赤目の青年はナナシと名乗った。
明らかな偽名。
そんな自身を偽った男の話す物語は余りにも骨董無形なものだった。
アメリカ大陸北東部に位置する血の牢獄ヴェイン。そこで産まれた人ならざるもの、レヴナント。青年はヴェインからやってきたレヴナントだという。
子供の法螺話のようだが、それを嘘偽りと簡単に断ずることはできない。
何故ならば、ヨハネスもペイラーも知っている。赤目の青年が漆黒のヴァジュラを撃退したことを。明らかに青年の肉体は只人のそれではなく、オラクル的な処置を受けていることを。
何よりも青年の目には理性があり、その語り口は理路自然としていた。
そもそも仮に青年がフェリンル本部の密偵かフェンリルに敵対する組織のスパイだったとしても、素性を偽るならば、もっとマシな嘘をつくだろう。
ということは、逆説的に青年の言うことは真実だと考えられる。
「ペイラー。どう思う?」
「嘘を言っているようには見えないけれどね」
「私もそう感じた」
青年への尋問をひとまず終え、ヨハネスはペイラーと共に支部長室で彼から聞き出した内容について話し合っていた。ヨハネスはペイラーに問いかける。
「レヴナント、か。彼の心臓に巣食うBOR寄生体はアラガミか?」
「話を聞く限り、可能性は非常に高いね。人間の血への偏食傾向をもったアラガミだろう。それも恐ろしい程の再生能力を持った、ね。もし、その存在が僕らの世界に知られていたら、
「ロストはさしずめ、アラガミ化が進んだ神機使いか」
「ロストは心臓部、つまりはそこに巣くうBOR寄生体を破壊してもいずれ蘇るそうだ。コアを破壊しても、やがて別の個体として再構成されるアラガミの性質に余りにも似すぎている。偶然と片づけることはできない。まあ、今の段階じゃ何ともね。推測以上のことを述べることは出来ない」
「まさか、禁足地の内側がそのような魔境になっているとはな」
アメリカ北東部のとある地域は『禁足地』と呼ばれていた。近寄る人間に苦痛を齎し、遠隔操作のドローンも使用不可になる赤い霧に覆われたその地は、フェンリルの支配から完全に外れており、その内がどうなっているのかは誰一人知らなかった。
「実に興味深いね」
ペイラー榊は研究者の好奇心のまま微笑むが、ヨハネスは顔を顰めた。
「支部長は考えることが多くて大変だ」
「変わるか?」
「お断りするよ」
もっとも、ヨハネスは『支部長』として、というより『アーク計画の主導者』として顔を顰めたのだが。きたるべきノヴァによる終末捕食は、禁足地を飲み込めるのか。ヨハネスが気になったのは、そこだった。
「……ペイラー。レヴナントは、危険すぎるな」
「それには全面的に同意しよう」
「レヴナントとなる為の条件が、余りにも緩すぎる。人の血液さえあれば偏食因子の投与は必要ない。これでは神機使いのように、大規模な組織が手綱を握ることは困難だ」
現状、野良の神機使いという存在はほぼ存在しない。
理由は2つある。
1つは神機への適合者が総人口に対して、余りにも少ないから。
もう1つは偏食因子の投与と神械の整備といったメンテナンスは、個人で行うには技術的・設備的ハードルが非常に高いからだ。
世界に広がるフェンリルだからこそ、大規模なパッチテストで数少ない神機使い候補を発見することができる。
高い資本と技術を持つフェンリルだからこそ、デリケートな偏食因子の投与と神機の整備が可能となる。神機使いはフェンリルから離れて生きていけない。
仮に離反したとしても、行きつく先は、アラガミ化による人としての死だ。自由の代償は余りにも重い。
フェンリルは元は一企業であり、その重役たちは神機使いではない只の人間だ。
そんな只の人間が、人を超えた存在の手綱を握ると言う矛盾。その矛盾を成立させている理由が、それだった。
しかし、レヴナントは違う。
彼らは、組織に己の命を預ける必要がない。血さえあれば、何処ででも生きていける。武器の構造は大量生産の必要性から限りなく簡略化されており、結果として長期間の使用にも耐えうる堅牢性をもつ。最悪、武器がなくとも錬血は使える。
レヴナントは少人数でも生きていける。いや、極論、たった一人でも戦える。
ナナシが、単身で極東にやってきたように。
「仮に、レヴナントの技術が何の枷もなく野に拡散すれば……フェンリルの統治は崩壊するだろう」
「じゃあ、どうするつもりだい? ヨハネス。まさか彼を……」
「処分はしないさ。彼は第一部隊の命の恩人だ。それに、レヴナントは人材不足の神機使いの現状を打破できる可能性もある存在と言える。しかし、本部にはまだ秘しておきたい。このデリケートな問題を、本部の高官共の権力闘争に使われるのは、御免こうむりたいのでね」
嘘ではない。
しかし、ヨハネスの本音でもなかった。
(フェリンル本部から疑いの目を向けられている現状、これ以上本部からつつかれる理由を作りたくはないからな)
「…ペイラー、君にはナナシの観察・計測をお願いしたい。レヴナントという存在を解き明かしてくれ。レヴナント、そして禁足地…いいや、ヴェインというのだったか。我々はレヴナントとヴェインに対して、余りにも無知だ」
「わかったよ」
「苦労をかけるな」
「エイジス計画を主導する君ほどじゃないさ」
その後、幾つかの打ち合わせをしてペイラーは支部長室から退出していった。
それを見送ったヨハネスは息を大きく吐く。
疲労が体に溜まっている。時計の針を見ると深夜4時を示していた。昨晩は早急に仕上げなければいけないタスクがあって、殆ど眠れていない。老け込むような年齢ではないが、二十代三十代のような活力はない。
仕事はまだ溜まっているが、少しだけ仮眠をとるとしよう。
ヨハネスは瞼を閉じる。
闇があった。
子供の頃は眠るのが怖かった。この黒色に飲まれ、そのまま目が覚めなかったらどうしようかと、不安になったものだ。
闇の先には死者の国があって、自分はそこに連れさらわれてしまうのではないか。そんな子供らしい空想が頭にこびり付いた幼年期が、ヨハネスにだって存在したのだ。
勿論、その闇の向こうには何もないことを、今のヨハネスは知っている。死の先には、何もない。
愛する妻を実験で失い、その絶望に耐えかねて睡眠薬での自殺を図り、無様にも生き残ったあの日。
『死の先には何もなかった。闇があるだけだった』
心の何処かで、期待していた。死の先で亡くなった妻に会えるのではないかと。数秒間、ヨハネスの心臓は停止していた。間違いなく彼は僅かの間だが、死んでいたのだ。
だけど。
何もなかった。死者の国なんて影も形もありはせず、目が覚めるとただの
そんなヨハネスに対して、友は言った。
『君が生き残ったのは、きっとやるべき役目があるからだ』
役目。
世界よりも大切だったアイーシャのいなくなった世界での役目。妻の次に大切だった、愛するソーマの為にできる役目。この地獄のような現実で己ができること。
その日から。ヨハネスの生きる道は定まった。
当時は、終末捕食もノヴァの事も、微塵も知りはしなかったけれど。確かにあの日から、この冥府魔道は始まって、今この日へと繋がっている。
「私は世界を救う。アイーシャの、全ての犠牲に報いてみせる」
その為に、この地球に地獄を創る。地獄を創って、
そんな何万回目かの決意と共に、ヨハネスの意識は闇に墜ちていった。