「薬師に手当てをさせました。大事無いということです……」
こうして庭で琴葉の声を聞くのは、もう何度目だろう。
イタチはゆっくりと振り返った。
相変わらずの表情が、事務的なセリフにぴったりだった。
「あの怪我は、『大事無い』じゃすまされないと見えたが……」
精一杯、冷ややかに問う。
が、琴葉はさらりと言ってのけた。
「あのくらいは日常のこと……。あの子は、あの程度の怪我に耐えられる訓練も受けています」
まるっきり、他人事だった。
連れて来た自分が、まるでおかしなことでもしたかのような言い草。
血の繋がった姉の言葉ではない。
まして、彼女に血が通っているかどうかすら疑われた。
「しかし、あのままほうっておいたら、ナナは確実に死んでいたはずだ」
ナナのことで、何を言っても無駄な土地なのは知っている。
が、今日ばかりは食い下がった。
「いいえ、あの子は死にません」
琴葉は確信を持って言った。
その瞳に、初めて氷の光以外の何かを認め、イタチは思わず黙った。
「あの子は、特別な存在なのですから……」
そして琴葉は滑るように縁を降り、イタチの元へと近づいた。
―――――――――――――――
ふた月ぶりに、ナナの元へ会いに来た。
ふた月も放っておいて……と、ナナが怒る顔がありありと浮かぶ。
本人は幼すぎて意識していないだろうが、それでいて「許婚」らしいセリフを時々ぶつけて来るのが面白かった。
だから彼は、まだ日の高いうちに和泉へ走った。
せめて久方ぶりに会える時は、少しでも長く……と。
里の結界の前からは、いつものように、ナナの蝶が導いた。
川を上り、あの滝へと行く。
ふと、ナナはまだ一族の者たちから修行を受けている頃だろうか……、そう思った。
そして、一瞬、脇の激流に目をやったとき……
「…………?!!」
黒々と濡れ、飛沫に当てられるゴツゴツとした岩の間に、赤の混じった白布が引っかかっていた。
今にも激流に引きちぎられそうな布は、まぎれもなく本家の者であることを示す白い袴。
彼は息を止め、走り寄った。
そして抱き起こしたのは、紫色の唇から呼吸音を出さぬナナだった。
―――――――――――――――
「ナナ……菜々葉が特別な存在なのは知っている」
あの総毛立つような感情を思い起こし、彼は目の前に立つ琴葉に向けて、押し殺すように言った。
「転生術とやらで『無理やり』力を背負わされたのだろう?」
しかし琴葉はちらりと彼を見て、むしろつまらなそうに呟いた。
「あの子が自分で、それを言ったのですか」
が、イタチは不愉快な気分のままに吐き捨てた。
「そうやって意図的に力を押し付けて産んでおいて、憎悪するとは勝手な話だな」
整然とした庭の花々に目を向ける琴葉の横顔に、今まで抱いた思いをぶつけるように。
「伝説の一族が、“狐”ごときに怯えるのも滑稽な話だ」
「……勝手な話とは、私も思います」
わずかな沈黙のあとに、琴葉はそう言った。
イタチは思わず、その言葉に息を呑む。
あれほどに冷たい視線を向けていた姉が、妹に対して言う言葉にしては矛盾があった。
が、琴葉は感情のこもらぬ声で続ける。
「この和泉の里が、なぜ今は木ノ葉に住まう『九尾』に対して、これほどに責任を持たねばならないか、あなたは考えたことがおありですか?」
唐突なその問いに、イタチは首を振ることすらできなかった。
そんな反応にも表情を変えず、琴葉は淡々と説く。
「本来ならば、『妖魔退治』は古くから陰陽師が受け持っていたことでした」
未知の物、人でない物を相手には、忍術は効かなかった。
「九尾が現れたとき、木ノ葉は当然、和泉に退治を依頼し、和泉の人間がそれを成すはずでした」
これまでずっと、そうしてきたように……。
琴葉はそんな心情を感じさせずに、おそらくこの地では緘口令がしかれているはずである当時のことを語った。
和泉の人間が、『神聖なる人』として扱われてきた背景には、当然、その人間離れした技があった。
忍の者でさえも、彼らの術には範疇を超えた思いを抱く。
いや、忍こそが最も和泉の人間を敬うべき存在であった。
それもそのはず、忍術とは陰陽術を起点にして生まれたものだ。
口寄せも、幻術も、結果術も……、
およそ常人には理解しがたい数々の術は、もとを正せば陰陽の術なのである。
が、しかし、その和泉の人間たちにも、盛衰はあった。
地上の神……とまで謳われた全盛期。
それを過ぎると衰退の道は著しく、失われた秘術も多い。
潜在的な能力の低下はどうすることもできなかった。
止められない退化の波に、和泉は飲み込まれていた。
もちろん、外部にそれを悟らせるようなまねはしなかった。
手にした権威と神聖さを失うようなことはできなかった。
敬われる存在から何者かを敬う存在になど、なり得るはずもなかった。
能力の衰えを晦ますように、和泉の者たちは以前よりもっと外部との関わりを避けた。
神秘さを保つことで、未だ神聖であろうとした。
そうしてギリギリのところで、うまい具合に伝説と化した一族に、ある転機が訪れた。
数年前……、九尾の妖狐の木ノ葉襲来である。
木ノ葉の上層部は、従来の習慣どおり、正式に和泉へ九尾退治の依頼をした。
だが結果として、九尾を退治したのは木ノ葉の『忍』であった。
それも、和泉に伝わる禁術を使って。
それはなぜか……。
琴葉はイタチに全てを告げた。
和泉は、九尾の襲来を予測していながらも、治める力がなかったのだと……。
陰陽の
力のある者ほど、それはより具体的だった。
が、わかってはいても、肝心の術を扱う能力が無い。
当時の当主でさえも……。
だが、突然に産まれた天才は確かにいた。
術を自ら扱えずとも、術式を理解しうる者が、あの頃ひとりだけいたのだ。
それも、木ノ葉に駐留するように置かれている、『和泉神社』に滞在していた。
彼女は、分家の女だった。
が、才ある者の宿命として、彼女はその禁術を受け継いだ。
そして、大術を扱えるほどの“優れた人物”に、それをたくした。
それが木ノ葉隠れの里、四代目火影であった。
結局、こうして九尾は『忍』が治めたのである。
この日から、和泉は木ノ葉に対して「負い目」を背負うことになった。
それも、飛び切り重いものだった。
一族の歴史を、底から覆すほどの危機……。
だから、その先の九尾に対する責任は、是が非でも和泉が負わねばならなかったのである。
地に落ちようとしている権威や神聖さを、再び浮かび上がらせるために。
その切り札が、ナナだった。
ナナを“創る”ため、一人では扱えぬ禁術を、五人も十人もかかって扱った。
禁術の内容は、「異才の再来」……つまり、能力を持った者の生まれ変わりであった。
言い換えれば『転生術』。
ナナは胎児の頃、それにかけられた。
いったい誰の生まれ変わりとして……?
それはもちろん、九尾封印の禁術を四代目火影に譲渡した後、急逝した“あの女”の生まれ変わりとして……。
「だが、ナナはナナだろう……?」
本人の幼い口から耳にした現実より、自分の言葉を信じたかった。
琴葉はそんな葛藤をすでに持っていた彼に、あっさりと同意した。
「ええ、あの子の人格は、あの子のもの……」
再びの、ナナの存在を肯定するような言葉は、やはり意外に響く。
「ここの者たちの多くは、そうは思っておりませんが」
琴葉も、そういう者たちと同じ範疇に含まれると思ってきた彼は、さらに動揺を掻き立てられた。
あれほどに冷たい視線を向けていた姉が、妹に対して言う言葉にしては、やはり……、矛盾があった。
「ここの人間は、あまりに愚かで臆病なのです」
そして、染まっていたかのように見えた色を、翻ひるがえす。
「あの女の“生まれ変わり”という単純な言葉に負かされ、ただの狐に怯え……、あの子の、背負う運命と裏腹に“無垢な姿”に嫌悪する」
琴葉の口から出るもっともなセリフに、イタチは呼吸すら忘れていた。
「あの子は、『衰退の象徴』だから、憎悪する」
威厳だか、気品だか、知らぬ空気が琴葉から発せられる。
「それでも、力に固執する」
タチの悪いことだ……と言わんばかりに、突風が吹いた。
琴葉の美しい髪が靡なびき、イタチは一瞬それに目を奪われる。
「そんな場所なのです……ここは」
それが琴葉の本当の心だろうか。
彼はそう思った。
しかし、幾たびも感じている琴葉の視線は、どうしても拭いがたかった。
彼女もナナを嫌悪し、憎悪し、忌み嫌っている者の一人ではなかったのか……。
琴葉はそんな彼の心境を悟りきったように、静かに口を開いた。
「私も、ここの人間です」
「…………」
言い知れぬ思いが、イタチに湧く。
「ここの当主になるべくして産まれた、和泉の人間です」
琴葉の真意を読み取ろうと、全力を傾けたつもりだった。
が、彼にその術などなかった。
「力を持たぬ、本家の“でき損ない”の娘です」
自嘲すら含まぬ、淡々とした言葉。
イタチの脳裏に、初めてここへきた日、「できそこない」という言葉が父親からでた瞬間にも、身じろぎしなかった彼女の顔が浮かんだ。
琴葉もまた、そう思われていることを知っていて、悲しいことに慣れてしまっている者だった。
ナナと同じように。
「だから、それでもナナを憎むのか」
そう、琴葉に問う声は、窮屈だった。
「忍のあなたには」
琴葉の視線は、こんなにも真っ直ぐで、それでいて歪んでいて……。
「純粋なまでに力を求める体を、血を、心を……」
そうやってイタチを向いている。
「止めきれないことが、わかるはず」
「…………」
しかし琴葉の声は、イタチの心底に何かを突き刺した。
「そして、“できそこない”の気持ちは、力のあるあなたにはわからない」
冷たい光が、彼の心を凍りつかせた。
「たとえ憎いと思っていても……」
脳裏をかすめる何かを振り払うように、かろうじて彼は言った。
「血の繋がった姉妹だろう……?」
そう、“誰か”の瞳を思い出しながら、彼は目の前の「姉」という存在に言う。
そして応えは返された。
「血の繋がりが、あるからこそ……」
琴葉の声は、薄ら笑いにすら聞こえた。
立ち尽くす彼の前を、再び空っ風が横切った。
その時……。
「あ……イタチ……」
障子が開いた。
「やっぱり……イタチだったんだぁ……」
弱々しくも、幸福そうなその声は、紛れもなくナナのものだった。
「ナナ……」
しかし彼の体は、溶解までには至らなかった。
「…………? イタチ、姉上とケンカしたの……?」
ナナは目をこすりながら、庭の二人を見比べる。
不自然な距離が、ナナの視線で余計にはっきりとわかった。
「二人で、お前の心配をしていたところだ……」
イタチはようやくそう言って、ナナの方へと歩み寄る。
琴葉は、彼らの存在を忘れるように、音もなく、背を向けて歩み去った。
イタチはそれを見送らず、ナナの顔色を確かめる。
ナナはちらりと姉の背を見やったが、青白い顔でイタチに笑いかけた。
「イタチが、助けてくれたんでしょう……?」
「ああ……、覚えているのか?」
小さく首を振るナナを抱き上げながら、彼はほっと息をついた。
「イタチの声が、頭の中でしてたの」
ナナは一人前にはにかんでみせる。
そんな小さな許婚に、イタチはもう一度息を吐いた。
「どこか、痛いところはないか?」
布団に寝かせて、額に手をやる。
微熱は不安を取り除きはしなかった。
「平気だよ。このくらい、慣れてるもん」
イタチを安心させたいがために、そう言う。
が、逆に刺さるような笑みに、イタチは一瞬目を伏せた。
「イタチ……?」
ナナがそんな彼に気づかぬはずはない。
「やっぱり、姉上と何かあったの……?」
だが、彼は何でもないと言い張って笑った。
ナナの方がイタチを気遣うのは、奇妙な状態だった。
「ナナ、もう少し寝ていたほうがいい」
そう言って布団をかけてやると、ナナは彼の手をとった。
そして、甘えた声で言った。
「わかったから、寝るまでここにいて……」
初めての我侭は、何故か痛々しかった。
「ああ、わかった」
そう答えると、ナナはやっぱり無垢な笑みをよこす。
そして、彼の手を必要以上に強く握ったまま、疲れたように目を閉じた。
その寝顔さえも、数多の憎しみの対象となることが悲しかった。
無邪気な笑みさえも、望まぬ力さえも……。
琴葉の言葉を心の隅に追いやるのには、当分の間、苦労しそうだった。