右手の痣がウソのように消えた頃、ナナは『和泉神社』へ来ていた。
つい先日、演習の事件について老女に呼び出され、厳しく追及されたばかりである。
今度は何か不満なことでもあったのかと少々うんざりしながら、ナナは相変わらずひと気の無い本堂で老女と見える。
「今日は何の御用ですか?」
早く帰りたくて、ナナは理由をせかす。
今日は何故かイルカに気合が入っていて、宿題が山のように出た。
ナルトの遅刻のせいもあるだろうが……。
「実は……、和泉の里が大変なことに……」
しかし、珍しく言いよどんだ老女に、ナナの上の空は終わりを告げる。
冷たい予感が、背を伝った。
「大変って……何があったの……?」
……一分間……。
おそらく静葉は、そのくらいの時間を押し黙っていた。
あれほど自分に関わる任は早く片付けたがっていた静葉が……である。
ナナは次々に湧く胸の騒ぎを押し込めた。
静葉はやっと、自分を取り戻したように姿勢を正す。
そして、あの刺のある声で告げた。
「あなた様の姉上が、亡くなられました」
一瞬、誰のことだろう……そう、思った。
それほどに、親しく『姉』と呼んだ記憶は少ない。
自分が隔離されるようにして育てられたせいもあるが、交わした言葉すら、ほとんど思い出せなかった。
「姉上が……?」
曖昧な衝撃のまま、聞き返す。
「昨夜、本家の御堂にて、御自害あそばされたということです……」
「ジガイ……?」
青ざめる……その言葉を、身をもって知った瞬間だった。
「な、なんで、自殺なんか……」
否応なしに取り乱すナナを見下ろして、静葉は逆に普段の己を取り戻す。
「遺書はなかったらしいのですが、ご自身の短刀で喉元を一刺し……との報告を受けました」
淡々と告げた視線の意味は、ナナにもわかった。
まるで、『アナタのセイよ』……そう、言っているような目だった。
でも……。
「どうして……」
姉が何を考え、何を望み、何を糧に生きてきたのか……。
今更ながら、何一つ知らなかったと思い知らされた。
が、静葉の目が責めるとおり、姉が何を不満に思っていたのかは知っていた。
姉が憎み、疎ましく思っていたモノ。
それは自分……。
和泉の人間ならば必ず知っている構図である。
化け物のような力を持った妹と、落ちこぼれの本家の長女。
後者が何を思うのか……。
当人同士でなくとも、測ることはたやすかった。
現に、こんなに離れたところに生きる静葉でさえ、その図解を手にしている。
「菜々葉様、お気をつけなされませ」
それを思うと同時に、事務的な声が突き刺さる。
「当主の長子が自害なさったのです。その『恨み』、陰陽の術で表せば、どれほどの大きな力となるか……」
険しい顔は、ナナを気遣ってなどいなかった。
「……それが降りかかれば、いくらあなた様でもご無事でいられる保障はないのですよ」
万一、ナナに何かあったなら、和泉の里から責めを受けるのは彼女だろう。
責めといっても、『ナナ』にではなく、『木ノ葉に対して責任を負う和泉のモノ』に、不測の事態があっては困ると、そういうことだろうが。
なぜなら、もしナナを失えば、新たに九尾の器として和泉の者を木ノ葉に遣わさねばならなくなる。
『負い目』もまた、濃くなるだろう。
「どうか、しばらくは御身に気を配りなされますよう」
全て知っていて、姉の真の想いだけを知らぬまま、ナナはうなずくしかなかった。
それから一週間が過ぎた。
ナナの身には、何事も降りかからなかった。
その間にこうむった主な被害とは、隣のクラスの“くのいち”に、鉛筆を折られたり傘を隠されたことくらい。
丑三つ時に荒ぶる霊魂を2、3体鎮めたが、その時すら何事も起こらなかった。
(姉上……なんで自殺なんかしたんだろう……)
ただ、その思いだけは始終まとわりついていた。
うっすらと思い出す、美しい分だけ冷たい姉の顔。
和泉の血を色濃く継いだ顔立ちだった。
最も印象的だったのは、あの瞳……。
和泉の人間が、自分を見る目は二種類あった。
ひとつは、自分の力を憎む目。
他でもない、父親である当主の目がそうだった。
もうひとつは、自分の力を恐れる目。
もっとも強くそれを表していたのは、母親という人の目だった。
姉の目は、そのどちらでもなかった。
ただ、何の感情もない瞳で、自分を見ていた。
それが氷のようだったのははっきりと覚えている。
(姉上……)
自分が何をしたのか……問われれば、何の覚えもない。
が、少なくとも自分という存在を恨みに思って、自ら死を選んだのだろうという気がした。
しかし、『何故』という疑問は、ナナを余計に苦しめた。
こんな風に、『九尾が暴走したときのための器』として育てられた自分を、姉は最も近くで見ていたはずである。
そんな姉が、羨やんだり、恨んだり、そういう感情を持っていたとは考えられなかった。
もし、姉よりも自分が力を持っていたこと自体を恨んだとしても、どうせ和泉の後継ぎは姉である。
比べて、自分は遠く木ノ葉で、『事態』に備えて生きていくにすぎない。
では何を望み、何に怒り、何を恨んで死んだのか。
まさか、世を儚んで死を望んだわけではないだろう。
あの瞳には、確かに冷めた影はあったが、『儚い想い』のために自らの命を捨てるような人ではなかったはずだ。
あるいは、父親へのあてつけか……。
「おい、ナナ……」
不意に呼ばれて、ナナは我にかえる。
「……え……?」
「『え?』、じゃねーよ……」
呆れたようにこちらを向いていたのは、サスケだった。
「終わったぜ、授業……」
「え……うそ……」
気づけば、周囲は帰る準備で慌ただしい。
「どうした。最近いつもに増してボーっとしてるぜ」
自身もカバンに道具を詰め込みながら、サスケが低い声で言う。
あの『脱獄犯遭遇事件』以来、サスケがさりげなく自分の方を伺っていることには気づいていた。
十中八九、ちらりとみた『結界術』。
サスケの眼が、一瞬でも
そして、それを訝しがっていることも……。
だが、サスケは何も聞いてはこなかった。
「あ……ううん。大丈夫……」
何とかそう答えた時、サスケはすでにさっさと立ち上がっていた。
が、去り際に一言だけ、置いて行った。
「また……勝手に独りで抱え込むなよ……」
怒ったような余韻を残し、クラスの女子に捕まらぬよう足早に教室を出て行く彼の背を、ナナは見えなくなるまで眺めていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一通の手紙を読み返してクシャリと潰す。
静葉に渡された故郷からの味気ない文だった。
内容は、ただ淡々と書かれた、報告書以下の『姉の死』についての知らせ。
そして付け足したように、『後継者となったので一度里に戻って来るように』と……。
いい加減あきれる……そう思って、手紙を千切り捨てた。
粉々になったそれは、一瞬にしてバラバラに空へと舞い上がった。
ナナは独り、火影岩のてっぺんに居た。
まだ
そして、始まってからも……。
木ノ葉へ来て初めてだった。
誰かに会いたい、人といることが楽しい……、そんな毎日のはずだったのに、その日はいよいよ心が地に這いつくばっていた。
考えるのは、姉のことばかり。
恨んでいたのなら、せめて怨霊とやらにでもなって襲いに来てくれれば……。
そう思いさえした。
姉のことを
故郷にいた頃も、こんな日が無いわけではなかった。
どうすることもできない、独りきりの空気。
『孤独』などという言葉さえ不似合いな、自分の居場所が彷徨う時間。
そして……、そんな時に……。
わかりきったかのように、現れる黒い瞳……。
(……イタチ……)
ナナは木ノ葉へ来て初めて、赤のサラシに手を添えた。
その時……。
「何やってんだよ」
ここに、あるはずのない声がした。
「このウスラトンカチが……」
すでに聞きなれた不機嫌なその声に振り向くと、やはり、機嫌を損ねた目つきが自分を見下ろしていた。
「サボっちゃった」
少し、笑う。
(なんで……わかるんだろう……)
そんな想いを浮かばせたまま。
「忍者学校を見下ろしながらのサボりとは、ずいぶんな身分だな」
皮肉を言いながら、眼下に見える忍者学校の屋根を顎でさす。
真昼の日に染まったそれは、今日は違う建物に見えていた。
あそこには、まだナルトたちがいるというのに。
それに、サスケもあそこにいるはずなのに……。
「サスケは、何でここに……?」
平坦に出したつもりの声は、ぎこちない音程であった。
ポケットに手を突っ込んだまま、サスケは隣に座る。
「つまらないから抜けた……」
微妙に開いた距離。
それでもこの瞬間にサスケが隣にいることは、とても自然に感じられた。
(なんで、かな……)
そう思って、横顔を見つめる。
キレイに揺れたサスケの黒い髪が、“何か”と重なるように見え、ナナは抱えた膝に顔をうずめる。
(なんで……わかるの……?)
偶然が、自然だった。
それが、不思議だった。
だが今は、それも苦しい。
だから……湧き上がるのは不可思議な苛立ち。
(なんで……)
腹の底から突き上げる想い。
「ナナ……」
だから、呼ばれた声に答えることはできなかった。
「ナナ」
それでも、再び引き上げる声。
「チッ……勝手にヘコんでろ……」
かと思えば、愛想をつかしてため息をつく声。
そんなふうに吐き捨てながらも、一歩も動こうとしないサスケが、ますます腹立たしかった。
「姉がっ……!!」
わかるから。
サスケの不器用なやさしさが、わかってしまうから。
「姉が、死んだんだっ……!」
その苛立つモノを投げ返すように、ナナはサスケに吐き出した。
「自殺っ、したんだって……!!」
サスケは何も言わなかった。
だから、ナナは全てをサスケの隣で吐き出した。
「私、あのヒトが何を考えてたかなんて……全然知らなかった……!!」
ただ、抱えている想いを。
独りじゃどうしようもない、そんな想いを。
まるでサスケを責めるように……。
「それで、自分を責めるのか?」
しばらくして、そう問われる。
「血が繋がってたって、何を考えて、何を感じて生きてるか、わからないこともある……」
そして、そう呟かれる。
ナナは思わず顔をあげた。
彼が何を言おうとしているか、わかってしまうから。
“誰”のことを、今思い浮かべてそんな目をしているのか……。
それは余計にナナの心をかき乱す。
「サスケは私を知らないクセに……!!」
突然口をついた、そんなセリフ。
サスケが少しだけ顔を引きつらせたのがわかった。
「大丈夫だから……」
再び膝に顔をうずめ、うめくように呟いた。
「もうほっといて……」
トドメのようにそう呟いて、去ってくれることを願う。
今、これ以上サスケの空気を感じたら、どうにかなってしまいそうだった。
「チッ……」
いよいよサスケも、見切りをつけたような舌打ちをする。
「本当にウザイな、お前」
そして、空気が冷たく揺れ、今度は上から声が聞こえた。
「いつもいつも、何だかしらねーが……」
彼は立ち去りもせず、似合わぬ心の乱れを降り落とし……。
「ヒトリで抱え込んだつもりでいて……」
そしてナナの乱れも誘う。
「見ててムカつくんだよ……っ!!」
もう、抑えは効かなかった。
「それはっ……!!」
立ち上がって彼の黒い瞳に叫ぶ。
「それはサスケの方じゃないっ……!!!」
初めて声を荒げたナナに、サスケは一瞬、驚いたように見た。
それでもかまわなかった。
「サスケの方が、ヒトリで抱えて、スタスタ行っちゃって……!!」
喉が痛むほどに、想いを投げつけた。
「見てて腹が立つ時があるよっ……!!!!」
誰も寄せ付けないで、いつもひとりで拳を握っている。
心を休めることもなく、強さを求めて、己の体の声さえ聞かず……。
そんな彼に対し、『悲しみ』よりも、『辛さ』よりも、『怒り』を覚えることが確かにあった。
それなのに、サスケは……。
「それはこっちのセリフだ……!!」
「私のセリフだよっ……!!!」
二人の息で、葉が震えた。
「サスケは私のこと、全然知らないくせにっ!!」
知らないはずなのに、
「何で全部わかったみたいに言うの?!」
『独りで抱え込んでいる』と、なぜそう言うのか。
そんなつもりはないのに。
そんなつもりでいたくないのに。
「なんでっ……!!」
わかっているかのように、こんな時に、こうして隣にいるのか……。
たとえこれが“ただの偶然”であっても、ナナはそれすらも怒りに思う。
「お前だってオレのこと何にも知らないだろ……!!」
眉間の皺に、止めどない感覚のまま叫びそうになった。
『私は知ってるよ!!!』
歯が軋むほど、我慢しなくてはならない言葉。
『ずっと前から知ってるよっ!!!』
その存在も、抱えた闇も……。
それを知っていて、それを目にしているから……。
だから腹が立つ。
あんな傷をつけられて、どうしてそんなに強いのか……と。
どうしてこんなに、やさしいのか……と。
思ったら、タガなど初めから無かったかのように姿を消した。
でも……。
「なんでもないから、ほっといて……!!」
精一杯押し殺してみても、溢れ出した感情は簡単にもとの在り処に帰ることはなく……。
肩を震わしながら、ナナは言った。
「なんで、私にかまうの……?!」
また、振り出しに戻る感情。
いや、加速する何か……。
「サスケが独りでいるのなら……!!」
揺れる拳が、サスケの胸を叩く。
「私のこともほっといてよっ……!!!」
思ったより、細くはなかったサスケの体。
そして拳は彼の両手に、簡単に拘束される。
息を止めて、歯を食いしばった。
サスケの手の中で、震える拳が情けなかった。
サスケを突き放すつもりで、こんなにも近くにある彼の存在が怖かった。
一歩も遠ざからない、眼下の足が辛かった。
ただ、心だけが痛みながらも、サスケの名前を叫んでいた。
サスケ……
サスケ……
サスケ……