五等分の花嫁と七色の奇術師(マジシャン)   作:葉陽

49 / 77
 四葉がもう少し早く前向きになれたらなと初期の段階から思い悩んでいました。そしてそれを解消できるきっかけとなるのが意識の波長です。意識の波長云々が無ければ四葉の心残りには気づくことが出来なかったので。そういった意味で今まで意識の波長を使うシーンを書いていました。まあちょっとした伏線回収ですね。

 四葉が最初から上杉に対して好感度が高い=過去に会っていたと結び付けてしまうのは理由が薄すぎると個人的に思っています。寧ろ一人ぐらい最初から真面目に取り組んでくれた方がどこか自然に感じます。
 全員最初から勉強に取り組んでくれないと仮定した時、みんなやる気がないならこちらも教える気も起きないので、だったらプロの家庭教師にしたほうが良いと判断されて契約終了となってしまうかもしれません。いくら上杉家が借金に困っているとしても必要最低限の生活は送れているみたいなので、必死になって家庭教師をする必要はないと思います。それこそ新しくバイトをしたほうがよっぽど健全です。そうなってくると”五等分の花嫁”の話は続きませんね。そんなラブコメ要素のない話、一体どこに需要があるんでしょうか?

 長々と失礼しました。



第48話 己を縛るは自身の過ち

 

 期末試験が終わった後、僕は四葉の心残りとなっているであろう5年前の事について聞き、できればそれを晴らすために、四葉を近所の公園に呼び出した。

 

 四葉はブランコを一瞥した後、口を開く。

 

「話って何ですかー? もしかして告白ですか~?」

 

「違うわ」

 

 即刻否定し、僕が座っているベンチの隣を軽く叩いて座るように催促する。

 

「なんですか?」

 

「言いたくないならそれでいいんだけど、僕が聞きたいのは5年前の事だ。四葉は5年前の京都で上杉と会っているだろう? そのことについて聞きたい」

 

「えっ、え……?」

 

 やはりと言うべきか、四葉は明らかに動揺し始めた。

 

「四葉は姉妹にも、友人にも言えないものを今まで背負って来たんだろう。人が背負えるものには限りがある。だから、僕にも背負わせてくれないか? 僕は君の力になりたいんだ」

 

 四葉が持つ、人を想うその優しい心が潰れてしまう前に。

 

「………………」

 

「僕に君を助けるチャンスをくれ」

 

 そう言うと、四葉はおもむろに立ち上がり、突拍子もないことを言い出した。

 

「白羽さんが鬼ね!」

 

「え?」

 

「10秒数えたらスタートだからね!」

 

 言い終わった途端、弾かれたように駆けていく四葉の後ろ姿。彼我の距離が20メートルほど離れた所で僕は我に返り、秒数を数え始めた。

 

「………はーち、きゅーう、じゅーう」

 

 ここの公園は結構広い。遊具も沢山あれば、所々に立派な木も生えており、四葉捕まえるのは楽じゃないだろう。

 

 そして四葉を追って公園を駆けること数分。

 

「……ははっ」

 

 無性に笑えてきた。高校生ともあろう男女が、本気で鬼ごっこをやってると思うと、なんだか笑えてきたのだ。 

 

「白羽さ~ん! まだまだ負けませんよ!!」

 

 走っている最中、四葉も楽しそうなのが分かった。時折はしゃぐような声を上げている。

 

「すぐに捕まえてやるさ!」

 

 更に走ること数分。男女の体力の差が現れ始めた。元々全力なんだ。陸上でやっていたとはいえ、こんなに走れば疲労は出てくる。

 

「つぁ、捕まえた!」

 

「あぁあ!」

 

 ぜぇぜぇ咳き込み、二人仲良く草原に転がり息を整える。

 

「やっぱ速いな、四葉は」

 

「白羽さんも、なかなかやりますね」

 

 そのまま寝っ転がり、しばらくして先に体力が回復した僕は、近くの自販機で飲み物を買いに向かう。

 

「ホイ、なっちゃんだよ」

 

「ありがとうございます」

 

 喉を潤して束の間の無言。四葉の雰囲気が何処となく変わった様に感じた。

 

「…………今から話すことはみんなには内緒にしてくれませんか? がっかりされたくないんです………上杉さんは正しい努力をしてきたのに、私は無意味な執着をしていた5年間だったから」

 

「! ああ、約束する」

 

 絶対ですからね、そう言った後に続く、明かされる四葉の胸の内。

 

 彼女はまるで他人事であるかのように、自嘲染みた笑みを浮かべて語り出した。

 

 

 

 

 

 

 かつて風太郎君と交わした約束を守れなかったこと。お母さんが死んで目的を失ってしまい、特別になるということだけに固執してしまったこと。そうしている内に姉妹の足を引っ張ってしまい、この高校に転校してきたこと。

 

「風太郎君は勉強もできてずっと頑張っていて……私、全部ダメでした。悪い子なんですよ。お母さんにも、姉妹にも迷惑ばかりかけて」

 

 自身へ侮蔑と嘲笑をぶつけ、私はそう締めくくった。

 

「……そうだな。四葉は間違ってしまったのかもしれない」

 

 どんな表情をしているのだろう。いつもにこにこして穏やかな表情を浮かべている彼は、失望を浮かべているのだろうか。

 

「かもじゃないですよ。間違ったんです。私は」

 

「けど、それは過去の話だろ?」

 

「え?」

 

 伏していた顔を上げるといつの間にか白羽さんが目の前にしゃがみ込んでて、目線が同じ高さにあった。

 

 思ったよりも顔が近くて心臓の鼓動が高鳴った。目と鼻の先にある白羽さんの瞳は深紅色に輝いて、失望の色など欠片も見えなかった。

 

「過去では間違えてしまったかも知れない。でもその間違いを誰が咎める? 姉妹たちか? 違うだろ。むしろ一緒に背負ったり、慰めたり、四葉が前を向けるように協力してくれたはずだ」

 

 その言葉を聞いて、私の脳裏にはカンニングしたと嘘をついてまで共に転校してくれた、優しい姉妹の姿が浮かんだ。

 

「上杉だってそうだ。あいつは過去の事なんて気にしない。それよりも成績を気にしろとかいうぞ」

 

 私は風太郎君のデリカシーの欠ける発言を思い出し、思わずクスリと笑ってしまった。

 

「特別になりたいと思うのは人間なら当たり前だ。姉妹に迷惑を掛けた? そんなもの家族なら幾らでもするだろう。………気にしすぎなんだよ四葉は。四葉を好いてくれる人は沢山いる。だから大丈夫だよ。四葉を縛るそのしがらみから解放されるのは時間がかかるかもしれないけれど、必ず自由に成れるはずだ」

 

 白羽さんのその言葉を聞いて、私の心を縛る鎖は、どこか音を立てて軋んだのがわかった。

 

「四葉はなりたい将来の夢とかある?」

 

「夢……?」

 

「うん」

 

 突然の質問に困惑したけれど、正直に分からないと答えた。

 そんなものはないのだ、今の自分に。姉妹の為に生きると誓った自分に夢など。もってもいけないし、願ってもいけないんだ。

 

 しかし、白羽さんは私がそう答えるのを分かっていたかのように、なら、と言葉を繋げて私の手を取った。

 

 その手は、夏の日差しのようにあつかった。

 

 手を取られた私の脳裏に、かつて風太郎君の手を取って約束をした光景が蘇った。

 

「無いなら一緒に見つけていこうよ。笑顔で卒業するにはそれが必要だから」

 

 その言葉に私は困惑した。今の白羽さんは家庭教師ではなく、ただ勉強を教えてくれる友人に過ぎないから。普通の友達ならそこまで面倒見ないだろう。それ位ならバカな私でもわかる。ただでさえ問題児の中野姉妹たち(私たち)に、あれこれ手を費やしては骨を粉にする勢いで接してくれているのに……。更に今は解決したと言えど、陸上部の件もあれば五月の件も、二乃の件もある。このテスト準備期間で白羽さんがどれだけ骨を折ったか、想像するなんて簡単です。なのに進路の事まで面倒を見るなんて、そんな余裕がある訳がない。なのにどうして。ならなんで。

 

「どうして、どうしてそこまで……」

 

「友達だから」

 

 蚊の鳴くように小さく零れた私の問いに、白羽さんはたった一言そう言った。

 それを本音だと悟りながらも、私はそれでも信じられずにもう一度尋ねた。

 

「友達はそこまでしないですよ……」

 

「……じゃあ、友達じゃなくて………う~ん」

 

 顎に指をかけて考え込んだ白羽さんは、少し照れたように頭を掻いて、

 

「親友だからって言ったら……だめ?」

 

 上目遣いで訊ねる白羽さんに、私はつい呆けて何も返せなかった。これもまた本当だとわかったから。

 

「あ……親友はだめだったかな? やっぱ男が親友は駄目だよね。ごめん。不躾だった。忘れて」

 

 明らかに落ち込んでいる雪斗を見て、四葉が再起動する。

 

「い、いえ! 親友で良いですよ! 親友になってくれて嬉しいです!!………でも、本当にそれだけですか?」

 

 四葉が再三に尋ねると、雪斗は口元をへの字に曲げた。今ので納得して欲しかったらしい。

 

「………かつて約束したからってのもあるよ。もちろん約束うんぬんを抜かしても手伝うつもりだった」

 

 本気だった。本気で白羽さんは私たち姉妹を想ってくれている。

 あれほど迷惑を掛けた姉妹たちを、惨めな己の過去を聞いても、白羽さんは手を差し伸べると言ってくれた。

 

 

 

 

 

「……だけどこの目標を達成するには僕や上杉だけじゃどうしようもない。四葉を手伝うと言ったけどさ、同じように四葉も手伝って欲しいんだ」

 

「わ、私ですか?」

 

「うん」

 

「私に、できますか? 上杉さんと白羽さんのお手伝いが」

 

「できる!」

 

「……本当に、私なんかにできるのかな」

 

「僕たちには四葉が必要なんだよ」

 

「……っ!」

 

 その言葉を聞いて、堰をきったように泣きはじめた四葉を雪斗はそっと抱きしめ、頭を撫でながら心から願った。

 自分を嫌わないでくれ。卑屈にならないでくれ。

 四葉は臆病な子だ。傷けば震えて足が竦む普通の女の子だ。

 優しすぎる子だ。自分を犠牲にしてでも、姉妹の幸せを優先してしまうくらいに。 

 そして君はお調子者で。こう見えて我侭で。存外臆病で。割りと寂しがり屋さんで。

 砂漠に降る雨のように優しい子だって知っている。

 

「……少しは落ち着いたかな? 色々言ったけれど、まぁ一言でいえば、四葉がやりたいことをしなよ」

 

「……はい」

 

「今日の事は約束通り二人だけの秘密だ。墓まで持って行くよ」

 

 そして立ち上がろうと地面に目をやった時、それが視界に飛び込んだ。

 それは緑色の小さいもので、どこにでもあって、どこにもないような、人によっては無価値で不必要で一考の余地もないものだ。

 けれど、それを僕は摘んだ。

 中半からそっと折り、掌中の珠のように四葉に見せる。

 

「四つ葉のクローバーだ」

 

「本当ですね! 珍しいです!」

 

 あなたに幸運が舞い込むようにと願いを込めて差し出せば、四葉は受け取ってくれた。

 

「……知ってるか四葉。三つ葉が四つ葉になる理由」

 

「……え? 三玖が四葉に?」

 

「ちゃう、そっちじゃない。普通クローバーは三つ葉だろ。その理由だ」

 

「知らないです」

 

「そうか」

 

 成長過程で、人や車などに踏まれて傷付いて、それが原因となって三つ葉から四つ葉へと変わる。その四つ葉になる可能性は1万分の1の確率。

 三つ葉は傷付いて、けれど無事に育った先で四つ葉になる。

 

 怪我をしても、踏みつけられても、必死に抗い生き残った。その幸運の象徴だ。

 

「……四葉らしいな」

 

「私の名前も四葉ですからね!」

 

「……」

 

 四葉のクローバーはシロツメクサ。漢字で書くと白詰草だ。

 その由来はかつての江戸時代、当時の江戸幕府は鎖国をしていた。けれど清とオランダとだけは交易を続けていたことは習っただろう。そのオランダから献上物としてガラスなどを戴いたりしたのだが、その箱の中に緩衝材として詰められていたのが、この植物だった、という話だ。

 

 つまり、大切なものを守るために下敷きにされ、犠牲となったもの。

 

「四つ葉のクローバーの花言葉は希望だ。……ほんと、おまえらしいな、四葉」

 

「えへへ……」

 

「綺麗だよな。温室で育てられた秀麗な花も好ましいが、こうして野に咲く花も、可憐で美しい。きっと種から花を着けるまでの苦しみが、人の目を惹き付けて止まないんだ」

 

 そう語る雪斗の目は慈愛に満ちていた。

 

「………なんか……照れくさいですね」

 

 逞しい花だ。過去の痛みを糧に美しい姿を見せてくれる。

 

 傷ついて、泣き崩れて、自分の殻に閉じ籠ってしまった過去が、こうして現在に繋がっていく。

 

 花は踏まれれば呆気なく花弁を垂らす。けれどまた、上を向く。空を見る。決して下を向いたまま枯れはしない。もう一度上を向こうと努力する。たとえその過程で花弁が散ってしまっても、僕はそれを無意味だとは思わない。もし誰かが無意味だと言うならば、僕が勝手に意味をつける。意味を見いだす。意味が無いなら作ってしまえばいいんだ。これは誰にでもある権利なんだから。

 

「……さて四葉が風邪を引く前に帰ろうか」

 

「はい! 私白羽さんが私たちの家庭教師で良かったです!」

 

 すっかり元気になった四葉の笑顔を見て安心する。過去のしがらみは拗れる前に取っ払ってしまった方がいいに決まっている。見たところまだまだ拭い切れてはいない感じがするが、それは時が解決するだろう。やはり泣いてる顔より笑ってる顔の方がいい。差し出したクローバーに微笑む四葉をこっそり写真に収める。

 

「白羽さんは優しいですね!」

 

「……うん、ありがとう」

 

 懐に入れた人だけな。それ以外は鏡のように接するが……。

 

「そういえば、白羽さんって時々それ飲んでますよね? 好きなんですか?」

 

「これ?」

 

 示したのは僕の片手に収まる缶コーヒー。

 

「……そうだなぁ……四葉が昔のこと教えてくれたし、僕のことも少し話そうか」

 

 思い出すのは前世の記憶。缶コーヒーに纏わるかつての記憶に思いを馳せる。

 

「これはね、僕の友達が好きだったものなんだ。……そうだ、どことなく四葉に似てるんだ」

 

 四葉だけじゃなく他の姉妹にも重なる面はあったけれど、一番強く姿が重なるのは四葉だった。

 

「私に、ですか?」

 

「うん。彼女も四葉みたいに良く笑う人だった」

 

 犬を見つけては笑い、虹を見つけては笑い、何時もにこにこ笑っていた。僕がこうしてにこにことするようになったのは彼女の御蔭かな。彼女がいつも傍にいたからこうなれたんだ。

 

「早く大人になりたいって言って、飲めもしないコーヒーを飲んでは噎せてたよ」

 

『…〇〇くん』

 

『なに?』

 

『〇〇くんに生き証人になってもらいます』

 

『? なんでー?』

 

 下校中、俯いていた顔を上げると缶コーヒーを掲げていた。

 

『私はもう子供じゃない、大人だということを証明します! そのための生き証人です!』

 

『いや子供だろ。っていうかやめとけ。コーヒーがもったいないぞ。どうせ吐き戻すだろ』

 

『…』

 

『わかったわかった。期待だけしておく。頑張れ~』

 

 頬を膨らませて睨む彼女の機嫌を取り直して次を促す。正直失敗するとしか思えない。

 

『……それはブラックか、飲めたら大人ってか?』

 

『CMでもカッコイイ女性が、飲んでるじゃん』

 

『ブラックに限らないけど……』

 

 どうやら何かに影響されて大人を誇示したくなったようだ。それは今に始まった事ではないが……今回はそれが缶コーヒーのCMの女優ってとこなんだろう。

 

『いくよ?』

 

『うん』

 

『……』

 

『……』

 

『……ちょっとまってね、すー、はー』

 

『どうした大人』

 

『お、大人だもんっ、見ててよ! 私だって飲めるからね! 私はもう大人なんだから!』

 

 缶に口を近づけるとたちまち顔色が悪くなって手が震え始めてた。ダメだと悟るのも大人だぞ。

 

 静止の手を突き出し、彼女は深呼吸をしてから再び挑む。やめとけばいいのに……。

 

 苦い思いをするのは一瞬が良いと思ったんだろう。彼女は目を瞑ってぐいっと口に流した。そして案の定すぐに吹き出した。それを予測していた僕は横にずれ、吹き出されたコーヒーはそのまま地面に落ち、アスファルトを濡らした。

 

『おえぇー』

 

『だから言ったろ汚いなぁ』

 

『ま、不味い……って、汚いって言うな! ご褒美と言いなさい!』

 

『……特殊性癖は生憎持ち合わせてなくてね、汚いとしか思えないよ。それに口から吐くほうが子供じゃないのか?』

 

『だって苦いんだもん……』

 

『なら早かったってことだ、子供の卒業はまだまだ先だな』

 

 コーヒーで口元を濡らした彼女に、僕はティッシュを差し出した。

 

『い、いつか飲めるようになるからね! 馬鹿にしないでね!』

 

『はいはい』

 

『……〇〇くんだって、コーヒー飲めないくせに』

 

『ぬかせ』

 

 好んで飲まないだけだ。

 

『んふぇぁ! おーぼーだー!』

 

 その生意気な口を引っ張ってやる。ニキビ一つも見られない新雪のようなその頬は、餅のようによく伸びた。

 

 彼女が抱えていた悩み。背負っていた悲しみは到底どうにもすることができないものだった。それを知って、彼女を助けようと思った。他でもない君に救われた僕が、それを返すように。

 

 今となってはもう、決して届かない過去のものとなってしまったが。

 

「元気にしてんのかなぁ」

 

「私が元気なので、きっとその人も元気にしてますよ!」

 

「……ははっ、だと良いねぇ」

 

 燃える夕焼けを眺めながら四葉と歩く帰り道。かつての記憶が瑞々しく蘇る。

 

『いつか必ず、お前を心の奥底から、笑わせてやるから』

 

 口にした覚悟。強く握りしめた拳。

 目に入る度にいつも思い出す。その苦味が教えてくれる。この道が僕の歩むべきものだと。

 

 二度目の人生。その目的地は定まった。

 

 

 隣を歩く四葉を盗み見る。

 ……うん、やはり人の笑顔は良いものだ。

 

 

 

 

 そのまま一緒にマンションに着いた時、ふと声を漏らしてしまった。

 

「……ッ…」

 

「? どうかしましたか?」

 

「いや何でもないよ」

 

 激しく燃えるような異様な熱さが身を走ったけれど、顔や声にはおくびも出さずに誤魔化した。

 

 体が鉛のように重く感じてきて、徐々に足の力が抜けていく。まだ……まだだ、あと少しで部屋に戻れる。倒れるのはまだ早い。

 

「それでですね……五月……食べ…」

 

 廊下を照らす眩い照明も、傍で何か話す四葉の声も認識出来なくなってきている。

 

 数日間無理していたのが一気に来ただけなんだ。いくら自身の心や表情を誤魔化しても体は素直だった。

 

 一秒がとてつもなく長く感じる中、僕の住む階に着くことが出来た。最後の精神を振り絞って四葉に別れを告げ、部屋に入った。

 

 きっと四葉には悟られてはいないはず。いつもの僕をそっくりそのまま真似たのだから。それにこれは風邪だ。ただ症状が重いだけで一晩寝れば明日にはほぼ回復している筈。

 

 寝床に行くまでの精神力は持たず、そのまま廊下に倒れ込んだ。

 

ひんやりする床が、熱を発する僕の体に染み渡り熱が冷めていくのを感じる。

 

 彼女は、僕よりももっと長く、強く努力し続けたというのに……、負けるわけにはいかない。

 

 ……でも……今は誰もいないんだ………なら少しだけ……

 

 かすれていく視界の中、僕は瞼を閉じた。

 

 




「相手の心の傷を知ったとき、悩みを知ったとき、知らないふりをしていつも通り接すること」と「相手の心の傷や悩みが増えるたびに相手の心にふみこむこと」どちらが相手にとっての優しさになるんだろうか。ムズカシイネ。

 甘いものが好きな雪斗が度々コーヒを飲んでいたのはこういった理由です。

 というわけで今話から徐々に雪斗の過去について書かれていく描写が増えます。なんなら1話丸々も考えています。

 

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。