それはいつもの朝から始まった。
太陽に焦がされた鶏が声を上げるので、その日も決まった時間に叩き起こされる。
毎日卵が食べられるからと母が決して少なくない銀貨を犠牲に買ってきたのだが、雄鶏なので卵を生まなかった。誰もトサカに突っ込まなかったのだから間抜けは一家相伝なのだろう。
さっさと絞めて豪華な晩御飯にすればいいのに、生まないなぁ生まないなぁと眺めているうちに変に情が移ってしまい、その頃にはペットのような扱いになっていた。
農家の人に言えばきっと馬鹿にされるが情が深いのも一家相伝である。でもそうでなければきっと父と母は結婚していなかっただろうし、悪いことばかりではないと思う。
眠い目を擦りながらみんなで朝ご飯を食べる。父と母、妹と私の一家四人の食事事情は決して豊かではなかったが、不満を言うほどでもなかった。
父はいつも通り仕事に出て行ったし、母は冬に向けたかご編みの内職の準備を進めていた。私と妹もそれを手伝って、いつかお母さんと同じような仕事をするための練習をする。
ただ妹はちまちま仕事が嫌いなのかいつも通りすぐに飽きてしまい、見かねた母はお使いついでに私と妹を外に送り出した。
ここまではいつも通り。きっと死ぬまで続く私のつまらない日常。
今となっては恋しいけれど、決して戻ってこない日常だ。
「お姉ちゃん、お姫様」
妹は私のスカートを握りながらうっすらと人だかりの出来た大通りを指さした。
その日一番違ったのは、貴族のお姫様がやってきたこと。
妹の指先では百人ぐらい? たくさんの兵隊を引き連れて、物語にできてきそうな立派な甲冑騎士を傍らに、卵みたいな鎧の小さな人影が歩いていた。
「お姫様?」
「うん、卵の人、お姫様」
卵に手足が生えたような不格好な鎧で、お姫様なんて言葉はとても似つかないけど、顔を見れば納得する。びっくりするぐらい可愛いんだ。
髪は金糸を束ねたみたいで、目は宝石みたいにきらきらしてる。顔の大きな傷が少し痛々しいけど、神様が丹精込めて作ったんだなというのがよくわかる綺麗な顔立ちだ。
なるほどお姫様だ。ドレスは着てないけどあんなに綺麗なのは貴族のお姫様しかあり得ない。こんな田舎で目にすることができる御貴族様は代官様の娘さんぐらいだけど、あんな神様に贔屓されたような人はお姫様に決まってる。
「――あれは」「領主様の次女の――」「――自爆姫」「一番の変人が出てきたかぁ――」「――顔は滅茶苦茶いいんだけどな」「――まだ成人前だぞ」「――アメリア様――」「――でも良かったよ、長男よかよっぽど戦上手だし――」「――はぁはぁ」
みんな人目をしのぶようにこそこそと話してた。品評は少々塩辛い。
そういえば近くの森でゴブリンが見られるようになったってお父さんが言ってた。ゴブリンなんて大人の男からすれば大したことはないけれど、数が集まると農村の家畜や女を攫うって言う。私たちのテオの街はとても大きな街なので襲われることはないだろうけど、森の向こうの開拓者たちの村には連絡が取れなくなっている場所もあるとも言っていた。
もしかしたらお姫様は怪物退治にやってきたのかもしれない。せっかく来てくれたのに好き勝手言うのはどうかと思うけど、いざという時徴兵と言って命懸けの戦場に連れていかれる平民からすれば品定めも容赦がないのは仕方がない。
御貴族様は平民を矢弾か何かと思っている人が多いと聞くし、噂通りお姫様もろくでもない人なのかもしれない。
「――あ」
ふとお姫様がこっちを見た。はっきりと目が合った。意地の悪いことを考えていたのかもしれない。びっくりして身をすくめたが、お姫様はなんとも気楽な動作で手を振ってきた。
「ほら見ろカナバル。めっちゃ可愛い子が見てる。たぶん姉妹だ」
「パレードじゃないんで手を振るのやめてもらえます?」
ゆっくりと行進しながらお姫様たちは立ち去った。私の緊張など知りもしないで妹は手を振り返していた。我が妹ながら、ちょっと大物過ぎるんだ。
「だ、ダメでしょ、御貴族様にあんなことしちゃ」
「手を振られたのに、無視しちゃだめだよ」
帰り際に妹を叱ってみたが、ごもっともなことを言われる。
あとで聞いたけど、やっぱりお姫様は怪物退治にやってきたみたい。お父さんが言うには領主様の娘さんだけどかなりの変人で、あの顔のひどい傷も自分でやったそうだ。
あんな綺麗なものを壊せる神経は信じられないけど、幼いのにかなりの戦上手で領内の盗賊や怪物退治であの子が出てきたら当たりなんだと言っていた。むしろ青年の長男が出てきたらはずれなんだって。…御貴族様の事情は知らないけど、幼い妹に立場を取られる長男さんはかなり可哀そうなんじゃないかと思う。
「でもこれで一安心ね、私ずっと心配だったのよ」
「うちには可愛いのが二人いるからな」
夕食で父と母はちょっと硬いパンに豆と、最近出回ったジャガイモというもののスープを混ぜながら言う。
質素の食事だと思うし、新しい食材が混じったと言っても質素な味だからこれが毎日続くと思うと辟易する。でも父も母も私たちを心の底から愛してくれていた、私もそうだ。
情が深すぎて鶏一匹殺せない、それぐらいしか特徴のないつまらない家族の一日は本当に退屈だ。
でもそんな退屈だけど幸せな日常は、血だらけのお姫様がテオに大急ぎで戻ってきたときに全部なくなってしまった。
〇
暗くて重くて肌寒い。
凍えるように寒かった。吸い込む肺がきりきりと傷んだ。深い霧のせいだ。
お姫様が帰ると真っ青な顔をした代官様が御触れを出した。
「今すぐ、最小限の家財を持ってここから逃げること。すぐにでも蛮族の大軍勢が来る」
そのあとは嵐の様だった。
怒号と当惑、悲鳴と涙。
逃げろと突然言われても、家財は命だ。そんな簡単に捨てられはしない。それでも行かねばこの都市は怪物の群れに食い尽くされるらしい。
父も母も、大急ぎで荷物をまとめると、あれだけ大事にしていた鶏も逃がしてしまい、私たちの手を引いて逃げ出した。
都市の外なんてほとんど出たことがない。初めての遠出は楽しいものではなく、焼き出されるような逃避行だった。
「お姉ちゃんっ、お父さん、お母さん…!」
「わかってる…!」
訳も分からないないまま必死に逃げていたが、気が付いたら父と母からはぐれてしまっていた。父と母もいっぱいいっぱいだったのだ。
わたしも妹も子供の女の足だったから、逃げる難民の列に揉まれてどんどん遅れて行ってしまっていた。
間抜けな話だけど、私の周りにはお年寄りや体の不自由な人だけどまだたくさん人がいて、遅れているにもかかわらず少し安心してしまっていた。
「ギャギャギャ」「ギギッ」「ギャギャ」
でも気が付けば化け物たちの、この世のものとは思えない椅子が軋むような笑い声が背後まで迫っていた。
「ひぃっ」
すぐ近くだ、すぐ近くまで来ている。背中に氷が差し込まれたみたいに冷えた。
怪物たちは女の子を攫ってしまうらしい。そのあとどうするかまでは知らなかった。父も母もそのことについては詳しくは言わなかった。でも本能でわかる、こんなに悪意に満ちた声を漏らす怪物は、平民の貧相な頭では思いつかないほどおぞましいことをする――
そんな時にぞっとするほど冷たい空気が雪崩みたいに押し寄せて、気が付けば視界はすべて霧に包まれていた。
この辺りはよく冷える土地柄だし、川もあるから霧ぐらいでる。でもこんな夕方なのに前も見えないような霧に包まれるようなことはなかった。
「突撃ィッ! ぶっ殺せぇ!」
気迫に満ちた声に続いて心臓が止まりそうなほど大きな鬨の声が響いた。
地響きのような足音の群れが何も見えない霧の中に轟き、鉄の音が弾けた。
別の意味でぞっとした。兵隊たちと怪物の戦いに巻き込まれたのだ。
悲鳴と怒号、鉄と鉄がぶつかる音が周囲を覆っていた。いろいろなことがおこりすぎて、もはや何がなんだかわからなかった。
「まともに斬り合うな! 盾で跳ね飛ばして踏み殺せ! オークは相手にしないで避けて通れ! どうせ追いつけない!」
お姫様のものだろう声が聞こえる。思えばこの霧はお姫様の魔法だったのかもしれない。そうならばきっとお姫様は私たちを助けに来たことになる。
ただお姫様の声は確かに可愛いけど、殺気と言えばいいんだろうか、声で殴りかかるような気迫が入っていて怪物に負けないぐらい怖かった。
「お姉ちゃんっ、お姉ちゃんっ」
「あ、あ…う、うん」
妹は凍り付く私の手を必死になって引いていた。
行先はわからないけど、ここにいるよりかはずっとましなはず。
這うように、かき分けるように霧を進む。行先はわからない、でもお姫様や兵隊、怪物たちの声が聞こえないほうだ。どれも恐ろしいことには変わりない。
必死になって進んで、進んで、いつしか霧が途切れていた。日が暮れるほど進んだから気が付かなかったんだと思った。
恐ろしい声も随分遠くなっていて、夜気に満ちた藪に私たちはいた。
「はぁ…」
私たちは気が抜けて、腰が抜けてしまった。
この時私たちはぐるぐると霧の中を迷っていて大した距離を進んでいなかったし、お姫様たちが撤退したから霧が消えたということに気が付いていなかった。
怖い時間は終わったのだと、勘違いしてしまっていたんだ。
「お姉ちゃ――」
ごんっという音がして視界が傾いだ。
妹の悲鳴は途中までしか聞こえなかった。聞きたくもなかった。
耳鳴りが響く耳に入ってくるのはあの椅子が軋むような鳴き声。目に入ったのは汚らしい緑色の禿げた小人のような怪物たち。
…なんでなにも悪いことしてないのに、こんな目に合うんだろうね。