私と少し哲学の話でもしませんか? 作:へっくすん165e83
私はそれの考え方に関しては多世界解釈が好きです。
ベッドで横になっていたらいつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。私はベッドから起き上がると、部屋にあるクローゼットを開けた。クローゼットの中には作業用らしきツナギやワンピースなどが特に種類ごとに分けられることなくハンガーに掛けられている。その他には小物や工具のようなものはあったが、めぼしいものは見つからなかった。
「私の部屋にある扉の鍵はないか」
私はもう一度部屋にある扉を開けようとドアノブを回したが、扉が開くことはない。
「……開かないなら仕方ない」
私は扉を開けるのを諦め、自分の部屋を出る。今が何時かわからない。時計を探しながら少し局内を探索しよう。
私は階段を下り、通路を歩く。アキラが言っていた通り、ここは発電施設だったらしい。『高電圧注意』と書かれた部屋や、壁一面にスイッチのようなものが付いてある部屋。カイライの整備工場のような場所や、格納庫も見つけることができた。途中鍵がかかっている部屋がいくつかあったが、そのどれもが事務所や所長室など、特に興味も湧かない部屋ばかりだ。
私は更に階段を下る。地下三階まで下りると、先程までと違い長い通路が続いている空間に出た。通路に扉等はなく、ただ所々に明かりがついているだけである。通路の隅には太いパイプのようなものや、ケーブルが何本も伸びており、通路の奥へと続いていた。
「奥には一体何が……」
私は興味本位でその通路を歩き始める。
何もない通路を五分以上は歩いただろうか、通路の突き当りに辿り着く。そこには金属で出来た扉があり、扉の上には『中央管理局』と表記がなされていた。
「発電施設は地下で旧管理局と繋がっているってアキラが言っていたっけ」
私はドアノブに手を掛け、恐る恐る押した。金属製の扉は重たい手ごたえとともにゆっくりと開く。
扉の奥は今までの通路とは打って変わって、白い壁に白い床、白い天井と白色で統一された清潔感のある空間が広がっていた。まるで病院か研究所のようだと思ったが、その予想はあながち間違っていないだろう。目の前の部屋には『脚部機能試験室』と表記がされており、その向かい側の部屋には『人工筋肉培養室』と表記されている。そして見るからに後から敷かれたのであろうケーブルが、白い床の上に黒いラインを引いていた。
「まるでヘンゼルとグレーテルだ」
ヘンゼルが道しるべに使ったのは白い石だったか。
私は黒いラインに沿って研究所のような空間を歩く。ケーブルが床に描くラインは奥へ奥へと続いており、周囲にある部屋の名前も理解の及ばないものになっていく。『摘出室』とだけ書かれた部屋や、『置換室』と書かれた部屋、中には『安置室』と書かれた部屋もあった。少々気味が悪くなってきたが、ここまで来たのだ。ここで引き返すのは少々勿体なく感じる。
しばらくケーブルを辿っていると、ケーブルはとある部屋の奥へと続いているのがわかった。『第一研究室』……そう書かれた部屋からはキーボードを叩く音が聞こえてくる。私は足音を立てないように部屋に近づくと、扉の隙間から部屋の中を覗いた。
部屋の中には大きな机が設置してあり、そこにモニターが三台並べられている。モニターの前には座り心地が良さそうな大きな椅子が置かれており、キーボードを打つ何者かを完全に隠していた。その他にも、部屋の中にはよくわからない器具や機械が所狭しと並んでいる。
私はその部屋に見覚えがあった。休憩室にあった集合写真に写っていた部屋によく似ている。ということは、部屋の中でキーボードを打っているのは──
「入っていいぞ」
私が扉の前にいることに気が付いていたのか、部屋の中から舌足らずにも聞こえる高い子供の声が聞こえてくる。入っていいと言われて黙って引き返すわけにもいかないので、私は意を決して部屋の中に入った。
「貴方がハル?」
私が声を掛けると、大きな椅子がくるりと回転し、こちらを向く。そこには十歳ほどに見える少女が座っており、ダボダボの白衣を袖まくりをして身に着けていた。
「ああ、いかにも。俺がハルだ。イヴから色々話は聞いている。初期化しちまったんだってな」
思わず見とれてしまうような容姿をしている少女は、幼く透き通るような声でそう言った。
「どうもそうみたいで──」
「まあ人生色々ある。俺だってそうさ。まあ、まだ記憶を失ったことはないが……取り敢えず座れよ。初期化によってグレインに異常が出ていないか少し検査するから」
ハルは大きな椅子から飛び降りると、部屋の隅にあった丸い回転椅子を手に取り、自分の近くに引きずってくる。私がその丸椅子に座ると、ハルはまた大きな椅子に飛び乗った。
「にしても災難だったな。まあ完全にデータが飛んでないだけまだマシだが……っと、ケーブル挿すぞ」
ハルは椅子の座面に立つと、私の首の後ろに黒いケーブルを繋げる。そして椅子に座り直し、キーボードを叩き始めた。
「んー、特にグレインに異常はなさそうだな。初期化の理由も一瞬電力の供給が途切れたからだろう。カイライの不調か? いや、それにしてはその後の経過が良すぎるしな……何か強い電気ショックを受けたのかもしれないな」
ハルはその容姿には似つかない荒々しい口調でそう言う。いや、そもそもハルは男じゃなかっただろうか。休憩室で見た写真にも、無精ひげを生やした中年が写っていたと記憶している。
私の視線に気が付いたのか、ハルは部屋の隅を指差した。私はその方向に視線を向ける。そこには写真で見た中年男性が、力なくベッドに横たわっていた。
「少し細かい作業をしなくちゃいけなくてな。どうだ? 可愛いだろ」
ハルは小さな手をひらひらと振る。確かに男性の太い指よりも細かい作業はやりやすそうだった。ということは、やはりハルは男性なのか……
「なんだ、あんまり奇怪な目で見るなよ。おっさんが幼女のカイライ使っちゃいけないのか?」
「いえ、別にそんな……」
正直ドン引きしているが、ハルはあっけらかんと答えた。
「グレインだけの存在になった時点で俺たちに性別という概念はほぼ消えた。つまりはあんたがあのおっさんのカイライに入ってもいいし、俺が少女のカイライに入ってもいい。さてはオンラインゲームで男が女性キャラを使うのはキモイって考えるタイプだな?」
なるほど、そう例えられるとあまり違和感のない行為のようにも思えてくる。
「っと、自己紹介がまだだったな。俺はハル、科学者だ。この中央管理局でグレインの調整やカイライの制作をしている」
「私は──」
「レンだろう? よく知ってるよ」
私が自己紹介する前に、ハルが言った。
「まあ、レンという名前が本当に私の名前なのかも、私にはわからないんですが……」
「いや、お前は間違いなくレンだよ。グレインにはそれぞれシリアルナンバーが振られている」
ハルはそう言うと、机の引き出しから小さな鍵を取り出し、首の後ろに挿す。そして自分の頭を前後に開いた。その光景はあまりにもグロテスクだったが、頭を開いた状態でハルが自分の頭を指差す。
「ほら、ここだ」
ハルが指差した場所には白い文字で『GB.JPTYO-1 HAL』と書かれていた。
「これと同じようなものがお前のグレインにも書かれている。グレインにはそれぞれ個人の名前が刻印されるんだ。つまり、レンという名前はもともとのお前の名前ってわけさ」
私の名前はレン。私は自分の名前を改めて認識した。
「まあだからといって、記憶を失う前のお前と今のお前が同一人物だとは思っていない。記憶を失うというのは、人格としては死を意味する。レンは一度死に、違う人間として生まれ変わった。つまり、お前は初期化された瞬間生まれた新しい人格だということだ」
「記憶が消えると、人格は死ぬ……そもそも、脳への電力の供給が滞ると記憶が消えるというのはどういうことなんです? 脳に必要なのは電力ではなく糖や酸素では?」
私がそう質問すると、ハルはキョトンとした顔をした。幼い顔で小さく首をかしげる仕草は非常に可愛らしいが、中身がおっさんだということを考えれば素直に可愛いと言って良いのか疑問が残る。
「ああ、そういうことか」
そして、何かに気が付いたのだろう。ハルはポンと手を打った。
「レン……人類が何のために生身を捨てたのか忘れたのか? ああいや、忘れたんだったな。人類はな、放射線に負けない身体を手に入れるために身体を捨てたんだ。脳が生身では元も子もないだろう」
「……え?」
脳が生身ではない?
確かに、脳は神経細胞の塊だ。強い放射能を受けたら何かしらの影響が出て然るべきだろう。だが、だからと言ってハルの言葉が理解できるわけではない。
「まさかグレインの中に生身の脳がそのまま入っているとでも思っていたのか? なんでグレインなんて名前なんだと思う?」
「てっきり、ブレインが訛っただけかと……」
「そんなアホらしい理由なもんか。グレインの語源はグラファイトとブレインだ。つまりは黒鉛の脳。あのな、レン。俺たちに生身の部位なんて残されていないんだよ」
私に生身の部位は残っていない……。だとしたら私は……いや、人間とは一体なんなんだ?
作り物の脳に、作り物の身体。そんな存在が、本当に人間だと言えるのか?
「まあ深く考えるな。所詮脳も情報を機械的に処理しているに過ぎない。だとしたら代用することも可能だ」
ハルはそう言うが、それには大きな問題があるように思えた。
「でもそれじゃ……人間を模しているだけの機械なんじゃ……そもそも機械に魂を移すことなんてできるの?」
「ふむ、確かにな。意識の転移というのは科学者の永遠の課題だ。ここまで脳科学が発展した今の時代ですら意識や、クオリアといったものの正体を突き止めることはできてねぇ」
ハルはキーボードを叩く手を止めずに話し出す。
「例えば、今机の下にあるコンピュータ。このコンピュータは人間の脳の代用をするのに十分な性能を有している。さて、このコンピュータに俺の脳の情報をそのままコピーしたとしよう。するとどうなると思う?」
「貴方の人格が、そのままコンピュータにコピーされる?」
「ああそうだ。コンピュータ側はそれでいい。じゃあ、コピー元の俺はどうなる? コンピュータにはあくまで脳の中の情報をコピーしただけだ。俺の意識は、人格はどうなる?」
「そのまま残る?」
別に脳の中にある情報を移動させたわけじゃない。コピー元はそのまま残るはずだ。
「そう、つまりは俺が二人生まれるわけだ。コンピュータ側の俺からしたら人間の身体からいきなりコンピュータに詰め込まれたと認識するだろうが、本当に俺の意識がコンピュータに移ったわけじゃねぇ。あくまでコンピュータ側に俺にそっくりの人格が生まれただけだ。じゃあ、こうするとどうなる?」
ハルは机の引き出しから拳銃を取り出すと、自分のこめかみに当てた。
「──ッ!」
「モデルガンだよ。仮定だ仮定。仮にコピーが終わった瞬間、コピー元を殺したとしよう。そうしたら、コピー元の意識はどうなる? 死んだ瞬間コンピュータに移動するのか? それとも、撃ち殺した瞬間、人間側の意識は死ぬのか」
「……死ぬと思います」
「ああ、俺もそう考える。だが、意識というのは他人からは認識もできないし観測もできない。証明もできなければ解明すらできていない。赤の他人からしたら、死んだコピー元の意識が死のうが、コンピュータ側の人格が新しくできたものであろうが関係ないんだ。第三者から見たら、俺の人格がコンピュータに転移したようにしか見えない」
確かに、脳の情報がそっくりそのままコンピュータに移されているのだとしたら、コンピュータは完璧にその本人の動きや話し方をトレースするだろう。第三者から見たら区別できないはずだ。
「じゃあ、今の私も、アキラも、ハルさんも……元の人格は死んでいるってことですか?」
思考する機械。作り方が違うだけで、私の存在はイヴと殆ど変わらないのではないか?
私が感じている意識は、感覚は、本物なのか? 私の苦悩が表情に出ていたのか、ハルは小さく肩を竦める。
「もし、グレインを別に作り、そこに脳の情報を転送したとしたら、元の人格は死んだことになるだろうな。だが、俺が作りたかったのは人間のコピーじゃない。俺は、人間を、人類を存続させたかった。人間によく似た機械を作りたかったわけじゃねぇ」
ハルはキーボードを叩く手を止めた。そして椅子を回し、私に向かい合う。作り物の二つの眼球が、私の目をじっと見ていた。
「だからこそのグレイン。『脳の炭素化』だ」
脳の炭素……化?
「テセウスの船という思考実験を知っているか? テセウスの船と飛ばれる木造船を古いパーツから順番に新しいパーツに交換していくんだ。修理に修理を重ね、ついにテセウスの船のパーツは全て新しくなってしまった。さて、その船はテセウスの船だと言えるだろうか?」
「……私は、それはテセウスの船だと思いますけど」
「まあこの思考実験に対する答えは人それぞれだ。だが、これは人間の身体でも常に行われている。代謝だよ。人間の身体は代謝によって日々新しいパーツと交換されている。まさにテセウスの船だ。意識が移動できないなら、意識が入っている入れ物のほうを入れ替えるんだ」
ハルは机の隅に置いてあった黒い石を手元に持ってくる。
「脳細胞を少しずつグラファイトと置き換えていくんだ。脳を頭蓋骨から引きずり出し、専用の処理装置に繋いで特殊な薬品に漬け込む。すると数時間もしないうちに脳はグラファイトに置き換わる。コピーを取っているわけではないから、出来上がった炭素の脳が正常に動けば意識の問題は解決だ。どうだ? 画期的だろう? 意識や人格のことはこれっぽっちも解明できてねぇが、そういう問題を全て回避して機械の身体を手に入れることができる」
確かに脳の部品を少しずつ別のものに置き換えていくとしたら先程のような問題は起こらないのかもしれない。だが、そんなこと……本当に許されるのか?
「単細胞生物から進化した人間はついに新しい進化を遂げた。新たなステージに立ったんだよ。人間は自らの手で自分たちを進化させることができるようになったんだ」
……狂っている。そんなもの、あまりにも倫理に反している。
「そんなの……進化じゃない」
「なんだって?」
私の口から零れた言葉をハルは聞き逃さなかった。私は意を決して言葉を続ける。
「そんなの、もう人間じゃないですよ……」
「じゃあレン。人間とはなんだ? 生身の肉体を持っていなければ人間じゃないのか?」
「それは……」
「……すまん、意地悪な質問だったな」
ハルは私から目を背けると、小さな手でキーボードを叩き始める。
「だが、当時はそんなことを議論できる余裕はなかった。正しいか正しくないかは問題じゃない」
ハルはしばらく無言でキーボードを打っていたが、やがて作業が終わったのか手を止めて私の首の後ろに繋がれたケーブルを引き抜いた。
「よし終わりだ。グレインに異常なし」
どうやら話している間、ずっと私のグレインを検査していたらしい。ハルは棚から私のカルテと思われるファイルを取り出すと、ドイツ語で何かを書き込んだ。
「まあなんにしても現状お前の脳は炭素で、身体は機械だ。不具合を感じたら相談しにこい。俺はいつもここにいるからよ」
「……ありがとうございました」
私はハルにお礼を言って、椅子から立ち上がる。そしてそのまま部屋を出るためにドアノブに手を掛けた。
「ああそうだ。すっかり忘れていた」
私が扉を開いた瞬間、ハルが何かを思い出したように声を掛けてくる。
「お前に最後に会ったとき、忘れそうだから俺にも覚えておいてほしいと言われたことがあってな。『ポケットの中』って言葉に聞き覚えは……まあ、ないよなぁ」
私はそう言われて、パーカーのポケットに手を突っ込む。だが、そこには何もなかった。
「忘れてくれ。亡者が残した戯言だ」
私は今度こそ研究室を出る。部屋の中からは、またキーボードを叩く音が聞こえ始めてきた。私はケーブルを辿りながら施設の中を歩き、長い通路へと戻る。
初期化する前の私の人格は死んだとハルは言っていた。では、今の私の人格はどこから発生した? もし私の意識が炭素の塊から発生したのだとしたら、私は人間と呼べるのか?
そもそも、私とは一体なんなんだ?
私は自室に戻り姿見の前に立つ。
「お前は誰だ?」
私は鏡に映る自分を指差してそう言うが、鏡の中の私は同じことを聞き返すだけだった。
Tips
グレイン
グラファイトとブレインが語源の造語。英語表記は『GRAIN』
脳の炭素化
脳を構成している物質を少しずつ黒鉛に置き換えることによって最終的に脳を炭素の塊に変える。
テセウスの船
テセウスの船に対する解答は主義や定義によって異なるが、ハルが言いたいのはこのようにしたら意識を保ったまま脳を無機物にすることができるということ。
お前は誰だ?
ナチスによるゲシュタルト崩壊実験で有名な一文