少年とウマ娘たち - ススメミライヘ -   作:ヒビル未来派No.24

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 前回のあらすじ:秋の天皇賞が、始まる。




翡翠の輝き ~秋の天皇賞・後編~

 世界がひっくり返る。

 

 その場にいた誰もが、絶句する。

 

 一瞬の沈黙と、そこから波のようにどよめきが広がっていく。

 

 あぁ、これが……これが、俺に課せられた────本当の試練だったんだ。

 

 それでも、俺は…声を上げた。閑静になったその場で、ただ…自分だけの声が響いた。

 

『─────────!!!!』

 

   ***

 

 出走まで残り数十分になると、外に行っていたであろう人たちが戻ってくる。自分たちもスズカを見送った後観客席に戻ると、そのタイミングで本バ場入場が始まっていた。

 

 エルコンドルパサーにヒシアマゾン、それにあれは…そうだ。メジロのウマ娘のメジロブライトだ。

 

 実は数週間前、宝塚と同じようにメジロ主催のパーティーがあったのだが、それは断った。ここしらばくはずっと、スズカに付きっ切りだったからだ。

 

「ブライト、膨れっ面になっていましたわよ」

 

「え、マジ?」

 

「『ドーベルの時は来たのに、わたくしの時は来てくれないんですねぇ…』と」

 

「…それ物まね?」

 

「……」

 

 ぺしっと尻尾でふくらはぎ辺りを叩かれてしまう。

 

「あだっ…」

 

「全く…一応同い年なのですから、参加すればよかったものを」

 

「まぁそもそも俺があそこに毎回いるのもおかしいでしょ…」

 

「そんなことはないと思いますけどね」

 

「…………」

 

 そんな風にわちゃわちゃ話し合っていると、誰かから視線を向けられていることに気づく。その方向に首をやると、先生がこっちを見て苦笑いなのだろうか。なんとも言葉には表せない微妙な顔をしていた。

 

「お前…メジロ家のパーティに出ないって…正気か?」

 

「え? いやでも参加自体は自由ですし」

 

「いや、そうだけどな? ほとんどのトレーナーや招待した人は蹴らねぇよ!?」

 

「そうなんですか?」

 

 微妙な顔をしていた先生の顔はやがて真っ青でどこか焦っているような物に変わってくる。

 

 確かにメジロ家はよく名家だとは聞く。でも俺からしたらメジロ家は仲良くさせてもらっている家…という認識だ。

 

 まぁ、そこら辺は確かに他人よりも感覚がおかしくなっているのかもしれないが…。

 

「…お前、ヘマするなよ?」

 

「ヘマ?」

 

「いくら仲良くしているからとはいえど、大人になれば社会の付き合いっていうものが生まれるんだ。そこに普段の仲などは関係なくなるんだからな?」

 

「難しいんですね、社会って」

 

 俺は視線を戻し、レース場を見てみる。

 

 そこにはちょうど…冬になりつつある風になびく茶色の髪と尻尾が視界に入った。

 

『さぁついにターフに姿を現してくれました! 一番人気、サイレンススズカ!』

 

 姿を見せた瞬間見えるところから歓声があがり、それがどんどん隣へ隣へと伝わっていく。やがてあまり見えないところからも歓声があがり、レース場全体が盛り上がる。

 

 それに対してスズカはゆっくりと全体を見た後、スピカのみんながいるこっちへ近づく。

 

「行ってきます」

 

 そう言いながら、腕をすっと上げる。そこには俺がさっき着けた翡翠のブレスレットがちらりと覗いた。

 

 みんなや先生もそれぞれスズカに声をかけている。何を言おうか、へそう悩んでいると真っ直ぐにスズカがこっちを見た。

 

「ゴールで待ってる」

 

 その言葉は、きっと周りの声も含めたらとても小さな声で、下手するとスズカには届いていないかもしれない。

 

 なんて、考えなかった。

 

 スズカは、ふっとこっちを見て笑いながら、そのまま去っていったからだ。

 

「やっぱり、君とスズカさんは」

 

 少し感傷に浸っていると、横から声をかけられる。その声は、数回聞いている男の声。俺は振り返ると、そこには武さんがいた。

 

 スーツに身を包んでいて、背筋がとてもピンっとしている。なんというか、すごく大人の見本のような立ち方だ。

 

「ん…武さん!?」

 

 そんな風に思っていると向かいにいた先生が、突然声を荒げる。

 

「おや、僕のことを知っていましたか」

 

「それは勿論! 以前出張した際の講演会でお話を聞きましたし…」

 

「それはそれは、聞いてくださりありがとうございます」

 

「いえそれはこっちこそお礼を言いたいです。というか玲音、どういうことだ? なんで武さんと普通に話しているんだ!?」

 

「え、縁があって」

 

「 ど ん な 縁 だ よ ! 」

 

 なんか先生の顔がすごいことになっているが、無視して武さんに向き直る。

 

 その視線は、ちょうど向こう側に行っていたスズカの背中を見ていた──いや、背中? 何か、もっと先を見据えているような気がする。

 

「君は、あの子を見てくれたかな?」

 

「はい」

 

 俺は武さんのその問いに対して、即答した。

 

「──そっか。なら見れるかもしれないね、先頭のその先の景色を…彼女は」

 

 そう言うと、武さんはその場を離れて行く。俺は何か声をかけようとしたが、何もかけれる言葉がなかった。

 

 いや、その背中が言葉というものを、ないものにしていた。なんて、訳の分からないことを考えてしまう。

 

『それでは、天皇賞・秋のファンファーレです!』

 

   ***

 

 どうしてでしょうか。遠くではファンファーレがなり、そしてエルコンドルパサーさんにライバル視され、そしてあなたを倒すと宣言されているのに。気持ちがとても落ち着いています。

 

 大舞台に慣れたから、なのでしょうか。いや、そういう感じでは、ないんです。

 

 もっとこう、長年の願望がついに成就するかのような、そんな静かな闘志が沸々と燃え上がっているような、そんな感じです。

 

「ウマ娘の皆さんはゲートに入ってください〜!」

 

 スタッフの人が、ゲートへ案内をする。私はすっとが入って出走準備が整うまで待つ。精神が統一され、音が──消えた。

 

 えっ…と、私は声にならない声を漏らす。宝塚の時に、精神が集中して音が遠ざかるなどはあった。

 

 でも、今のこの感覚は何かが違う。何も聞こえない、何も見えない…闇だけが、支配する。

 

 何、これ…。

 

 まるで、私が私じゃないような…この感触。さっきまで静かに燃えていた闘争心が、胸から出てきたかのように熱くなり。そしてその熱は上下へと広がって行き、私の左足を、右足を包み…体全体が厚い何かが広がる。

 

 ──勝ちたい、勝ちたい。絶対に勝ちたい…!

 

 いつも私は、先頭…その先にある景色を見るために走ってきました。誰もいない、私の走る音しか聞こえないあの世界。ただひたすら、それだけを求めて私は走ってきた。

 

 でも、今は違う。

 

 私は、このレースで勝つ。なんでそう考えるようになったかなんて、もう考えない。ただ、このレースをものにしたい。

 

 ガコンッと、ゲートが開く音がした。私はほぼ条件反射のように、走り出した。

 

   ***

 

「よし、いいスタートだ!!」

 

 出場するウマ娘タチが一斉に出てきて、レース場全体が歓喜の声で渦が出来上がっているようだった。

 

 その中で俺は双眼鏡でスズカの姿を見ながら、その姿がバ群を抜けいつもの加速を見せたことに安堵をし、同時にこのレースがいいものになることも確信する。だが、メジロのところの娘たちや、お花さんのところの娘たちもかなりスタートとしてはいい線をいっているため、油断はできないだろう。

 

 でもそう思うのと同時に、俺は別の意味でも安堵をしていた。それは、この大舞台に来れたということはもちろんあるが…もう一つ、俺の願いが叶いそうになっていることに、安心を覚えていた。

 

 …ここまで、長かった。戻ってくるまで…。

 

 ──俺は、一時期トレーナー業を離れたことがあった。

 

 十数年前、サブトレーナーから正式に新人トレーナーとして認められた俺は、若いなりに奔走していた。多くの雑務をこなす中、頑張ってチーム結成のためにウマ娘をスカウトなどをしていた。

 

 俺なりにはめっちゃ頑張ったつもりだった。だが周りからしたら俺は師である⚪︎⚪︎トレーナーの隣にいたというだけの新人。同期からも、そして生徒たちからも白い目で見られていた。

 

 チームの看板を背負いながら、公園のベンチで項垂れていた。そんな時に1人のウマ娘が声をかけてくれた。

 

『どうしたんですか?』

 

 その時に声をかけたウマ娘こそ、俺がトレーナー人生で初めて担当し、チーム・スピカに初めて所属になったウマ娘だった。

 

 その子は桜のように天真爛漫としていて、ある意味その時の俺とは全く真逆の性格だった。急に飴を渡してくれて、おじさんどうしたのって赤の他人だった俺に話しかけてきた。今考えればそのおじさん発言は、俺を振り向かせるための方法だったのかもしれない。

 

 最初はなんだろうと思っていた俺だったが、次の日も、また次の日。会わない日があっても必ず一週間に3回は、その生徒と公園であっていた。愚痴を聞いてもらったり、逆に学校生活のお話を聞いてあげたりなど何回か交流をし、俺とその子は親密になっていた。

 

 そうして会うのが当たり前になったのが普通になった時、俺はその子に将来の夢を語った。そして彼女も目標を語ってくれた。そうして分かったのだ。『あぁ、俺とこの子歯目指すところが同じなんだ』と。

 

 そう分かった瞬間、俺は拙い言葉ながらもその子をスカウトした。最初彼女は困惑したが、右耳に飾られた桜の耳飾りのように頬を赤くして、その誘いを受けてくれた。

 

 そうして駆け抜け始めたあの子とのトゥインクルシリーズはとてもあっという間だった。

 

 メイクデビュー初戦は1度は達成できず、リベンジによってデビューし、そこからプレオープンに出たが、結果は惨敗。お互いがまだ幼稚であることを叩きつけられた瞬間だった。

 

 だが、その悔しさがバネとなり。その後の重賞、そして皐月賞は他の追随を許さない圧勝で勝ち取った。その時の彼女の笑顔は、絶対に俺は一生忘れないと思う。

 

 しかし現実はそう甘くはなく、繋靭帯炎を患ってしまい、クラシック二冠目の日本ダービーへの出場は叶わず、長い長い療養生活を送った。もちろん、俺もリハビリなどに付きっきりで付き合って、彼女をサポートした。

 

 そうして、復帰のGⅠで…彼女は見事復帰を果たしてくれた。レース互換機のあまりターフからそのまま飛びついてきて抱きしめられたトレーナーなんて、俺だけかもしれない。

 

 その後の目標は年が明けた後のレースを目標とし、それに向けてゆっくりと調整を続けていった。

 

 だが──年末にある大一番のレース、有馬記念の人気投票で、彼女は一位になった。

 

 もちろん俺たちの目標は違ったため、出走する気はなかった。だがマスコミによる圧迫や上からの願い…何より、ファンのことを大切に思う彼女の一向によって、俺は有馬記念出走を決定してしまった。

 

 それが大きな過ちになるなんて、知る由もなかった。

 

 年末の東京レース場はとても人気があった。人はとっても入っていたし、何より多くが俺の愛バを見に来ているって思うと、心が踊らないわけがなかった。

 

『これが、私とトレーナーが見たかった景色、なんだね』

 

 学園から東京レース場に着いた時の彼女の第一声がそれだった。尻尾はぶんぶんと振られ耳はぴょこぴょこっと忙しなく動いている。

 

 そんな彼女の慌ただしい仕草が、なんとも可愛らしかった。

 

 そうして迎えたレース、無事にスタートをし、悪くない位置につけて、得意な位置でスパートを掛けた──その瞬間だった。彼女が突然、失速した。

 

 俺は、何が起きたか分からず…そのまま唖然と突っ立ていた。そのまま彼女は走り続けようとしたが、それは叶わず彼女はコース外脇の柵の近くで倒れ、そのまま転がりながら、スタッフが持ってきた担架、そして救急車に乗せられそうになったので、そこで初めて俺は動いて、付き添った。

 

 そして宣告されたのが──左脚繋靭帯炎断裂、そして足の指の脱臼。回復は絶望的だということだった。

 

 断裂だけでも選手危機、そこにさらに再発頻度が高い指の脱臼。それを伝えると、流石の彼女でも驚きと、絶望が隠せていなかった。だが、いつものように天真爛漫に振る舞って、またもう一度走るんだと笑ってくれた。

 

 そうして、俺もリハビリに付き合いなんとか治そうとした…だが、彼女の脚が良くなることはなかった。

 

 半年後、俺の目の前に──退部届けが出された。大事な話があると言われ、本人の手から直接だった。

 

『私、なんのために走っていたんでしょうね』

 

 最後まで彼女は笑っていた。だがその目は笑っておらず、涙を浮かべていた。

 

 その表情が、言葉が…トラウマになった俺はそのまま無断で休職、そのまま一度トレーナー業を辞めた。その後はとにかく虚しいものだった。どこかを放浪しては、お酒で全てを忘れるようにして…辛いことから全て逃げた。世間のニュースからも耳を遠ざけた。

 

 だけど、ふとある時俺は──諦めきれていない自分がいることに気づいた。

 

 俺には夢がある。それを叶えるためにずっと頑張ってきた。そうして強く挫折し、閉ざしかけていた。

 

 でもやっぱり、諦めれなかった。諦めたくなかった。でもあんなことにはもうなりたくない。

 

 だから俺は──ありとあらゆる知識を、もう一度学び直し、そして専門的な知識も多く身につけた。そして何より、今度は担当に寄り添い、そして守ってあげようという気持ちを強くし、俺は再度トレーナー試験を得て、復職した。

 

 そこからは世間というより周りの同業者からは冷たい視線を受けながらも、俺はチームを再建しようとした。

 

『お、なんだお前。面白そうなことしてんな、アタシも混ぜろよ!』

 

 なんていうのが、もう随分前の話だ。

 

『1000m通過のタイムは!! 57秒4!!』

 

「57秒4!?」

 

「っ! マジかよ!!」

 

「やっぱりスズカさんは、すごい!!」

 

 俺はびっくりしてそのまま声を上げてしまう。しかしそれと同時に多くの周りの観客も似たような言葉や驚きの小言を各々呟いていた。

 

 当たり前だ。そんなタイムはここ数年で聞いたことがない。コースレコードを悠々に超えている。スペも言っているが、やっぱスズカはすごい。ここにいる誰もが、彼女に釘付けだ。

 

 そう思っている間にも、スズカはさらに加速していく。逃げとは思えない超速度の大逃げ──それは、あの2回がまぐれではないことを示すには十分だった。

 

「行け、行け! スズカ!!」

 

 彼女の姿が、大欅で見なくなる。

 

   ***

 

 足がとても速い、ペースも乱れない。いい、すごくいい…! 体が羽が生えたかのように軽い。

 

 さっきまで暗闇が目の前を支配していたが、今はターフの緑が、空のコバルトブルーがとても映えている。後ろには私を追いかける娘たちの足音が聞こえるが、それは私の走る音とターフが捲れる音でかき消される。

 

 あぁ、いつもの景色だ。

 

 勝つことは確かだけど、この景色は誰にも見せたくない。私だけの世界。

 

 私はさらに加速する。もっともっと──そう思ったその瞬間、私自身が映った。

 

「(え?)」

 

 何が起きたのか分からない。だって目の前には走っている私。その隣には、東京レース場に生えた大欅の葉が真隣にいる状態でした。足元を見るとそこには足があったが、地面についていなかった。

 

 宙を、浮いていた。

 

 私はどういうことか分からず、手を見てみる。その先には、うっすらとターフの緑が見える。つまり、今私は透けている。

 

 そんな普通ではあり得ない状態に、私はとてつもない恐怖に襲われる。当たり前です、逆にこんなことになって冷静でいられる人などいるわけがない。そう思うのと同時に、何かが嘶くような声が聞こえました。

 

 その声は、下…つまり私の身体の方からしました。その方向を見ると…ザザッとテレビのノイズのようなものが視界に移った後、まるでゼブラのような姿をした4つ足歩行の動物がいました。

 

 

「(あれは…一体…)」

 

 私が不思議に思っている間にも、その動物は大欅を抜けます────…しかしその瞬間に、明らかにさっきの疾走感が無くなり、それに伴って心臓と左足に強烈な痛みが…。

 

 

「(っ!?)」

 

 あまりの痛さに私は浮いていることも忘れて、その場で身体を丸くし自分自身の左胸、そして左足を押さえつける。

 

 しかし足の痛みはずきっ、ずきっと…一定のリズムで刻まれるように襲い掛かってきます。その痛みは、今まで受けた痛みなんて可愛く見えてしまいます。

 

 そして、目の前の動物を見ると、とても胸が張り裂けそうです。強く脈を打ち、その一つ一つの鼓動が、確かに胸を中心として全身に張り巡らされている。

 

『サイレンススズカに故障発生!!』

 

 サイレンススズカ。確かに、そう聞こえました。

 

 なんで、私の名前が…? なんで、なんで…??

 

 痛みと自分の名前が呼ばれているという、少し気持ち悪い感覚が…私の正気を蝕んでいく。

 

 鼓動が更に早くなって、息遣いも不規則になっていく。

 

 浮いていたその身体が、少しずつ下がっていき…私は地面に倒れ伏します。

 

 目の前には完全に走ることをやめ、横たわっているその動物…その方向に、手を伸ばした。けど、その手が何かを掴めることはなく、むしろ、その景色は遠くなっていき、闇が私を包む。

 

 その時、一瞬見えた。

 

 何が…。

 

 ────……レオくんだった。

 

 暗闇が広がる中、レオくんの後ろ姿が…あった。同時に、チーンっと、何かが鳴る。

 

 私は痛む脚を抑えながら、さっき掴もうとしたその手をその後ろ姿に向ける。

 

 でも、レオくんがこっちを振り返ることはなく…その場で浮き始める。

 

「っ、待って!!」

 

 そう声を掛けたとしても、彼は何も反応を返さない。見向きもしない。ただ少し顔を上げて、腕の力を完全に抜かして、少し広げているようにも見えた。

 

 その背中を私は見上げる。なんで、こんなにも焦っているんだろう。なんで、こんなにも心が苦しいんだろう…。

 

 そんなことを思っている間にも、彼の背中はどんどん遠くなって行って────……。

 

「レオくん!!!!」

 

 限界まで伸ばし切った手…その先には、見知らぬ天井が広がった。

 

 嫌な汗が、背中…いや、全身にくまなく出ている。伸ばした手をゆっくりと胸の方に下ろして、荒々しい息を整えます。

 

「今までのは…夢? 一体、何が起きて…」

 

 ゆっくりと私は身体を起こす。

 

 その時、嫌でも映った…私の左足に、ぐるぐると巻かれた包帯があることに…。

 

「────えっ?」

 

『残念ながら、もう走ることは叶わないでしょう』

 

『そんな…どうしようもならないんですか! 先生!!』

 

『……』

 

「っ、頭が…」

 

 まるで流し込まれるかのように、入ってくる記憶。言葉…そして、過去。

 

「(そうだ…私はレース中に左足をやって……それで、それで…)」

 

 レースのことを思い出すのと同時に、目から何か熱いものが零れてきます。その零れたものが涙だということに気付いたのは、それが私の頬に伝い落ち、手の甲に溜まり、それが布団へ流れてシミを作った時でした。

 

 なんで、私はこんなにも泣いているのだろう。なんで悲しいんだろう。なんで、悔しいんだろう。

 

 もう走られないから? いや、違う…それは、恐らく。

 

 もう、約束を果たせないから。

 

『約束? いや、そんなのしていない…あの人は、ずっと前からいなくなって…』

 

 そんなことはない。あの人はずっと、半年前から一緒にいてくれた。

 

 私の隣に並びたいって、だから走ってって…でも、この脚じゃ…。

 

「目を背けるの?」

 

 

「……っ!?」

 

 明らかに、声が聞こえた。驚いた私は、目の前に視線を向ける。

 

 するとそこには、私自身が立っていた。月明りなんてないはずなのに、なぜだかはっきりと姿が見えている。でも、それは明かりとは違う…そんな感じがしました。

 

 

「あなたは重大な事から背けている」

 

「重大な、こと…?」

 

 私の言葉を聞いたその瞬間、自然に固唾を飲み、嫌な汗が出てきます。

 

 そして、私の姿をしたそれは…近づいてきます。本能が警鐘を鳴らしますが、足を吊り上げられている以上、その場でできるのは身じろぎくらいです。

 

 もう一人は、その手を私の額に伸ばし…つんっと、人差し指でつつく。

 

『次のニュースです。昨日お昼頃、仁川駅にてトラックが暴走、制御不能になり空き店舗に突っ込みました』

 

『朝から全生徒による集会に集まっていただき、誠に感謝する。────────昨日の昼時、本校在学の谷崎玲音くんが、交通事故で────……』

 

『そうか…君がスズカちゃん…。君のお話は玲音くんからよく聞いていたよ。大切な幼なじみだって…』

 

『ぁぁ…ぁぁぁぁああ…!!』

 

「っ…!? うっ…!!」

 

 体の中から込み上げてくるものを、必死に抑え込みながら、私は息を整える。

 

 何、今の記憶は…レオくんが、もういない? 嘘だ…そんなの嘘に…。

 

「大事な人も失い、生きがいも失い…他に何が残されているの?」

 

「違う…私は…!」

 

「貴女にはもう、なにもないの。過去の栄光はやがて、強者の踏み台になり…そしてこの古傷は永遠に癒えることのない────呪いなのよ」

 

「そんなんじゃ…」

 

 そう私が言った瞬間、ふかふかだった布団が泥のようになり、どぷっと身体を包みながら沈み込んでいく。

 

 唐突のことで、私は慌てて身体を動かそうとするが、上手く動かすことができない。左足を吊るしていた固定具が、音を立てて床に落ちる。

 

「いやっ、やめ…て…!」

 

「いいえ、あなただけなしなんてできない…"私"と同じ、負の運命へ導いてあげるわ…」

 

 闇色に近い泥が、私の上半身を包んでいき、首からどんどん這い上がってくるかのような感覚が身体全身に走る。

 

 やがて、首…頭に泥が侵食していく。耳に泥が覆いかぶさり、音が聞こえなくなる。私は涙を零した。それで、も必死に左手を上に伸ばす。

 

 口も塞がれている…それでも私は、願った。心の底から叫んだ────。

 

「(助けて、レオくん!!)」

 

 世界が、闇で満ちかけた…その瞬間だった。左手首につけていた翡翠が、きらりっと輝いたかのように見えた。

 

 そうして、左手首を誰かに包まれる…透明な、綺麗な真珠だった。

 

 

『スズカァァアアアア!!!!』

 

 

 

 一気に、世界が開ける。それと同時に、さっきまで聞こえていなかった…多くの人たちの声が聞こえる。

 

 目の前には、緑が…青空が広がっていた。でも、少し視界が暗い…足も悲鳴を上げているのが分かった。

 

「(それでも私は────……そこに、いるんだよね…)」

 

 脚を前に出す…痛みで意識が飛びそうになる。それでも私は失ったスピードを再び取り戻そうとすべく…さっきと…いや、さっきよりも早く脚を回す。

 

 少し後ろを見ると、誰かが近づいていた。明らかに今の私よりも早い。それでも関係ない。

 

「(動け、私の身体、脚。あの人が、待っているから!!)」

 

 何かが、隣で嘶いた気がした。まるで、力を貸してあげるよと言ってくれているかのように。

 

 心臓が破裂しそうなくらい鼓動を繰り返す。意識が一回一回飛びかける。それでも私は動かす。前へ、前へ…誰にも抜かせられないように。

 

 場内のざわめきがさらに大きくなる。実況も興奮気味で何かを言っている。でも、何を言っているか分からない。

 

 少しずつ、スピードが乗ってくる。カーブを抜け、最後の直線。

 

 いつもは、誰もいない景色を見るために走っていた。

 

 でも今は違う…すぐ横に誰かがいる。そんなのは関係ない。

 

 あの人が言ったんだ。あの人がいるはずなんだ。暗闇から救ってくれた、あの人が…。

 

「うぁぁぁああああああああああ!!!!!!」

 

 自然と声が出た。こんなこと、今までなかったはずなのに。

 

 さらにスピードが上がってくる。足の痛みなど感じない…いや、脚の感覚が完全に消えている。

 

 これは、奇跡なんでしょうか。それとも、必然なんでしょうか。

 

 分からない。でもこの力は、私をあの人の元へ導いてくれる。そんな感じがした。

 

 ──そう思っていると、きらりっと…何かが太陽に反射して輝いた。

 

 私はそれに向かって走る…残り数mになった瞬間、身体の力が一気に抜ける。あぁ、そうだ…私は、今日…ゴールで待っている人が、いてくれたんだ…。

 

 完全に身体を預けた私の身体は慣性の法則に従ってそのまま進む。しかし、その身体が抱きしめ止められる。衝撃が身体全身に走るが、関係ない。私は彼に抱き着く────……そうして、そのまま…意識は遠のいた。

 

 

 

 翡翠と水晶、二つの宝石がぶつかり合った瞬間。繋ぎとめていた糸を引きちぎり、散乱する。一つ一つが、太陽に反射して、鈍く、淡く、光る。

 

 それらは、綺麗に舞い散りながら…ターフの緑へと沈んでいった。

 

 

 

 

 




・明けましておめでとうございます。そして今夜20thを迎えたヒビルです。

・年内に完成、できませんでした!! 大変申し訳ございません。

・水着スズカお出迎えええええ!!!!(また少しずつやっていきます)

・次回は秋の天皇賞を終えて…をする予定です。
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