりと移動している。

 その手は、少女を撫でている。

 少女の前髪を、撫でている。

 

 

 

 少女の瞼が、薄っすらと開いた。

「やあ、起きたかい?」

 まだうとうとしている様子の少女に、少年は少女の前髪を優しく梳きながら囁き掛けた。

 茜色の光に照らされた少年の顔を、ぼんやりと見上げて。

 何度か瞬きを繰り返して。

 そして何度目かの瞬きを終えたところで、目をまん丸にして。

 

「わわっ!」

 

 少女が突然跳ね起きてしまったため、少年は驚いてしまった。

 もとより不安定なハンモック。

「ありゃりゃりゃ」

 バランス感覚を失ったハンモックはひっくり返ってしまい、少年は背中から、少女はお尻から地面に落ちてしまった。

 

「いたた…」

 背中を擦りながら体を起こす少年。

「ツバメちゃん…、大丈夫かい?」

 隣で尻餅を付いてる少女に声を掛ける。

 起き抜けにハンモックから落ちてしまって、びっくりしているのだろう。頬を上気させ、目をまん丸にして少年を見つめている。

「すまなかったね。驚かせてしまったみたいだ」

 少年は地面から腰を上げると、少女の前に立ち、手を差し伸べる。

 少女を起こしてやろうとして、

「あ、髪の毛に泥が付いてるよ」

 ハンモックから落ちた拍子に毛先が地面についてしまったのだろう。少女の背中まで伸びた髪の先っちょに付いた泥を払ってやろうと、少女の髪に手を伸ばした。

 すると少女は地面にお尻をつけたまま、後ずさりする。少年が差し伸べた手から逃げるように、少年から距離を取った。

「あ、ごめんごめん」

 いきなり手を伸ばされて、驚かせてしまったのかもしれない。少年は謝りながら、離れてしまった少女に近づく。

「髪の泥を払い落とすだけだから」

 そう言って、再び少女の髪に手を伸ばす。

 

「触らないで…」

 

 少年は最初、その凍てついた声が少女の口から出たものとはすぐに気付けなかった。

 少年が固まってしまっている間に、少女はさらに後ずさりし、少年から距離を取る。

 

 少女の髪に触れようとして伸ばした少年の手の指が、虚空を掻く。

「ごめん…」

 少年はそれ以上少女に近づこうとせず、伸ばしかけた腕を地面に向けてぶらんと下げた。

 

 少年も、少女も、自身の足もとを見つめる。

 お互い見つめる先はばらばらのまま、暫しの沈黙。

 

 ようやく少年が目線を上げ、尻餅をついたままの少女を見つめる。

「ツバメちゃん、だいぶ髪、伸びちゃったね」

 場の空気を換えようと、明るい表情と声で話しかけた。

「どうだい? 僕が切ってあげようか?」

 少女は藁人形をぎゅっと抱き締め、頭を横に振る。

「でもここにはシャワーもないから、髪が長いと洗うのに苦労するんじゃないかな?」

 少女は頭を横に振る。

「前髪も伸びっ放しだし、それでは目が悪くなってしまうよ? 前髪だけでも切ってあげるよ」

「それは命令…?」

「え?」

 少女の口から飛び出した言葉。今の会話の流れで、どうしてそんな言葉が出てくるのか理解できず、少年は言葉を飲み込んでしまう。

「それは命令…?」

 少女は同じ言葉を繰り返した。

「ただの提案さ…」

 戸惑い気味の声で答える少年。

「それじゃ…、余計なこと…、しないで…」

 少女は今にも消え入りそうな、掠れた声で言った。

 少年の眉間に一本の皺が寄る。

「余計なこと…?」

 少女は目を伏せ、こくりと頷く。

「僕のすることは…、余計なこと…だったかい…?」

 少女はこくりと頷く。

「じゃあ…、僕が事あるごとに君を外に連れ出そうとするのも…、余計なこと…だったかな…?」

 少女はこくりと頷く。

「そっか…」

 少年は両拳をぎゅっと握り締めた。

「…なんだか…、僕は同じ過ちを…、繰り返しているような気がするな…」

 誰に聞かせるとも知れない小さな声で、少年は呟く。

 

「ツバメちゃん…」

 少年の呼び掛けに少女は返事せず、腕の中の藁人形をぎゅっと抱き締めている。

「ツバメちゃんに1つだけ、訊きたいことがあるんだけど、いいかな…?」

 少女は返事しない。しかし少年は構わず続ける。

「ツバメちゃんにとって、ここはいったいどんな場所だい?」

 少女は返事をしない。

「職場? 居候先? それとも…」

 少女は返事をしない。

「…ツバメちゃんはここに、居たいのかな?」

 少女は返事をしない。

「ははっ」

 少年は乾いた笑い声を上げる。

「ごめんね。質問が2つになってしまった…」

 少女から視線を落とし、地べたを見つめる。

「ツバメちゃんがここに来てから、もう3か月が経つよね…」

 暫く地べたの上の小石を睨み、そして視線を横に向け、赤い夕陽に染められる空を見つめ。

「君はどうか知らないけれど、僕はこの3か月、本当に毎日が楽しかったんだ。」 

 そして再び視線を少女へと向けた。

 

「朝起きたら君が「おはよう」って言ってくれて。食卓で一緒に「いただきます」と言って、同じものを食べて。僕が作ったものを君が食べて。君が作ってくれたものを僕が食べて。君は、君が作ってくれた味噌汁を散々まずいって言ってきたけどさ。お世辞抜きで、僕にとっては君が作ってくれた味噌汁は最高のごちそうだったよ」

 

 少年の顔が真っ赤に染まっているのは、赤い夕陽に照らされているからか。

 

「一緒に水汲みして。一緒に畑を耕して。一緒にお昼寝して。一緒に草むしりして。一緒に薪を割って。一日が終わったら「おやすみ」と言って、一日が始まったらまた「おはよう」って言って。そうやって君と過ごす毎日が、本当に楽しかったよ」

 

 赤く染まった顔で、少年はぎこちなく笑う。

 

「まだ出会ってたった3か月だし。僕は君のこと、まだ何も知らない。髪に触れさせてもくれないし、その人形も一度も抱かせてもらえていない…。君にとって、ここはたまたま辿り着いだけの、何処かの知らない家で、僕はたまたま知らない家に住んでいた知らない人なのかも知れないけれど…。でも僕は君のこと、本当の家族みたいだと思っていたよ…」

 

 今の自分の気持ちを正直に伝えて。

 しかし地べたを見つめたままでいる少女を、少年は寂しそうに見つめる。

 目を閉じ、小さくため息を吐いた。

「すまないね。僕は知らない間に、君の心に土足で上がり込んで、君の心を傷付けていたみたいだ」

 

 少年は一歩一歩、少女からゆっくりと遠ざかり、やがて背を向ける。

「僕、先に帰ってるから。暗くなり切る前に、帰っておいでよ」

 そう告げて、段々畑の斜面を下っていった。

 

 

 

 

 少年は小屋の板の間で横になっていた。

 太陽が西に大きく傾いた時間帯。出入り口からは西日が真っすぐに室内に差し込み、土間と奥の板の間までを茜色に染めている。

 小屋の外から聴こえてくるヒグラシの鳴き声。その鳴き声に混じって、儚げな足音。

 少年は近づいてくる足音から逃げるように、ごろんと寝返りを打ち、土間に向けて背を向ける。少年の背中を、日暮れ間近の陽光が赤く照らす。

 その赤く染まった少年の背中に、細い影が重なった。

 

「加地くん…」

 

 ヒグラシの小さな鳴き声にも負けてしまいそうなほどの、か細い声。

 呼ばれた少年は、返事をしない。

 

「加地くん…」

 

 少年は返事をしない。

 

「ごめんなさい…、加地くん…」

 

 少年は首を捩じり、額を床に付ける。

 

「…君が悪いんじゃない…。僕に配慮が足りなかったんだ…」

 か細い声の主に背中を向けたままそう答える少年だったが、その声も態度も、少年の不貞腐れた心を隠そうともしていない。

 

 少しだけ間を置いて、少年の背中にか細い声が投げ掛けられる。

「私…、昔の記憶が…、曖昧なの…」

「それは知ってるよ…」

「でも、何となく覚えているの…。この髪はきっと昔、大切な誰かが切ってくれたもの…。この人形はきっと昔、大切な誰かに渡されたもの…。この髪と人形だけが、過去の私と…、今の私を…、繋げてくれている絆なの…」

「そう…」

 少年は少女に背を向けたまま呟く。まるで少女の告白に興味など持てないと言いたげな声で。

 

「でも…」

 

 背後で、ミシッと音がした。どうやら少女が土間から上がり框へ、そして板の間へと上がったらしい。

 

「今の私にとっては…、加地くんとの絆も大切…」

 

 床に押し付けられていた少年の額が、少しだけ浮き上がる。

 

「さっきの質問、答える。ここは私にとって、大切な場所。私はここに居たい。だから…」

 

 少年は首を捩じり、背後を振り返った。

 

「加地くんがそうしろって言うなら、今すぐ髪を切る…。人形も捨てる…」

 

 外から差し込む光を背に、か細い人影が立っている。

 

「だからお願い…。ここに居させて…」

 

 

 いつの間にか少年は体を起こして正面から少女を見ていた。

「ここに…、居たいの…?」

 人形を抱き締めて立っている少女は、こくりと頷く。そんな少女を、少年は値踏みするように見つめ。

「じゃあそこに座って」

 少年に指示されるままに、少女は床に正座した。

 座った少女と入れ替わるように、少年は立ち上がる。

 ミシリミシリと床に音を立てながら、少女へと歩み寄る。

 少女の目の前に立った。

 床に正座したまま少年を見上げる少女を、少年はじっと見下ろす。

 しばらく少女の顔を眺めていいた少年の目が、少女の膝の上へと移動する。そこにあるのは件の藁人形。

 

「ん…」

 

 少年は少女に向けて両手を差し出す。

 急に差し出された少年の手を、ぽかんと見つめる少女。

 

「ん…」

 

 何かを催促するように、少年は改めて両手を差し出す。

 差し出された手の意味を察した少女。膝の上にある藁人形を、両腕でぎゅっと抱きしめた。

 

「ん…」

 

 少年は相変わらず空の両手を少女に向けている。

 そして藁人形をぎゅっと抱きしめる少女。

 

「んん!」

 

 少年は語気を強めて少女に迫る。

 少女は目をぎゅっと閉じ、そして覚悟を決めたように瞼を開けると、おずおずと藁人形を少年へと差し出した。

 少女の手から藁人形を受け取った少年。2人の共同生活を始めてから3か月にして、初めて手にした藁人形を、物珍しそうにまじまじと見つめる。

 もともと酷く不出来な藁人形。四六時中少女が抱き締めていた所為で、あちこちがほつれ、潰れ、醜い・不気味を通り越してむしろアヴァンギャルドですらある。

 

 少年が藁人形を興味深げに観察している間、少女は顔を俯かせ、膝の上の手をぎゅっと握りしめていた。

 ミシリミシリと床の軋む音。少女の膝の近くにあった少年の足が、右の方へと移動する。顔を俯かせたまま、少年の足を視線で追う。少年の足は少女の右斜め前で立ち止まる。その位置で、少年はドスンとやや乱暴気味に腰を下ろした。少女の方に、背を向ける形で、胡坐をかく。

 

 そこからは長い沈黙。

 少女に背を向けたまま、黙ってしまった少年。

 そんな少年の背中を、静かに見つめる少女。

 

 先に沈黙に耐えかねたのは、珍しく少女の方だった。

 

「加地くん…」

 少年の背中に声を掛ける。

 少年は返事をしない。

 腕の中の藁人形をじっと見つめたまま、息さえしてないのではと思えるほどに、微動だにしない。

 

 少女に背を向けて座る少年。

 そんな少年の背中を見つめる少女。

 土間から差し込む茜色の陽射し。

 カナカナカナと、ヒグラシの鳴き声。

 静かに時は過ぎていく。

 

 変化は突然起きた。

 不意に、少年がごろんと体を横に傾けたのだ。

 両腕で藁人形を抱いたまま横に倒れていく少年の体。

 床に向かって落ちていく少年の頭。

 無防備な少年の頭の着地点は硬い床。

 

 ではなく。

 

 柔らかい。

 

 少女の膝。

 

 

 突然膝の上に現れた重みに、少女は限界までに目をぱっちりと見開く。

 ついさっきまではそこには藁人形があって。

 ちょっと前に藁人形を少年に取り上げられて。

 膝の上には何も無くなってしまって。

 そして今は、少年の頭がある。

 

 目まぐるしい変化を見せる自身の膝の上に、大いに戸惑っている様子の少女。

 そんな少女に、少年は後頭部を向けたまま言う。

 

「君の髪が何処かの誰かのものであっていい。君の腕が、この人形のものであるのも仕方ない」

 

 相変わらず何処か不貞腐れた声音で言う少年。

 

「でもこの膝は、今、君の側に居る、僕だけのものだ」

 

 それでも言っているうちに自分の言葉が恥ずかしくなってきたのか、今は右手の人差し指で右頬をぽりぽりと掻いている。

 そして念押しでもするかのように、

 

「…それでいい?」

 

 少年の癖のある髪の奥に見える綺麗な旋毛を見つめながら、少女は小さく微笑んだ。

 

「ええ…」

 

 そう呟きながら、少女は黄昏色に染まった少年の髪を、細い手で優しく梳いた。

 

 

 * * * * *

 

 

 少年が少女の膝枕の温かみに溺れている間に陽が暮れてしまった。

 少年は慌てて夕餉の準備を始める。

「あ、そうだ」

 釜土に火を入れながら、少年は上がり框にちょこんと座っている少女に声を掛けた。

「ツバメちゃん。今日は夕飯も味噌汁作ってくれない?」

「お味噌汁…?」

「うん。たまにはお夕飯も贅沢にいこうじゃないか」

「私のまずいお味噌汁でも?」

「ふふ。お願いしてもいいかな?」

「ええ…」

 少女は首を傾げながらも立ち上がり、割烹着に袖を通す。

 

 

 ちゃぶ台に並ぶ、いつもの蒸かし芋と、そして今日はもう一品、お椀に注がれた味噌汁。

「いただきます」

「いただきます」

 重なり合う、2人の声。

 2人は真っ先にそれぞれのお椀を手に取る。

 同時にお椀をすくい上げ、同時にお椀を顔に近づけ、同時に唇を尖がらせ、同時に唇をお椀の淵にくっ付け、同時にお椀を傾け、同時にお椀の中身を口の中へと注ぎ入れ。

 

 同時に目を丸くする。

 

 同時にお椀から口を離して、

「んんんん…」

 唸る少女。

「あ~~おいしぃっ」

 しみじみと言う少年。

 

 少女はお椀の中身をまじまじと見つめる。

 いつもと変わらないように見えるお椀の中身。

 

「お味噌汁さま…、降臨…」

 

 不思議そうに向かいに座る少年を見つめた。まるで味噌汁神の顕現を予知でもしていたかのような少年。どんな魔法を使ったのだろう。

 少年は笑顔で種明かしをする。

「タカオのおばさんに相談してみたんだ。僕の相棒がなかなか味噌汁の味に納得いかないようなんだけど、どうしたらいいかな、ってね。そしたら、さすがは主婦歴40年のおばさんだね。すぐにこれを持たせてくれたよ」

 少年はちゃぶ台の上に小さな瓶を置く。

 小瓶の中は白い粉末。小瓶の表面には魚の絵が描かれ、「だしの素」の文字。

「君が鍋に具を入れる前に、これを入れておいたのさ」

「魔法の白い粉…」

「うん。その表現はなんだか誤解を与えそうだから人前では使わないでね。どうやら味噌汁に限らず、和食を作る場合は出汁を入れることが基本になるようだ。料理の味付けの基礎となるだけでなく、出汁を加えることで旨味や風味が増すらしい。この旨味というのはグルタミン酸やアスパラギン酸といったアミノ酸によって生じるものだそうで、実はこれを発見したのはこの国の…」

 

 少年が蘊蓄を垂れている間にも、少女は味噌汁を2口、3口と、夢中になって口の中に注ぎ入れている。

 口の中が一杯になってしまったので、一度お椀から口を離し、小さく喉を鳴らしながら口の中身を胃の中へと収め、そして鼻からふ~と深く長い息を吐く。

 お椀の中身をうっとりと見つめて。

 

「美味しい…」

 

 口元が綺麗な曲線を描いた。

 長々と蘊蓄を垂れていた少年。少女の顔を見て、口を閉じてしまう。

 幸せそうな少女の顔を見つめながら。

 

「美味しいね」

 

 少年も笑顔でお椀に口を付けて中身をずずずと啜り。

 

「うん…、美味しい…」

 

 少女も笑顔でずずずと味噌汁を啜る。

 

 

 ずずず、ずずずと。

 コロコロコロと。

 

 味噌汁を啜る音と、コオロギの鳴き声と、そして時々2人の小さな笑い声が木霊する部屋。

 

 控えめなランタンの灯りが、2人だけの食卓を温かく照らし出す。

 

 

 

 

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