玄とは自然の始祖、万物の生まれいずる大本である。
ぼんやりと暗く見えるほどに深い。
だから「微」と呼ばれる。
ぼおっと霞むほどに遠い。
だから「妙」と呼ばれる。
葛洪の著わした仙道書『抱朴子』の巻一、帳玄の中にある一節である。
玄と言うのは、色で言えば黒のことである。『老子』では、天地以前の実在の意味に使われている。
玄を知り、己のものにすることによって、永遠の生命も、天界に身を遊ばせることも可能になるという。
玄道、即ち仙道のことである。
○●○●○●○●○●○●
五つの時だった。
惣流キョウコ・ツェッペリンの記憶は二歳の時には始まっており、幼稚園に入った頃にはそれなりの自我らしきものを獲得するに至っていた。少なくとも周りの幼稚園児達と自分とは違うのだと意識していた。もっともはっきり言えば、自分の方が優秀で特別な人間だと思っていた。それが幼少期には誰もが持つ、稚気故えの傲慢さのためだけではなく、生来の知能の高さと彼女がドイツ人とのハーフであることからくる容姿の違いが、否応もなくそうと認識させることになったのである。
そう。
彼女は違っていた。
特に、幼稚園でいては。
誰とも違っていた。
それは、ちょっと考えただけでも問題がある状況といわざるを得ない。日本人はただでさえ自分らと異質のモノを排除したがる傾向があるというのに、キョウコは見た目からして日本人離れしており、彼女の同窓の幼児達の精神は未熟で稚拙で――残酷でさえあった。
無邪気なのである。
自分がやっていることが悪いことだという認識がない。
自分がそれをされてしまった時のことなど、想像することもできない。
だから、ひどいイジメをする。
一例を挙げるならば、上履きのなかに鼠の死体を入れたり、弁当の中身を捨てて汚物を入れたり――と言ったようなことだ。
思い出したくもないような、そんな屈辱的な日々の中で、彼女が「他人と違う」ということについて劣等感を覚えたのは当然だったと言える。そうしてそれは、同時に強烈な自尊心も育むこととなった。両者は同一とは言わなくても表裏を為すものであり、客観的にも高い知能は、自分を迫害する者達を侮蔑の対象とすることになんの躊躇も覚えなかったのである。
そんなキョウコにとってのささやかな喜びは、いつも帰りの時になったら“お隣りのお兄ちゃん”で「ゲン兄」こと、六分儀ゲンドウが迎えにきてくれることだった。
後々で考えたら、ちゃんと両親が揃っている上にお手伝いさんまでも雇っている惣流家で、どういう意図をもって近所に住んでいるというだけの中学生を迎えにこさせていたのかは疑問なのだが――当時のキョウコにはそんなことはどうでもいいことだった。
とにかく、来てくれるだけで充分だったのだ。
十四歳だったゲンドウは、キョウコを自分の自転車の後ろに乗せて家まで連れて帰ってくれた。落ちないようにベルトなんかで固定して。
風がここちよかった。
幼い手で少年の制服を掴み、頬を背中に押し付ける。
微かに汗の匂いがした。
後ろに流れていく背景を眺めながら、キョウコは少年に他愛もないことを話し掛けたりした。
“ねえ、げんにい、きょうはね、おゆうぎで『おかいものごっこ』をやらされたよ。だんぼーるでつくったおかねでいろがみでつくったおやさいやくだものをかったりしたの”
とか。
“げんにい、あしたはときょうそうなんだって。いっとうをとったらちょこれーとのはいっためだるをくれるんだって”
とか。
“あいすくりーむをたべたいから、とちゅうでどっかによろうよげんにい”
……そんなどうでもいいような言葉に、いちいち少年は「そうか」とか「うん、わかった」とか返事をしてくれる。
素っ気無い言葉だったけれども、それが嬉しくて嬉しくて、キョウコはなんでも楽しげに話した。
家にいる人達とは、そうではなかった。
仕事で家にいる人達、仕事で疲れている家族は、とてもではないが彼女の話し相手にはなってくれなかった。それは無論、いつもそうではなく、休日や休憩時間ではちゃんと相手をしてくれてはいたけれど。それでも、こんな風に甘えたりはできなかった。それに付いて彼女は不満を覚えたことはない。幼くても皆が大切な仕事で忙しいのだと理解していたからだ。だから幼稚園で何をされても沈黙することを選んだ。みんなを心配させたくなかったから。自分一人が我慢すればいいだけのことだから……。
その反動、ということもあったのだろう。
甘えたり拗ねたり――というような歳相応のことを、みんなゲン兄にするようになったのは、つまりは結局のところ必然だったといえよう。
だから、彼が通う場所にも無理を通してついていったりした。
無論のこと、そこが学習塾だとかだったりしたならばついていっても仕方がなかっただろうが、幸いにしてと言うべきか、そうではなかった。
自転車とバスを乗り継いだところにある、丘のような山。
風祭の円空山。
そこにいた老人は、そこをそう呼んでいた。
老人の名は真壁ウンサイ。
不思議な技を使い、教えていたウンサイは、それを『玄道』と言った。
首をひねるキョウコに
「まあ、平たくいえば仙術――魔法、みたいなものさ」
と付け加えて。
つまり、ウンサイは魔法使いだった。
ゲン兄は魔法使いの弟子になったのだと思うと、胸がドキドキしたのを覚えている。
○●○●○●○●○●○●
……キョウコは改めて自分の前に立つ、ゲン兄――六分儀ゲンドウの姿を見た。相変わらずの無愛想な顔でこちらを見ている。家を出た時と同じ、黒いズボンに黒いシャツでこちらを見ている。靴は脱いでいる。靴下も黒だった。ここは彼の家の居間で、土足で上がるはずもない。それなのに、何故だかこの異常な状況ではその方が変なような気がする。
他の連中が、みんな土足だったせいか。
それとも、その連中を打ち倒した彼が靴を脱いでいたからなのか。
たった八畳しかない六分儀家の居間は、おおよそ彼女の知る限り、この世でもっとも奇妙な空間になってしまっていた。
謎の中国人が彼女の前に立ち。
倒れている一人の功夫と。
呆然と振り向いている二人の功夫。
そして、ここにいるすべての者の視線を受けてなお、いつもと変わらない顔をしている六分儀ゲンドウ。
彼が『魔法』を使ったのだ。
「玄道――なるほど、仙道アルね」
楊大人の声は、落ち着きを取り戻している。
「今まで疑問だったアルよ。送り込んだ刺客のことごとくを返り討ちにする妖撃社一の使い手――いかなる門派の技を使うのかと思っていたが……まさか仙道だとは」
日本人だと解った時は、話に聞く日本古武道かとも思っていた。大陸より伝わった武術を独自に発展、進化させたというその技は、中国武術にもひけは取らないという。それに今時ならば、日本人はどこにでも数多くいる。その中に恐るべき使い手が混じっていても何ら不思議ではない。実際、香港の九龍城には石田ゴケンなる鬼神の如き剣客がいるとも聞く。ならば――。
その予想は、最悪の形で裏切られたようだった。
確かに仙道ならば、日本の武道よりは馴染みがある。よく知ってもいる。だが、その使い手が、実戦レベルに至るほどの使い手がどれほどに危険な存在なのか、そこに至るまでにどれほどに壮絶な修行を経なければならないのか……それをも彼は知っているのだ。
いずれまっとうな人間ではあり得ない。
「勝てなくても道理――か」
自分が怯えていないのかが不思議だった。
そんな楊大人の態度にも、ゲンドウは特に何かの感慨を覚えた風でもなかった。
両手を上げて開手で中段に構えをとり、言った。
「SEELEについて聞かせてもらおうか」
(ゲン兄……やっぱり)
キョウコはその言葉に彼の決意を見て取った。
そして。
あの時――師を失って魔法使いになり損なった少年は、ずっと復讐の時を伺っていたいたのだと知った。
それが老人の意に反していることだと、解っているはずなのに。
(どうして――)
問う声は喉から出なかった。彼女の身体はそこの空間に満ちた緊張感によって縛られ。瞬きさえもできなくなっていたのだ。いや、それは彼女だけではなく、楊大人も彼の部下達であってさえも同じだった。生半ではない修羅場を踏み越えた者達であっても、平凡に生きる少女と同様にさせ得る――それがどれほどに凄まじいことか。
楊大人のみが口を開けることができたが、あるいはそれは、この空気の源とも呼べる青年がそうと望んでいただけかも知れなかった。
その証拠に。
「SEELE」
楊大人は唸るようにそう呟いた。
顔いっぱいに汗の珠が浮かんでいた。
「まったく迂闊だったアルね……どうせ始末すると思っていたから口にした言葉だったアルが」
「……知っていることを言え」
ゲンドウの声に、しかし楊大人は無理に唇を歪めてみせた。
彼もまた尋常な人間ではない。
「聞いてどうするアルか?」
どうしてか、ゲンドウはその言葉に不意をつかれたような顔をしてしまった。
キョウコは、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだのを感じた。
二人の功夫は揃って中段に構え、拳を六分儀ゲンドウの背中に向けた。
楊大人は、さらに言う。
「SEELEがそこらの幇のちょっと大きい程度のものだと考えているのならば、それは大きな思い違いアルね。もっと――Liufenye、お前が仙道に達していたとしても、とても相手にはならないアル。何故ならば――」
だんっ
床を蹴る音がした。
功夫の一人が打って出たのだ。
右の半身を押し込むかのような中段の突き――中国武術における基本の打撃技・沖錘。
特に八極拳のそれとなると、凶猛な発勁によってとてつもない威力を発揮すると言う。今日で語られているところの八極拳史上最高の名人・李書文は、「二の打ちいらず」と称された。ただ一撃で相手を殺傷することが可能であったからだ。彼の門流に連なる者の多くもまた、同様の逸話を数々世に残している。現在では八極拳士であると言うことは、強大な威力を持つ者と同義であった。無論、それはあたればの話であって、背後から不意を狙ったとは言え、玄道を修行した者にはそう易々とあたりはしない。
現に、六分儀ゲンドウは身を翻してその突きを受け流した。
そう。
受けて、流したのだ。
振り返りながらに裏拳の要領で放たれた拳の軌跡が、まさに己の身に届きかけた突きのラインと交差したのである。
あらかじめ、その攻撃のタイミングが解っていたとしか思えないような鮮やかさであった。
しかし。
それで功夫の動きは止まらない。
八極拳の攻撃はまだ止まらない。
まったくの間髪を入れずに右の肘を外から振り回すように繰り出す。外門頂肘。それが決まっても決まらなくても左の拳が出て、右の肩が振り回されて、左の掌が。
中国武術の攻撃は、基本的に同じ手を一度引いてまた打ち出すというような、ボクシングで言うジャブのような技法は使わない。右の拳の次は左の蹴り、右の掌……と言った具合に、次々とに違う部位にて違う箇所を狙う。別の点を叩く。点と点とを繋ぐ攻撃は線となって、線はいつしか縦横無尽に走り続け、面となる。めまぐるしい動きこそがその要訣だ。特に八極拳は接近短打――近接した距離での攻防においてその威力を発揮することで知られる。一撃一撃が猛烈な勢いで果断なく、怒涛の如く叩き込まれるのだ。
そのことごとくが捌かれた。
中国武術において、相手の攻撃を無効化する技術を化勁という。
繰り出される攻撃のエネルギーのベクトルを逸らし、流す――無論、それは簡単なことではない。ただ受けるだけでも相当な反射能力を必要とするのに、それをさらに「流す」などということは、通常の格闘技の現実からは考えられないことだった。それをするのには、ほぼ確実に相手の攻撃を予測し、対応することが求められる。そうでなければ人間以上の反射神経を持っているかだ。だが、それを中国武術は「技術」として習得するメソッドを作り上げたのである。
看勁――そして、聴勁という。
相手の目線、筋肉の動きなどからコンディションを類推し、その動きを予測するのが看勁である。日本剣術において「目付け」と呼ばれる心得がかなり近い。経験豊富な格闘技者なども、同様のことはやっている。これだけならばそれほど特殊ではない。
聴勁はそうはいかない。
聴勁とは文字通り聴覚と、そして触覚を総動員して相手の動き、意思を察知する方法である。常に皮膚が触れ合うようにして対手をすることによってその力を養成し、熟練者ともなると、目隠ししたままで相手の攻撃を察知することが可能になるという。この類の訓練もまったく他の武術・格闘技にない訳ではないが、中国武術の化勁を可能にするレベルにまで追求されることはまずない。
そしてこの二つをあわせ、ようやく実戦において化勁を使い得るに至る。
しかし、そこまでに達するにはそれこそ長い時間がかかるのだ。特に化勁を重視する門派であることで知られる太極拳では、まず最初に化勁を養成することから始めるために「太極十年不出門」と言う言葉がある。意味は「太極拳を学ぶ者は、十年は修行しないと門派の外に出て闘うことはできない」と言うほどのものだ。実際は十年の修行でも習得は難しいというのが現実のところで、近年で実戦派の太極拳の使い手と称する者のかなりが、それ以前に学んでいた小林拳、通背拳などの技を使用して闘っている場合が多いという。
六分儀ゲンドウは、そのような生半な太極拳士などは及びもつかぬ領域に達しているようだった。
打ち込まれた左肘を体の捌きで躱し、左拳を右掌で押さえて下方へと流した。密着した状態からぶつけてきた右肩を身を沈めて避けながら足払いを仕掛けようとしたところに振り落とされた左掌を――
たんっ、と床を蹴った。
壁際に着地したゲンドウを追い撃って繰り出されたのは右の掌。両手を振り回すようにしての攻撃は、八極拳士の多くがあわせて学んだという河北の実戦拳術・劈掛掌のそれである。ゲンドウが飛びのいたのは、その威力を知らなかったからか。八極拳が接近短打を得意とするのならば、劈掛掌は放長撃遠。ロングレンジからの攻防にその効を示す。その連続攻撃の右掌を左手で払い退けようと腕を掲げたのとほぼ同じタイミングで、下段に脇腹目掛けての左拳が打ち込まれていた。それをかろうじて右手で押さえ、流す。気づけば功夫は目の前にいた。接近されていた。
ここは。
八極拳の距離だ。
補強工事がされているはずの床板が、功夫の踏み込みで凹んだ。
上下に散らされたガードの隙間に捻じり込まれたのが右の掌底。
――猛虎硬爬山
八極拳における、必倒のコンビネーション。
いわゆる絶招――実戦における決め技――の一つである。
強力な発勁の威力で知られる八極拳の中でも、特に致死性の高い攻撃だ。
いかに六分儀ゲンドウが仙道の修行者であっても、これを真正面から受けては命を保つことは難しいだろう。
そう。
真正面から受けたら。
掌は壁を突き破った。
「――――――――――――!」
香港の黒社会で名だたる八極拳士は、ありえざる事体に愕然と瞼をいっぱいに開いた。
いるはずの人間が、いない。
自分の手と壁に挟まれて絶命しているはずの男の姿がない。
「……弁償してもらうぞ」
声は、背中の方からした。
首筋に何かの衝撃を感じると共に、意識が飛んだ。
十秒にも満たぬ攻防であった。
ゲンドウは振り向く。そこには彼の幼馴染と宿敵がいるはずであった。
倒したはずの男達も含めて誰の姿もなくなっていても、彼は眉一つ動かさなかった。
呟く。
「問題ない……」
そんな訳あるか。
○●○●○●○●○●○●
「――やはり、偉大なる毛沢東の言うとおりにすればよかったアルね。『常に穏便に行動せよ』と。やつの所在が掴めたからと言って、すぐさま乗り込むというのはよくなかったか。『巧遅は拙速に勝さる』とも言うが…………」
(……この人、さっき蒋介石を“心の師”とか言ってなかった?)
突っ込みどころではあったが、さすがにそんなことを言えるような余裕はキョウコにはない。この異常事態にどうすればいいのか、そのことが頭から離れないのだ。
そう。
どう考えても、自分がいる状況は異常だと思う。
キョウコは、気が付いたら車に連れ込まれていた。
記憶は楊大人の部下の一人がゲンドウに打ち掛かった辺りで途切れている。目が覚めたら静かなエンジン音の高級自動車の後部座席に座らされていた。左隣りに楊大人が座っているのを見てもう一度気絶しかけたが、なんとか堪える。説明を求めようとして口を開いて、閉じた。聞くのも馬鹿馬鹿しいと思ったからだ。ことここに到って、自分がどういう立場にあるのかが解らないほどに頭が悪いわけではない。
(私は人質にされたんだ……ま、ここに運ばれる前からそんな感じだったけど――)
何の救いもない事実ではあるが。
楊大人は「ふむ」と呟いてキョウコの顔を覗き込んだ。
「いい目をしているアルね」
(どっかで聞いたような台詞ね……)
実際にはどこの誰でもいいそうな台詞なのだが、彼女の身の回りにいる特定人物のせいで、なんか「そっち」の方で聞いたような気がして仕方がないのだ。ちなみに「そっち」というのは漫画とかアニメの方面のことである。いや、謎の中国人がそーいうのを引用するとも思えないのだが。
ついでにどうでもいいことなのだが、楊大人の声は池田シュウイチにも似てない。
だからと言うわけでもないが、キョウコは
「何が」
と自分の立場の悪さも考えずにメンチを切った。
楊大人は「ニヒヒ」と笑った。
「台詞が違うアルよ」
「――――――――」
「あのLiufenyeの関係者なら、ちゃんと返すかと思ってたアルが」
楊大人はそんなこと言ってたが、キョウコは聞いてなかった。
一瞬だが、頭が真っ白になったのだ。
なんか世界が知らないうちに変容してしまったような気分だった。
そして取り残された自分だけが異常なのだ。
楊大人は彼女の思考なぞ配慮せずに、懐から『真週刊少年』を取り出した。多分、ではなく、確実にキョウコが居間で広げていたやつだ。
「この本ね、わたしらの組織が作ったアルよ」
どういう脈絡なのか、そう言ってくれた。
真っ白なキョウコは「ああそう」と疑いもなく受け入れ掛け――
「え?」
と声を上げた。
この謎の中国人は、幇とか何とか言っていなかったろうか。確か中国五千年の悪の家系でどうたらこうとか。
それが何で、香港で海賊版の漫画雑誌なぞ作っているのだ?
「納得できていないようアルね。やはり妖撃社の人間ではなかったネ……まあ、ことここに到っては関係ないことだけど」
「え、あ、その――もう! 一体、何がどうなっているのよぉ」
泣きが入ってしまった。
まあ、無理もない話である。
あまりにも異常な事態が起こりすぎだ。彼女の神経はか細くもか弱くもないが、それにしたって限度というものがある。張力の限界だったのだ。その状態では、それはほんの些細なことでぶつっと切れる。今がそうだった。
だが。
「泣き止むよろし」
楊大人の一声で、ぴたりと止まった。
どうしてか止まった。
キョウコ自身にもさっぱり解らなかった。
楊大人の顔からは、笑みが消えている。
「改めて自己紹介するね。わたし楊大人。謎の中国人アルよ。犯罪結社『満漢全席』の首領ね」
キョウコはその言葉を聞いて、自分が馬鹿にされていると思った。
「満漢全席って、確か料理の名前じゃ――」
「違うよ。満漢全席とは、満族、漢族の料理の集大成のことよ……前菜から点心まで、全ての悪事のメニューを網羅することから、わたしは組織の名前をそうしたのアルよ。結構シャレが効いていると思うがね。小姐(お嬢さん)はどう思うね?」
「そ、そんなこと聞かれても……」
どう答えていいものか。
ここで「そうですね」と答えれば満足してくれるとも思えないし、そもそも満足してもらうつもりも彼女にはない。
「まあ、自己紹介はここまでにしておいておくとして、肝心な話をしようか。問題はわたしと妖撃社の――六分儀ゲンドウとの関係についてね」
「え――――――――――」
「何を鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているアルか」
「だってその、そんなこと親切に説明してくれるなんて…………」
やはり悪の組織のセオリーとかあって、状況が解っていない人間を巻き込んだ場合はきっちりと説明しておくべし――なんてことになっているのだろうか?情報を漏らすのは迂闊だとか、そのようなことをさっきあの居間で言ってたように思うのだが……。
楊大人は「ふむ」と呟いてから。
「怪しむことないね。こういうこと説明して知らない人間を驚かすの、わたしの趣味アルよ」
当然、話した後はきっちりと始末してきた。
――と言うことは口にしなかったが、そういうことまできっちりとキョウコに伝わったらしかった。引きつった顔をしたのを見て、楊大人は満足したかのように頷いた。
「そもそもわたしら『満漢全席』はね、日本のアニメやマンガに関わることで悪事を働いて勢力を伸ばしてきたのよ。なんでか言えば、そもそもはすぐる昭和三十八年に日本で放映された最初のTVアニメである鉄●アトムを、湖南の許仙道士のところでたまたま見て思ったのアル。“将来に日本のTVマンガはビッグビジネスになる”と。我ながら先見の明があったと思うよ」
確かにそうだ。
日本のアニメや漫画は世界各国に輸出され、現在では数多くの支持層を得つつあった(この話の舞台である1989年で)。ことに宮崎アニメと言われる一連の宮崎ハヤオの作品は、日本映画の観客動員数の記録を塗り替えるという快挙さえ打ち立てている。そうでない普通のTVアニメも欧州各国で翻訳、放映され、まずまずの視聴率を得ていた。そのような現状を考えれば、いち早くそれに関わってビジネスにしようと考えた楊大人は確かに目が高かったと言えよう。
「そういうわけで、わたし色々とやったね。アニメのセルの彩色の塗料が海外産なのに目を付けて、中にヘロインを着色して詰め込んで密輸したりとか、ソビエトの有名なアニメーターが過去に金目当てに作ったポルノフィルムを回収して、それを種にサブリミナルアニメ映像を作らせようとしたりとか、○武の清●のキャラクターグッズを使ってひと儲けするために、西○球場に爆弾を仕掛けて●武グループを脅したり、“くろがねの動員令”の一部の隠匿物の在処が隠された、日本が戦時中に作った国威高揚アニメ『桃太郎七つの海の神兵』の断片を京都の闇の組織と奪い合ったり……とまあ、ざっとそんなことをしたアルね」
「……………………………………………………」
キョウコは、何をどう言っていいのか解らなくなってしまっていた。
悪事といえばそうなのだが、あまりにも間接的で「日本のアニメや漫画に関わってきて」と言い張るのは無理があるようにも思える。
しかし楊大人はキョウコの呆気に取られた顔を見て、それで充分に満足できたらしい。ふむふむと何度も頷き、それから不意に苦虫を噛んでますと顔いっぱいで主張するように表情を歪ませた。
「――だが、そのどれもこれもが今一歩というところで失敗したね。あの忌々しい少年のせいで……」
「はあ……………………」
流れから言えばここは深刻でシリアスな会話をしているはずなのだが、先にあげた“どれもこれも”がなんだか滑稽ささえも感じさせるせいか、思考がうまくまとまらない。ただそれでも聞くべきポイントは聞き逃さなかった。
「その――少年というのがお兄ちゃん?」
「違うアルよ」
楊大人は即座に答える。
「六分儀と彼とは関係ない。彼はまあ……今は卒業しているか。当時は高校生だったが」
郷愁にも似た感情がその細い眼をかすめた。少なくともキョウコにはそう見えた。どういう間柄だったのかはよく解らないが、ただ単に「敵」と言い切って捨てられるような関係ではなかったらしい。
「そんなことが続き、どうしても日本国内では彼に関わることになると思って、やむなく離れて香港に本拠を移し――目を付けたのが海賊版漫画の存在アル」
「それで――」
キョウコはようやく納得できた。
というか、やっと話が繋がったと思った。
香港は著作権についての条約には批准しておらず、アニメや漫画以外でも、とにかく色々なメディアの偽物、コピーがまかり通っている。それでも、というべきか、日本の漫画はやはり人気があり、週刊連載の人気漫画の海賊版ともなればかなりの利益を生んでいた。もしもそれを独占できたなら……。
「イギリスからの領土返還が近く、大圏仔と が折りよく対立していたということも狙い目だったね。それの最初は小競り合いだったが、そこの辺を大きくして、引き返せないほどの大事にするの、我等が永き歴史から貯えた知恵をもってすれば簡単なことだったアルよ」
「……………………………………………………」
もしかしたら、この人はとんでもない大物なのだろうか。
さもなくば相当な誇大妄想症か。
キョウコにはどちらとも判断がつかなかった。
いずれとてつもなく危険な人物であるのには間違いなさそうだが。
彼はさらに話を続けた。
「そうして全ては順調にいっていたアルが――そこで邪魔に入ったのが妖撃社の連中ね」
「お兄ちゃんのはいった会社……」
やっと。
やっと、キョウコが知りたいところに至った。
彼女は、ごくりと喉を鳴らした。
楊大人は声を低くして。
「そう。あのLiufenye……六分儀がいる会社……表向きはオカルト専門の本を出版しているだけのところアルが、さっきも言ったとおり、妖怪退治から同人誌の出版編集まで請け負う何でも屋がその真の姿ね。特に妖怪退治は東アジアでも屈指と評判になっている」
「――ようかい?」
ってやっぱり、それは「妖怪」ということだろうか。
(退治って、なに? お化け退治?)
「……お兄ちゃんって、そんないかがわしいことしてるの?」
「妖怪退治は裏社会では立派にビジネスとして成立しているアル。ことに最近は形而上生物学なんてのが発展して、魔術だの霊能だのにはそれなりの注目が……ま、そんなことは一般人の知るところではないか」
「そんな風に切って捨てられても……」
凄く気になるではないか。
「問題は、その妖撃社がどういう訳か我等と対立することになってしまったということ」
――どういう訳か?
そうなのだ。
どうして妖撃社と敵対してしまうことになったのか、そのことについてはの細かい経緯を楊大人も知らないのだ。今までは何処かでの小競り合い だの何だので、関係者かその親族の誰かが何らかの被害を被ったとか、そのようなことでもあったのではないかと思われていたのだが――。
「まさか、あの男がSEELEのことから我等の組織に迫っていたとなると……」
SEELE。
キョウコはその言葉をまた耳にして、改めて緊張が身体に満ちていくのを感じた。