ナナシの意識は覚醒した。この目覚めの瞬間が一番恐ろしい。
レヴナントは死の度に記憶を欠損する。
そしてヒトという個は記憶と人格によって創られる。ならば記憶を欠損した己は、欠損する前の己と本当に同一人物と言えるのか。死を挟んだ目覚めを境に、何かが決定的に変質しているのではないか。
ナナシがレヴナントとなって長い年月を経たが、未だにそんな冷たい疑念が頭を過ぎる。恐らく、これはレヴナントという存在ならば誰も逃れることのできない呪いのようなものなのだろう。
もっともナナシは知っている。
かつて記憶の全てを失った時でさえ、『自分は自分』だったということを。
「手荒な真似をして悪かったよ」
ふいに光が差し込んだ。鋼鉄の扉が開かれ、一人の男が入ってくる。
眼鏡をかけた和装の男だった。白髪の癖毛と猫のような糸目が目を引く。歳は四十か五十か、そこら辺だろう。
「ペイラー榊だ。昨晩ぶりだね、よく眠れたかな?」
声には聞き覚えがあった。ガラス越しに見下ろした自分に様々な質問を投げかけていた2人の男、その片方だろう。
「はい」
「はは、肝が太いね。寝心地の悪いベッドだが良かった」
言いながら、ナナシの拘束具を外していく。
「…俺の身柄は、これからどうなるのですか?」
ペイラー榊と名乗った男は微笑んだ。
「とりあえず自由の身だ。ようこそ、アナグラへ」
これから彼らの拠点、通称アナグラを案内するらしい。その前にナナシは別の小部屋に通され、簡素な白シャツと黒のパンツに着替える。ナナシの元着ていた服はボロボロだったからだ。
一人になったナナシはつい安堵の息を吐いた。
(とりあえず、問答無用で処分されることは回避できたみたいだな)
レヴナントという存在は外の世界にとって、間違いなく脅威だろう。ルイもそう言っていたし、ナナシ自身もそう思う。
実際、ヴェイン内ではレヴナントによってバケモノを駆逐することができたが、その後はレヴナントこそが災厄を振りまくことになった。
だからこそ、シルヴァは赤い霧でヴェインを封じたのだ。レヴナントの血への飢餓と大量発生したロスト。それらを解決しないまま、外の世界と繋がることをシルヴァは認めなかった。
QEEN計画を主導した者としての責任感があったのだろう。或いは実の娘に端を発する悲劇を、これ以上広げる訳にはいかないという親心が一番の理由かもしれない。
ヴェイン内に住まう全てのヒトを緩やかな破滅に誘うその政策にナナシは思うところはあれど、当時それ以上の良策を考え付けと言われれば、黙るしかない。
ともかく。
レヴナントが危険な存在だという見解は、大抵の者が賛同しているということだ。
だからこそ、ナナシは大きな安堵に包まれた。
世界を救いに外の世界に出たはいいが、逆に外の世界の住人に殺される。そんな結末は十分に在り得る未来だったのだ。
(これから俺はどうなるんだろうな。こうして一応の自由を与えられたんだ、倫理を無視した惨い扱いにはならないとは思うが……いや、そもそも俺は必要か?)
深紅の腕輪を付けた機械仕掛けの武器を操る集団。
(まさか外の世界に、あれ程までの武力を有した戦士たちがいるなんてな)
ナナシは正直、かなり驚いていた。彼らがいるなら、自身はもう必要ないのかもしれない。世界は『救われている途中』であり、そこに自分が入り込む余地がないのなら―――。
そんなことを考えていると、小部屋に設置されていた鏡が視界に入った。鏡の前に立つ。栗色の髪。やや青白い細身の顔つき。切れ長の目に収まった赤い瞳。ここ十年ほど、一切変化していない容貌が映る。
次いで、はだけたシャツの胸元に視線を移した。
胸の中央には、大きな傷跡が残っていた。傷跡はどういう理屈か琥珀色に煌めいている。それを、ゆっくりと指でなぞる。
「イオ……」
夢での邂逅はナナシの記憶にしっかりと残っていた。あれは決して夢幻でも妄想でもない。自分はまた彼女に救われたのだ。
今も脈打つ心臓の中には、琥珀色の血涙が形を変えてあるのだろう。彼女は今は
「…俺のやることは変わらない。そうだよな」
―――世界を救う。彼女の意思を継ぐ。求められるかどうかなんて、必要かどうかなんて関係ない。ナナシはそう決意を新たにして、小さく微笑んだ。
手持無沙汰に部屋で待っていると、ふいにノックされる。
「どうぞ」
ドアを開けて現れたのは、黒髪の二十代半ばの青年だった。
微かに見覚えがある。現実の世界で漆黒のバケモノと再戦した際、共闘した一団のリーダーだった男だろう。もっとも、血の飢餓で意識は朦朧としていた為、記憶はかなり朧気だが。
「よお、お前さんのアナグラ見学のガイド役を頼まれた雨宮リンドウだ。よろしくな」
リンドウは快活な笑みを浮かべた。
「ああ、よろしく。ナナシだ」
ナナシ、という名前を聞いてリンドウが僅かに眉を顰める。
「まあ通り名みたいなものだよ。深くは気にしないでくれ」
ナナシは早口で補足した。
ヴェインではこの名前に突っ込まれることも、殆ど無かった為、ナナシは少しだけ意外に思う。
(いや、本来ならこんな名前はおかしいと思うよな。大崩壊前の社会なら、あり得ない名前だ)
ナナシという名前がヴェインに溶け込めていたのは、結局の所あそこの文明が破壊され、変質していたからだろう。21世紀のルールや常識なんてものは残骸程度にしか残っていなかった。有体に言って、コミックの世紀末世界だった。
ならば、逆説的に『ここ』はヴェインよりも遥かに文明的で、かつての世界の面影を残しているのだろう。
そんなことをナナシは思う。
「成程な。ええっと、そういえばアンタ見かけによらず結構歳食ってるんだっけか? 支部長とかと同年代ってレジュメには載ってたが…、敬語使った方がいいか?」
「いや、そのままで大丈夫だよ。堅苦しいのは苦手だ。それに寝てた期間が長いから、実際はそこまで年長者って訳でもない」
「良かった、俺もお堅いのはニガテだ」
「……何処まで俺のことを聞いてる?」
「とりあえず、お前さんはレヴナントっていう神機使いの兄弟みたいな存在だってこと。あと、ヴェインってとこから来たこと、くらいだな。……ほんとは色々書かれたレジュメを支部長に渡されたんだが、部屋に忘れてきちまった」
「……何というか、平然としているんだな。俺はお前たちから見て異物じゃないのか?」
「お前さんは、恩人だからな。お前さんが駆けつけてくれなきゃ、俺たちはどうなってたことか…。俺たちを助けてくれて、本当にありがとうな。そして悪かった。俺たちはお前に神機を向けちまった」
「謝るのは俺の方だよ。血の枯渇で意識が朦朧としているといえ、人の血を同意なく啜るなんて。やってはいけないことをした」
「じゃあ、お互いに手打ちといこう」
リンドウはニヤリと笑った。
「とりあえず、少し遅いが朝飯食い行くか」
「俺は……」
「食事は必要はないらしいが、別に食えないって訳じゃないんだろ? 折角長旅をしてきたんだ、極東の名物でも食っていけ。……まぁ、正直大概は質より量で味はアレなんだが」
リンドウは苦笑しながら頭を掻いた。
ナナシは既にこの青年のことを好きになっていた。他人を引きつけるカリスマと言うか雰囲気があった。
「行こうか、楽しみだ」
食事についての感想は、まあ……なんというか、美味しいものはあった、という感じだ。極東のソウルフードらしい味噌汁は文句なしに美味しかった。
だが大抵は大雑把な味付けだった。特に野菜は味が薄く歯ごたえも悪い。繊維が太いのだろう。大崩壊前の飽食の時代の食事と比べるべくもない。
「フェンリル十八番の遺伝子改良さ。瘦せた土地でも多くとれるが、味がな…」
「いや、久しぶりにこんなに野菜を食べたよ」
本音だった。大袈裟に言うならナナシは感動していた。
ヴェイン内では食料は殆ど流通していない。臨時総督府の農場の作物は大抵が人間の為に作られており、レヴナントに食べる権利はない。ナナシがヴェインを出立した頃に、やっとレヴナントの為の農場がつくられ始めていた。
食事の後はリンドウの案内の元、アナグラを見て回る。やはり、リンドウは人望があるのだろう、よく声をかけられていた。
ピンクの髪をした生意気な顔つきの少年もその一人だった。
「あ、リンドウさん! 今日は休みかよ! 良いよなぁ!」
「馬鹿野郎、神機が破損して出撃できないんだよ。シュン、お前は今から出撃か?」
「ああ。今から稼いでくるぜ!」
少年の手首には赤い腕輪があった。リンドウの手元にあるこれが外の世界の戦士、神機使いの証なのだそうだ。
「ん、こいつは?」
「あーーと、フェンリル本部の重役の息子さん、ミハエルさんだ。極東には親父さんの代わりに視察にきてる。極東は初めてでな、仕事の後も暫くアナグラに留まるかもしれん」
ナナシの現在の表向きの身分はそういう設定になっているそうだ。
「はーん。つまりはボンボンか。むかつくなぁ。まあ、よろしく」
「ああ、よろしく」
そんな具合に、時たま出会った人に挨拶しながらアナグラを見物していく。
「ここはラウンジ。酒が美味いぞ。高いけどな」
「ここはロビー。ここでクエストを選ぶ。最近禁煙になった。きついなぁ」
「ここは神機格納庫な。触るなよー、食われるぞ」
リンドウの解説は適当だったが、ナナシが質問を投げれば的確な答えを返してくれた。
ナナシはこの外の世界がフェンリルと言う巨大企業に統治されていること。外の世界ではバケモノを荒ぶる神になぞらえてアラガミと呼んでいること。そしてアラガミに対抗できるのは、神機を操る神機使いだけであることを知った。
時間は早いもので、気づけば夕方になっていた。
ナナシとリンドウはアナグラの屋上から、極東の街並みを見下ろしていた。対アラガミ防壁と呼ばれる高い壁で囲まれた円形の街。その中には人の営みがあった。
壁に囲まれて暮らす人間。そこだけ見れば臨時総督府の人間保護区と大して変わらない筈だ。だが、ナナシには両者には大きな違いがある気がしてならなかった。
「良い景色だろ? 俺はよくここに来るんだ。自分が何の為に戦ってるかってことを思い出せる」
「ああ、良い景色だ」
夕日の眩さに目を細めながらナナシは頷いた。
「良い場所だな、ここは」
「そうかい、良かったよ。此処は俺の故郷だからな。褒められて、悪い気はしない」
リンドウは頭を掻いた。
「少しトイレに行ってくる」
何年かぶりに飲んだ缶コーヒーの安っぽい味を楽しみながら、ナナシはもう一度極東の街並みを見下ろした。
極東の街並みは雑多だった。埃と油と生ゴミの臭いが、レヴナントの鋭敏な鼻孔を満たす。
仕事帰りの男たちや遊び疲れた子供たち。家の中ではきっと母親がそんな夫と子供のために夕食を作っているのだろう。人々の生活の匂いと景色。
ふいに理解した。
「……ああ、そうか。ここは終わってしまった世界の続きじゃないんだな。人の歴史が今でも紡がれている…」
言語化は難しいけれど、何となく外の世界に来てよかった。ナナシはそう素直に思えた。
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