「誰ですかね……? ボクの邪魔をするのは……!」
カブトがクイッと片手でずれた眼鏡を直す、と、枝影から一人の男が姿を現した。
「き……キミは……!!」
ブナの太い枝に、静かにたたずんでいるのは……。
うちはイタチ……。
「な、なぜイタチ君がここに……?!」
そう問い掛けるカブトの声は震えていた。
突如として現れたこの男の強さは、あの大蛇丸でさえも『自分以上』と認める程。
カブトはゴクリと唾を飲み込んだ。
必死で頭を整理する。
何とかこの場を切り抜けねばと……。
「イタチ君……。ボクを殺しにでも来たのかい? 君にとってメリットがあるとは思えないけど……」
「…………」
イタチは答えない。
殺気すら感じさせずに、黙ってカブトを見下ろしている。
「それとも、大蛇丸様に用でも……?」
「…………」
カブトはもう一度唾を飲み込んだ。
「まさか……そこの女の子と知り合いですか……?」
カブトが言うと、イタチはちらりと、意識を失いかけて倒れているナナを見やった。
ナナも虚ろな目でイタチを見上げているようだった。
カブトはニタリと笑ってみせる。
「君もこの子に用ですか?」
瞬間、イタチの姿は枝上から消え、すぐ隣に気配を感じる。
「…………!!」
カブトはかろうじてそれを察知したが、攻撃を避ける暇は与えられず、強烈な拳を急所に喰らって弾き飛ばされた。
「ぐあっ!!」
茂みにカブトの体が沈むと、イタチはそれ以上彼に近づかなかった。
そして黙ってナナに近づき、着ていたコートをかぶせてそれごと抱き上げると、音もたてずに去って行った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
次にナナが目覚めたのは、よりによって発作のせいだった。
息をもできぬほどの苦痛と、自分の名を呼ぶ低い声で、ナナは現実に舞い戻る。
「……うっ……」
うっすらとまぶたを開いた先にあったのは、懐かしい漆黒の瞳だった。
暗闇の中に、その美しい瞳がはっきりと見える。
(イ……タチ……)
息を整えつつ、ナナは体に与えられるぬくもりを感じた。
……夢よりも……夢のようだった。
今ナナは、イタチの腕の中にいる。
(……イタチ……)
イタチはナナの焦点が合うのに合わせて、そっと乱れた前髪を払った。
その表情は動かないのに、仕草はとても優しい気がした。
(……どうして……?)
その優しさを、すんなりと受け入れることはできなかった。
ナナの中に、ぼんやりとした疑問が浮かぶ。
だが、イタチは静かに視線を外した。
(どうして……イタチが……)
はっきりしていく意識に比例して疑問は膨らむ。
そんなナナを片手で抱き起こしたまま、イタチは枕もとにあった水を取った。
差し出されたそれを、ナナは受け取らなかった。
「……イタチ……」
そして初めて彼の名を呼んだ。
「どうして……?」
彼の双眸を見上げ、問うた。
「どうして……助けに来て……くれたの……?」
自分の声が耳から入る。ひどく掠れた声だ。
情けなく思うと同時に込み上げる、苛立ちに似た感情。
整理のつかない、名前のない、感情。
ありえもしない優しさと懐かしさが、それを痛いほどに湧き上がらせる。
「どうしてあの時、私と戦ってくれなかったの……?」
そう……“あの時”さえも飲み込んだはずの感情が。
「私はアナタを……殺すつもりだったのに……」
鎮める術を持たなかった。
「どうしてっ……」
「どうして」が渦を巻く。
あのとき一緒にいた男は?
今は何をしているのか?
あの後どこにいたのか?
どうして木ノ葉を去ったのか?
どうして自分の前からいなくなったのか?
今、何を考えてここにいるのか……?
「どうして……今さら現れるの……?」
聞きたいことが山ほどあるのに、喉が締め付けられるようでそれ以上は言葉にならない。
「どうしっ……!」
いや、あふれ出すほどの言葉が詰まったのは……。
『どうしてサスケを傷つけたの?』
ここで「サスケ」の名前を口にする勇気がなかったからだ……。
「イタチ……!」
涙だけは懸命に堪えた。
泣きつく代わりに、彼の服を掴んで揺さぶった。
うまく力が入らなかった。
が、彼の身体はわずかに揺れ、椀の水が言葉の代わりに溢れ出た。
かけられていた彼のマントに、暗い染みが広がる。
と……。
「ただ……」
しばしの沈黙の後、とうとうイタチは口を開いた。
「ただ、お前の式神が俺の前を飛んでいた。それだけだ……」
あっさりと吐かれた、そっけない台詞。
目も合わせてくれずに……。
「そんなのっ……!」
失望は瞬時に怒りへと変わり、ナナはますます強く彼を揺さぶった。
だが……。
いっそ殴りかかろうと身を乗り出した瞬間、ナナは息を飲んだ。
不意に、瑠璃の蝶が鼻先に現れたのだ。
それはひらひらと二人の間で舞った。
かつてと同じように。
「…………!」
とても懐かしい光景だった……。
いっそ夢かとまがうほど。
懐古はナナの波打つ心を一瞬で沈めてしまった。
代わりに滲み出すのは悲愴か諦念か……。
疲れがどっと押し寄せたようで、ナナは押し黙った。
しばし、二人で蝶を見つめた。
イタチも見ていたのだ。
目が合いそうになって、イタチは向きを変えた。
そして椀に水を注ぎ足すと、再びナナに差し出した。
「水を」
何の変哲もない湯飲み茶碗。
波紋を広げるただの水。
ナナは素直にそれを受け取り、飲み干した。
「けほっ……」
窮屈だった喉に水を無理やり流し入れたため、無様に咳き込んだ。
背中を、イタチの手がさすった。
息を整えると、その手は元の肩の位置に戻った。
「ナナ」
椀を元に戻すと、イタチが口を開いた。
自分を呼ぶ声……。
今ではすっかり慣れてしまっていたが、その呼び名は最初、イタチだけのものだった。
懐かしさに眩暈がしそうだった。
「なに?」
今さら平然と応えてみせる。
イタチは言った。
「……さっき、胸を抑えていたが……」
反射的にうつむいた。
こちらの問いにはひとつもまともに答えてくれないくせに、そっちが問いかけて来るなんて……。
恨めしく思った。
だが、それを言葉にする気力は無かった。
「……あれ、病気じゃないよ。怪我もしてない……」
だから、そんな曖昧な答え方をするしかなかった。
が。
「『覚醒』……か……」
イタチは知っていた。
一族の人間しか知らないはずの『覚醒』を彼が口にしても、驚きはしなかった。
きっと、幼い自分が彼に話したことがあったのだろう。
よく覚えていないが、あの頃はイタチにはなんでも話していた。
懐かしい…。
「いつからだ?」
「アナタに会う……少し前から……」
「まだ、痛みは続くのか?」
「たぶん、もうすぐ終わる……」
「そうか」
あの頃とは、声音も視線も全く違うのに、それでもイタチになんでも話してしまう自分が、懐かしかった。
「何故、ひとりであんなところにいた?」
観念したつもりはないが、意地を張るのも疲れていた。
「こんな状態だから、任務をすっぽかして里に帰る途中だった。何の任務かは……言えない」
「カブトと何があった?」
「カブトに……、大蛇丸に捕まったんだけど、逃げ出して来た。でも、また捕まりそうになってたところ」
「大蛇丸だと?」
初めてイタチの感情が動いた気がして、顔を見上げる。
整然とした表情は変わらなかった。
だから、ナナは自分から続けた。
「呪印を付けられそうになったから、自分で『とじめのみたま』を飲んだ」
「あれを……?」
イタチは『とじめのみたま』も知っていた。
「カブトが解毒したんだと思うけど……そもそも私には
醜く笑うと、イタチは息をついた。
全てわかっているかのように。
「毒は……?」
「痺れもないし、もう少し休めば抜けると思う……」
「そうか……」
今度はナナが息を吐いた。
『大蛇丸がナナを捕まえた目的』よりも、『毒の影響』を心配している……。
そう思うのは気のせいだろうか。
確かめるようにイタチを見上げた。
冷たい表情は変わらない。ちっとも懐かしくはなかった。
だが。
「ねぇ、イタチ……」
疑問はもう口にはしない。
ただ、試すようにこう言った。
「大蛇丸は……、サスケの……身体を乗っ取るんだって……」
強烈に胸が痛んだのは、彼の前で「サスケ」の名を口にしたからだ。
「サスケ……に呪印を付けて、いつか奪おうとしてる……」
これだけ犠牲を払ったのに、イタチの顔色は少しも変わらない。
そのことを知っていたのか知らなかったのか。
“弟”を案じているのかいないのか。
ナナにはわからなかった。
が、ナナは続けた。
「『和泉流陰陽術』の……『転生術』が関係してるのかもしれない……」
『転生術』という禁術に触れても、まつ毛を揺らすことすらない。
ナナはうつむいた。
諦めて、ため息を付くように言った。
「そして、私に子供を産ませて、次はその子供の体を乗っ取るんだって……」
今さら、部屋の隅の暗闇を見つめて。
「ねぇイタチ……私は結局、和泉の血をもつ『道具』でしかないのかな……」
ただ、そうつぶやいた。
変わらない表情……いや、変わってしまった眼差しを認めるのが怖くて、悲しくて、ナナはもうイタチを見上げることができなかった。
「今は少し休め、ナナ」
乾いた声が降って来た。
もう一度ため息をつき、くたくたの身体を横たえた。
イタチの手はずっと身体を支え、最後にはマントを肩までかけた。
だから。
「イタチ……」
そのかすかな温もりだけを信じて、もう一度彼を見上げた。
「ありがとう……」
優しくもない視線を確かめて、焼きつけて、目を閉じた。
目覚めるまでここにいて……なんて言わなかった。
心からの感謝と失望を胸にしまって、ナナは全身を覆う倦怠感に身を任せた。