空が白み始めているのが、木々の狭間から見える。
間もなく夜明けだが、カナエは未だに鬼の影も形も見ていない。薄暗いのが少し不気味だったが、何とも静かで落ち着いた雰囲気の樹海だった。
(夜が明けたら、どうするのかしら)
未だに鬼の手掛かりはない。
夜間は鬼の捜索を行うが、陽が出ているうちは鬼も活動ができないので調査の仕方が変わる。恐らくは、鬼の痕跡や人間の遺体などを探す形になるのだろう。それらも、カナエが今まで調べていた場所にはなかったので、それを飛比路と共に探すことになるはずだ。
どうであれ、清流で合流したら飛比路に指示を仰ぐことにしよう。
「結局、あなたを頼ることもなかったわね」
肩に留まる望月の頭を、カナエはそっと撫でる。もしものために、と飛比路がつけてくれたこの梟の出番は結局無かった。鬼との戦闘があってほしかった、とは全く思っていないし、むしろ無事に終わって良かったと思う。
だが、そう思った直後に、近くの木の枝に一羽の梟が降り立った。
「あら・・・新月くんかしら?」
カナエが見やると、その枝に留まっている梟を見て小首を傾げる。その翼の色合いと、望月と同じオオコノハズク。飛比路についていた新月だ。
その新月がここに来たとなれば、何か飛比路にあったのではないか、とカナエが自然に考えつく。
「天城さんに何かあった・・・?」
新月に向かって声を掛ける。
すると、カナエの肩に留まっていた望月も翼を広げて飛び立ち、新月の横に降り立つ。そして、新月と何か言葉を交わすように、じーっと視線を合わせると、やがて二羽で揃って同じ方向へと飛び立つ。
「そっちに天城さんがいるの?」
カナエが訊ねるが、当然ただの梟でしかない二羽は返事をしない。
だが、その先の別の枝に留まると、カナエに視線を向ける。まるで、『ついてこい』と言っているかのようだ。
(・・・急がないと)
カナエには動物の言葉は分からない。しかし、飛比路についていた新月がここへ来たとなれば、何かがあったと分かる。
すぐに駆け出すと、新月と望月も枝から離れて夜の樹海へと飛び立つ。カナエは、薄暗い中でもその姿を決して見失わないよう、見上げつつ、前方の障害物に注意しながら駆けた。
カナエは地図を取り出す。二羽が導く方角にあるのは、樹海の中にある廃村だ。しかしそこは、飛比路が調査している範囲でもある。
だとすると、ますます飛比路に何かがあった可能性が高い。
(まさか、十二鬼月が・・・?)
薄暗い樹海を走りながら、カナエは考える。
飛比路は柱で、どれだけ強いかは勿論知っている。その飛比路に何かがあったとすれば、不測の事態による怪我か、強力な鬼との戦闘の可能性が高い。
強力な鬼、すなわち十二鬼月。
下弦の弐・子迂反との戦いを思い出す。カナエはあの戦いで、少なくない怪我をしたが、それも今は癒えている。
またあの時、飛比路は一般人の朱美を抱えながら戦っていたにもかかわらず、傷一つ負わなかった。その飛比路が苦戦するとなれば、考えられるのは十二鬼月の上弦だ。
だが、飛比路は鳥笛を持っているはずである。もしも上弦の鬼と会敵したとなれば、まずそれを吹くだろう。もしかしたら、それができない状況にあるのかもしれない。
それは要するに、飛比路にとっての窮地だ。
そう思った直後、カナエの走る速度がさらに上がる。ともすれば、先導する二羽の梟を追い抜きそうになるほどだ。
(どうか、私が向かうまで持ち堪えてください・・・!)
もはやカナエの頭の中では、飛比路が上弦の鬼と戦っていると結論付けていた。
カナエの階級は未だ乙で、柱まではあともう少しという段階だと分かっている。飛比路から教えてもらった技術を吸収し、戦闘に活かせている。
だが、自分の力がこれまで柱を何人も葬ってきた上弦に敵うとは考えにくい。
それでも、飛比路一人で戦うよりも、自分と力を合わせて戦った方がまだ状況は好転するだろうとは考えられる。子迂反の時よりもさらに苦戦するだろうけれど、力になれるはずだ。
そして何より、飛比路がこのままでは死んでしまうかもしれない、という可能性が恐ろしかった。頭をよぎるだけで、身の毛がよだつ。
それほどまでに飛比路の死を恐れているのは、自分の師匠筋に当たるのと同時、飛比路のことをこの数か月で近しく思うようになったからだ。屋敷で一緒に暮らすうちに、家族のような親しみを覚えていたから。
また、最近になって飛比路に対してまた別の感情を抱くようになったのもある。その正体は未だ掴めないが、それは飛比路を喪ってしまうと儚く崩れ去ってしまうだろうと何故か思ってしまう。
とにかく、今は一刻も早く飛比路と合流しなければと、自分に言い聞かせた。
「・・・ここね」
不意に樹海を抜け、周囲に民家が現れる。ここが地図にもあった廃村だろう。人の住みつかなくなった、朽ちている家屋を見ると、どうにもうら悲しい気持ちになる。規模からして、かつてはそれなりに人々が住んでいて、温かみもあっただろうに。
戦闘の音はしない。微かに吹く夜風と、遠くから聞こえる鳥の鳴き声が僅かに聞こえてくる。叫び声や、剣劇の音などは少しも聞こえなかった。
新月と望月は、小路の先に降り立った。そこそこに道幅が広いその通りは、どうやら村の中心を伸びるものらしい。そして、二羽の梟はその通りの先を見つめている。視線の先に、何かがあるようだ。
カナエは足を速めて梟の下へと向かう。
「天城さんを見付けたの、かしら・・・」
だが、通りに出て、梟の見据える先を見たカナエは、絶句した。
そこにあったのは、横たわる一人の人間。周囲の建屋や地面には、大きく引っ掻いたかのような傷痕が残っており、その横たわる人もまた傷だらけだ。地面には血の染みまで広がっている。
よく目を凝らせば、その人の着ている服には見覚えがあった。肩に鶴の紋が縫われた黒い外套、カナエと同じ鬼殺隊の下袴。近くに転がっている、途中から折れた花緑青の日輪刀。
飛比路だ。
「天城さん!」
認識すると、たまらず駆け寄る。ここまで導いた二羽の梟が、樹海の方へ戻っていったのも気にせずに。
横たわる飛比路を起こそうとしたところで、気付いた。
左腕が二の腕の真ん中辺りで切れている。
「何で、こんな・・・?」
間に合わなかったのだろうか。
仰向けにして、右腕で上体を支えるが飛比路は身じろぎ一つしない。右目には傷が刻まれており、左目も開かず、口元からは血が流れ出た跡がある。脇腹には、深い傷が刻まれているが、どういうわけか血が止まっていた。それでも、ここまでの重傷を負った飛比路を見たことはない。
その満身創痍の飛比路の胸に、カナエはそっと手を当てる。
わずかだが、心臓の鼓動が伝わってきた。
「天城さん!目を開けてください!」
満身創痍だが、まだ生きている。その事実にカナエは希望を見出して、何度も飛比路に呼びかけた。
「お願いですから・・・死なないでください・・・!」
―――――――――
周りに何も見えない、暗闇にいるような気分だ。
地に足がついているのかどうかさえ曖昧なほど、何かに包み込まれているような感覚がする。先ほどまで自分を苛んでいた、身体を引き裂くような痛みはせず、自分が底のない沼に沈んでいくような感じだった。
このまま自分は、死んでしまうのではないだろうか。そんな予想が脳裏を過る。
そして恐らく、その予想は当たるだろう。
上弦の壱との戦いで、怪我を負いすぎた。身体の至る所に刻まれた創傷は数え切れず、右目も斬られた。特に脇腹の傷が深い上、左腕を落とされている。呼吸でどうにかなる範疇を超えるほど、出血が多い。このままでは死ぬ。
だが、いずれこうなることは分かっていた。常に生死の狭間で戦う鬼殺隊で、強さを認められて柱になったとしても、戦って死ぬことは十分考えられたし、それは覚悟の上だ。
自分がいなくなることで、悲しむ家族はいない。
鬼殺隊の柱は欠けてしまう。だが確実に後進は育ちつつある。すぐに自分を超える柱が就くことだろう。そう思えば、自分一人の損失など安いものだ。
死など恐ろしくはない。
―――天城さん
それでも心残りがあるとするならば、自分が修行をつけていたカナエとしのぶのことだ。
あの二人とは、この半年近い間に随分と親しくなれたと思っているが、別れの挨拶はできなかった。死は突然来るものだから、そんな機会などないに等しいのも、分かっている。
―――天城さん!
だが、カナエとは同じ任務に就いていたのだから、せめて彼女とは言葉を交わしたかった。
今もこうして、姿が見えないのにその声が聞こえるほどには、自分もまたカナエと挨拶をしたかったのだろう。
どうやら、自分の中で知らず知らずの間に、彼女の存在は大きくなっていたようだ。
―――――――――
「
そう呼ばれた直後、意識が引き上げられた。
やけに重く感じる左目の瞼を開けると、悲しみに塗れたカナエの顔が目に入った。どうやら自分は、カナエに支えられ横たわっているらしい。
「・・・カナエ、か」
「よかった・・・目が覚めたんですね・・・」
声を出すのさえ普通にできないほど、身体がやけに重い。それでも呼びかけに応じると、カナエは安堵した表情を見せる。
どうしてだか、その顔を見ると飛比路自身も気持ちが穏やかになった。先ほどのような暗い顔は、カナエには似つかわしくないと思う。
だが、そんな思考を叩き切るように痛みが増幅し、血の混じった咳が洩れる。
「大丈夫ですか?しっかりしてください・・・」
「・・・ここで、何をしている?お前は、東側に行ったはず、では」
「新月くんと望月ちゃんが、ここまで導いてくれたんです」
言われて、無事な左目で周囲を窺うが、二羽の姿はない。死角にいるのか、あるいは去ったのだろう。
また痛みが飛比路を苛み、目を閉じる。そんな自分に、カナエは必死に問い掛けてきた。
「何があったんですか・・・?誰に、こんな・・・」
「・・・上弦の、壱」
答えると、カナエは目を見開く。
「先刻まで戦っていたんですか・・・?私が、間に合わなかったから・・・」
「違う・・・。やられたのは、一刻半前ぐらい前、か」
頭を懸命に動かして、記憶を引き起こす。黒死牟と勝負がついて、あの鬼がこの場を去ったのは、確かそれぐらいの時間だったはずだ。
だが、それを聞くと、カナエの顔が驚愕に変わり、やがて困惑した様子で飛比路に話かけてきた。
「なんで、どうして私を呼んでくれなかったんですか・・・!?」
その言葉からして、梟がカナエが呼んだのは自分が斃された後だったようだ。
「・・・いいえ、そんなことより今は怪我を治さないと・・・!今、隠の皆さんがこちらに向かってますから、応急処置を・・・!」
言いながら、カナエは懐から包帯やら縫合糸やらを取り出す。飛比路の意識がない間に鎹鴉で隠を呼んだらしい。応急処置の道具も、いつどんな怪我をするか分からないから、事前に用意していたのかもしれない。
しかし、飛比路は。
「・・・カナエ」
「何ですか!?」
「もういい。俺のことは」
ほんの少しだけ、首を横に振る。
すると、カナエの動きが止まり、言葉も息も止まる。飛比路の言っていることを、吞み込めたようだ。
自分の身体がもう限界を迎えていることは、分かっている。応急処置など間に合わない。直に自分は死ぬ。命の灯が消えかけている者にそんなことをするなど、溝に捨てるも同然だ。
「・・・どうして、私を呼んでくれなかったんですか」
同じことを問うカナエ。
飛比路の目には、怒っているとも、困惑しているともとれるカナエの顔が映っていた。
「あれだけ、私には『何かあったら呼べ』って念を押していたのに、自分は一人で戦うなんて・・・!」
「どうした、そんなに熱くなって・・・。お前らしくも、ない」
「なりますよ!飛比路さんだけこんな目に遭って・・・!私一人だけ、助かって・・・」
悠長な物言いにも、カナエは真っ向から否定してくる。
今気づいたが、カナエは自分のことを名前で呼んでくれていた。その事実に、飛比路はどこか心が軽くなったと共に、嬉しくもなる。
「あの鬼は・・・上弦の壱は、今までのどの鬼よりも、
その胸中の嬉しさは一先ず置いておき、話を続けることにした。
「あの鬼は、最初に見た時点で、勝てる見込みがほとんどなかった。こんなことは、鬼と戦ってきた中で・・・初めてだった」
「・・・・・・」
「柱の俺がそう思った時点で、既に勝負はついたようなもの、だ」
人間の原動力は、心にあると言っていい。自分の中に秘めた喜びや悲しみ、怒りや愛しさが、人間の力を引き出してくれる。大切な人を喪ったことで刀を持って戦う覚悟を決めた鬼殺隊の皆が、その例だ。
だから、飛比路が弱気になった時点で、身体もまた勝てないと自然に思い込んでしまった。
「そして・・・俺とお前が力を合わせたとしても、どうにかできると思えない強さだ」
「・・・そんなに、強かったんですか」
「次元が違うと言って、いい」
飛比路は結局、黒死牟に掠り傷一つ負わせられなかった。どころか、髪の毛一本、服さえも斬れなかった。刀の破壊に一度成功したが、結局すぐに再生し、刀身が肉体に触れることはただの一度もなかった。
それに、あの斬撃。全集中の呼吸に加えて、鬼の力で付与した無数の斬撃は、全てこちらの命を狙っていた。戦闘経験をもって即死を免れたが、柱に近いとされるカナエでもあれに即座に対処できるとは、申し訳ないが思えない。
「お前を、死なせたくなかった」
「・・・っ」
「この先の鬼殺隊を支える、柱となるだろうお前を、ここで死なせるわけにはいかなかった」
そう告げると、カナエの表情がはっとする。
カナエを呼ばなかった最大の理由は、カナエを死なせたくなかったから。それだけだ。
「いや、いずれ柱となるから・・・というのは違う、か」
「え・・・?」
だが、先の言葉には誤りがあった。
飛比路は、少しだけ笑う。
「最期だから、言いたいことは言わせてもらう。反論は、無しだ」
「・・・はい」
前もって言うと、大人しくカナエは頷く。
それを見て、飛比路は明るくなりつつある空を見上げた。
「お前としのぶが俺の下へ来て、修行をするようになってから・・・俺は少し、報われたような気がした」
最初に飛比路を訪ねてきた時と比べれば、二人とも十分に強くなっている。飛比路自身も、少し距離を置いていたあの頃と比べれば、打ち解けられたと思う。しのぶには『身内』と言われるほどに、親しくなれたのだろう。
「温かい家族を知らなくて、俺は孤独も同じだった・・・。が、お前たちに修行をつけながら、屋敷で過ごしていると・・・時々思った。家族とは、こういうものなのかもしれないと、な」
一番それを実感できたのは、三人で食卓を囲っている時だ。あの時の団欒は、優しい家族がいなかった飛比路も温かい気持ちになれたし、楽しかった。普通の家族を知らなくても、こういう時間を一緒に過ごせるのが『家族』というものだろうなと、思えたものだ。
「お前たちは、良い親に恵まれたのだろうから、それを強く実感できた。そんな二人と、同じ時間を過ごせただけ、俺は十分幸せだ」
あまり柄ではなかったが、穏やかな笑顔を作って見せる。血だらけだし、片目は開かないしで大層滑稽に見えるだろうけれど、カナエを悲しませたくはない。
だが、カナエの瞳が潤んでくる。どうやら、どんな表情を作ろうが、自分が死ぬことはカナエにとって悲しいことらしい。それだけ飛比路自身が、カナエにとっても取るに足らない存在ではないということは、こんな状況でも嬉しく思ってしまう。
誰かにとって大切な人となれるのは、こうも心が満たされるものなのか。
「そして、俺の昔の話を聞いて、お前が俺を認めてくれたことで・・・俺も少し心が軽くなった気がした」
「・・・・・・」
「上弦の壱と戦っている時も、お前の言葉が俺を奮い立たせてくれた。俺の強さを認めてくれた、優しいお前の言葉が・・・」
黒死牟を前にして自信を失くしかけた時、蘇った言葉。
あの言葉を思い出して、自分のような人間のことを認める程に心優しいカナエの言葉が、飛比路の自信を支えてくれたのだ。
「だからこそ俺は、守りたかった。優しいお前を、死なせたくはなかった。鬼殺隊だからでも、柱に近いからでもなく、お前だけは・・・」
身体から、だんだんと力が抜け落ちてくる。
黒死牟にやられてからカナエに見つけられるまで、全集中の呼吸でできる限り血の巡りを操作して、どうにか命を保ってきた。結果、途中で意識を失うまでに至ったし、自分の死は結局回避できないが、こうして最期の時間をカナエと過ごせただけでも上出来だ。
残された時間も少なくなってきている。
今一度、カナエに目を向けた。
「・・・要らぬ心配だろうが、復讐しようとは思うな」
「・・・・・・」
「それはお前の柄では、ない。カナエは今までのように、『鬼を救う』という
「・・・はい」
黒死牟との戦いの中で、カナエと同じ考えを自分も持ったことで、カナエの持つ考えを否定しようとは、咎めようとは思わなくなった。
カナエとしのぶの掲げる信念を、認めた。
「救いたいと思う者を救い、守りたいと思う人を守ればいい・・・」
自分がカナエを守ろうとしたように、とまでは言えない。
飛比路は、最初からカナエと同じような考えを持っていたわけではない。自分が心から守りたいと思った人はカナエが最初で最後だ。自分とは全く違う生き方をしてきたカナエに、そんなことは言えなかった。
「・・・最期には俺も、柱らしいことができたかもしれん、な」
「・・・飛比路さんは、自分を卑下することが多いですよね」
ぽたっと、飛比路の頬に何かが落ちる。
焦点を合わせると、カナエは静かに泣いていた。
「私は、そうは思いませんよ。飛比路さんは、十分に柱としての役目を果たしたと思います」
「・・・そうだろうか」
「はい・・・。私という人を、命を懸けて守ってくれただけでも、十分・・・」
涙の雫が、いくつも飛比路に落ちる。
カナエの言葉を聞くと、今度は作ったものではない笑みが、自然と出てきた。
カナエの言葉はとても嬉しい。
けれどその涙に濡れた表情は、その言葉に相応しくなかった。いや、言葉がなくとも、彼女に似合う表情は、普段から浮かべているような柔らかい笑みだと思う。
カナエには、その笑みを浮かべたままでいてほしい。泣いている顔は、見たくない。
飛比路は、悲しんでいる様を見ているだけで心は痛み、笑っている姿を見ると心が穏やかになれる。
「・・・愛情、か」
「・・・え?」
推測ではなく、それこそがその感情だろうと、今ははっきりと分かる。
それが分かると、衰えつつある心臓の鼓動が少しだけ蘇る。胸の中に温かさが広まっていく。
愛情を覚えると、こうも心地よくなれるものだとは知らなかった。だが、よりにもよって、それに気づくのが自分の死に際とは随分と遅い。
「なぁ・・・カナエ」
視野が霞み、狭まっていく。
けれど、最期に見る顔が悲しみに暮れるものとはとても寂しい。カナエに似合わない顔を見ながらお別れなど、嫌だった。
だから飛比路は、最期に一つだけ言葉を贈る。
それでその顔が変わる確信はなくても、伝えたかった。
「―――――」
◆ ◆
支えていた飛比路の身体が不意に重くなる。
腹部の律動が見えなくなる。
「・・・飛比路、さん?」
カナエが呼びかけるが、飛比路の口は動かない。無事だった左目の瞼は半開きになり、閉じることもない。その隙間から見える瞳から、光は失われていた。
試しに胸に手を当てるが、鼓動は感じられない。
「・・・・・・」
飛比路は、死んだ。
それを理解した瞬間、声になり損ねた空気が口の中から漏れ出す。
目の端から溢れた涙の粒が顔に落ちても、支える腕で肩を強く掴んでも、もう片方の手で無事な右手を握っても、飛比路は何の反応も返さない。
命が喪われたのだと、身をもって思い知らされる。
「あぁ・・・」
随分と、久々にこの感覚を抱いたと思う。
自分にとっての大切な人は、いつまでもずっと生きているとは限らない。最愛の両親を喪ったあの日、そう理解したはずなのに。
鬼殺隊に身を置く以上、自分たちの命が明日も明後日も保障されるとは限らない。それを分かっていたはずなのに。
それでも今、こうして大切な人の命が尽きたのを目の当たりにすると、心の奥底からかつて嫌という程抱いた感情が湧き上がってくる。
悲しい。
ただただ、悲しい。
「あぁぁ―――」
声を抑えきれず、涙を流す。
山の向こうから太陽が顔を見せ、カナエたちにも陽の光が音もなく注がれる。暖かい光に、包み込まれるようだ。
だが、カナエの心は少しも温まらない。冷たい悲しみが纏わりついて離れず、身体まで冷えるようだ。
どれだけ泣いても、名を呼んでも、飛比路は生き返りはしない。
それでも今だけは、カナエも感情を声に載せて、素直に吐き出して、泣いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
隠がやってきたのは、太陽が山の陰から半分ほど顔を出したところだ。
黒装束の姿を認めると、カナエも顔を拭って涙を拭き、静かに飛比路の身体を横たえる。半開きの左目も、そっと閉じた。
「天城・・・」
駆けつけた隠の誰もが、柱の死に驚きを隠せない様子で、その場に立ち尽くしている。
先頭にいた隠は、狙ったかどうかわからないが、飛比路の同期の武本だった。呆然と、飛比路の亡骸に目を向けている。
「どうして・・・」
「・・・飛比路さんは、上弦の壱と一人で戦っていたんです」
「上弦と・・・一人で?」
カナエは、視線を飛比路から離さないまま、唖然とする武本の言葉に応える。
同期だった武本も、ここまで飛比路が怪我を負っているのを見たのは初めてらしい。ましてや、死んでしまうなど突然すぎたのだろう。
「胡蝶さんは、どうしてここに・・・」
「私と飛比路さんで、鬼の調査に来ていたんです。でも、飛比路さんは私を守るために・・・」
「・・・そう、でしたか」
武本もまた、飛比路の傍で膝をつく。
そして、静かに手を合わせた。
「天城が誰か一人を守るために戦うって・・・正直、予想できなかった」
祈りを捧げた武本が、物言わぬ飛比路を眺めながら告げる。
カナエが視線を上げると、武本は目に涙を浮かべていた。
「あいつは、あまり馴れ合いとかを好まない奴だと思ったから・・・」
「・・・でも、修行をつけていた私たちには、優しかったんです」
「そうか・・・。だとしたら、天城も本当は優しい奴だったのかもしれないな・・・」
「ええ」
武本は、同期でありながら飛比路のことはよく知らなかったと言っていた。馴れ合いもあまり良しとしていなかったように見えたのだろうが、死の間際を見届けたカナエからすれば、そんなことはなかったと、自信を持って言える。
そのカナエの返事を聞いて、武本はカナエを見る。
「あいつが胡蝶さんを守るために戦ったってのは・・・同期として、何だか嬉しい」
「・・・・・・」
「あいつにもそういう、守りたい人がいたんだって」
武本の表情は、口布で覆われていて全ては窺えない。けれど、笑っているような感じがするのは、目元と語調で分かった。
「・・・私がこの先、次の柱になれるほど力があるから、私を生かしたと飛比路さんは言ってくれたんです」
そんな武本に、カナエは話しかける。
それは、飛比路がカナエを守るために戦った理由の『半分』だ。『もう半分』の理由は、自分の中にだけ留めておきたい。
そして、その飛比路の遺志を聞いて、自分のやるべきことは既に固まっていた。
「だから私は・・・飛比路さんが私を守ってくれたように、この先も誰かを守るために戦います」
「・・・・・・」
「飛比路さんが、私を守ってくれたように」
その決意を聞いて、武本も頷く。
「・・・これからも、頑張ってください」
「はい」
他の隠が担架を持ってくると、飛比路の死体は武本たちの手で担架に載せられ、布を被せられる。また、他の隠が回収した日輪刀、割れた鳥の面も一緒に載せられた。恐らくは、鬼殺隊士用の墓地へこの後埋葬されるのだろう。
「・・・・・・」
カナエは、飛比路が運ばれていくのをその場で佇み見守った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
飛比路の飼っていた梟は森に帰ってしまった。
しかしながら、飛比路の鎹鴉『日和』は耀哉の下へと向かった。今回のことを報告するためだ。
「・・・飛比路は頑張ったんだね」
座敷で鎹鴉の報告を受けた耀哉は、微笑を携えたまま頷いた。隣に控えるあまねも、表情は変わらない。
「ただ一人、自分が守りたいと思った人を命に代えても守る。かつての飛比路からは考えられなかったことを成せたのは、素晴らしいことだ」
今までずっと、辛い過去を背負いながら孤独に戦ってきた飛比路のことを、耀哉は当然把握している。
だが、今回初めて、明確に『他人』を守るために戦い抜いたのだ。その戦い方を知る耀哉からすれば、それはとても喜ばしい。
「その思いはきっと、残された人の胸に留まるのだろうね」
視線を上に向ける。
自分の『子供』が死んだのとは裏腹に、とても晴れやかな天気だった。
◆ ◆
宇髄天元は、三人の嫁と外出している最中に、その訃報を自らの鎹鴉から聞いた。
嫁たちが驚きと困惑、悲しみの表情を浮かべる中、天元は目つきが僅かに鋭くなる。
「・・・上弦の鬼は、そこまで派手に強い連中なのか」
天元も同じ柱だから、今回のことは他人事と思えない。この先自分が上弦の鬼と戦う可能性だってあるのだから。今回の飛比路の訃報は、自分が相手にしている存在がどれだけ強いものなのかを、改めて認識させられるものとなった。
「にしても、上弦の壱とサシでやり合うとは、あいつも派手なことをしたもんだ」
天元から見た飛比路は、派手な見た目で中身は地味な奴だと思っていた。柱合会議で顔を合わせるぐらいの間柄だったが、喋り方が何とも堅苦しいし、性格そのものも明るいとは言い難い。
だが、柱になるまで相応の努力と苦労を重ねていたのは分かるし、強さだって並みの隊士とは全く違うのも知っている。
そんな彼が、柱が死んでしまったというのは、天元にとっても大きな出来事だ。
◆ ◆
悲鳴嶼行冥は、自分の屋敷近くの山で修業をしている途中だった。
鎹鴉が降り立ち、その訃報を伝えると、裏返った白い目から涙が流れ落ちる。
「南無阿弥陀仏・・・」
元々些細なことでも涙を流す行冥だが、同僚の訃報は些細なことでは済まされない。同じ柱として時に意見を交わした仲であるが故、自分のことのようにとても悲しい。
それと同時に、上弦の強さというものを強く実感させられる。
先代の水柱が上弦の伍に殺された時も思ったが、上弦の強さは雑魚鬼や下弦とはかけ離れている。何しろ、柱はそこに至るまで死に物狂いで戦い抜いてきた猛者たちだ。簡単にやられるほど軟ではない筈なのに、上弦の鬼はあっさりとその努力を踏み躙って斃してしまう。
どれだけ努力を重ねても勝てない、打ちのめされる残酷な現実に、また行冥は涙を流して数珠を擦り合わせた。
◆ ◆
煉獄槇寿郎がその訃報を聞いたのは、自らの屋敷の自室だ。
陽光に当たりながら寝転がっている途中で、障子戸が開き息子の杏寿郎が任務の報告をしてくるが、今の槇寿郎にとってはどうでもいいことだ。
そんな中で、鎹鴉が縁側に降り立ち、同僚であるはずの隊士の訃報を告げる。
「・・・ふん」
しかし、槇寿郎は鼻で息を吐き、枕元に置いてあった酒瓶に手を伸ばして一呷りする。その表情がどんなものなのかは、縁側に立つ鎹鴉にしか分からない。
そして杏寿郎は、笑みを失くし、大きな目を一層見開いて、一度だけ話をしたことがある柱の訃報を受け止めていた。
◆ ◆
冨岡義勇は、自らに与えられた屋敷の道場で、静かに精神統一をしているところだった。
冷たい床に座っていると、道場の入り口に降り立った鎹鴉が、訃報を伝える。
「分かった」
義勇はそれだけ言って立ち上がり、木刀を手に素振りを始める。
その目には、同僚を悼む気持ちも、動揺も見られなかった。
◆ ◆
カナエは、夜間の偵察中に見つけた百合の群生地を訪れていた。一晩で一斉に枯れたりはせず、昨晩と同様に綺麗に咲き誇っている。
その百合を、カナエは遠い目で眺めていた。
ここを一緒に見ようと思っていた飛比路も、昨日自分の傍らで同じ光景を見ていた梟も、もういない。その事実に心が揺れているカナエとは裏腹に、百合は力強く咲いていた。
「・・・はぁ」
溜息が洩れる。
飛比路と過ごした時間は、自分の唯一の家族であるしのぶと比べれば圧倒的に短い。けれど、教えてもらったことは多くあるし、過ごした時間は楽しいことばかりだった。十二鬼月を前に共闘したり、事故とはいえ着替えを覗かれたりと、一部引っかかる思い出もあったが、それでも今にしてみれば貴重な思い出だったのだ。
だからこそ、その飛比路が死んだという事実が、未だに深く突き刺さっている。まるで、心に穴が開いたかのようだ。
しかし、ここまでカナエの心を揺さぶったのは、飛比路が死んだという事実だけではない。
―――なぁ・・・カナエ
死に際に、飛比路は何かを言おうとしていたが、続く言葉は声が掠れていて、聞き取れなかった。
けれどカナエには、飛比路の口の動きで、何と言っているかが分かった。
『愛してる』
ただ、それだけだ。
それがどれだけの意味を込めて告げられたものかは、カナエには分からない。
けれどその言葉を思い出すたび、カナエの中には悲しみではなく温かさが込み上げてくるのだ。
【大正コソコソ噂話】
飛比路の編み出した鳥の呼吸の技の名前は、飛比路が見た、または資料で読んだ鳥の中で、自分が綺麗だと思った鳥の名前です。
実際に見たことがあるのはカワセミ、シラサギ、セキレイ、ツル。資料で見つけたのはワシ、アオバズク、ホトトギス、鳳凰です。