メルクストーリア 【動物の国another ~牛睡の冀望と偶想のおねえちゃん~】   作:ひょうたんふくろう

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第14話 偶想:哀哭と超克

「ねえちゃん……! ねえちゃん……!」

 

「なぁに、ゾランったら。そんな顔して……」

 

 ──しくじった、とフィネットは心の中で自分のことを罵倒した。なんとかゾランに追いつくことはできたものの、結局また、守るべきゾランにこんな悲しそうな顔をさせてしまっている。そのうえ自分は足を負傷してしまい、走るのもままならない。少なくとも、普段通りの動きをすることはかなり難しいだろう。

 

 ゾランを助けることができたのだけが、フィネットの心の慰めになっている。とはいえそんなゾランの肩を借り、這う這うの体でモンスメルムから逃げている現状では、それも大した意味はない。

 

「みゅ……フィネットさん……」

 

「ごめんね、メルクちゃんも……もっとやり方はあったわね」

 

「そんなことないのですよ。あの時のフィネットさんの咄嗟の行動が無ければ、どうなっていたのかわからないのです」

 

「そうかしら? こっちこそ、メルクちゃんが煙幕を使ってくれなかったら今頃は……」

 

 ──あの後。フィネットがゾランを助けた直後、行動したのは他でもないメルクであった。突然のことに身構えるモンスメルムに、ゾランに注意を払いつつもモンスメルムと対峙するフィネット。一瞬生まれた膠着状態に好機を見たメルクは、自らが収まるポジションを利用し、フィネットの懐から煙幕玉を引っ張り出して地面に叩きつけたのである。

 

 結果として、その場は白く濃い煙に包まれた。そして、そのチャンスを逃すほどフィネットは耄碌していない。メルクの突然の行動の意図を一瞬で読み取り、こうして逃げの一手を打ったのである。

 

「でも、ホントにすごい煙だったのですよ。あんなに小さな玉なのに、この霧に負けないくらいに……さすがはシロフィさんなのですよ!」

 

「……ええ、本当にそうね」

 

 件の煙幕玉は、シロフィが事前の準備として用意したものであった。本人曰く、『時間が無かったから、あくまで一瞬注意を逸らす程度のものだと思って』とのことだったが、一瞬どころかこうしてフィネット達が逃げ出せるほどの隙を作り出している。

 

 もちろん、既に十分霧が立ち込めているというこの状況が有利に働いたというのもあるだろう。それでもやっぱり、シロフィのそれが凄いということには変わらない。

 

 それがなんだか、フィネットには堪らなく悔しいようにも、羨ましいようにも思えた。

 

「くそ……! これから一体どうすれば……!」

 

「落ち着いて、ゾラン……そう遠くない場所に、ユウくんたちがいるはず。まずはみんなと合流しないと」

 

「うん……くしゅっ!」

 

「あら……風邪、じゃないわよね」

 

「う……なんかちょっと、冷えてきたからかも」

 

「汗で体が冷えたのかもしれないのです。それに……この霧の中じゃ、嫌でも体を冷やしてしまうのですよ。ただでさえ山は気温の変化が激しいと言いますし」

 

「そうね……ほら、ゾラン。雨具があるからこれを着ましょう? あったかいし、体が濡れるのも防げるわ」

 

「……ありがと、ねーちゃん」

 

 撥水加工がされた毛皮と蓑を組み合わせた、マント状の雨具。旅人御用達の一品で、旅の道具としてはポピュラーなものだ。デザイン面はともかく雨避けと体温を保つ効果があることから、平時もずっとこれを着用している旅人も少なくない。そもそもとして旅人のマントがそういう目的のもので作られているため、雨具とマントの境も結構あやふやだ。

 

「ほら、あったかい」

 

「うん……」

 

 ──準備無しで山を探索するより、少し時間をかけてでも準備をした方が安全で確実だもの。

 

 出発前のシロフィの言葉を思い出し、フィネットは臍を噛む。もしあの言葉が無かったら……あの時、感情のまますぐに追いかけていたら、今こうして体を温めることはできなかっただろう。ゾランはずっと寒い思いをして、下山する体力すら奪われていたに違いない。それはモンスメルム云々を抜きにしても、フィネットとしては絶対にあってはならないことだ。

 

「……そういえば、ゾラン。あなた、おなかは空いてない? 朝ご飯も食べていないでしょう?」

 

「う……だ、大丈夫だよ」

 

「嘘ね」

 

 もう何年も、ゾランのことを見てきたフィネットだ。たとえどんな状況であろうと、ゾランが嘘をついていることくらい簡単に見抜くことが出来る。そうでなくとも、おなかを空かせた弟のことを見抜けないだなんて、それこそ本当におねえちゃん失格である。

 

「あなた、昔から嘘がへたっぴだもの……メルクちゃん、私の懐の所にジャモさんからもらったアレが……」

 

「任せるのですよ!」

 

 ごそごそ、と体を弄られる感覚。思えばこれも、山歩きの際はできるだけ栄養価の高いものを直接身に着けておいた方がいい──という、事前のアドバイスにより携帯したものであったことをフィネットは思い出した。

 

「……ねーちゃん、これは?」

 

「ん。チョコレートって言うの。……そっか、ゾランは見るの初めてかな。あんまりこっちの方には出回ってないから」

 

 メルクから受け取ったチョコレートを、フィネットは二つに折ってゾランの口にくいっと押し込む。途端にぱぁっと輝いたゾランの顔は、やはりまだまだ年相応の子供らしいものであった。

 

 果物の甘さとも、砂糖の甘さとも違うこの特有の底なしの甘さはフィネットでさえも旅に出てから知ったものだ。未知なる甘さに喜んでしまうのもうなずける。きっと自分も初めて食べた時は同じような顔をしていたんだろうな……と、なんとなくフィネットはそう思った。

 

「すっごくおいしい!」

 

「でしょう? ふふふ、お姉ちゃんもこれ、大好きなの」

 

 えいや、とフィネットは残りの一かけらもゾランの口に押し込んだ。ちょっとだけ名残惜しかったので、ほんの僅かばかりチョコの欠片がついた人さし指をぺろりと舐める。

 

 ──やっぱり、甘い。でも、かつて食べた時ほどの甘さではなかった。

 

「え……ねーちゃんの分は?」

 

「いいのよ、おねえちゃんは前に旅をしていた時にいっぱい食べたから。……ゾランこそ、こんなチョコレート一枚程度じゃ足りないでしょう? ……ごめんね」

 

「別に、そんな」

 

「王国とか……南の方の国だと結構扱ってるんだけどね。やっぱりそっちの方が本場のお菓子の国が近いからかな。どうしても地理的に、あっちと動物の国は遠いし……途中の西武の国や砂漠の国は熱いから、持ってくるまでに溶けちゃうのかも」

 

「……」

 

「よく考えると、海路を使っても常夏の国で溶けちゃうか……。植物の国なら材料もありそうだし、職人さんもいるかもしれないけど……本格的なものを食べたいなら、やっぱり砂漠の国を超えた向こうに直接行くしかないのかな? ……いつか、みんなで旅行に行くのもいいかもね」

 

「ねーちゃん……」

 

「そう考えると、ジャモさんってすごいねえ。チョコレートなんて高級品、どうやってここまで持ち込んだんだろう? 案外、ジャモさんの手作りだったりして」

 

 ゾランもメルクも、何て答えればいいのかまるでわからなかった。さっきからフィネットが意図的に明るい話をしようとしているのは明らかだ。それはきっと、この絶望的な状況の中で少しでも気分を紛らわせようとする気遣いだったのだろう。

 

 しかしながら、今のフィネットは明らかに無理をしている。それがどうにも痛々しくて、二人ともかける言葉が見つからないのだ。

 

「……ごめんね」

 

「……ねーちゃんは、悪くない。悪いのは……オレだ」

 

 その言葉を最後に、会話は無くなった。あとはただただ、二人の足音だけが霧の中に響いていく。

 

 一歩、また一歩と進むたびにゾランは自らの無力を呪いたくなった。結局のところフィネットがケガをしているのは他でもないゾラン自身のせいで、今のこの状況も、ゾランが下手に先走らなければ起こらなかったものだ。

 

 自分だけが酷い目に合うのだったらまだよかった。勝手に一人で山に登って、勝手に一人でモンスメルムに返り討ちにされ、酷く惨めで心細い中、この不安で先の見えない霧の中をみすぼらしくさ迷うだけだったらまだよかった。

 

 しかし、現実はフィネットを巻き添えにし、そしてフィネットにこんな思いをさせてしまっている。いつもは明るく優しいフィネットの顔は、責任感と焦りで塗れた辛そうな表情だ。

 

 ほかの人から見れば、いつもとほとんど変わらない笑顔に見えただろう。

 

 だが、ゾランは生まれた時からフィネットのことを見てきたのだ。その笑顔の裏にある感情が、痛いほどに伝わってしまう。こんな時でも自分(フィネット)ではなくゾラン(じぶん)のことを第一に考えてくれていることが嫌でもわかってしまう。

 

 それが、ゾランには堪らなく辛かった。

 

 

 ──ルォ……ォォォ……!

 

 

「──っ!!」

 

 ふいに響いた、聞き覚えのありすぎる叫び声。

 

 ずしん、ずしんとわずかばかり地響きが聞こえたのも、決して気のせいではない。

 

「……来たわね」

 

 間違いなく、モンスメルムだ。やはり、この移動速度では完全に振り切ることはできなかったのだろう。元よりあちらはこの霧吹き山を根城としている以上、地理的に有利なことはもちろん、霧の中で獲物を探す何らかの特性を宿していても不思議ではない。

 

「ど、どど、どうするのですよ……!?」

 

 叫び声も、地響きも。だんだんと大きく、そして間隔も短くなっている。

 

「ねえ、ゾラン」

 

 フィネットは、ゾランの頭を優しくなでた。

 

「おねえちゃんを置いて……メルクちゃんを連れて、逃げなさい」

 

「ねーちゃん!?」

 

「大丈夫よ。これでもおねえちゃんは村守よ? あなたが逃げる時間を稼ぐくらい、問題ないわ……だから、安心して?」

 

「そういう問題じゃないだろ! ねえちゃんを置いて逃げるなんて真似、できるもんかっ!」

 

 モンスメルムから逃げているということも忘れて、ゾランは叫ぶ。そんなゾランを、フィネットはにっこりと笑って抱きしめた。

 

 そして。

 

「──いい加減にしなさい!」

 

 ──パァン。

 

 深い霧に、乾いた高い音が響く。

 

 何をされたかわからない……そんな表情で、ゾランは固まっていた。

 

「わたしを連れていたら、逃げられるものも逃げられないってわかっているでしょう!? わたしがあなたの足かせになっているって、わかっているでしょう!?」

 

「え、あ……」

 

「あなたが無事に戻るためには……わたしがモンスメルムの足止めをするのが最善だって、わかるでしょう!? このままじゃ二人とも、追い付かれてしまうって……わかるでしょう!?」

 

 フィネットの目には、涙が溜まっていた。それが一体どういう理由によるものかなんて、フィネット自身にもわからない。最後に涙を流したのなんてもう何年も前の話だし、こんな子供みたいに感情を爆発させてしまったことだって、今までに一度だって経験が無い。

 

 そして、ゾランの顔を叩いたのも、今までに一度も……これからも、未来永劫あり得ないはずのことであった。

 

「お願い……ホントに、お願いよ……! わたしは、あなただけは無事に戻ってもらいたいの……!」

 

 それはフィネットが初めて見せた、心からの懇願だった。

 

「これ以上、わたし(おねえちゃん)おねえちゃん(わたし)のことを嫌いにさせないで……!」

 

 フィネットは、再びゾランのことを強く抱きしめた。

 

「ごめんね……! 頼りないおねえちゃんでごめんね……! 今までずっと、こんなおねえちゃんに付き合わせちゃってごめんね……!」

 

「ねえ、ちゃん……」

 

「こんなの、おねえちゃん失格よね……何をやっても空回り。もう、昔みたいにあなたに頼られる”お姉ちゃん”じゃいられない……やっぱり、あっちの”私”のほうが……シャルフィやシロフィがお姉ちゃんのほうが、良いわよね……!」

 

 冷静に状況を分析し、的確な助言をしたのはシロフィだ。常に周りに身を配り、みんなのことを考えて決断をしたのはシャルフィだ。

 

 フィネットはいつも、気持ちだけが先走って冷静さを欠いていた。周りのことなんて全然気にせず、自分の気持ちだけを考えて行動してしまった。シャルフィとシロフィという頼れる二人がいたからなんとかここまで来ることが出来たが、もしあの二人がいなかったら……フィネットが指揮を執っていたら、今頃もっと酷い目に合っていたことだろう。

 

 そんな頼りないおねえちゃん(じぶん)に、ゾランが愛想を尽かすのも無理はない。だからせめて、最後におねえちゃんらしいことをしたい。今まで何もかも空回りしてきてしまった自分だけれど、せめておねえちゃんとしてゾランを無事に村に帰したい。

 

「……ける、なよ」

 

 ──そう思っているのは、フィネットだけだった。

 

「──ふざけるなよ! 誰がねーちゃんが頼りないだなんていったんだよ! そんなやつ、オレがぶっとばしてやるっ!」

 

「え……ゾラ、ン?」

 

 今までに見たことが無い程のゾランの瞳の強い光。初めて見るゾランのその表情に、フィネットは一瞬何もかも頭から抜け落ちた。

 

「オレはいつだって、ねーちゃんのことが大好きだ! オレはいつだって、ねーちゃんのことを尊敬している! ねーちゃんはいつもオレたちのことを考えてくれて、いつもオレたちのねーちゃんでいてくれて……! そんなねーちゃんが、大好きじゃないわけないだろう!」

 

 もうすぐそこまでモンスメルムが近づいてきている。それでも、ゾランは止まらなかった。止まるつもりも無かった。

 

「今日だって……オレは、ねーちゃんの役に立ちたいからここに来たんだ! ねーちゃんのために……ねーちゃんに褒めてもらいたいから! ねーちゃんに頑張ったねって頭を撫でてもらいたいから! だから、オレはあのモンスメルムにも立ち向かおうと思えたんだ!」

 

「ゾラン……!」

 

「だから……!」

 

 ゾランは、フィネットのことを強く抱きしめた。

 

「そんなねーちゃんのことを……! オレの大好きなねーちゃんを悲しませる奴は、たとえねーちゃんでも許さない!」

 

 

「ルォォォォ!」

 

 

 そして、モンスメルムが霧の向こうより現れた。未だ興奮状態にあるらしく、その長い鼻先から漏れる息はびゅうびゅうと嵐のように猛っている。完全にフィネット達のことを補足していて、とてもただで見逃してもらえるような雰囲気ではない。

 

 無謀とわかっていても戦うか。

 無茶とわかっていても逃げるか。

 

 あるいは、都合よく誰かが助けてくれることを希うか。

 

 決断したのは──ゾランであり、そしてゾランはそのどれもを選ばなかった。

 

「ねーちゃん」

 

「きゃっ!?」

 

「みゅっ!?」

 

 特に表情を変えることもなく、ゾランはフィネットを持ち上げた。担ぎ上げたと言ってもいい。フィネットの膝を押さえ、尻の所を腕で支えるように。咄嗟にバランスを取ろうとしたフィネットは、ちょうどゾランの頭にしなだれかかるような体勢になっている。

 

 傍から見れば、ちょうど──パパが娘を抱っこしているような、そんな感じ。体格差のせいでバランスが酷く悪いように見えるが、ゾランの足腰は驚くほどの安定性を見せていた。

 

「あ、あなた……だいじょうぶ? 重くない?」

 

「普段運んでいるねーちゃんの水甕のほうが、よっぽど重くて持ちにくい。……ねーちゃん、もっと食べたほうがいいと思う」

 

 ふう、とゾランは息を吐いた。

 

「メルク。悪いけど、俺の代わりに目になって。そこならよく見えるよね?」

 

「ぞ、ゾランさん……? ま、まさか……!」

 

「──任せたよ(・・・・・)

 

 物理的に見えないはずなのに、メルクにはその時のゾランの表情がはっきりとわかった。

 

「普通に戦っても勝てない。普通に逃げても追いつかれる。なら……」

 

 

「ルォォォォォォッ!」

 

 

 モンスメルムが絶叫を上げ、霧を裂く鋭い音が響く。

 

 ──ほぼ反射的に、フィネットは矢を弓に番えていた。

 

「戦いながら、逃げればいい!」

 

 矢が空気を切り裂く音。

 驚愕に身を震わしたモンスメルムの声。

 触手が大地を打つ音──の寸前に聞こえた、何かが大地を蹴った力強い音。

 

「オレは絶対に……ねーちゃんを助ける!」

 

 フィネットを抱え、ゾランは駆けだした。

 

 

▲▽▲▽▲▽▲▽

 

 

「右! 少し遅れて左!」

 

「おう!」

 

「一拍置いてまた左! ……やっぱりジャンプ!」

 

「任せろ!」

 

「右右左左上下上下大ジャンプ、なのですよーっ!」

 

 頭上から聞こえてくるメルクの言葉を信じて、ゾランは霧の中をかける。後ろからはモンスメルムの巨体が追いかけてくる地響きにも似た音と、モンスメルムの根が空気を切り裂く音が聞こえてくるが気にしない。いや、無理やり気にしないように自分に言い聞かせ、ゾランはただ走ることだけに集中した。

 

 ほんの少しでも気を抜けば、きっとあっという間にゾランは抱えているフィネットもろとも根っこの一撃を食らってしまうだろう。今もまた、メルクの声で何とかモンスメルムのそれを避けられたものの、それも結構ギリギリだ。

 

 メルクが気づいて、声を出して、ゾランがそれに反応して……と、どうしたって反応が遅れてしまうのはしょうがない。だからせめて、なるべくその反応を研ぎ澄ますことでゾランは後ろから迫ってくる見えない脅威に対抗しようとした。

 

「右! 右!」

 

「くっ……!」

 

「ひ……左! 右と左が一緒に来るのですよーっ!」

 

 それでもやっぱり、何回かに一度は対応できないそれが来る。

 

 そんな時は。

 

「左よ、ゾラン! 左に行って!」

 

 ぎゅうっと顔を強く抱きしめられる。布越しに伝わる柔らかい感覚。直後に耳が捕らえたのは、一瞬で限界まで引き絞られた弦が空を切り裂く、力強くもたくましい音だった。

 

「おう!」

 

 迷わず左に進路を変える。後ろの方から何かがぶつかる音が聞こえた。進むはずだった右の方には根っこが叩きつけられ、地面が捲れて泥が飛び散った。

 

 ──髪がほんの数本巻き込まれたことを、ゾランは本当に考えないことにした。

 

「や……やったのです! フィネットさんが左のやつを撃ち落としたのですよ!」

 

「いいえ! 撃ち落としたんじゃなくて、あくまでひるませただけ! モンスメルムの動きは……止まらない!」

 

 それでもゾランには十分だ。こうして今この瞬間も、確実に距離を稼ぐことが出来ている。少々危なっかしいとはいえ、何とか無事に逃げ続けることが出来ている。

 

 ──ゾランが考えた作戦は、いたってシンプルだ。

 

 この中で一番力が強くて足が速いのは自分で、そしてただ逃げるだけではモンスメルムに追いつかれてしまう。

 

 だから、ゾランがフィネットを担いで走り、フィネットには後ろから迫るモンスメルムの相手をしてもらう。フィネットには根っこや鼻の撃退だけに集中してもらい、自分は前を見て走ることだけに集中する。フィネットに抱き着かれている分視界は狭まるが、そこはメルクに代わりになってもらう。フリーのメルクに状況把握と指示出しをしてもらえれば、逃げながら戦うことも不可能ではなかった。

 

「行けるのですよ! これならきっと行けるのですよ……右ーっ! 右からの薙ぎ払いなのですよーっ!」

 

「うぉぉぉぉっ!」

 

 メルクの指示に合わせて、ゾランは思いっきり大地を踏みしめ、そして跳躍する。ワンテンポ遅れて足と地面の間の中空を、速さ重視で振るわれたのであろう一撃が過ぎ去っていった。

 

 どん、と足腰に伝わる衝撃をしっかりと受け止め、ゾランは再び大地を蹴った。

 

「ルォォォォォッ!!」

 

「しつこいわね……!」

 

 走って走って、時折跳んで。何か重たく大きいものが唸る音と、引き絞られた弦の乾いた音。いろんな音が後ろから聞こえてきて思わず振り向きそうになってしまうが、しかしゾランは前だけを見続ける。

 

 きっと、振り返ったらさぞや愉快な光景が広がっていることだろう。村のチビたちが見たら腰を抜かしてしまうような大迫力の激戦が繰り広げられているに違いない。通ってきた道なんてもう、見るも無残なことになっているはずだ。

 

「ねーちゃん、前方急カーブ!」

 

「っ!」

 

「みゅわーっ!?」

 

 全身の筋肉をフルに使い、身体の制動をかけつつもゾランは大きく進路を変える。遠心力で倒れそうになる体を足の踏ん張りで支え、暴れる重心を根性で押しとどめる。振り下ろされまいと一層強くしがみついたフィネットのせいで呼吸が少々苦しいが、今はそれすら心地よい。

 

「うおおぉぁぁぁ!」

 

「ルァッ!?」

 

 体中が悲鳴を上げながらも、ゾランはそのカーブを曲がって見せた。咄嗟のことで対処しきれなかったであろうモンスメルムは、音から推測するに曲がり切れずに激突したらしい。

 

「ルォォ……!」

 

「タフね……!」

 

 ここまで走って、矢の攻撃を受けて、そして曲がり切れずに激突して。これだけやってなお、モンスメルムはケロリとしている。モンスターの体力は人のそれとは比べ物にならないとはいえ、いったいどこからそれだけの気力がわいてくるのか、ゾランには不思議でならなかった。

 

「……くっ!?」

 

「ゾラン!? あなた、どうしたの!?」

 

 足に限界が来ている、とはゾランは口が裂けても言えなかった。

 

 元々、ただでさえ疲労困憊で倒れかけていたところだったのだ。チョコレート一枚とわずかな休息で体力が回復しきるはずもなく、そのうえでフィネットを抱えての全力疾走。極めつけに無理な急カーブを乗り切ったとあれば、むしろここまでよくぞ持ちこたえたと称賛されるべきところだろう。

 

「だいじょぶ……ちょっと、ふらついただけ!」

 

「全然大丈夫じゃないでしょう! あなた、ただでさえ山道は足元が不安定なのに……!」

 

 それでもゾランは走り続けなくてはならない。走って走って、限界まで足掻き続けなくてはならない。

 

 そうでなければ、この勘違いも甚だしい姉が余計に自分のことを責めてしまう。それだけは、絶対にあり得てはならないことだった。

 

「ルォ……オォ……!」

 

「……!」

 

 もう一度走り出そうとして、ゾランは気づいた。

 

 霧の中をがむしゃらに走っていたので気づかなかったが──よく見れば、ここは行き止まりだ。山肌というか、崖というか。よく考えなくとも、急カーブのそれ──モンスメルムが壁に激突したことを考えれば、地理的におかしくはない。

 

「ゾラン、あなたやっぱりもう無理でしょう……! もう十分よ、だからわたしをここで降ろして!」

 

「……わかった。よくわかったよ」

 

 その言葉を受け入れ、ゾランは優しくフィネットを下ろした。

 

 ただし。

 

「メルク」

 

「みゅ? ……!」

 

 ゾランの言いたいことは、メルクに余すところなく伝わった。

 

「フィネットさん……ええい!」

 

「いったぁ!?」

 

 メルクは乙女の全力をもって、フィネットの晒されてる胸の素肌をぎゅっと抓った。

 

「な、なな、なにするの……っ!?」

 

 真っ赤になって胸を押さえるフィネットを見上げ、そしてメルクは偉そうに胸を張る。

 

「今のフィネットさんは誑かされているだけなのですよ!」 

 

「そういうこと。オレの知ってるねーちゃんなら、こういう時……たった一人でも犠牲になるようなことは言わない。必ず絶対、みんなが無事に何とかなる方法を教えてくれる。さっきの変な勘違いも、今のおかしな言葉も……うん、きっと今のねーちゃんはモンスメルムに誑かされているんだ」

 

「あ、あなた何を言って……」

 

「だから」

 

 モンスメルムを意志の籠った瞳で睨みつけ、そしてゾランは大剣を正眼に構えた。

 

 それを迎え撃つように、モンスメルムもその巨体をゆらりと震わす。

 

「ねーちゃんが元に戻るまで、オレが時間を稼ぐ。オレとねーちゃんとメルクが……この場にいる全員が何とか無事にやり過ごす方法をねーちゃんが思いつくまで、オレがモンスメルムと戦う」

 

「……っ!」

 

 ふいに、フィネットは嬉しいようにも悲しいようにも、あるいはその両方が同時に襲ってきたかのような不思議な気持ちになった。それがどういう気持ちなのか、フィネットにはまるでわからない。

 

 ただ、なぜか。

 

 なぜか、見慣れているはずのゾランの小さな背中が、やたらと大きく感じられたのだ。

 

「ローフィが言ってた。難しく考えるより、まずはできることをやるべき……行動するべきだって。正直、オレはまだまだ子供で、そもそもとして考えるってことが下手くそで、一人じゃ何もできないけど……でも、何をするべきか、どうしたいのかは……今なら、わかる」

 

 そういえばさっき抱き着いた時の感覚が、昔と全然違ったな──と、フィネットはこんな事態なのにそんなことを思った。

 

「オレは……ねーちゃんを、みんなを守れる村守になるんだ! 一人でじゃなくて、みんなで(・・・・)みんなを守れる村守になるんだ! そのためなら、どんなことだってやってやる! ねーちゃんがきっとうまい方法を考えてくれるって、オレは信じてる! そのための時間だって、絶対に稼いで見せる! だから──」

 

 ゾランはこの霧吹き山全体に響くかのように、大きな声で叫んだ。

 

「ねーちゃんも、オレを信じてくれ!」

 

 

 

 

 

 

「よく言ったゾランッッ!!」

 

「それでこそ、私たちの知ってるお兄ちゃん(ゾラン)ね!」

 

 

 

 

 

 

 霧に高らかに響く声。

 

 それは、ゾランが最も待ち望んでいた人と全く同じ声。自信と優しさに満ち、自らの背中を暖かく押してくれるような、包容力に溢れた声。

 

 それはいつもと変わらない、フィネットの声。だけどそれは、ゾランにはいつもとちょっと違って聞こえた。

 

「そうだ信じろ! 頼れ! ”おねえちゃん(わたし)”はいつだって、傍にいる!」

 

「一人じゃない! 頼っていい! ”おねえちゃん(わたし)”の周りには、こんなにも素敵な子がいるんだもの!」

 

「ルァァァァッ!?」

 

 閃く銀閃。轟く轟音。文字通り霧を裂いて投げられたナイフがモンスメルムを怯ませ、そこに畳みかけるように爆撃が決まる。その衝撃はモンスメルムの視界を眩ませ、一瞬とはいえその場の霧を払った。 

 

「あ、あ……!」

 

「よくやったな、ゾラン!」

 

「”私”を守ってくれて、本当にありがとね!」

 

 霧の向こうから現れた二人のフィネットが、いつもと全く同じ顔でゾランの頭をなでる。その傍らにはユウもユディもローフィもいた。

 

「メルク、フィネットさんにゾランも……! よかった、みんな無事だったか……!」

 

「みゅ~! ユウさん、会いたかったのですよ~!」

 

「フィー姉もゾランも、よかったぁ~……!」

 

 さりげない動作でローフィがメルクをフィネットの胸元から引っこ抜き、そしてユウに手渡す。いつも通りの定位置に戻ったメルクは、自分でも気づかないほどに安心しきった笑みをこぼしていた。

 

「さて……いろいろ言いたことはあるけれど……」

 

「立てよ、”私”。お説教の前に、目の前の問題を片付けなくっちゃあね」

 

「え、ええ……!?」

 

 いたずらっぽく笑った二人のフィネットが、ぺたりとへたり込んでいたフィネットを立ち上がらせる。

 

 そして、モンスメルムに向かって武器を構えた。

 

 

ゾラン(おとうと)が成長したカッコいいところを見せてくれたんだもの」

 

おねえちゃん(わたしたち)も、勘違いしているわたし(あなた)を導かないとね!」

 

 

 モンスメルムの遠吠えが響く。

 

 ──霧吹き山の最後の戦いが、始まった。

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