序章.01
彼女は中学から帰るとすぐ、自分の家よりも先にお隣りの家に行くのが日課だった。
その日も玄関の前に立ち、胸ポケットから鍵を取り出して開けようとして――鍵が開けられているのに気づき、口元を綻ばせた。
そして。
「ただいまぁー!」
勢いよく開け、大きな声で言った。
返事はない。
彼女は三和間に見慣れている靴があるのを確認すると、そのまま靴を脱いで上がりこむ。
どんどんと音を立てて廊下を突き進む。
赤みがかった長い金髪が、歩くたびに揺れる。
「お兄ちゃん! いるんでしょ? 帰ってるんでしょ! 返事してよ! わたしだよ!」
叫びながら、歩く。
歩く。
歩く。
何処にいるのか見当はついているのに、確信してもいるのに。
「お兄ちゃん!」
呼びかける。
歩く。
歩く。
歩く。
奥まった部屋の扉の前で、立ち止まった。
「お兄ちゃん! いるんでしょ?」
「ああ」
ようやく、声が返った。聞くからに倦怠感に満ちた、声。
「帰っている」
「入るよ! 入るからね!」
返答を待たずに、彼女は扉を開き、中へと入った。
目的の人物は、寝そべってテレビを見ていた。耳からそこにつながっている白い線がある。イヤホン。どうやらこれのせいで自分の声が聞こえなかったらしい――ということについては、「どうせこんなことだろう」とか思っていたので、何の感慨も覚えない。画面の中では胸に桜の代紋をつけた人型ロボットが活躍……している。多分。飛行船の底にしがみついて歩道橋を飛び越えているだけだが。
「……まあた、こんな昼間っから漫画なんて見てるぅ」
「……そこそこ面白いぞ」
彼はあぐらをかいてから、リモコンを使ってビデオの再生を停止した。
「大体、人が何を見ても勝手だろ?」
「TV漫画なんて、いい大人の見るものじゃないわよ」
「……アニメと言え、アニメと。それにこれはOVAだ。オリジナル・ビデオ・アニメ。TVでもない」
酷く真剣な面持ちで言う。
しかし、彼女は「はんっ」とせせら笑う。
「同じことよ!」
(全然違うってのに……)
しかし、彼としてもそれ以上あれこれ言うつもりはなかった。興味のない人間に自分の趣味を押し付けるのはあまりよくないと思っていたし、そもそもからして、この少女以外の誰であろうとも理解してもらおうなどと言う気がないのである。アニメ鑑賞は、彼にとっては息抜きなのだ。とりあえず邪魔さえされなければそれでいい……。
いや、邪魔されてるけど。
「とにかく!」
彼女は腰に手を当てて言う。
「晩御飯の用意するから、買い物いってきてよ」
「……あり合わせのモノで構わんが……」
「お兄ちゃんなかなか帰ってこないのよ。冷蔵庫に入れてあったって腐らせるだけだから、その都度買ってきてるの」
それを言われると頭が上がらない。言われなくても上がらないのだが。
「今日は時間なかったから、買い物にいけなかったの」
「すまん……」
「どうせ洗濯物とかも洗ってないんでしょ? お皿も洗ってないだろうし、掃除もしてないだろうし。そういうのもしておきたいから、その間にちゃっちゃっと買ってきて」
彼は溜め息を吐き、立ち上がった。
「解ったよ、キョウコ」
よろしい、と彼女は笑った。
惣流キョウコは中学生である。
正式なフルネームは惣流キョウコ・ツェッペリン。
神奈川県小田原市の惣流医院の娘だ。
惣流医院は古くは某藩の御典医を務めていた惣流家によって経営されている歴史ある病院で、キョウコもいずれ婿をとるなりしてその跡を継ぐものと目されていたりする。だが、当人はというとそういう将来には興味がないというか、考えようとしていないのか、毎日のようにお隣りの一軒屋にすむ青年の元で飯を作ったり洗濯物を洗ったりで、ほとんど通い妻みたいだった。
「だってさ、お兄ちゃんってばあたしがいないと、なんにもできないもの」
どうしてそういうことするの? ――とか聞けば、恐らくそんなことを言ったに違いない。
それが客観的にも事実であるかといえば、必ずしもそうではない。
確かにキョウコの視界にいる限りでは、青年はアニメが好きでコミックも好きで小説も好きで映画も好きでアイドルも好きで……つまりまあ、どこにでもいる駄目な若者であったりするのだが、ちゃんと就職もしているし、週のほとんどを会社の出張でどこかに行っているのだから、一人でも生活はできるのである。
が。
そんなことは、キョウコにとってはどうでもいいことであった。
自分にとって、この兄とも慕う青年がいつまでも手を焼かせてくれる困ったさんであることを望んですらいる。
まあ、つまりはそういうことだ。
青年が持ち帰った鞄の中から、袋に詰められた下着とかシャツとかを取り出したりしながら、彼女は思うのだ。
こんな日々がずっと続けばいいと……。
「――いや、やっぱり家でいて欲しいのよね」
黒い上着を広げると、微かにも裂け目があった。背中の左下。前に出た時には確かになかった。恐らくは刃物か何かによってつけられた傷。
(血の匂いはしない……かすっただけね……)
キョウコは溜め息を吐き、上着を膝の上でくしゃりと丸める。
「いつも呑気そうにしているけど……やっぱまだ、危ないことをしてるのね……」
青年の仕事が何であるのか、具体的に聞いたことはない。
会社名は知っているし、そこが元は出版社で、香港に本部を置いて日本との貿易で利益をあげているということも知っている。しかしそこで青年は何をしているのか、それがまったく解らない。
少なくとも、本の売り買いで刃物で襲われたりすることはないと思うのだが――。
(どれだけ収入いいのか知らないけど、命に換えるほどじゃないはずよね……帰ってきたら、また説得してみよ。手遅れにならないうちにやめさせないとね)
キョウコは改めて決意して、鞄の中からまた荷物を取り出した。
「? なにこれ?」
それは『真週刊少年』というタイトルの、雑誌だった。
なんとはなしにぱらぱらとめくる。
「――ああ、これ海賊版だ」
キョウコは即座に見当をつけた。
香港や台湾では、日本の漫画が無断で転写されて単行本になったりしているというのは、割と知られている。そういうのは一括して「海賊版」と言われているのだ。キョウコが手に持つ『真週刊少年』は、その中でもジ○ンプ、マガ○ン、サ○デー、チャン○オンと言った週刊誌の人気作ばかりを寄せて集めて一冊の雑誌にしたという、なんだか豪華といえば豪華な代物だった。
「あー、ドラ●ンボールとら○まが一緒に載ってる」
他にも原宿こぶ●組とかコー○ローまかりとおるとか。
ある意味で夢のような雑誌である。
当然、フキダシの中身は広東語か何かで、キョウコにはちょっと読めない。それでも漢字で大体のニュアンスは通じるし、そもそも日本語版を先に読んでいるのだ。内容の見当はつくのである。
(あれ……だけど)
ぱらぱらと確認していたキョウコは、しかしあることに気づき、目を細めた。そして最初からめくり直す。
「……これ、今週号だ」
そう。
『真週刊少年』に載っている作品は、全て今週中に発売して彼女が立ち読みした内容だった。
医者の娘が本屋で立ち読みというのもどうかと思うが、キョウコは雑誌を買わない主義なのだ。欲しい漫画は単行本で新刊に買う。雑誌は内容を確認するだけにしていた。
(どうなってるんだろ……)
雑誌が作られるのは、発売するよりもかなり早くにしなければならない。当たり前である。作家から原稿を集めただけでは作業は終わらない。編集やら校正やら何やら――もうとにかくやらなければならないことはいっぱいあるのだ。それを考えれば、この『真週刊少年』は、発売するよりもかなり早く原稿を手に入れない限り、オリジナルと同じ週に発売などはできないのだ。ただコピーして台詞を訳するだけでは、到底このような仕様にすることは不可能なのである。
「一体、どんなことしたら、こんなこと――」
「それは企業秘密アルね」
「――――――――――――誰!?」
突然、背中の方から聞こえた声に、キョウコは振り向き――硬直した。
悲鳴をあげなかったのが不思議だった。
それともあるいは、人間、あまりにも常軌を逸したモノを見ると、それだけで言葉を失ってしまうものなのか。
そこには。
太った中国人がいた。
趣味の悪い紫のパオなんか着ている。
年の頃は四十過ぎくらい――としか解らない。
丸顔に泥鰌髭なんぞ生やしている。
そんなのが、彼女がいる居間の入り口に立っていたのだ。
「私、謎の中国人」
自分から謎という人間は珍しい。少なくとも、キョウコは初めて見た。
「楊大人アルね」
謎と言っておきながらすぐに名乗る人間は、さらに珍しいのではないか。
キョウコは美少女にあるまじきことにあんぐりと口を開いて、自称“謎の中国人”を呆然と眺めていた。
やがて五秒ほど経過して――。
「その、謎の中国人が何の用よ!?」
かろうじてそう叫ぶ声を絞り出す。気丈なものだ。
「大体、あんた土足じゃない!? 日本では日本らしく、ちゃんと靴を脱いであがるのが礼儀ってものでしょ! 中国は礼節の国じゃなかったの!」
……なんだかトンチンカンなことまで言ってしまっていた。いや、言っていることには全然間違いはないのだが、状況の異常さを考えれば、まともなことを言えば言うほど外れてしまうような気さえする。
「問題ないね。私、中国五千年続く悪の家系よ。礼節は、とりあえず幇や黒社会の仲間だけで守ればいいね」
(悪の家系って……)
キョウコは思った。
(この人、緑の救急車のある病院から抜け出してきたの!?)
――まあ、普通はそう考えるだろう。
しかし、その考えは改めざるを得なかった。
楊大人の後ろに、いつの間にか三人の男が現れていたからだ。やたらとガタイがよく、黒い功夫スーツを着込んでいる。
……怪しさ大爆発だ。
その三人は、恭しく楊大人の前で膝なんかついて報告した。
「――屋敷内には、他に誰もいませんでした」
「そうか」
なんでか日本語でやりとりする。
キョウコは唐突に始まった不条理というか非日常的展開に、全く言葉もない。
「しかし、ここは確かに妖撃社の日本支社なのか? いたのはこの少女一人だけ――確か道士のLongには若い妹がいたと聞くが」
言ってから、楊大人はキョウコに向き直る。
「……念のため聞くアルが、あなた、名前は?」
そう聞かれて、この状態で答えられるはずがない。
ばずがなかったが――
楊大人は、糸のような細い目で覗き込んだ。
それは、
「呑む眼」だ。
心底まで覗きこみ、魂の奥に隠し持っている何かまで暴き立て、そしてその「何か」も「魂」も「心」までをも諸共に呑みこむ「眼」。
一介の女子中学生に抗えるはずもない。
「惣流キョウコ・ツェッペリン」
気がつけば、キョウコはそう名乗っていた。
口が勝手に動いた、そんな感じだった。
楊大人は「そうりゅう……」などと口の中でもごもごと言っていたが、やがてうんうんと何度も頷く。
「つまり――日本の妖撃社のスタッフあるか?」
違う……と口にする前に、「妖撃社」と言う名前が引っかかった。
聞いた覚えがある。
その会社の名前は確か。
「知らないアルか? 香港に本社がある出版社よ。それは表向きで、実際は妖怪退治から用心棒、同人誌の出版編集まで請け負う何でも屋アルよ」
「――貿易とかはやってないの!?」
「あ、そんなのもしてるみたいアルね」
(やっぱり――)
間違いない。
「お兄ちゃん」が就職している会社だ。
この時にキョウコがどういう顔をしたのかは自分では解らなかったが、楊大人は細い目をさらに細め、口元を微かに歪めた。
「ご存知ないとは意外アルが――ま、多少の関わりはあるようだし、人質にでもなってもらうね」
「――――!?」
「我が心の師・蒋介石も言っている。『まず敵の弱みを握れ』とね。Liufenyeがどういう男かは今一つ解らないが、若い娘を見捨てるなんてのはまずしないだろうしね。そうさせてもらうよ……あ、助け呼んだり逃げたりしたら、すぐ殺すよ。私が連れてきた部下達、香港黒社会の武林でも、選りすぐりの武術の高手アルよ。李小龍だって一分で殺せる。あなたみたいな少女なら、二秒もかからないね」
「……………………」
ふざけた口調で、恐ろしげなことを言ってくれる。
キョウコは、知らず青年の黒い上着を胸に抱きしめていた。
ぎゅっと。
力いっぱい。
楊大人は「ふむ」と呟き、
「ところで大事なことだけど、Liufenyeは何処にいっているね? そしていつ帰ってくるね?」
それが誰の名前なのか、キョウコには解らなかった。
あるいは、理解するのを精神が拒否していたのかも知れない。
「知らない? Liufenye――我らに楯突く『妖撃社』で唯一の日本人にして、随一の使い手よ」
(りゅうふぇん……)
中国語だとは解った。
果たしてどういう字を当てるのか――考えかけた時、楊大人はキョウコの背筋が凍りつく言葉を口にした。
「SEELE」
ゼーレ。
遠い昔に聞いた言葉。
炎の中で聞いた言葉。
忘れたかった言葉。
『仇とろうなんて、思うなよ……』
老人の、言葉。
まさか――と思った。
(まさか……お兄ちゃんが……)
「……の主流からはずされて久しいとは言え、我らも誇り高き――どうしたね?」
キョウコの表情の動きを見て、訝る。
「何か、思い出したのアルか?」
(う……………)
深みの増した「声」。
顎が震えた。
言いたくないのに。
言いたくなんかないのに。
喉の奥から、腹の底から、吐き出してしまいたいという衝動が起こっている。このまま全てを吐露してしまえば、自分は楽になれると解っている。怖くなんかない。言ってしまえいってしまえいってしまえ……。
それらの全てを噛み潰したキョウコは。
若者が、廊下で突っ立っているのを見た。
「ゲン兄!」
キョウコはそう叫んだ。
それは昔の呼び方だ。
ずっと昔、お兄ちゃんがぐずっている自分の手を引いて街を歩いていた頃に、そう呼んでいた。
屈託なく笑い、自分の頭を撫でてくれていた頃の。
黒い男達の向こうで、若者が困ったように彼女を見ている。
わがまま言った時、いつもあんな顔をしていた。
何かを、口にした。
そこから言葉が紡ぎ出されていたとしても、キョウコの耳には届かなかった。
三人の功夫は、弾けるように動いていた。
狭い廊下で若者に挑む。
恐るべき速度で殺到する。
彼女の目には、突如巻き起こった黒い風が、若者の姿を呑み込んだかのように見えた。
一瞬。
消えたのだ。
何が起こったのか、キョウコには解らなかった。
もしかしたら、誰にも解らなかったのかも知れない。
気づいた時、若者は楊大人の前に立っていた。
廊下で、三人の功夫は振り向く。
まるでキョウコを若者から庇うかのような位置に立っている楊大人が、両手を構えている。
言った。
「――Liufenye」
黒いシャツと黒いジーンズの若者は、無言でもってそれに応えた。
キョウコを見ている。
楊大人は、言葉を継いだ。
「今、何をしたアルか?」
「………大したことではない」
若者の、声は限りなく低く抑えられていた。声以外の何かを抑えつけた声だった。
それは「怒り」か。
それとも。
「今、SEELEと言ったな」
答えを、あるいは楊大人は用意していたのかも知れない。
それが出される前に、功夫は再び動いていた。
一人だけ。
広げた掌を頭上に振りかざした。
滑るように床を移動し、若者に接近している。
キョウコは、こんな動きをした人間を初めて見た。
瞬く内に接近して打ち下ろされた手刀を、しかし若者は旋回して避けた。
功夫も。
背中の方に体を捌くのを予想していたのか。
強い踏み込みで身体の流れるベクトルを変更し、半身を振り回すように肩をぶつけた。
弾けた。
2メートルは離れた壁にまで、若者は飛ばされた。
キョウコが悲鳴を洩らさなかったのは、その光景があまりにも現実離れしていたからか――
若者は、顔色一つ変えてなかった。
「活歩――八極拳か」
そう口にさえする。
楊大人が眉をひそめてその言葉に応えようとした時、功夫はその場に膝から崩れた。
意識が無いのは、誰の目から見ても明らかであった。
(お兄ちゃん……!?)
キョウコには、それをやったのが「お兄ちゃん」とだけ解った。
それ以外は全く解らなかった。
あるいは、楊大人にも。
「貴様、今のは自分から飛んだね!?」
詰問の叫びを受けて、若者はなお平然としている。
楊大人の「呑む」眼差しを受けて平然としている。
「――そうだ」
とだけ言った。
表情はまるで動かない。
「Liufenye――この国では、“六分儀”と言ったか……こうして技を直接見るのは初めてアルが、大したものね。彼らは香港でも知られた職業殺手よ。一人でも倒すのは容易ではないアル」
「………………………そうか」
若者――Liufenye――六分儀は、静かに半歩だけ踏み込んだ。
残りの二人が動いたのは、その時だった。
一人が滑るように踏み込み。
一人が床を蹴って跳躍した。
半身を投げ出すかのような肘打ちと。
竜巻にも似た飛び廻し蹴り。
ゆらり、と六分儀は動いた。
肘打ちを体の捌きで回避し、飛び廻し蹴りを腰を落として外す。
続いての中段の突きと下段の足払いは。
途中で停止した。
六分儀の姿は消えていた。
いつのまにか――二人の功夫の壁を出し抜いてしまっていた。
それは、黒い風になったかの如く。
ふわり、と再び楊大人の前に降り立った。
誰も言葉もない。
キョウコも。
功夫達も。
楊大人は。
「私、色んな武術を見たアルよ……太極、形意、八卦の内家三門だけではなく、少林門、詠春門、六合門、蟷螂門、通背門……色々とね……」
六分儀は、微かに目を細めた。
「しかし、貴様の使う技は、どれとも違う……八卦に似てなくもないが、違う。似て非なるその術は、武術ではなく、むしろ――」
「Xuantao」
言葉に、楊大人は困惑した。
それはこの若者の、六分儀の名前のことではなかったか。
もう一度、言った。
日本語で。
「――玄道だ」