メルクストーリア 【動物の国another ~牛睡の冀望と偶想のおねえちゃん~】 作:ひょうたんふくろう
「さて、どうしたものか……」
光の映していない、しかしどこか妖しく輝く瞳で譫言を呟いている三人──ユウ、ローフィ、ユディを見て、シャルフィは呟いた。
幸いにも、モンスメルムに誑かされたところで直接的な脅威があるわけではなかったのだが、しかしこの三人をここで置いておくわけにもいかない。そして、連れて行こうにも正気を失っている人間なんて危なっかしくて敵わない。
つまるところ、早急にこの三人をどうにか正気に戻す必要がある。霧が出てきた今、先行したフィネットを追いかけるためにもそれは絶対にしなくてはいけないことであった。
「マッスルぅ……! マッスルぅ……!」
「ないすばでー……! ないすばでー……!」
「んふふ、んふ、んふふ……!」
「……どうしたものかなぁ」
ユウは先ほどからずっと、自分がムキムキボディになったと思い込んでいるらしい。あっちにフラフラ、こっちにフラフラとしながらその華奢な体で精いっぱいのポージングを取っている。例えば獅子族の青年がやれば絵になるそのポーズも、ユウの場合だとよく言っても「ほほえましい」、悪く言えば「滑稽」と言えるもの。げに、誑かされているとはよく言ったものである。
「早く元に戻さないと……正気に戻った時のダメージが酷そうね……」
シロフィは目の前でオトナなポーズをとるローフィを見て、困ったようにつぶやく。何か幸せな夢でも見ているのか、ローフィはすごく楽しげな表情でさっきからそんな恰好を延々と続けているのだ。
ユウとは違い、ローフィはまだまだ子供と言える年齢だから、健全な意味で微笑ましく思える光景ではある。しかし、元来のローフィの真面目でしっかりものな気質を考えれば、一刻も早く正気に戻してあげたいというのがシロフィの年上としての純粋な気持ちであった。
「ユウくん? ローフィちゃん? ユディ?」
「マッスルぅ……!」
「ないすばでー……!」
「んふふ……!」
「……ダメだな、話しかけても全然意味が無い」
まさに心ここに非ずと言った様子に、シャルフィもシロフィもがっくりと肩を落とす。何度話しかけても声が届いていない。というかそもそもとして、幻惑の世界にいるユウとローフィは目の前にいるはずのシャルフィたちを見ていない。例え目が開かれていたとしても、これで会話が成立するはずもない。
「なぁ”私”。こういう時はどうすればいいんだろう? 科学者の”私”なら、なんかいい方法知ってたりしない?」
「うーん……そうは言ってもねえ。この国の人が思っているほど、科学は万能じゃないのよ。むしろ、こういう時は俗にいう民間療法的な行いの方が案外効果的だったりも」
「……つまり?」
シロフィは、にっこり笑っていった。
「物理的刺激、あるいは精神的なショックね」
「……わかりやすいけど、科学者の”私”からはあんまり聞きたくなかったな」
さて、とシャルフィは目の前でだらしなく笑う──心地よさそうに頬を緩め、口の端からわずかばかりのおよだを垂らしているユディに向き合った。
「んふふふ……!」
「……こっちもわかりやすいね。大方、チビたちに囲まれてお昼寝しているって所か」
「ユウくんやローフィちゃんには大層なことできないけど……
「……んふ?」
遠慮はいらないとばかりにシャルフィがユディを羽交い絞めにする。さすがにこの程度の刺激で正気に戻るはずもなく、ユディは一瞬体をこわばらせたものの、再び幸せな幻覚の世界に旅立っていった。
「ユディ? 起きなさい。あなた、いつまでお寝坊さんを続けるの?」
ぺちぺち、とシロフィがユディのほっぺを叩く。
寝ぼけたユディが、かぷ、とシロフィの指に噛みついた。口をもごもごと動かして、とてもとても幸せそうな表情である。
「……そういえばこの子、指しゃぶりの癖がなかなか抜けなかったっけ」
「次はもっと大きめの刺激にしてみるか」
言うや否や、シャルフィは思いっきりユディの尻を叩いた。これをすればどんなに寝ぼけ眼なユディも一発で目がしっかりと冴えるという秘伝の技である。
パァン、と乾いた心地の良い音が山の霧に響き渡っていく。せっかくだからとシャルフィはもう一発ほどユディの尻を叩いた。
「……んふふ!」
「ダメね」
「身体的な刺激は難しいってことか……。さすがにこれ以上となるとケガをさせかねないぞ」
実はさりげなく、「フィネット」の尻叩き技術は牛族でも随一の物であったりする。お姉ちゃんとして子供たちの面倒を見ている以上、たまにはお説教をする機会だってあり、そんなときに最も効果的な方法が「これ」であったのだ。
そして幸か不幸か、お姉ちゃんとして子供を見守る天性の才能があったフィネットは、当然のごとくこの技術に長けていた。具体的には、どんなやんちゃ小僧も「悪さなんてもう懲り懲りだ」と心の底から思えてしまうほどの絶妙な力加減ができるのである。
「じゃあやっぱり、精神的な刺激の方がいいのかしらね……仕組みはともかく、誑かされているってことは心に作用している問題なのでしょうし」
「しかし、ユディに対して精神的な刺激か……いや待て、だったらまずはユウからにするべきだな」
「ユウくんから? ……あっ」
にぃっと笑うシャルフィ。こっちの”私”はそういう傾向が強いんだな──なんて、シロフィがぼんやり思ったときにはもう、シャルフィはユウの目の前に立っていた。
そして。
「ユウ」
「マッスルぅ……! マッスルぅ……!」
「マッスルよりも、おねえちゃんを見てよ……えーいっ!」
「もがっ!?」
シャルフィは思いっきりユウの頭を抱きすくめた。それはもう全力で、一切の遠慮なく抱きしめた。愛しい愛しい何かが腕の中にあるのを確かめるように。あるいは、母がその慈愛を持って我が子を抱きしめるように。
スキンシップ、というにはあまりにも行き過ぎたそれ。しかし、シャルフィはそんなの気にしない。牛族だとかそうでないとか関係ないし、男とか女とかも関係ない。ただ純粋に、年上のお姉ちゃんとしての心からの愛しさと──ほんのちょっぴりの悪戯心をもってユウの頭を抱きすくめたのだ。
「う……むぐ……っ!」
「かーわいいよなぁ、ユウは。……ホントは、まよなか谷で会った時からこうしたかったのに。恥ずかしいことなんて全然ないのに、それでも照れて恥ずかしがるところがまた可愛いんだ」
もちろん、ユウだって男だ。小さい時分ならいざ知らず、齢十五にもなって子供のように抱きしめられて恥ずかしくないわけがない。悪い気はしない……いいや、それどころか心が温かくなって嬉しいが、それとこれとは話が別だ。
なにより。
「しゃしゃ、シャルフィさん……!?」
「お、正気に戻った?」
「あ、ああ、当たってるぅ……! 当たってるというか、むしろ埋まってるぅ……!」
「そうだよ、だって当ててるんだもの……やん、ちょっとくすぐったい」
ユウの顔は、酷く物理的な理由で真っ青になりつつあり、そして酷く精神的な理由で真っ赤になっていた。
柔らかくて、あったかくて、良い匂いがして。優しく頭を撫でてくれるこの感覚がとても心地よくて。ずっとそうしていてもらいたいのに、このままじゃ社会的および物理的に取り返しのつかないことになると本能が叫んでいる。
つまるところ、シャルフィがやっているのはそういうことだ。それができるほどの
「ほら、そこまで」
「ちぇ。つまんなーい」
ここらへんで十分だろう、と判断したシロフィがシャルフィを引き離す。仕方ないな、という様子を隠そうともせずにシャルフィはユウを腕から放した。
「た、たすかった……! いろんな意味で大変な目にあった……!」
「なんだ、だいぶ余裕そうだな……ユウ、体に異常はないか?」
「なんだろう、すごく言いたいことがあるのに言葉にできないこの感じは」
「……もう一回したいの? もう、甘えんぼなんだから」
「違いますっ!」
ごほん、とユウはわざとらしく咳をしてシロフィのほうにさっと距離を取る。実はシロフィの方も同じようにユウを抱きしめたいと考えていることに、ユウは気づいていなかった。
「じょ、冗談はともかくとして……なんか、記憶があやふやです。みんなと歩いていたと思ったらいつの間にか……それに、なんかすごくいい夢を見ていたような」
「ふむふむ」
「……あと、もしかしたらまだ正気じゃないかも。なんか、霧の向こうにありえないくらいに笑顔のヴォルガルさんが見える……」
「ほほぉ……」
「……って! メルク! メルクは!? それにローフィにユディも……! 明らかに正気じゃない……!」
「大丈夫、ユウくんは正気ね。やっぱり精神的なショックが効果的みたい」
となれば、やることなんて一つである。シャルフィとシロフィは互いに顔を見合わせ、そして未だにフラフラしているローフィとユディを半ば無理やり引っ張り込んだ。
「詳しいことは後で説明するから……ユウくん、ちょっとだけあっち向いててくれる?」
「え?」
「この二人を正気に戻すには、精神的なショックを与えなくっちゃいけないの。それが、その……乙女の尊厳にかかわる、かも?」
「お、乙女の尊厳にかかわる精神的なショック……!?」
──見ていてもいいけど、あとでしこたま怒られるかもよ。
その言葉を聞いたユウは、慌てて後ろを振り向いた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「うう……ひどいめにあったぁ……!」
「だ、大丈夫か? なんかすごい声が聞こえてたけど……」
「おねがぁい……! 聞かなかったことにしてぇ……!」
顔を真っ赤にし、息も絶え絶えになったユディとローフィ。そんな二人に気休め程度に水袋の水を与えて、ユウはつい先ほどまで自らの後方で繰り広げられていたであろう光景のことを忘れ去ることにした。
幸いにして、未だに霧は晴れないものの再び誑かされる気配はない。元々誑かされなかったというシャルフィやシロフィはもちろんのこと、ユウたち三人も今は思考がはっきりとしている。依然として状況はよくなっていないものの、ひとまずは小休止を取れる程度の余裕ができた、と言っていいだろう。
「でも……誑かされただなんて、全然気づかなかった~……」
「うん……いつの間にか、その……た、楽しい夢を見ていたというか。いつから自分がそうなったのか、ホントに全然わからなかった……」
どうやら思っていた以上にモンスメルムの力は強力であったらしい。あるいは、事前情報が間違っていたか、この何十年かの間でモンスメルムが新たなる力を身に着けたか。いずれにせよ、本来は問題ないとされていた人間が成す術もなくその術中にはまってしまったことは、紛れもない事実であった。
「で、さっきもちょっと話したけど……このタイミングで霧が出てきたってことはモンスメルムも近くにいる可能性が高い。だから、”私” とメルクちゃんには先行してもらって、私たちが残ったの」
「なるほど……その、俺たちが正気を失っていたのはどれくらいですか?」
「なに、そこまで長い時間じゃない。今から追いかければ十分に間に合うはずさ」
「でも」
彼女にしては珍しく──ユディが、シャルフィの言葉に食い気味で重ねた。
「追いついたところで……また誑かされたら、結局は意味が無い」
「……」
今回は追跡する人間と残って対処する人間で別れることが出来たからなんとなかった。そして、少々力業でありながらも誑かされた人間を元に戻す方法も見つけることが出来た。
だが、誑かされるのを未然に防げるわけじゃない。そして、その方法は完全に正気に戻すまでに少しばかりの時間を要す。実際にモンスメルムと対峙した場合──あまりにも大きすぎる隙であることは明白だ。
このまま進んでも、元の木阿弥になるだけ。下手をすればもっと酷い状況になりかねない。ユディが言いたいことは、彼女が口に出さずともこの場の全員が悟っていた。
「わからないことが、多すぎるよ……どうしてモンスメルムがこんなことをするのかもそうだし、わたしたちに効かないはずの誑かしが効いちゃうし……。その誑かしも、どこまで、何ができるのかがまるでわからない」
ちら、とユディは霧の向こうに揺らめくヴォルガルの幻影を見つめる。ローフィが正気に戻ってなおその幻影はにこにことほほ笑みながらこちらに手を振っており、どことなく不気味に思えてならない。いくらか体の輪郭がぼやけてきているように見えなくもないが、そうだとしてもまだしばらくは残り続けるだろうと思わる程度のものだ。その間、あの幻影が何かしでかさない保証なんてどこにもない。
「あ、でも……メルクちゃんも、フィネットさんも……シャルフィさんもシロフィさんも誑かされなかったんだよね? っていうことは、モンスメルムも自由に誰かを誑かすってことはできないんじゃないかなあ?」
ぴーん、と何かを閃いたようにローフィが口にする。
「そういえば……どうして、フィネットさんたちは大丈夫だったんだろう?」
瓶詰少女であるメルクはともかくとして、『フィネット』たちだけが無事でいられたことにユウはほんのわずかな引っ掛かりを覚えた。年齢か、性別か、あるいはほかの要素か。残念ながらユウの頭ではそれらしいファクターを見つけることは難しいし、たまたまモンスメルムの限界が四人で、それに選ばれなかっただけだ……と言われてしまえはそれまでだが、しかしどうにもユウにはそれが大事なことのように思えてならなかった。
──意外なことに、そのつぶやきに返事をしたのは当の本人たちであった。
「……それについては、理由になんとなくの目星は付いてる」
「……えっ?」
「でも、それは……知っていてもどうしようもないことなの」
悲しげにも、寂しげにも、儚げにも。いろんな表情が混ざった顔で、【フィネット】たちはいつも通りに笑った。
「──”私”はすでに誑かされているんだよ」
「……それは、どういう意味ですか? フィネットさんは正気だったんですよね? 俺たちを助けてくれたシャルフィさんもシロフィさんも、普通に話せています……よね?」
「……今は、ここまでにしておいてくれるかな? おねえちゃんからの、おねがい」
シャルフィの、心からの言葉。ユウとはっきりと合った彼女の眼には、いつもの悪戯っぽい輝きが無い。切実に気持ちを伝えようとしている、そんな真剣な瞳であった。
「……わかりました」
ユウにはもう、信じることしかできない。いいや、ユウはシャルフィとシロフィを信じたいと思ったのだ。
「ま、そんなわけでさ。どちらかというと私たちは、どうやってモンスメルムを鎮めようかって所で悩んでいるんだよね。癒術が効かないうえに誑かしてくるとなると……もう、どうしたものやら」
「……それについては、実は俺にちょっと考えが」
「……お?」
ぴく、と四対八つの耳が動き、同じく四対八つの目がユウを捉える。まさかここまで注目されると思わなかったユウは一瞬たじろぎ、そして一拍置いてから語りだした。
「モンスメルムの誑かしは精神に、心に作用する。……だからですかね、ちょっと癒術と似ているのか、なんとなくこう……その、気配というか、こう……! なんだろ、上手く言えないんだけど心の感じがあって……!」
「あー、まぁ、なんとなくニュアンスは伝わるよーな……それで、その心の気配がどうしたの?」
「……違ったんですよ」
「……違う?」
「昨日、俺がお昼寝広場でモンスメルムに癒術をかけた時に感じたそれと、なんとなく俺の中に残っている……幻惑を仕掛けてきたそれの感じが、全然違うんです」
言葉にするのは酷く難しい。それでも、あの時癒術をかけた際に無視されたあの心と、幻惑の後遺症か、なんとなく心にモヤモヤと燻っている自分以外の何かの気配の感じは全くもって異なるとユウは断言できた。
「おまけに、その……これもやっぱり、なんとなくの雰囲気でしか話せないんですが」
「──その心は、何か強く助けを求めている? 何かこう、お願いしようとしている?」
「そう、それ! ……って、ユディ?」
これまた意外なことに、ユウの言葉を引き継いだのはユディであった。
「……気のせいだと思ってたの。けど、上手く言葉にできないけどなにか……シンパシーみたいのを感じて。なにかこう、心に自分の気持ち以外の何かが残っているような気がして……」
ユディもまた、ユウが感じたのと同じそれがあるのだという。言葉にするのが酷くもどかしいあの感じは、おそらく体感しているユウとユディだけにしかわからないことだろう。実際、同じように誑かされていたはずのローフィはあまりそういった感じはしないらしく、当然ながら、誑かされていないシャルフィとシロフィにもその気持ちは伝わらない。
「うーん……程度の差こそあれ、よくわからない”何か”があるってことなのかしら……?」
「どうだろうな? ……それよりユウ。結局つまるところ、その気配の違いが何なんだ?
「……気づきませんか? いえ、ヒントはもう一つあるんです。俺もついさっき、気づいたんですけど」
「もうひとつ?」
「あのモンスメルムは、癒術が効かなかった。癒術をかけて語りかけても、心に響かない……まるでこちらのことに気づいていないかのようだった。……
「ま、さか」
──マッスルぅ……!
──ないすばでー……!
──んふふ……!
──……ダメだな、話しかけても全然意味が無い。
ユウは、絞り出すようにして言った。
「モンスメルム