渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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9.邂逅。

 

 

 

 

 少女の膝が戦慄き、体が大きくぐらついた。

「ツバメちゃん…!」

 その場に尻餅を付きそうになった少女の腰に、少年は咄嗟に腕を回して体を抱き留める。そのまま少女をベンチに座らせた。少女の前に膝を折り、その顔を覗き込む。

「気分悪い?」

 少年は馬鹿な質問をしてしまったと思った。訊ねるまでもなかった。

 ただでさえ白い少女の顔が今は青ざめ、頬には脂汗を伝わせている。

「すまなかった。君を混乱させてしまうような写真を、不用意に見せてしまったね」

 

 少年は後悔に苛まれる。

 どうしてあんな写真を彼女に見せてしまったのだろう。彼女が目にすれば、混乱させてしまうことは目に見えていたはずなのに。自分の心の中に留めておけばよかっただけなのに。

 

 少年の謝罪に、少女は「あなたの所為じゃない」と健気に頭をふるふると横に振る。そして右手で、少女の膝の上に乗せられていた少年の左手を握った。

「加地…くん…」

 少女の呼び掛けに、少年は右手で少女の前髪を梳きながら少女の青ざめた顔を見つめる。

 まるで感情の一切が欠落してしまった、人形のような表情。瞼のみを、忙しなく開閉させている。

「私は…、いったい…」

 少年は少女の口から続く言葉を封じるかのように、そっと自身の額を少女の額にこつんと当てた。

「君は今も昔もツバメちゃんさ。僕の友人で同居人のツバメちゃん。それでいいじゃないか」

 少女は額に感じる少年の温もりを感じようと、目を閉じる。そして少年の優しい口調で語り掛けらる言葉を必死に受け入れようと何度も小さく頷く。

「行こう、ツバメちゃん。ここは君が来るべき場所ではなかったよ」

 少年に支えられて、少女はベンチから立ち上がる。引き戸を開き、2人は誰も居ない資料館を後にした。

 

 

 駅舎の横を通る頃には少女の顔色もだいぶ良くなっていた。ここまで支えてくれた少年の体からそっと離れ、自分の足のみで歩く。その腕にはいつの間にかトートバッグから出されていた藁人形があり、2本の細い腕でぎゅっと抱き締められている。

 

 

 バス停へと向かう未舗装の道を、2人は無言で歩いた。

 道の左右にはまるでトンネルのように木々が生い茂り、真上から降り注ぐ太陽の光は木々の隙間を通り抜け、地面に光と影のまだら模様を作っている。

 2人が地面を踏み締める音と、時折木々の隙間を木霊する鳥の鳴き声のみが響く静かな道。

 そこに、不意に地面を踏み締める、2人の足音とはまた別の誰かの足音。

 少年は足音がした方へと目をやった。

 そこは注意して見なければ分からないような、暗い森の中へと入っていく脇道への入り口。

 

 そこに、1人の青年が立っていた。

 

 

 鬱蒼とした木々が生い茂る森の中の道。そんな場所には不似合いな、背広に革靴姿の青年。

 ここまで誰一人としてすれ違うことがなかった場所。そんな場所にいきなり現れたサラリーマン風の青年にびっくりしてしまい、2人は足を止める。青年も青年で、まさかこんな辺鄙な場所に2人の若い男女が歩いてくるとは思わなかったのか、やはり驚いた様子で立ち尽くしている。

 

 突然の遭遇。少年も青年もお互い見合ったまま固まってしまっている中。

「こんにちは」

 いち早く立ち直った少年は、青年に向かって軽く頭を下げ、挨拶をする。

「こ、こんにちは…」

 青年もぎこちなく頭を下げる。

「ほら、君も…」

 少年は隣でぼんやりと立っている少女の腕を、肘で小突いた。

 

 「おはよう」「いだだきます」「ありがとう」「おやすみなさい」。

 一番身近な少年との挨拶はどれも律儀に丁寧に交わす少女だが、他人の前では途端に閉鎖的になってしまうところは、この1月間の社会勉強を経てもあまり改善されなかった。初対面の相手とは、こうしていちいち促してやらないと挨拶どころか目も合わそうとしない。

 

 少年に小突かれて、少女はようやく頭を下げる。

「こんにちは…」

「こ、こんにちは…」

 青年は未だに驚いたままなのか、ぎこちなく挨拶をしながら、少年と少女の顔を、目を丸くして交互に見つめている。

 

 挨拶を済ませた少年と少女は青年の前を通り過ぎようとする。

「あ、あの」

 そんな2人を、青年は少し上擦った声で呼び止めた。

「はい?」

 2人は足を止め、少年のみが振り返る。

「ここへはどうして?」

「旅行なんです。彼女が…」

 少年は自分の背に隠れて立っている少女に視線を向ける。

「彼女がここに来たいと言うので」

「彼女が?」

 青年は、少年の肩越しに見える少女の横顔をまじまじと見た。

 少々無遠慮な青年の視線。少年は、少女を守るように少女の姿を自分の体で隠す。

 そんな少年の態度に、青年は目を何度か瞬かせ、そしてようやく自分の失礼な振る舞いに気付いたようだ。

「ああ、ごめんさい。こんなところで人に会うとは思わなかったので、ちょっとびっくりしてしまって」

 そう言いながら、青年は短く纏められた髪を掻いて笑った。

 そんな青年の顔を見て、少年は肩から力を抜く。不思議と、この青年に対してこれ以上警戒心を持ち続ける必要は感じられなかった。

「あなたはどうしてここに?」

 今度は少年の方から青年に訊ねてみた。

「ああ、僕は年に1回はここを訪れるようにしてるんだ」

「もしかしてこの村の出身の方ですか?」

 そうであれば、あのアルバムの写真について何か聞き出せるかもしれない。しかし青年は頭を横に振った。

「出身者、という訳ではないんだけどね…」

 青年は彼が現れた脇道の奥へと視線を投げる。

「ここが今の僕の原点…というか。ここが無かったら…、何も始まらなかった…というか…」

 何かを懐かしむように、遠い目で脇道の奥を見つめている。

「大切な場所…なんですね?」

 その少年の声に、青年は視線を少年へと戻す。

「うん。だから、君たちのような若い人たちに訪れてもらって、僕はとても嬉しいよ」

 青年は、少年と少女に向けて朗らかな笑顔を送った。青年の笑顔に、少年の顔も自然に綻ぶ。少年の背後に立ち、少年が着るジャケットの袖をぎゅっと握り締めている少女も、少年の肩越しに青年の笑顔を見つめながら、張り詰めていた顔を少しだけ和らげた。

 

「もう帰るの?」

「ええ。資料館はもう見てきたので」

「そっか。最近、資料館が出来たんだったよね。僕もちょっと行ってよっかな。それじゃあ」

「失礼します」

 別れの挨拶を交し、青年は資料館へと続く未舗装の道を歩き始めた。

「じゃあ僕らも行こうか」

 少年の声に、少女は小さく頷く。少年の肩越しに見える青年の背中を、じっと見つめながら。

 

 歩き始めようとして。

 

「ああそうだ」

 

 声を掛けられ、振り返ると、青年がこちらを見ていた。

「もし時間があるんだったらさ。あっちの方」

 青年は、彼自身が現れた脇道の入り口を指さす。

「その道の奥に行ってみたらどうかな?」

「何があるんです?」

 少年が聞き返す。

「綺麗な湖があるんだ。とても静かな。ぜひ、行ってみるといいよ」

 

「どうする?」

 少年は少女に目をやる。少女は「どうしよう」と首を傾げている。

 

「特に君」

「え?」

 青年に目を向ける。

 青年の視線は、少年の背後に立つ少女に向けられていた。

「君は行った方がいい。…いや、…行くべきだ」

 少年は怪訝そうに青年を見つめる。

「それはどういう意味…」

「そんなしょげた顔してないでさ、綺麗な景色でも見て気分をリフレッシュしてみたらどうかなってことさ。じゃあね」

 そう言い残し、青年は2人に軽く手を振りながら、今度こそ行ってしまった。

 

 2人してぽかんと青年の背中を見送る。

 青年の背中が見えなくなって、少年がようやく口を開いた。

「どうする?」

 少女は左手で少年のジャケットの袖をぎゅっと掴み、右手で藁人形をぎゅっと抱き締め、押し黙っている。

「ちょっと、行ってみよっか?」

 少女は暫し思案するように顔を俯かせ、やがてゆっくりと一度だけ頷いた。

 

 

 * * * * *

 

 

 暗くて細い道。落ち葉と小枝に敷き詰められた小径の上を、先導する少年のスニーカーとその後ろをついていく少女のサンダルが歩いていく。木々に囲まれた小径の前方に、明るい場所が見えてきた。

 木々のトンネルを出て、2人が足を踏み入れた場所。

 

 眼前に広がるのは、豊かな水を湛えた湖。

 水面に広がる波紋は一つもなく、風も吹かず、小鳥や虫の囀りもなく、静謐という文字を絵にしたような場所。

 

 そんな静寂に満ちた湖畔に、2人分の控えめな足音が響く。

 

 湖の淵に、少年は立つ。

「綺麗な場所だね…」

 何か特別なものがあるわけでもない。森の中に広がる、ただの大きな水溜まり。それでもあの青年が言う通り、訪れた者の心を洗うような、不思議な魅力を放つ場所だった。

 

 湖を眺める少年の背後を、足音が横切る。

 見ると、少女が足場の悪い、瓦礫で覆われた湖の淵を、サンダルでひょこひょこと歩いている。

「大丈夫?」

 少年はすぐに少女の腋窩に手を差し入れ、少女のおぼつかない足取りを支えてやる。

「サンダルは失敗だったね」

 そう少女に話しかけるが、少女の返事はない。瓦礫の上を、ひたすら歩いている。

「ツバメちゃん…?」

 どこか様子がおかしい。少女に声を掛けるが、やはり返事はない。

「ツバメちゃ…」

 再度少女の名前を呼びながら、少女の横顔を見て。

 

 少年は声を飲み込んだ。

 

 少女の悲痛な顔を見て。

 

 眉間に皺を寄せ。

 

 目を広げ。

 

 唇を噛みしめている少女の顔を見て。

 

 

 少女の血走った目はある一点を見つめている。

 少年は少女の視線の先を追った。

 そこにあるのは、湖の畔に立つ廃墟。

 屋根はなく、コンクリートの壁と床があるだけの、朽ち果てた建物。

 少女の足は、その廃墟を目指して足場の不安定な瓦礫の上を懸命に歩いている。

 

「やめよう…、ツバメちゃん」

 少年は自分でも気づかない内に、少女の前に立ちはだかり、その細い体を抱き留めていた。

「もうやめよう…。引き返すんだ…、ツバメちゃん…」

 

 あの廃墟が一体何なのか。

 少年には見当もつかない。

 それでも、今の彼女をあの廃墟に向かわせるわけにはいかない。

 何故か、少年の心の何処かで強い警鐘が鳴り響いていた。

 何の変哲もない廃墟。

 アディショナルインパクト後のこの世界では、どの場所にも溢れる、旧時代の朽ち果てた建物。

 それでも少年にはあの廃墟が、悪魔が潜む館のように思えて仕方がなかった。

 

 少年の体に抱き留められる少女の体。しかし少女は身を捩り、全身の力を使って少年の腕から逃れるようとする。下手をすれば、少女に怪我を負わせかねない。少年は仕方なく、少女を抱き留める腕から力を抜いた。

 少年の腕から逃れた少女は、すぐに歩き出そうとして、瓦礫に足を取られて躓いてしまい、その場に膝を折ってしまう。

「大丈夫かい? ツバメちゃん」

 少年は慌てて少女を起こそうとするが、しかし少女は少年に肩を触れさせる前に、四つん這いのまま前進し始めてしまった。

 

 瓦礫の上を這って、這って。

 一心不乱に、廃墟へと向かう。

 

「ツバメちゃん…」

 

 そんな少女の背中を、少年は立ち竦んだまま、見送ることしかできなかった。

 

 廃墟の数歩前になって、少女はようやく立ち上がる。 

 そしてついに少女の小さな体は、廃墟へと辿り着いた。

 少女は廃墟の床へと上り、その細い背中は廃墟の壁の向こうへと消えてしまった。

 

 少女の姿が消え、少年の周囲を静寂が包み込む。

 少年は少女の背中が消えてしまった廃墟を見つめ、湖の水面を見つめ、自分たちが通ってきた森の中の小径を見つめ、そして自身の足もとを見つめ。

 

 その足は、その場から歩き出そうとしない。

 

 そして少年の体は、ゆっくりとその場にしゃがみ込んでしまう。

 

 瓦礫の上に、腰を下ろした。

 

 彼女の姿が消えてしまった廃墟に背を向け、静かな湖を見つめる。

 

 

 * * * * *

 

 

 そこはまるで演劇の舞台のような場所だった。三方を崩れかけの壁に囲まれ、最後の一方の壁だけが綺麗に崩れており、その先には観客席の代わりに豊かな水を湛えた湖が広がっている。

 そんな舞台に上がり込む、一つの細い影。

 少女はゆっくりとした足取りで、舞台の中央へと向かう。

 スポットライトは天から降り注ぐ太陽の光。

 舞台の中央。陽だまりの、中心。

 

 そこに立った瞬間、少女の瞳に映る全てのものがダブって見えた。

 少女の視界を、強烈な既視感が襲った。

 

 

 初めて訪れた場所のはずなのに、初めてじゃないような気がする。

 

 あちこちが陥没した白いコンクリートの床。

 

 西欧の古代神殿を思わせるような剥がれ落ちた壁。

 

 青い空を切り取る屋根のない天井。

 

 翠玉色に輝く静かな湖。

 

 対岸に広がる緑の森林と山々の稜線。

 

 

 

 よく澄んだ青い空と湖を背に、一人の少年が立っている。

 

 華奢な体つき。

 短く纏まった髪。

 黒に白のジャージ姿の彼は釣竿の針を湖に飛ばすと、リールを回しながらこちらを振り返った。

 

 黒曜石のような瞳が、こちらを見つめる。

 

 

 

 

『君の名前?』

 

 

 

 

 少し驚いたような表情の彼。

 彼は視線を床に落とす。

 

 

 

 

『でも…、君は―――じゃないし…』

 

 

 

 

 背景が変わる。

 廃墟の淵には、やはり彼が立っている。

 彼の背後の湖と空。

 まるで夜が明けたばかりのように、湖面から立ち昇る朝靄が空を乳白色に包み込んでいる。

 

 

 

 

『頼まれていた名前だけど…、

 

―――は、―――だ…。

 

他に思いつかないよ…』

 

 

 

 

 胸の中に温もりが広がっていく。

 彼が与えてくれた名前。

 それを心に刻み込んで。

 

 彼の姿が少しずつ遠ざかっていく。

 彼から離れたくないのに。

 彼の側に居たいのに。

 

 ずっと。

 ずっと一緒に居たかったのに。

 

 彼は離れていく。

 私から離れていく。

 

 いいえ。

 

 離れていっているのは私。

 彼から遠ざかっているのは私。

 一歩。

 一歩。

 彼との距離を確かめるように。

 少しずつ彼から離れていく私の足。

 

 彼の顔が朧気になる。

 彼の顔が、よく見えなくなる。

 ずっと見ていたいのに。

 彼の顔から片時もそらさずに見ていたいのに。

 

 彼の顔がよく見えない。

 それは彼と離れてしまったから?

 彼と遠く遠く、離れてしまったから?

 

 

 

いいえ。

 

それはあなたが…。

 

 

 

 

「泣いてるの…? わたし…」

 

 視界を滲ませ、頬に伝う熱いものに気付いた少女は、両手を使って目もとを拭う。

 顔から手を離し、濡れた手の甲を見つめた。

 

 少女は鼻を啜ると、視線を手から湖の方へと向ける。

 そこには誰もおらず、湖と青い空が広がるだけ。

 

 

 

 

   今のは私の中に眠っていた記憶?

 

 

 

いいえ。この場所に刻まれていた記憶。   

 

 

 

 

 少女は手で目もとを拭い、鼻を啜りながら周囲を見渡し、「彼」が立っていた湖の淵、廃墟の床が途切れる場所を見つめる。

 そして白昼夢を再現するかのように、一歩一歩、湖の淵から遠ざかってみる。

 コツ、コツ、と、少女が履くサンダルが床を叩く音が、静かに響いた。

 やがて少女の踵は壁へと突き当たる。

 これ以上、「彼」が立っていた場所から遠ざかることはできない。

 

 少女は再び周囲を見渡す。

 空が見える天井。

 太陽の光が差し込む崩れかけの壁。

 白いコンクリートの床。

 

 足もとに視線を落とす。

 自分の足もとだけ、周囲の床の色と違うことに気付いた。

 

 まるで染みのように足もとの床に広がる何か。

 少女はその場から一歩横へと移動し、床に広がる染みのような何かを見下ろす。

 

 そして再び気付く。

 まるで染みのような何かに寄り添うように、床の上に置かれたものに。

 

 それは一束の花束。

 控えめな白い花を幾つも咲かせた、小さな花束。

 

 少女はその場に膝を折り、花束を拾い上げた。

 この場に手向けられてまだ間もないのか、白い小さな花たちはそれぞれが大きく生き生きと花びらを広げている。

 その花たちに混じって添えらていた、小さなメッセージカード。

 メッセージカードにボールペンで書き込まれた文字。

 

 

 

 

A.D.2029

 

この世界の始まりに、感謝を。

 

 

 

 

 床の上に広がる黒い染みのような何かの上に、新たな染みが1粒、2粒。

 

 床を見つめる少女の目尻から大粒の涙が溢れ、頬を伝うことなく床へと直接零れ落ちていく。

 少女の真っ白な手が、染みのような何かが広がる床を、削り取るように撫でている。

 

 少女の嗚咽に混じって。

 

「私は…、もっと早く…、ここに来るべきだった…」

 

 少女は額を染みのような何かが広がる床に擦り付ける。

 

「ありがとう…。あなたのおかげで…、世界はまた…、輝きを…取り戻した…わ…」

 

 

 

 少女は目から溢れる涙を拭うことなく顔を上げ、湖の方へと視線を向けた。

 湖は再び乳白色の朝靄に包まれ、そして湖の淵には「彼」が立っている。

 

 

 どこからか声がした。

 

 

 

 

ここが好き…。

 

好きって分かった…。

 

それだけで…、嬉しい…。

 

 

 

 

 溢れる感情を拙い言葉に懸命に乗せて。

 

 

 

 

稲刈り、してみたかった…。

 

ツバメ、もっと抱っこしたかった…。

 

 

 

 

 決して訪れることのない未来に思いを馳せて。

 

 

 

 

好きな人と、ずっと一緒にいたかった…。

 

 

 

 

 決して叶うことのない願いを胸に抱いて。

 

 

 

 

 

 

 気が付けば、空は青。湖は翠玉色。

 湖の淵には、誰も居ない。

 耳鳴りがするような、静寂に包まれた廃墟。

 

 少女は一度大きく深呼吸し、乱れていた呼吸を整えると、涙の痕が残る目もとと頬を拭った。

 その場に、ぺたんと座り込む。

 床に広がる、染みのような何かを見つめた。

 

 暫く染みのような何かを見つめ。

 そして腕に抱いた藁人形に視線を移す。

 

 藁を丸めただけの、とても粗末な人形。

 その人形に巻かれた群青色の布。

 その布に、乱暴に書かれた「ツバメ」という文字。

 

 

 ―――ツバメ、もっと抱っこしたかった。

 

 

 少女は人形の頭の部分を撫でる。

 少女がずっと抱いていた所為で、あちこちがほつれたり潰れたりしている人形。

 少女は人形を床に置くと、肩に下げていたトートバッグの中身を探る。バッグの中から、小さなプラスチックのケースを取り出した。ケースの蓋を開くと、中には針や糸、小さなハサミ。痛みに痛み、形が保てなくなりつつある人形の修繕用に、いつも携帯しているものだった。

 少女は針に糸を通すと、人形の後頭部に出来た大きな裂け目を縫い合わせていく。決して良いとは言えない大雑把な手際で、それでいて一つ一つの縫い目は丁寧に。ほつれた群青色の布も剥がれてしまわないよう、しっかりと縫い合わせる。

 修繕を終えた人形を見つめる。

 最後にもう一度人形をその腕と胸で抱き締め、そしてゆっくりとコンクリートの床に置く。

 染みのような何かに、寄り添わせるように。

 

「これで…、いつでも…、抱っこできる…」

 

 

 彼女のその姿はまるで何かの尊い儀式でもしているかのようだった。

 少女は床に人形を置き、その隣に白い花束を置き、床に広がる染みのような何かに触れる。

 そして小さな裁縫箱の中からハサミを取り出し、無造作に伸び、顔の半分を隠してしまっている髪を梳き、後ろ髪も掻き上げ、後頭部で一本に纏めた。

 纏めた髪の根元に、ハサミの刃先を当てる。

 

 ジョキ。

 

 静かな湖畔に、小さな金属音。

 

 ジョキジョキジョキ。

 

 小さなハサミが、少女の空色の髪を断っていく。裁縫用の小さなハサミの貧弱な刃は髪の毛の束の硬さに何度も負けてまう。それでも構わず、少女は髪の毛を乱暴に切っていく。そして少女の左手に握られた髪の毛が全て、少女の体から離れた。

 手もとに残る、一束の空色の髪の毛を見つめる。

 小さな裁縫箱から糸を取り出し、髪の毛の束をぎゅっと縛って纏める。

 

 

 ―――好きな人と、ずっと一緒にいたかった。

 

 

 湖畔に立っていた少年。

 

 いつか、どこかで、この髪を摘んでくれた誰か。

 

 いずれの顔も、まるでピントがずれたレンズを通したかのようにぼやけていて、頭の中に思い浮かべることはできない。

 それでも不思議と彼と彼のぼやけた肖像が、少女の頭の中では重なって見えた。

 

 

 

「あなたが紡いでくれた絆…。彼との絆の証…」

 

 髪の毛の束を、そっと人形の側に置いた。

 

「あなたからもらった絆…。ここに置いておくね…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(( ・ ))

 

 

 

 

 

 

 

 

 音がした。

 静寂に包まれていた湖の方から、水面に波紋を広げる音が。

 少女は顔を上げ、音が聴こえた方へと視線を向ける。

 

 視線の先には翠玉色に輝く湖。

 その湖の水面。

 水面の上に立つ、細い影。

 

 空色の髪。

 真っ白な肌。

 黒のスーツ。

 

 陽炎のように立つ、「少女」。

 

 水面に立つ「少女」。

 

 遠慮がちに、そっと、こちらを見つめてくる「少女」。

 

 「少女」の姿は廃墟からはとても遠くに離れているはずなのに。

 何故か確信が持てる。

 「少女」の顔は、きっと、静かに笑っているだろうと。

 

 

 翼が羽ばたく音。

 屋根のない天井を見上げる。

 天井に四角く切り取られた青い空。

 その青い空の中を、数羽の鳥が羽ばたき、空に向かって飛び立っていった。

 

 青い空に吸い込まれていった鳥たちを見送り、再び視線を湖へと向ける。

 

 誰も居ない湖。

 波紋一つなく、静かに佇んでいる湖。

 

 暫くぼんやりと湖の水面を見つめていた少女。

 

 その少女の表情がまるで雪解けのように和らいでいき、口もとは緩やかな曲線を描いていく。

 

 

 * * * * *

 

 

 何故、自分は彼女の後を追わなかったのだろう。彼女に付いていかなかったのだろう。

 自分は、こうも意気地のない、臆病者だっただろうか。

 

 この廃墟に一体何があるのか、何が彼女を待ち構えているのか。それは分からない。分からないからこそ、自分は彼女の側に立って、彼女を支えてやるべきではなかっただろうか。

 自分は彼女の家族なのだから。

 

 どこまでも静かな湖。

 自分の問いなど霧散させてしまうほどの静けさ。

 

 瓦礫の上に腰を下ろし、ぼんやりと湖を眺めている内に、静けさに誘われ、少しずつ瞼が落ちていく。

 

 

 

 膝の上に頭を乗せ、スヤスヤと寝息を立てる。

 陽の当たらない、水辺の木陰。

 風はないが、少しだけ、肌寒い。

 

 体の右半分に、温もりを感じる。

 微睡む体は、温もりを求めて、右側に傾いていく。

 右腕に柔らかい感触。

 温もりと柔らかさと。

 優しさに満ちた感覚に引き寄せられるように、微睡む体はさらに右側へと傾いてく。

 

 

 

 頭を撫でられる感触。

 うっすらと瞼を開けた。

 

 いつの間にか、そこには彼女が居た。

 彼女が、まるで覗き込むようにこちらを見下ろしている。

 少しだけ、頬を赤く染めて。

 

 右頬に柔らかさを感じる。

 右頬に温もりを感じる。

 

 

  ああそっか。

 

  これは彼女の膝枕。

 

  彼女の体の中で、唯一僕だけのもの。

 

  僕だけの、特等席。

 

 

「って、ええ!?」

 

 少年は慌てふためきながら少女の膝から離れ、体を起こす。

 

「ツバメちゃん…、いつから…」

 顔を真っ赤にさせながら、隣にちょこんと座っている少女に訊ねる。

 尋ねられた少女は少年の左腕の腕時計を確認した。

「30分前から…」 

「起こしてくれたら、よかったのに」

 

 彼女を支えてあげたいと思っていたのに、気が付けば自分が彼女の膝枕に支えられていた。

 少女の膝枕の感触が残る右頬を撫でつつ、己の不甲斐なさに打ちのめされてしまう少年である。

 そんな少年に、少女は頬を桃色に染め、微笑みながらふるふると頭を横に振る。

「ありがとう…。待っててくれて…」

 少女の緊張が抜け切った穏やかな表情を見て、少年は心の中でほっと安堵の溜息を漏らす。

「もういいの?」

 少年の問い掛けに、少女はこくりと頷いた。

「私が誰で…、何処から来たのか…、今もよく分からない…。でもここに来れて良かった…」

 少年は背後を振り返り、廃墟の壁を見上げる。

「ここは一体…」

 少女も少年に釣られて廃墟の壁を見上げる。

「きっと、この世界の火種」

「火種?」

「きっと、ここから全ての絆が、繋がっているような気がする」 

「僕と…、君との絆も?」

 少女は少年を見た。

 少年も、少女を見ている。

 少女はにっこりと笑いながら答える。

「ええ…。ここがなければ、きっと、私たちも出会うことはなかったわ…」

 

 今まで見たことがないような少女の笑顔。

 そんな少女の顔を、ぼーっと見つめていて。

「って、ツバメちゃん、どうしたの? 目が真っ赤じゃないか」

 少年は少女の顔に手を伸ばし、赤く腫れた少女の目もとを親指でそっと触れる。

 少女は少しだけ恥ずかしそうに目を細める。

「少し、泣いちゃった…」

 そう言って、照れ臭そうに微笑む少女。

 そんな少女とは対照的に、少年は悲しそうに眉根を寄せた。

 少し赤い少女の頬を撫でながら少年は言う。

「辛い思いをしていたなら僕を呼んでよ。一人で泣くのはなしだ」

 眠りこけていた人間が言えた科白ではないなと思いつつ。

 少女は微笑みながら頭を横に振る。

「辛くない。嬉しかったの」

「嬉しかった…?」

 少女は彼女の頬を撫でる少年の手の甲を手で触れながら、背後の廃墟を見上げる。

「ここで…、もう一人の私は…、確かに生きていた…」

「もう一人のツバメちゃん? あの写真のコ?」

「分からない…。でも彼女は生きて…。ここで懸命に生きて…」

 いつになく、熱っぽい少女の声。

「初めて世界の美しさに触れて…。人々の優しさに触れて…。自分の居場所を見つけて…。命を輝かせて…」

 少女の声が震えている。

「ツバメちゃん…?」

 少年に呼ばれ、少女が振り返る。

 その瞳に、大粒の涙を滲ませて。

「もっと生きていたかった。好きな人と一緒に」

 

 瞼から零れ落ちる涙。

 少女は少年に言われたばかりのことを実行に移す。

 もう一人で泣くのはやめだ。

 

 少女は少年に両腕を伸ばし、彼の背中へと回す。

 

 少年の胸に顔をうずめる。

 

 左頬に少年の温もりを感じながら。

 

 左耳で少年の命の鼓動を聴きながら。

 

 声に出して泣いた。

 

 

 突如として自分の胸に預けられた彼女の体。

 少年は戸惑いながらも、少女の痩せた背中に両腕を回す。今にも折れてしまいそうな細い体を、そっと抱き締めた。

 彼女の背中に腕を回して。

 その時になって、初めて気付く。

 少女の背中まで届いていた髪が短く摘まれていることに。

 

「加地くん…」

 腕の中の彼女が、涙に声を震わせながら名前を呼んだ。

「私…、頑張って生きるね…」

 短くなってしまった彼女の後ろ髪を撫でる。

「もう一人の私に…、負けないくらい…」

 その決意を表すかのように、少女の両手が少年のジャケットの背中をぎゅっと握っていた。

 

 大きな泣き声は、少しずつすすり泣きへと変化する。

 少年は少女の震える小さな身体と頭を、優しく抱き締め、撫で続けていた。

 泣き止むまで、黙って彼女を抱き締めていた。

 そんな2人の隙間を穏やかな風が吹き抜け、少女の短くなった髪を静かに揺らす。

 

 

 泣き止んだ少女はしばらくひっくひっくと鼻をしゃくり上げながら、そして少年の心配そうな視線を受け、えへへ、とはにかんだ。

 少年が渡してくれたハンカチで目と鼻を拭く。そしてもう一度、えへへ、と。私はもう大丈夫と、少年に笑い掛ける。

 それでもなお、心配そうに少女の顔を見つめる少年。

 少女は言う。

「加地くん…」

「なんだい?」

 少女は少年の手に自身の手を重ねた。少女の手が離れると、少年の手の上には裁縫用の小さなハサミが乗っていた。

「私の髪を…、切ってほしいの…」

「え?」

「こんな姿じゃ、電車、乗れない…。でしょ?」

 

 

 

 来るときは、少年が少女の前を歩いていた。

 帰るときは、少女が少年の前を歩いている。

 

 少年は少女の後ろ姿を見つめていた。

 乱雑に切られてしまい、すっきりしてしまった少女の後姿。少女のうなじをまともに見るのは、これが初めてだったかもしれない。白くてか細い少女のうなじやゆったりとしたプルオーバーシャツや肩に、切り散らかされた髪の毛の切れ端があちこちに付いている。

 傍から見れば酷い姿の少女だったが、その足取りはどこか軽やかだった。まるで背負ってきた全ての荷物を、あの廃墟に置いてきたかのように。そんなに髪の毛が重かったのだろうか。そんなにあの人形が重かったのだろうか。

 

 

 2人は一度資料館へと戻った。「寄ってみる」と言っていた青年の姿はすでになく、廃村の中で静かに佇む無人の資料館。少年は少女を外で待たせ、無人の資料館へと入る。少女から渡された裁縫用のハサミは髪の束を無理に切ってしまったことで刃先がボロボロになってしまったため、資料館の施錠もされていない無防備な事務室らしき部屋からハサミ、そして古い新聞紙を拝借した。

 

 少女と一緒に資料館の裏側へと回る。

 高い木々に囲まれた中で、木々の隙間から漏れる陽だまりの中に丸椅子を置き、そこに少女を座らせた。少女の首元に、新聞紙をエプロンのように巻き付ける。

「いいの…?」

「うん…。お願い」

 少年は文具用のハサミの刃を、少女の後ろ髪の毛先へと添える。左手の人差し指と中指と空色の髪を挟み、指の隙間から覗く毛先をちょきちょきと切り始めた。丸椅子の下に敷いた新聞紙の上に、空色の髪がぱらぱらと落ちていく。

 

 ちょきちょきと。

 軽い金属音に混じって、少女の細い声。

「ありがとう…。加地くん…」

「うん…」

「私を…、ここに連れてきて…くれて…」

「うん…」

 少年は短く返事をしながら、少女の後ろ髪を切り揃えていく。

「ねえ、ツバメちゃん…」

「なに…?」

 

 ―――ツバメちゃんは、これからもずっと、ツバメちゃんだよね。

 

 言いかけた言葉を少年は飲み込んで。

「良かったね…」

 代わりにその口から出たのは、当たり障りのない言葉。

「うん…」

 少年の表情が見えていない少女は、微笑みながら頷いた。

 

 木々の隙間から漏れる小鳥のさえずりと、刃先が髪の毛先を削ぐ小気味よい音が、陽だまりの周囲で静かに響いていた。

 

 

 

 

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