1:Welcome back.
「――――お帰りなさい」
青年が目を開ける。
一人の少女が自分を見下ろしていた。
あまりに白すぎる肌。月のような銀髪。そして琥珀色の瞳。
触れればガラス細工のように折れてしまいそうな。瞬きする間に空気に解けて消え去ってしまいそうな。そんな印象を与える少女だった。
青年は自分の名前も覚えていない。少女が誰かも分からない。
それなのに。
何故だか、涙が出そうになった。
(ここ、は)
青年は眼球を緩慢な動作で回して、少女とその周囲の景色を視界に収める。少女の背中越しには朽ちたビル群があった。どうやら自分は廃墟にいるようだ。もっと言うなら、少女に膝枕される格好で。白い少女は不安げに眉を寄せ、問いかけてくる。
「気分は、どうですか」
乾いた唇を開く。何年も声を出していないかのように、擦れ、ざらついた声だった。
「……あぁ、悪くないよ。………
―――イオ。その名前は自然と口に出せた。
少女の名前を口に出した瞬間、青年の脳内に数多の単語とそれに付随する情報が、火花のように駆け巡る。欠損した記憶のピースが急速な勢いで埋まっていく。
―――大崩壊。
世界は終わった。突如地面を突き破って現れた無数の審判の棘は、有史文明をズタズタに引き引き裂いた。
―――バケモノ。
大崩壊の直後に現れた、そう呼称される謎の生命体により生き残った人々も次々と喰われていく。
アポカリプス。世界の終わり。ノアの大洪水に続く、人類の2度目の絶滅。こうして、人類の命脈は、絶たれた。
だが、ヒトはまだ生きている。
それは神から与えられたノアの箱舟によってではない。神は祈りに応えなかった。故にこそ、人は自らの意志で知恵の実を齧り、サタンに魂を売ったのだ。
―――
次と次と降りかかる災禍を前に、人は人であることを捨てた。
心臓にBOR寄生体を宿すことにより、人は不死身の怪物と成り果てた。そして、その力をもってして周囲のバケモノを駆逐した。
――――Q.E.E.N計画。クイーン討伐戦。赤い霧。ヴェイン。シルヴァによる統治。血涙。神骸の継承者たち。
数多の記憶が青年の脳内を駆け巡る。その中には自分の名前もあった。
―――ナナシ。
それが自分の名前だ。当たり前だが、本名ではない。
ナナシは一度記憶の殆どを欠損し、自身の名すら忘れてしまったことがあった。その際、便宜的に名付けた呼び名が『ナナシ』だった。普通ならもっと洒落た呼び名を付けるのだろうが、生憎ナナシはその手のセンスが皆無だったし、当時のイオも「その名前は少し味気ないですよ」なんて言ってくれるような人間性は有していなかった。
既に記憶の大部分は取り戻し、人間時代に名乗っていた本当の名前はちゃんと頭の片隅に入っている。
しかし、気づけばナナシの方がしっくりきており、記憶を取り戻して以降もこの名前でヴェインでは通している。
(……いいや、それだけか? 俺がナナシって名前を選んだ理由は―――?)
「っ」
余りの情報量に脳が悲鳴を上げたのか、ずきずきと頭の内側から痛みが響いた。眉を顰めたナナシを心配してイオが顔を寄せる。
その動作で彼女の豊かな肢体が揺れ、青年はそれをつい目で追ってしまいそうになるが、何とか自制した。
「大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない」
嘘だ。
体調は最悪だ。
頭は痛い。喉は乾いた。身体は重い。思考は緩慢だ。恐らく『血』が足りていない。
だけど、気分は本当に悪くなかった。イオと
(―――また?)
自分の言葉に自分で疑問を持つ。しかし、その思考を深堀する前にナナシは急激に勢いを増した飢餓感に襲われた。
「っっ!!?」
(……血が、かなり枯渇しているな)
吸血鬼は不死身の存在だ。人を超えた力を持ち、歳をとることもなく、心臓を潰されなければ死ぬこともない。食料すら摂る必要もない。しかし、代わりに人間の血を定期的に摂取しなければならなかった。
「こちらです」
イオに支えられ、ナナシは立ち上がる。歩き出そうとするが、四肢は鉛のように重く、上手く力が入らなかった。同時に全身の血管を内側から針で刺されたような激痛が継続的に襲ってくる。
「大丈夫です。ゆっくりで、構いません」
イオに支えられながら、ナナシは真っ白な木の元に導かれた。
―――血涙の泉。
人の血の代替物である血涙を実らせる純白の樹だ。
ヴェインの中で暮らす人間の数は限られており、自ずとヴェイン内を出回る血液の量にも限りがある。故に吸血鬼の多くは血涙でその飢えを満たすのだ。
血涙の泉には、石榴にも似た形の木の実が幾つか実っていた。ゴム質の透明な外皮で作られており、中は血液そっくりの真っ赤な液体で満たされている。
ナナシはそれを飲み干し、息をゆっくりと吐きだした。飢餓感が少しずつ落ち着いていく。
「大丈夫。わたしがついています」
イオがそう、優しく告げる。ナナシはイオの膝の上で、ゆっくりと微睡に墜ちていった。
◆
再び目を覚ますと、やはりナナシは廃墟にいた。審判の棘が大地と建物を引き裂いた、ヴェインではありふれた光景。
気分はだいぶ良くなっていた。思考は先ほどに比べるとずっとクリアだ。ナナシは傍らのイオに言う。
「……お前と初めて会った時を思い出すな」
「ええ」
イオは抑揚の薄い声で答えた。しかし、決して感情がこもっていない訳でない。声のトーンと僅かな表情の変化から、イオも昔を懐かしんでいることがナナシは分かった。
「あの時は、貴方もわたしも、お互い何一つ覚えていませんでしたね。わたしが覚えていたのはイオという名前と貴方に寄り添う使命だけでした」
「ああ。俺は名前すら覚えていなかった。本当に、懐かしいな。遠い昔のように感じる」
あれから、一体どれくらいの年月が流れたのだろうか。ナナシは思い出せない。
吸血鬼の多くは人間であった時と比べ、時間の流れに対して鈍感になっていく。吸血鬼になると見た目が殆ど変わらず、またヴェイン内も風景の変化が乏しいせいだろう。
ヴェインは変わらない。
いつだっても渇ききっていおり、いつだって緩やかに滅びへ向かっている。
或いは大崩壊の日にとうに世界は滅んでいたのかもしれない。ヴェインはその滅んだ世界を無理やり繋ぎ留めているだけなのかもしれない。少なくとも、大崩壊以前の世界で暮らしてた人間をタイムマシンか何かでこのヴェインに連れてくれば、十人中十人が「世界は滅んだ」と断言するだろう。
「…何年経とうがここは廃墟ばかりだ」
「何処も皆乾いていますね」
「ああ。雨なんて何年も見ていない」
「雨?」
「……イオは見たことがなかったな。大崩壊前はよく空から水が降ってきていたんだ」
「それは…大変ですね。濡れてしまいます」
「だけど、雨のおかげで植物は育つ。ヴェインに草花がないのも雨が碌に降らないからだろうな」
「花……。それも見たことがありません」
「……そうだったか?」
そういえば、とナナシはかつての上官であるジャックらと共にとヴェイン内に封印されたバケモノ退治に向かった時のことを思い出す。
(雷帝が封印されていた場所には少しだけど花が咲いていたな。地下水のお陰だろうか。あの時はイオはいなかった)
そこでナナシは疑問を抱いた。
(……あれ。どうしてイオはいなかったんだ?)
その時、地響きにも似た太く低い獣の咆哮が廃墟に響いた。それを聞いて傍らのイオが目を細める。
「イオ?」
「申し訳ありません…。思ったよりも時間がありません。そろそろ出発を。『ここ』を抜け出さなくては」
「ああ、もう体は十分に休まった。そろそろ行くか」
言いながらナナシは立ち上がった。
(俺はここに来るまで何処にいた? 何をしていた?)
直前の記憶は曖昧だ。
自分について、世界についての知識もちゃんと思い出した。なのに、どうして今自分が此処にいるのかは思い出せない。
まるで
「………」
ナナシは無言のまま、自身の武器である『女王討伐の片手剣』を手に取る。
ナナシは胸中の疑問を飲み込んだ。聞けば、何かかが終わってしまう様な気がしたから。もう少し、夢に浸っていたかった。