事の次第は、畳み掛けるように一瞬で終わった。
彼女の頭蓋骨の裏側で、にわかに膨れ上がろうとしていた炸裂の事象変移。もし、あと数秒誰もが手を拱いていたとしたら、ミァン・ハッワーの整った顔立ちが、目の前でひどいスプラッタになっていたはずだ。
しかし、そうはならなかった。寸でのところで。
事象変移とは可能性を選び取ること。原作中、他ならぬここソラリスで、未覚醒の対存在であるエリィがミァン《補体》にエーテル・パワーの起動を抑えつけられたように。より上位の権限者からの介入があれば、可能性を掴もうとする手を強引に押し留め、ねじ伏せてしまうことも選択肢となる。
仮玉座の上にいるもうひとりの意志が、現実を『起こらない未来』へと収束させることで。炸裂は未然に防がれた。
企てを阻止されたことに気づいたミァンは、苦し紛れに片手を手刀にし、その先に生成した半透明の青白い刃で、自身の頸動脈をナナメに掻っ切る素振りを見せた。が、そちらはシグルドの、というよりグラーフ《ラカン》の権限によって雲散霧消。
手刀自体も振り抜かれることなく。ミァンの体全体が、突然背後から羽交い締めでもされたかのように固まった。
彼女の悪足掻きも二手目までだった。
俺が、ミァンに向かって一足飛びで近づき、彼女の細い首筋を、右手で正面から握りしめた。
潰してしまわない程度に加減して。それでも、掴み損ねないようそれなり以上の握力を込めて。挟み込むように。
ミァンの注意が他の二人を向いていた僅かな間に、密かに発動準備は済ませてあった。掴み取って間もなく、溜め込んだエネルギーを手のひらから放った。そのエネルギーは風属性エーテル・パワーの雷撃へと形を変え、見下ろす視界がつかの間、白熱した。
一撃の通りはしなやかだった。それこそ、そこらの一般人を相手取った場合と遜色がないくらいに。彼女が全身に帯びていた耐エーテルのガード効果も、グラーフ《ラカン》の権限で身動きを封じられた時点で、効力が巻き添えになって粗方剥ぎ取られていたからだ。
右手の指に込めていた強い力を緩める。パチパチと爆ぜる微かな余韻とともに、崩折れそうになる目の前の女性を抱きとめ。刈り取られた意識と、その命に別状のないことを確かめると……やっと、人心地つくことができた。
◆
……。しっかし、犯罪臭がやばいよなあ、コレ。
「なんだと?」「えっ。なんだって?」
見たまんまの話だよ。図体のでかい野郎が二匹と、場違いなガキンチョ一人が、うら若き女性に対して寄ってタカってだな。この天下の往来で、チョーノーリョクでアタマも身体も金縛りにした挙げ句、謎パワースタンガンで気絶させて身柄を攫おうってんだぜ。
いいとこ誘拐犯の所業だろ。いやまぁ、実際問題ほとんど誘拐犯なんだけど。
「うら若き、か。体感年齢ウン千歳の策略家に向かって、その呼称が相応しいかは甚だ疑問ではあるがな」
まーそーなんだけどねえ……よっこらせと。
そんじゃ、このまま湾口エリアまでお連れするとしようか。天帝サマの息が掛かったフネが使える手筈になってる。最終的な出荷先は、シェバト、アウラ・エーペイル最下層部の非常用ドックになるであろー。
悪いが、状態固定化へのコミットメントは引き続き両名が全力で頼むぞ。知らんうちに目ェ醒まされて、俺の背中で大暴れされた日にはどうなるか知れたもんじゃ……って、どしたい、フェイ?
「あ、いや……」
今しがた、シグルドに続いて仮玉座の上から飛び降りて来たお子様一名。今もシグルドの隣で佇んだまま、エーテル制御のほのかな波動を湛えている。
躊躇いがちな気配を滲ませつつも。フェイは、俺の方を見上げて二の句をついだ。
「なんか、軽いなって。一応アンタってその、コイビト、なんでしょ? ミァン《それ》の」
んー、まぁな。といっても、主観的にはそこまでって程でもないからな。肌感覚としてはこの娘さんは双子の兄弟か何かの相方ってところで、そこまで距離感が近くないんだよ。
分類としては身内だから、当然丁重には扱わせてもらうがね。
「そう、なんだ?」
そうなのだ。
……そりゃ、もちろん、俺としてもイマイチしっくりこない部分は無いではないが。そのあたりの違和感については今は脇におこうってね。
なにせ、ここソラリスでの成果如何で、今後の世の中そのものがガラリと変貌しかねないわけだからな。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ。そのくらいのことはやり果せないと、ここまでやってくることなんて出来なかったに違いない。ま、この俺にも立場に見合った覚悟ってものがあるのだよ。ハッハッハ。
「……フェイ君、あまりその男が言うことを真に受けないほうがいいぞ」
などと、シグルドが利き手の人差し指を、しかめっ面にした自前の額に当ててヌかした。この野郎、せっかく俺がピシッと決めたとゆーのに。
「達観したようなことを言っておいて、腹の中にあるのは単純な打算だけというのがほとんどだ。政治屋じみた遠回しな誘導と、その場しのぎの杜撰さとの中間品。だいたいの場面ではその程度のものだと見ておくべきだろう。コアな情報を握っている上、能力自体はあるから目を背けておくわけにはいかんが、かといって、律儀に取り合いすぎてもムダに疲れるだけだからな」
なんだそりゃ。三下扱いには謹んで遺憾の意を表明すんぞ。
「ああ、うん。知ってるよ。俺だって、そういうふうなヒトが、ときどき居るっていうのはさ」
「……そうやって外付けの知識に頼りすぎるのも、あまり良いことじゃあないな」
と、シグルドはフェイに向かって屈みこみ、微笑みかけながら言った。
「君よりも十年は長生きしている俺にとっても、グラーフ《ラカン》の記憶というのは重すぎる荷物だった。その上あれは悲劇だ。どうしても影響を受けてしまうのは致し方なかろうが……しかし、君は、君自身の経験をもっと大事にしなければいけないよ」
「俺自身の、経験?」
「そう。君が、君の目で、耳で、肌で。心で感じたすべてをだ」
「……」
「そうしたものを積み重ねることで、ヒトは、己の土台を自らのうちに作り上げる。ひとつひとつが掛け替えのない瞬間だ。それなのに、君が持つ、おそらく俺の内に在る“それ”よりも一層鮮烈な過去の記憶は、そうした欠かすべからざるプロセスの、無粋な妨げとなってしまう」
シグルドの発言には確信めいた力強さがあった。立場的に言えば、今のコイツほどフェイに寄り添ったものの見方ができる人間は居ないだろう。
「ラカンという男の生涯。何人もの男たちの生涯。そのおぼろげな残滓を、時と場合によっては尊重してみるのもいいだろう。はるか昔、彼らはそれぞれが己自身を生きた。成し遂げた実績があるわけだから、大いに参考にはなるはずだ。だが、あくまでそれが異物であり、外付けの、不自然なシロモノだというのは強く意識しておく必要がある。さもないと、我々は、自分自身を見失うことになってしまうから」
「分かってる……いや。そうだね、そう思うよ、俺も」
フェイが、はにかんだような笑みを浮かべて言った。
「技を使おうとすると、技に使われちゃう。技は心が身に着けてなきゃいけない。たしか、父さんが、だいぶ前にそんな感じのことを言ってた気がする。シグルドが言ってるのは、たぶんそういったことなんだ。違うかい?」
「ああ、要点を突いているな。そのとおりだ、さすがはカーン殿といったところかな」
「ヘヘッ」
「ともあれ、フェイ君。君が利発な子だというのは重々わかっているつもりだ。俺がわざわざ心配するほどのこともないのだろう。ただ、ついでにもうひとつ過保護なことを言っておくと、そうした天分にあぐらを掻いて、自分の我を押し通すのが危ないことだというのも、しっかり心に留めておいて欲しい。いつかどこかでしっぺ返しを食らうことになりかねないからね」
「ん。わかったよ」
「良い返事だ。くれぐれも、そこに居る男のようになってはいけないよ」
あぁん? おいこら、ヒトを情操教育のネタに使ってくれてんじゃねーぞ。ったく、大人しく御高説を伺ってみりゃ言いたい放題言いやがって。
……まぁ、そこの二人の仲が良いこと自体は、喜ばしい話ではあったりする。
現時点でのフェイは、いわゆる『イド』側の人格がステージに立っている状態だが、分裂してからさほど時間が空かなかったおかげか、今のところ元々のフェイと比べてそこまで大きな乖離はないようだ。
もちろん、怒りや憎しみに根ざして生まれたその生得的な気質は払拭されきってはいない。アイリス・エリアの隠れ家で保護された当初は、情緒不安定な気配が端々に見られ、今後の先行きが大いに危ぶまれていた事実もある。
一方、周囲の配慮や好転した家庭環境等のおかげで、今ではだいぶん持ち直してきているのが目に見えて分かる。
グラーフの手になる強権的な同調圧力はもはや無く。監視と護衛を兼ねてだいたいシグルドが付いているし、カーン殿も、以前の仕事人間っぷりを相当改めてくれている。あと、少し前にゼボイム遺跡から引っ張り上げたエメラダも、今ではウォン家の一員として、シェバトのお家でしっかり賑やかしをやっているらしい。善きかな善きかな。
おそらくだが、『臆病者』のフェイの方も、ステージの傍で外界を恐る恐る眺めているんじゃないだろうか。
救出に至るまでの二年弱。その前十ヶ月の実験体としての日々。我が子を庇っての母親の死。……ここに至るまでのそうしたロクでもない経緯から、引き続きイマイチ腰が引けてはいるが。それでも、眺める、即ち観測行為は、ステージに立っているのと実情としてはそう変わらない。
療養期間は二年近くが経っている。『臆病者』と『イド』との人格的な境界は既に曖昧になりつつあって、このまま行けば自然治癒的な統合も望めるだろうと思う。
本来、精神に根ざしたセンシティブな症状については、荒療治なんてご法度のはずだ。ゆっくりと、段階を踏んで。長い時間と、周りの人間の気遣いや優しさこそが、今のフェイにとっては最良の処方箋に違いない。
……ただなあ。ビミョーに懸念されるところもなくはないんだよな。ぶっちゃけシグルドの方なんだが、コイツの場合、実の弟君との間柄が未だにギクシャクしていることの代償行動としてウォン家《あっち》側にのめり込んでいるフシが――
「……何か言ったか、カール?」
え? いや、別に。何も言ってないぞ。一言も。
「どうだかな」
マジで言ってねえっつうの。……ていうかお前なあ、ヒトサマの内心の自由をシレッと侵すの辞めろよな。エーテル・パワー活用の先読みってか、もうやってることほとんどサイコメトリーだが、格上相手じゃいちいちガードするのも手間なんだから。
「ふん。お前達親子の侵害ぶりと比べれば、今の程度は誤差みたいなものだろうさ」
シグルドは、屈んでいた姿勢から立ち直ると。湾口エリアに向かって歩き出しながら、無人となったアラボト広場を一望するかのように、片手をスッと広げてみせた。
「千人は居たはずだ。それが、ひとりの例外もなく、何の躊躇いもなく、この場から去った。ずいぶんな光景じゃないか。そしてまた大いに悍ましくもある」
その意見にはまったく同意するけどね。ただ、今のうちはちょっとくらい目こぼししてくれや。
良くも悪くも、この国は純粋培養でここまで来た。中長期的には状況はマシになっていくだろうし、今後見込まれる休戦条約だってその一環なわけだが、それでもあんまりドラスティックにやっちまうと、基礎構造から盛大に破綻しかねない。
「……まぁ、それはそうだろうな。温室栽培の作物を、いきなり寒空の下に出しても枯れるだけだ」
左手を顎の付け根に持っていき、そのまま後ろ髪を軽く払うような動きをしてみせる。以前のシグルドからすると見慣れない仕草だが、やっぱりラカンやらの影響があちこち顕れているのかもしれない。
「だが、そうした妥協が事なかれ主義の温床と化し、結果として何一つ成果が上がらないというのも、良くある話だ」
そこらへんは今後の俺の……ていうか、我々にとっての課題だわなあ。
デウス《兵器》の復活というお題目を廃したソラリスを、まともな国民共同体へと組み直すにあたって。カイン《親父どの》の強権を、どの程度ブン回してやっていくべきか?
強権を打破するために強権を用いるのはセオリーとはいえ、使いすぎると毒になるのは自明でもある。現状のこの国の、やらかしの多さが何よりもその証明と言える。
「……」
ましてや、絶対的な権力を如何にして上手く放棄していくか、っつーことになると……正直言って、無理難題にも程があるだろうって気がするぜ。
そもそも、この国自体、それ在りきが前提ですっかり出来上がっちまってるわけだしな。建国からこの方800年を数える。支配者たるガゼル上層部は天帝の威を借りて采配をふるい、下々は意志なきコマのように動かされ続ける。
そうした構図のなかで、市民は明らかな搾取を受けつつも、しかし、それなりに得るものを得てもいる。
「待て。第三級市民層《働きバチ》の人間はどうなる。彼らはそうした利害関係の枠組みから漏れてしまっているはずだぞ」
確かに、あそこはひどいさ。内部情報を洗った限り、現時点でも未だにムチャクチャやってやがる。ただ、彼ら働きバチが受けてきた非道な仕打ちというのは、この国建国以来のケッタイな目的があったからこそというのも、一面の事実ではあるんだ。
「だから尊い犠牲として受け入れろとでも言う気か? お前――」
違う違う、そうじゃない。それだからこそ、改善の余地は分かりやすく大きいんだってこと。
デウス復活とかいうくだらん看板をサッサと降ろし、『愚か者の巣窟』たる慈悲《ケセド》・エリアにメスを入れる。際立って悪質な連中を見せしめとして吊し上げ、監査機関にしっかりとした権限を持たせることで、組織全体の新陳代謝を全速力で促す。
これは大至急やるべきことだし、まさしく強権《カイン》の使いどころと言える。
ていうか、そういう目標と結果が分かりきったような場面でこそ、強権ってのは、結果を導き出すための魔法の杖として使うことができるわけだろう?
「……正しく用いられるのであれば、な」
難易度的に一等イージーなことすらやり遂げられんのなら、何も出来るわきゃないんだから一緒だ一緒。
ともあれ、将来的な話として考えるのなら、彼ら働きバチも、枠組みの内側にあると見ることが出来る。今のトチ狂った扱いを見直していけば、彼らもじきに国家組織内における、一般的な低所得者層に収まるはずだからだ。
「固定化された階層構造自体も問題ではあるが……そこからは、標準的な貧困対策の一環として対処すべき部分だと、そう言いたいのか」
そゆこと。何処の国だって同じように抱える社会問題として見ていくことになるだろう。そう出来るはずだ。たぶんな。
だから、結局……懸念すべきは、この国固有のふんわりプカプカした部分なんだよな。
欠落した自主性。下がりきったモラル。相互信頼性の欠如。エトセトラ。
右向けば右へ、左向けば左へ。天帝サマのご威光で埋め合わせることで、雑に帳尻を合わせてきたことによる不具合はあちこちでうず高く積もっている。総じてロクなもんじゃないのは明らかだ。
しかし、にもかかわらず、現状維持への誘因は殊の外強い。
「……長年の裏付けか」
うむ。今までこれでちゃんと回ってたんだから、というやつだな。加えて、この度ソラリスは大局的に見れば敗北を喫するわけだが、分かりやすい形でガツンと殴られたわけじゃないぶん、構成員の納得感も薄いだろう。市民生活への悪影響もまだ少ないってか、見てきた限り現状ほとんど無さそうだ。
下部組織の『教会』が潰れたのにコレってことは、もともとこの国は地上から収奪した各種リソースをM《マラーク》計画に遮二無二突っ込んでいただけで、通常の生活サイクル自体は国内でそこそこ完結出来ているらしい。
そんな状況で、改革の名の下にあれこれ無理やり引っ剥がしたら、その下の皮と肉まで削いじまうおそれが出てくる。それは過大な、それどころか不必要な痛みなのでは?
パッと見のリスクは大きい。訴求力も弱い。反改革の機運は高まる。大いに日和ってはいるけれど、理屈は通ってしまっているから。
それでも、もちろん、やらいでか、という話ではあるんだが。やらなきゃそのうち茹でガエルは間違いないんだし。かといって、上手くやり切る自信があるのかってーと……まぁ、無いわな。
「……カール。俺に、お前を、殺させてくれるなよ」
厳しく、睨みつけるような表情を作って、シグルドが告げた。すぐ後ろで俺たちに付いてきていたフェイが、ビクリと身体を震わせたのがわかった。
「俺の中のグラーフ《ラカン》は、もはや人格とは言えない。その程度のものに過ぎなくなった。それでも本質的なポテンシャルの強大さから、俺の価値判断に影響を与える部分は確かにあるんだ。お前が権力に溺れるとは思わん。しかし、もしお前がいつか何もかもを諦めてしまって、現状に甘んじ、いわば第二のカインと成り下がったときには……」
手始めにテメェから滅ぼすぞ、てか。おー、怖。
「お前だけでは到底済まんだろうさ。仮にグラーフ《ラカン》の妄執が再び燃え上がる日が来れば、有限な俺の命では、抑え込むのにも限度があるからな。仮に俺が最期まで抗えたとしても、次なる被害者が爆薬庫に火を放つ可能性は高い。そうして五百年前が再演され……今度は何ひとつ、後には残らない」
ゾッとしねえなあ。ま、そうはならんようせいぜい頑張るとしますか。
どのみち、個人レベルで出来ることなんて知れたもんだ。人事を尽くして天命を待つ。出来る限りのことをやったら、後は良い目が出てくれるのを祈るだけってね。