川の音がした。
あまり好きな音ではなかった。
草の匂いも、こころなしか水の香に薄められていた。
『私ね、水が嫌いなの』
ふと、そんなセリフが思い出された。
自分の言葉と気づくのが後だった。
そして、つづけざまにあの光景が脳裏に浮かぶ。
サスケ……
ナナはゆっくりと目を開いた。
片手の先が、水に漬かっていた。
(……冷たい……)
痛い……より、そう思った。
いつもの半分くらいしか、息が吸い込めなかった。
それでも、ナナはゆっくりと顔をあげた。
その耳に……聞こえてきた声。
その瞳に……移った姿。
「サスケ……?!!」
声になったか、ならないか……。
激しい動悸にさらに呼吸を乱されながらも、ナナの意識は完全に『サスケの姿』に奪われた。
川の上に浮かび上がるサスケは、あの海でナナの隣にいたサスケじゃなかった。
呪印を顔に浮かび上がらせた顔でもなく……。
バケモノのように、背から何かを生はやしたサスケが居た。
(……サスケ……?)
それが、ナルトを殴り飛ばす。
力を手にし、笑んでいる。
サスケじゃない……
そう思うほうが簡単だった。
だが、そう思えないほどのリアルさで、バケモノのようなサスケの姿が瞳にはいりこんでいた。
(行かなくちゃ……)
止めなくちゃ……
奇跡的にそう思い起こせて、ナナは川から腕を引っ張り上げた。
だが……。
起こそうとした体は、再び地に押し戻された。
土が口に入る。
草が頬を切る。
が、すぐに視界は上へと反転した。
「……うっ……」
衝撃から一瞬で覚め、目を開けると……、そこに空は無く、あったのは、影を落とす姉の顔……。
「…………!?」
激しい憎しみに燃える瞳が、金に光って自分を見下ろしていた。
汚れ、乱れた髪が、ナナの頬に降りかかっている。
首にはまた、冷たい手が絡みついていた。
「少しばかり、やりすぎよ、菜々葉……」
狂ったような歪な視線で、琴葉はナナを捕らえる。
「あなたはもっと、苦しんでくれなくちゃ……」
己自身、そうとうなダメージを受けているはずなのに、何も感じないかのようにいるのが不気味だった。
「あんなふうに、“全てを受け止めたような顔”で私を消そうとするのはよくないわ……」
操っていた『物体』を保つ霊力が損なわれ、姉の『肉体』は姿を変えていた。
右半身からは皮膚が剥がれ、ところどころから肉が落ちている。
左半身からはあばらや肩の骨が突き出ている。
「あなたはね……菜々葉……」
ボタボタと肉片や体液を草に沈めながら、琴葉は残酷に言った。
「あなたは心の淵まで絶望して、流す涙も無くなって……、“自ら”生を失うべき存在よ……!!」
琴葉の望む、遊びが終わる時。
これが、描いていたシナリオ。
「だから……」
朽ちる『肉体』を気にもとめず、目だけを激しく光らせて、琴葉はナナの髪をわしづかみにした。
「……ぐっ……」
そして狂気の顔を作って言った。
「だから私が、もっと傷をつけてあげる……!!」
そして、ナナの左腕に爪を立て……朱のサラシを引き千切った。
「やめてっ……!!!」
目の前で、千切れた朱の想い。
それは同時に、ナナの最後の力が引き裂かれた瞬間……。
「いい悲鳴だわ、菜々葉……!!」
今までで一番楽しそうに笑い、琴葉はボロ布を川へ放り投げた。
そして……言った。
「『イタチの思い出』がなくなって悲しいの? 菜々葉」
知っている……?
琴葉はあの日……を知っている。
イタチが里を捨て、幼いナナを捨てて行った、あの夜を……。
「…………!!」
ナナは金の瞳を凝視した。
「あの日、あなたは泣きもせず、追いすがりもせず……、ずいぶん聞き分けのいい子だったわね」
なぜ“あの日”を知っている……?
思うナナの頬に、琴葉の息が降りかかる。
「言い忘れたけど、今の私は『
改めて、姉の体が『霊体』なのだと実感する。
いや、そんな暇もなく、ナナは姉にしたたかに殴られる。
「この目も……!!」
息もつけぬほど、激しい拳。
「この耳も……!!」
感情そのものが、カタチとなってナナの体を攻め立てる。
「この舌も……!!!」
痛みはもう、長い間奥に隠していた『恐怖』と簡単に繋がった。
「全部奪ってやりたいっ……!!!」
抗う『強さ』は、もう引き千切られてしまったから。
「でも菜々葉! あんたには、もっともっと……!!!」
血の味も、姉の声も、初めて触れるように恐ろしい……。
「もっともっと、見て、聞いて、言って、苦しんでもらわなくちゃ……!!!」
憎悪……。
快楽……。
もう、ナナには、向けられるモノがどちらなのかわからなかった。
ただ、さっきまでの決意も、想いも、あんなに必死で掻き抱いていたものが、すべて……。
「フフフ……」
琴葉の狂喜に犯されていた。
「もう抵抗する心もないの? 菜々葉!!」
琴葉は高く笑い、虚ろになるナナに顔を近づけた。
そして、真新しい、それでいてボロボロに汚れたベストを引き裂いた。
「やっ……!!」
喉の奥から反射的に漏れたのは、情けない『怯え』だった。
それをうっとりと聴き止め、琴葉はナナの露あらわになった懐から、“隠し武器”を奪い取る。
あの、一本のクナイを。
「これも、イタチにもらったんでしょう?」
「…………!!!」
見開いたナナの瞳は、あまりに無防備すぎた。
「イタチに救われた時に」
そこに付け入る……容赦ない言霊。
「やめ……て……」
『何で知っているのか』なんて言う余裕はなかった。
ナナは次に襲う琴葉のそれを、察して震えた。
歯が鳴る程に……。
「フフ……」
これこそが、琴葉の最も欲しているものと知りながら、抑えきれない恐怖……。
「サスケ君が好きなあなたが……、そのサスケ君が『殺したいと』願う相手に救われるのって、どんな気分なの?」
「…………!!!」
片手で首を締められているせいでもなく、ナナは呼吸を奪われていく。
「サスケ君を好きなクセに、イタチに護られるあなたはナニ?」
言葉は、防御力を失ったナナの心に侵入し、そこにあるものを片っ端から破壊する。
「イタチの想いも知ったクセに、サスケ君への想いを認めるあなたはナニサマ?」
瞳を閉じろ……耳を塞げ……
心を閉ざせ……
そんな命令も、琴葉の言葉が寸断する。
「今、この状況は全て、イタチが作ったものなのに」
「…………?!!」
言霊が、ナナの中の何かを捕らえた。
その瞬間、津波のように押し寄せる現実。
この状況……。
イタチが産んだ……?
サスケの憎悪を。
仲間の戦いと傷を。
この胸を刺す、激しい痛みを……。
もたらしたのは……イタチ。
縋すがり続けてきた、イタチという存在。
「あら……」
狂喜の琴葉に、少しの驚きが浮かんだ。
「あなたの涙を見るのは、あなたが3つの時以来かしら……菜々葉」
伝うモノの温度も知らず、ナナはただ、草に沈んでいた。
「菜々葉、あなたには……」
これ以上、破壊されるものは無い……それくらいに全てを失った。
「サスケ君への想いを抱いて生きることすら、許されないわね」
生きる……?
それすらも、本当は許されない……。
そんな疑問に、かつてなら自嘲できただろうか……。
「菜々葉、例えば……」
琴葉の握るクナイが、宙でキラめいて、ナナはそれを見つめているのに、
「コレすらも失ったら、あなたはどう生きるの?」
逃げる力もないままに、呆けたように首を振る。
(ヤメテ)
琴葉は心底幸福そうに笑み、ナナにクナイを突き刺した。
「……っ……!!!」
ナナの心臓の真上、あの『刻印』に……。
「コレすら無くしたら、あなたは何のために存在するのかしらね、菜々葉!!!」
興奮したように、琴葉はクナイを再び振り上げる。
切っ先から滴った自らの血を浴びながら、ナナは『痛み』さえ届くことのない闇へと……、その魂を誘われて行った。