里を見渡せる崖の上で、私は空にかかる巨大な満月を見上げていた。
私の周りを、瑠璃色の蝶が心配そうに回っている。下から吹く冷たい風は強く、羽を手折られそうになっていた。
でも、それすら気にかけられないほど、私はまるで月に魅入られたように、色の変わった草の上に座り込んでいた。
この月に、私はまた同じ悪夢を見る。
月と蝶(前編)
あの夜、こんな大きな月の下で、私は同じように一人で座っていた。
もう何が原因だったのか忘れてしまったけど、すごく泣きたい気分だった。
孤独が怖くて、私に課せられた使命に押しつぶされそうな、いわゆる『まいっちゃってる』夜だった。
だから、“彼”が来てくれる予感がしていた。
いつもいつも、私がどうしようもなくなった時に不思議と現われて、黙って側に居てくれるから、その夜もそうなんだと信じて疑わなかった。
そして、“彼”は本当に現われた。
私の『式神』である瑠璃色の蝶が、いつものように彼を導いて飛んで来た。
ヒラヒラと舞いながら肩に止まったそれを私が消したと同時に、彼は静かに現われた。
誰もいない『和泉の里』の滝の上で、忍の彼と陰陽師の私がまた出会う。
私は修行で痛む体も忘れて、彼に飛びつこうとした。そうしたら、彼は決まってそっと抱き返してくれるはずだから。
だけどその日、私は現われた彼をひと目見て、たちまち動くことができなくなった。
『……イタチ……それ、どうしたの……?』
私の声は、情けないほど震えていた。
彼……イタチは、ゆっくりと私に歩み寄った。
その彼の『額当て』には、真新しいひと筋の線が入っていた。
忍ではなかった私にも、その意味くらいわかる。
私は、イタチが木ノ葉隠れの里を捨てたのだと知った。
その私に、イタチは陰かげのある瞳で、恐ろしいことを告げた。
『ナナ……お別れだ……』
私は、その言葉に驚きはしなかった。
強がりじゃなく、いつかこんな日が来ることを、とっくに知っていたからだと思う。
いつも陰かげりのある、それでいて綺麗キレイな瞳をしたイタチが、何かを内に秘めていることを知っていた。
決して、いつまでもこうして会いに来てはくれないんだと、ちゃんとわかっていた。
いつか、彼の抱える『悲しくて恐ろしいこと』のために、彼は全てを捨て去って行ってしまうと……そんな気がしていた。
そして再び出会ったのなら、私はきっと彼の“敵”なんだと……そういう気がしていた。
『イタチ、私はあと二年したら木ノ葉の里へ行って忍になるよ……』
『……ああ……』
『そうしたら、私はイタチの敵だよ……』
何かを確かめるように私はつぶやいた。
『……そうだな。もし出会うことがあれば、お前はオレを殺せばいい……』
イタチはそんな悲しいことを淡々と言ってのけた。
私が必死で泣くのを我慢していると、十分わかっているはずなのに。
だけど……。
その時まで私が生きてこられたのは、間違いなくイタチの存在のおかげだった。
私が、呪われた一族に生まれた
『たとえこれからがそうでも……、たった今まで私が生きてこられたのは、イタチがここへ来てくれたからだよ……』
私はつたない言葉で精一杯そう告げた。
イタチは、相変わらず氷のような目でこう返した。
『ただ、戯れの時が終わっただけだ……』
イタチと私。共に力を持つ者として畏怖の念を抱かれた孤独な存在。
そんな共通点のあった二人が、ただ単に一緒にいただけの時間だったのだと、イタチは告げた。
ただ単に、気休めの時間だったのだと。
私は彼を責めなかった。
たとえ彼が本当にそう思っていたとしても、私にとってこれまでの時間は、『イタチの存在』がなにより大切だったのだから。
私はそれを失おうとしていても、ずいぶんと前から悟っていたことだから、幼いながらに引き止めてはいけないことを知っていた。
それは必然で、止めようがない瞬間だった。
私は思いっきり唇をかみ締めていたけれど、痛さは少しも感じなかった。
ただ、のどが焼けるように痛く、苦しかったのは覚えている。
私は涙ともうひとつ、決して言ってはいけない言葉が出てしまうのを必死にこらえていた。
『ナナ……お前は強い……』
その時、イタチは唐突にそう言った。
私がはじめて聞く、苦しげな声だった。
私は彼の瞳を見て、息を呑んだ。
私に向けられていたのは、闇より暗く、強い意思を宿した瞳だった。
(私は……強い……?)
いつもイタチに甘えていたのに、イタチはこんな時になってそう言った。
私は血の気を失って、震えていた手をギュウと握り締めた。
いつもの自分を必死で取り戻そうとした。
イタチの知っている私でいられるように。
『……イタチ……』
私の声はずいぶんと情けなかったけど、はっきりと言った。
『私に、何か残して……』
『…………』
『イタチがここに来てくれた思い出を残して』
思い出なんて辛いだけだと、そういう人もいる。
まして、これから敵になってしまうという相手の思い出なんて、無い方がいいのかもしれなかった。
だけど、私はイタチと過ごした時間の『証』を望んだ。
『それがあれば、次に会った時、ちゃんとイタチと戦える“強さ”を持てる気がするから……』
言葉の最後はカスれてしまったけど、イタチはちゃんと聞いていてくれたと思う。
彼は、少しの間ためらった。
それがまた、彼のやさしさなのだけれど、彼自身、そんなことには気づいていなかった。
私にはその時間がすごく長く感じられた。
そしてイタチは黙ったまま、相変わらずのキレイな仕草で、左の袖に手をやった。
月明かりの下、シュルリと長いものが弧を描いた。
それは、いつか見た彼の瞳の色と同じ、深い深い真紅のサラシだった。
いつも彼が左の二の腕に巻いていたもの……。
彼は私に、それを手渡した。
『ありがとう』
笑わなきゃ。そう思った。
『さようなら』
うまくいったかは今でもわからないけど、イタチの目は一瞬だけ悲しげに揺れた。
そしてとうとう彼は、満月の中に溶けるように消えていった。
長い黒髪を、美しくなびかせて……。
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私は、そっと左の腕に触れた。
袖の下に、真っ赤なサラシが巻かれている。
彼の生まれた忍の里へ来て初めて、これは『暗部』に属するものがその『証』として刻まれた刺青を、普段の生活の中で隠すために巻いているものなのだと聞いた。
これに触れるとき、確かに私はイタチに去られたあの夜を思い出して、泣きたくなった。
だけどそれよりも、彼がくれた強さの方が勝った。
これがあるから、泣かずにいられた。
イタチが残した『矛盾』……。
「イタチ……今、どこにいるのかな……」
ため息は、夜風にかき消された。
「まさか、死んでないよね……」
大丈夫。イタチは強いから。と確信して、私は年に一度の言葉をつむぐ。
「イタチ……。私、あの時……」
満月だけに聞こえるように恨み言。
「……連れて行ってほしかったな……」
そんなことを言ったら、イタチの知ってる私じゃなくなる。
そう思って言えなかったけど……。
私はもう一度、左の腕に触れた。
その時、視界の隅を瑠璃色の舞いがかすめ飛んだ。
それでふと思う。彼とよく似た顔。
今日のこの日、サスケはどうしているのだろう。
あの日、同じようにイタチに捨てられた彼は、悪夢を見てはいないだろうか……。
イタチに聞いていたより静かで、優しいサスケ。
イタチに聞いていた通り優秀で、強いサスケ。
そして、イタチに聞いていたのと違う、暗くて冷たい空気の……。
私はしばらく考えて、ゆっくり立ち上がった。
イタチよりずっと悲しい目をしたサスケを思うと、じっとしていられるはずもなく……。
今度は私を導くようにと、瑠璃の羽に命じた。