21/04/29 時系列を活動報告に格納。
カレルレンは“存在”の干渉を受けている。
彼のポジションが、“存在”にとって大いに都合が良かったからだ。
高次元への回帰を望むにあたり、束縛の檻たるデウスという肉体を破壊するために。肉体そのものの大枠をまず完成させ、その上で自壊の道を歩ませる、いわば薬のフリをした猛毒の役割を求められて白羽の矢が立った。波及経路としては定期的に交流のあったグラーフからの株分けだろう。
もちろん完全な操り人形だったわけではない――“存在”がこの次元空間内のヒトを好き勝手に使い倒せるのなら、それこそ一万年近くもアレコレ遠回りをする必要なんて無かっただろう――が。それでも、カレルレンという一人のヒトのモチベーションに対して、背中側から蹴りを入れて無理やり前に進ませるタイプの干渉が行われた、長らく行われてきた可能性が高い。
“存在”の干渉。それに晒されたヒトにつき、ある種の悪影響が生じがちなのは、歴代の接触者や対存在が示した症例からも明らかだ。
押し込まれた山盛りの情報が脳内で咀嚼不良を引き起こし。結果として、しばしば人格や主体性にかなりの異常を来してしまう。
カレルレンの現況も、大筋において同じものなんだろうと思われる。外因性の精神分裂。長期に渡って蹴られまくった弊害が顕著に出ている、というわけだった。
しかし、だ。カレルレンは接触者でも対存在でもないから、イントロンに記憶を刻印してバックアップにするという裏技じみた手法を採ることができない。
あくまでも株分けであり、グラーフ本体には起こったゾハルを介しての直接的な“存在”との二次接触もない。
つまり、彼のキャパはグラーフ憑依という底上げを経ているシグルドにすら劣るものであり。容量としてはヒト一人分をそこまで超えるものではないがために、“存在”の干渉によってもうひとつの人格が発生し、所有情報量が異常増大したりすると、当然キャパをあっさりオーバーしてしまうのだ。
一人分と少ししかない記憶容量《キャパシティ》。その狭苦しい内側で、人格二つ分が押し合いへし合いをやらかす。
脳、あるいは精神という枠組み自体に過大な負荷が掛かったことによって。もともと在った過去一人分の記憶《データ》がぐちゃぐちゃに掻き回され、寸断を受ける。
そうやって出来上がった切れ端ふたつが、ひとつずつ、ふたつの人格それぞれの手に渡った。
所有記憶の完全な分断は、個々の人格の孤立を促し。更に、ふたつの人格が独自の経験と記憶の蓄積を重ねることで、分断が固有の蓄積を呼び、蓄積が個々の分断をより強める、一種の強化学習的な精神モデルが形成された。
そうして、ここ数百年の長きに渡り。カレルレンαと、カレルレンβが、一つの身体の内側で、真っ二つに裂かれたカードのような形で共存することになった。
なってしまった、わけだ。
……ったく。ロクでもねえことやらかしやがる。
ソフィアの、すなわち母《エレハイム》という、ひどく“システムに縛り付けられた”存在が置かれた構図を理解したとき。
聖母ソフィアの諸々の行いは、システムによって設計された行動理念の反映に過ぎなかった。少なくとも、幾らかはそうした傾向があったであろうコトに気づかされたとき。
カレルレンの内なる信仰心……というか、信心を名目としたソフィアに対する思慕の念もまた、おそらく幾らかの翳りを見せた。
どのくらい直でメンタルに来たのかはまぁ、定かじゃないが。ともあれ、その翳った部分を、傍に寄り添うことで埋め合わせたのが、他ならぬゼファー女王、いや、往年のゼファー・シェバト嬢だったということなんだろう。
崩壊の日の前後、ゼファー・シェバトの年齢は二十歳を幾らか過ぎたあたりだった。カレルレンがシェバトを訪れ、あの国の御歴々に延命措置を施したのは、それから更に十年近くも経った後のことだ。
それなのに。現在の彼女の肉体年齢は、明らかに十代の前半といったところでしかない。
この年代のズレの理由が、今ここにきて、何となく、伺い知れた気がした。
500年少々の昔。現ニサン近傍を支配したニムロド帝国の一市民として、無垢なるひとりの少女がいた。
往時のニサン正教、ペヌエル派の教母候補として世の騒乱の渦中に置かれ。自らを取り巻く不条理と、周囲の人々の犠牲に対する無力感から、自分自身の死すら願ったという哀れな女。後の聖母ソフィアその人だ。
テロリストの部隊長として、ペヌエル修道院を襲撃した折の彼女との出会いが、一介の傭兵に過ぎなかったカレルレンの生き方を、大きく変えることになったらしい。
その時のソフィアが十三歳。ところで、原作のマリア・バルタザールも十三歳だ。そしてそのマリアを友人兼相談役として置いたゼファー・シェバトは十代前半の容姿、彼女もまた十三歳前後と推定するのは、果たして予断が過ぎるだろうか?
ソフィアとゼファー。この年齢の符合が意図的なものであるとすれば。つまり、カレルレンの手になる延命措置に併せて、わざわざ二人の年頃を揃えるための調整が別途行われたのだとしたら?
生々しい当時の情緒がそこにはある、ような気がする。
カレルレンが、ソフィアの代わりとしての役割をゼファー・シェバトに求めたのか。
それとも、ゼファー・シェバト自身が、かつてのソフィアに成り代わりたいと胸中願った故だろうか?
……どのみち、分裂したカレルレンの人格ふたつは、二人の女性についての記憶を、切り分けた上で分け合っているように見える。それぞれに対する執着も含めてだ。
カレルレンαはソフィアとの想い出を後生大事に持ち続け、カレルレンβはゼファー嬢との関わりにそれなりに馴染んでいるのだけれど、二方の記憶は孤立していて、互いに行き交うことがない。
それどころか。前述の分断と蓄積の強化サイクルによって、二人の女の記憶の鮮明さは、ふたつの人格をより遠ざけ、それに伴ってカレルレンの分裂症状を一層強めすらするだろう。
軋んだ破片のような彼のパーソナリティは、場面場面で一見マトモには見えていても、実のところ、半ば以上狂気に侵されている。
異常な執着心。違和感の拭えない感情の抑揚。盛大に破綻したモラルに、ひたすら深みへと沈み込む類の人類愛、などなど。
多種多様な外れ値が、少しずつ摘んで散りばめられたように。カレルレンという存在を、薄っすらとしたサイケデリックに彩っている。
オマケに、今表に出ているカレルレンβはいわゆる下位人格に該当し、そのせいで普段よりもいっそう手元が怪しくなっている――
◆
「あの症状はほんとうに安定的なものと言って良いのでしょうか、メルキオール翁?」
手書きのカルテから顔を上げ、ヒュウガが真面目くさった表情で尋ねた。もっとも、眼鏡の奥の目玉二つは爛々としていて、旺盛な知識欲がちっとも隠しきれていない。
「浅学で恐縮ですが、癲癇類似の発作が高頻度で起こりかねないケースのように思えます。この資料にあります通り、バイタル・データの振れ幅と患者《クランケ》の精神状態との間に相関関係があるのであれば、体調面の悪化が発作を引き起こし、発作の予後が尾を引くことでコンディションをより悪化させる負のスパイラルが形成されかねないのでは? となれば必然クランケの精神における『ゆらぎ』が増し、確率論的な問題として、今は抑え込まれている別人格の発露に繋がる危険性が大きいのではないかと」
「妥当な推論じゃな」
ドラム缶じみた体型に、爬虫類を思わせるウロコ模様の青い肌。シェバト三賢者がひとり、トーラ・メルキオールもまた、“話せる相手”を前にして語気が弾んでいるように見える。
「しかし、実態としては必ずしもその方角を向いてはおらん。むろん断言するに足るだけの検証期間が取られているとは言いかねるが、されど過去の類似症例に比すれば、彼奴の症状には、ある種驚くべき安定感が有ると言って良いじゃろう。彼奴のバイタルも、精神状態も、平常のヒトより明らかに振れ幅が大きい。他方、揺れ動いた結果として上抜けや下抜けしかねぬとなった途端、ここぞとばかりに逆方向へと舵が切られているかに見えるのじゃ」
「さしずめ、クランケの外に恣意的な操り手が居るかのように、ですか?」
「そこまでは言い切れんよ。彼奴自身が生得的に備えた安定装置《スタビライザー》作用によるものかもしれんしな。……とはいえ、ワシとしても7:3以上で外因性とは見ておるがの。生理的な反応に基づくものとするには、余りにも範囲設定が機械的かつあからさまに見える」
「ご高察に同意いたします。外部からの干渉を前提として考えるのであれば……クランケの神経組織の構造と、発現している症状とを比較検討してみるのはどうでしょうか? それぞれにはっきりとした食い違いが見られるとしたら、頻度とパターン次第では、外部関与の間接的な証明と見做せるのではありませんか」
「ウム。そのカルテには詳細を付けとらんが、実は先日、健康診断の名目で彼奴の脳内マップの精査を済ませてあるんじゃ。特筆すべきこととして、有る種の精神病質に典型的なシナプス・パターンの変異が多数見られた」
「やはり!」
「変異の最大部位は前頭葉の第10野。これがまた中々の酷さでな。少なくとも、常人が類似の状態に置かれたとすれば、表に出てくるのは生半な見当識障害程度では済まんじゃろう。ただ……」
これまで自信有りげだったにも関わらず、科学者らしくメルキオール翁は予断を避ける姿勢を採った。
「あくまで一過性、局所的なデータに過ぎぬから、どこまで参考にすべきかは少々疑問符が付くところではあるがの。あいにく、リアルタイムの連続《シーケンス》で脳内を描画する非侵襲性機器が手元にないんじゃよ。遺跡から出てくる有りものでやり繰りしていると、どうしても漏れや不足が避けられんでな」
「ですが、お考えそのものは正鵠を射ているかに思われます。このまま宙に浮いた見解にしておくのは、如何にも惜しい」
ヒュウガが軽く腕を組み、しばし視線が上の空。数秒でアタマの中の勘定が合わさったらしく、すぐさま復帰して元通り正面を見据えた。
「……そうですね、必要機器についてはこちらで手配させていただきましょう。ソラリスの皇83式、もう10年近くは前のモデルですが、それでも我が国最先端の磁気共鳴描画システムです。エルル《ここ》の現地政府との交易品に紛れ込ませれば、少々時間は食いますが地上ルートで秘密裏にお渡しできるかと」
「おお、ありがたい。……ヒュウガ殿。ここは恥を忍んでもうひとつお願いしたいのだが、エーテル反応の検出器についても、ウチのより感度の良いものが在れば一台お貸し願えんかの? 仮に外部からの干渉有りとなれば、その手の観測に引っかかってくることも十分考えられるはずじゃ」
「お安い御用です、メルキオール翁……いえ、トーラ先生」
椅子から背を離し、前のめりになってヒュウガが言った。
「本件は大変興味をそそられる事例です。……また、此の度のやり取りを持って、改めて確信を深めました。先生との協力体制の確立は、私の個人的趣向に留まらず、国益、ないし公益の観点からも得られるもの大であると」
「ム?」
「トーラ先生の叡智と慧眼、何卒、我々にお貸しいただけないでしょうか? 世の分子工学、脳神経科学のさらなる発展のために。お願い致します。是非とも」
「……急に話が他所に飛んだの。つまりは、雁首揃えて共同研究をやろうということかね」
「おっしゃるとおりです。幸い、近日ソラリスの慈悲《ケセド》・エリアにおきまして、他国の研究者にも門戸を開いたジョイント・プロジェクトを立ち上げる計画があるのですよ」
多機能メガネを人差し指でついっと引き上げ、両手を軽く掲げると。僥倖だとでも言わんばかりに笑みを刻む。
「思いがけず良いタイミングでした。先生にはその場に高度オブザーバーとして参画いただくことを構想しています。無論、先生の普段のご生活に差し障りの無いよう、細部の調整については最大限取り計らわせていただきますのでご安心ください」
熱を入れて語るヒュウガの表情には、一見裏表のない純粋な意気込みが溢れている。話の持って行き方には些か唐突感があるが、それはそれで、スカウトマンとしての本気度を伺わせる演出にもなっているだろう。
……もっとも。このところのケセド・エリアは、倫理規定に基づく摘発無双で頭から足先まで万遍なくシバキ上げられ中のはずだった。そんな大騒ぎと並行して外様を噛ませた新部署の立ち上げとかまずあり得んし、聞き覚えもない。
つまり現時点での実態は皆無。枠組みすら怪しい。存在自体がメルキオール翁獲得のための即興の貢ぎ物と見てほぼ間違いなく、後ほどケッタイな仕事を振られる役人さん方は誠にご愁傷さまである。
「ソラリス《お主ら》の事情については、あの子から……ゼファー陛下からある程度聞き及んでおる。過去の行状は総じて悪鬼羅刹が如きじゃが、世代交代を経た今では多少風通しも良くなりつつある。そういったくらいにはな」
「……我が方の不徳の致すところ。誠に慚愧に堪えません」
「故に、繋がりを持つことなぞ金輪際あり得ぬとまでは言わんが……それにしても、この老いさらばえた引き篭もりを、随分と買い被ってくれたものじゃよ」
言葉自体は濁しつつ。一方で、メルキオール翁もあんがい満更でも無さそうに見えた。まぁ、こんな辺境でロートル気分に浸かっていようと、若手の俊才に今一度腕を請われるというのは、一般論として中々自尊心を擽られる部分があるのかもしれない。
「ご謙遜を。先生の値千金たるは――」
「然許り今更な風も――」
……あー、にしても。お茶うめえ。
中身をすっかり飲み干したティーカップを、無骨な木製丸テーブルの上に置かれたソーサーに戻した。
石造りのドーム状天井に、内装はログハウスじみた木目調。差し渡し15シャール余りで広さもそこそこ。そんな、トーラ・メルキオール宅のリビング・ルームにて。
俺だけが先んじて茶の一服を終えていた。テーブルの向かい左右に置かれたカップ二つには、澄んだ榛色の液体がまだ七割方は残っていそうだ。その二人前はさっきから時々口を湿すのに使われるばかりで、わりと味もへったくれもない消費の仕方をされている。勿体ない。
別にグルメを気取ろうってつもりはないが……ヒュウガも、メルキオール翁も、もうちょっと落ち着いて味わったってバチは当たらんだろうになあ。
何しろ、使われているお茶っ葉はシェバト製のクラシックなハイグレード品なのだ。
たとえアウラ・エーペイルの専門店だろうと、滅多に手に入れることの出来ないレア・アイテムに当たる。なんだかんだ生産プラントから定期的に数が排出される一般人用の量産品とは異なり、高級嗜好品については生産数自体が相当限られている上、希少価値を保つためにほとんど表には出さないのだそうな。
数は少なし絞りもキツし。本来ならこんな辺鄙な場所に転がってて良いモノじゃない。それこそゼファー女王直々の持ち込み(税関通ってないんでこれって密輸品にあたるんじゃねえのかという懸念もあるが)という、極めて例外的な事情あってこそ巡り会える逸品というわけだった。
ついでに言うと、このへんの水質も紅茶向けのようだ。ペーハー、ミネラル共に程よい軟水。おかげでブランドに恥じないだけの香りと味わいを見事に引き出せていたと思う。
いやあ、マジでうまかった。結構なお点前でした。ごちそーさまです。
「……聞く限り、ニサンも随分と変わってしまったのだな」
ところで、ふと耳をそばだてると、隣卓の会話が途切れ途切れに聞こえてくる。
カレルレンに、ゼファー陛下に、黒装束まとってラカンの代役と化したシグルドの三人組である。
「仕様のないことです。あなたがぼんやりとしている間にも、下界では、長きに渡って日々が規則正しく過ぎ去ってきたのですから」
「君にそう言われると返す言葉もないが……だが、理解は出来ても中々腑には落ちないところもあるのさ。してみると、あの街並みももう残ってはいないのだろうかな。どうなんだ、ラカン?」
「あの、とは?」
「あれだよ、ラオディキアの僭主が、正教のご機嫌伺いに私財を投じて設えた……大通りには大層な名前まで付いていたはずだが、何というのだったか」
「……」
「ああ、いや、思い出してきたぞ。確かお前も、一時期あそこの近くにアトリエ兼下宿先を構えていたじゃないか。ゼフィたちが地上に大使館を持ったあたりで引き払ったやつだよ。隊商の物置き代わりに部屋ごと貸してたら、レネのやつに、大事な画材をダメにされたとか愚痴ってたはずだ」
「……悪いが、憶えがないな」
「なんだ。お前もずいぶんと耄碌しているようだな? 駆け出しの頃の記念の品だったとかで、あんなに不景気そうな顔をしていたのに。……とはいえ、都合の悪いことを都合よく忘れているのは、お互い様か」
そう言ってカラカラと笑ってみせる。カレルレンのくせに、と言えるほど彼のことなんぞ知りもしないわけだが、それでも今みたいな朗らかリアクションを取られると、人間思わず仰け反りたくもなるだろう。
お前キャラクター変わりすぎじゃねえのか? この世界で一、ニを争う黒幕としてのプライドはいったい何処へやったよ。
……他方、彼の口から出てくる言葉には別種のフワフワ感が付き纏ってもいる。見る限りそれは加齢からくるアタマの残念さによるもので、話題の時系列はかなりしっちゃかめっちゃかだし、指示語が指している対象も毎度イマイチ要領を得ない。
たとえ話の内容が至って穏当なものであろうと。顔を突き合わせているだけでドンドコ疲れる相手なのは疑いなかった。
さっきからやけに上機嫌――どうも傍であれこれ世話を焼くだけで楽しいらしい――なゼファー陛下はともかく。他人の記憶を頼りに四苦八苦しているシグルドの苦労が偲ばれるが……まぁ、なんだ。頑張ってくれ。
「ニムロド北、クレーター湖ほとりの東側ですよ」
と、ゼファー陛下が横から助け舟を出した。実質的に見て、あっちの卓は裏で彼女にコントロールされている。
「大クセルの目抜き通り。あそこの陸橋から見渡せる街並みは、ニサンという場所の本質を、くっきりと示してくれる良き景色でした。あのあたりは市街地にうってつけの立地ですから、当時も、今も、在りよう自体は然程変わりはしないでしょう」
「……ああ、“あれ”か。あんなもの残っているわけが……いや、ある意味で残ってはいるのか? 位置取りが、ちょうど法皇府の東部住居地エリアになるわけだから……」
シグルドがニサンの番地名だかを呟き、続いて、その周辺の具体的な描写をポツポツと並べ始める。
たぶんだが、ニサン市街地の一角、街なかに掛かった橋から通りを見渡せるスポットのことを言っているんだろう。
原作3Dマップと、生誕祭のときの賑わいのことをそれぞれ思い浮かべた。人々の生活環境は地理的な勾配やらに束縛を受ける。500年前だろうと、今にちだろうと、あのスペースにヒトが求めた役割というのは大筋変わりがなかったのかもしれない。
つーか、法皇府を囲ってる湖ってあれ落着クレーターだったんだなあ。一万年の昔、エルドリッジの破片があのポイントにも激突していたわけだ。
世界地図と照らし合わせて見ると、実は世界中が余す処無く爆撃を食らっていることになりそうだった。環境破壊も著しかったに違いない。大規模火災に核の冬、この惑星にしてみればまったくもって傍迷惑なこった。
「――なるほどな。行きし過去もはや遠し、それでいてなお近く在りき、か。こうなると、一度現地を見てみたい気持ちも湧いてくるが……」
「待ってください、カレル。今のあなたには、まだ静養が必要です」
すかさずゼファー陛下からブレーキが掛かった。危なげ溢れる今の彼には流石にマズいという判断だろう。ご尤も。
「私たちはお互い、少々厄介な身の上でもあるのです。トーラも是とは言わないでしょう。もう、しばらくの間は、ここでゆっくりとしていましょう? ここは空気も良いし、それに何より、静かで落ち着ける処ですから」
「そうか? ……そうだな、君がそう言うのなら、そうなんだろう」
「有難うございます。……ただ。いつかほとぼりが冷めた暁には、私たちも、ニサン《彼の地》を訪ってみるのも悪くないのかもしれませんね」
もちろん彼女は後を見据えたアメを見せておくのも忘れない。
「変わってしまったとも言えるし、過去を忘れずにいるとも思えるあの場所を、肌で感じることで。私たちが共々心に区切りを付けられるのならば、それに越したことはありません。どうしてもお忍びということにはなってしまうでしょうけれど……ねえ、ラカン。もし機会が来たら、そのときは、あなたが私たちの案内をしていただけて?」
「それくらいなら構わないが……」
……とまぁ、向こうは向こうで案外楽しくやっているらしい。
最悪、ゼファー陛下を敵に回してでも暴力沙汰に持ち込む覚悟――彼女が言うには「もしものときは私がこの手で」とのことだが、こっちでボコってケリを付ける方がやっぱり確実性は上なのだ――だったわりに。きちんと和やかな雰囲気のまま状況は推移している。
このお茶会は概ね良い試みとして終われそうだった。
もっとも、ビミョーに過度な皺寄せが行っているところもあるわけだが、ま、それについてはいわゆるひとつのコラテラル・ダメージというやつだろう。うん。
◆
そうして、しばらく経った。
さっきのティーカップに続いて、細部に渡って目を通していたキム・カーリム著の分子工学テキスト(あちこちページが欠落しているが、往時のナノテクの大枠を掴めるくらいの情報量はあった)もテーブルに置く。
続いてヒュウガの手から借り受けていたカレルレンの診療カルテもその上に重ね。それからリビング・ルームを一頻り、ぐるりと見渡した。
ヒュウガとメルキオール翁は相変わらず盛り上がっているし、隣の卓もシグルドの胃壁以外はまだまだ順調そうだった。
うーん、一人だけ手持ち無沙汰になっちまったぞ。どうするかなあ。
……あー、メルキオール翁。よろしければお茶、淹れ直しましょうか? すっかり冷めちゃってるでしょう、それ。
「ん? ……おお、忘れとったわい。それじゃあ悪いが頼めるかの。ヒュウガくんもどうじゃね?」
「あ、はい。ならこちらもお願いします」
はいはい。……ていうかヒュウガ、お前さんさっきから趣味の話でフィーバーするのもいいけどな、ここでこなすべき仕事についてはちゃんと消化しておいてくれよ?
「というと?」
とりあえず、シグルド用の抑制機構付きリストバンドは早めにお願いしなきゃならんだろう? いくら今のアイツに安定感があろうが、この調子で亡霊役やり続けてると後々どんな悪影響が出るかも分からん。
当面は前護民官どのが今付けてるのと同タイプで構わんだろうから……っておいコラ、なんださも忘れてたと言わんばかりのそのツラはよ。
「いえ、滅相もない! 後々そうした方向にも話を持っていく心づもりはありましたよ?」
……。
「……いやあ、それにしても泣かせる話じゃないですか。あなただってシグルドたちと同様人格が毀損している側のはずだ。それにも関わらず、他者を優先する心遣いを忘れないのは本当に素晴らしいことですよ、ねえ、カール?」
誤魔化すんじゃねえや。ったく、趣味人を趣味に走らせるとこれだから――
「ム? ラムサスくんも似通った事象に見舞われておるのかね?」
え? あーいや、似た事象と言いますか、必ずしもそうとは……まぁその件については機会がありましたら後日改めて、ご説明させていただきますので。
「別に今でも構わんのじゃあないかの」
あはは、申し訳ありません。……おーい、そこの黒装束。お茶淹れ直すぞ。そっちの卓のカップ類まとめてキッチンまでついてきてくれや。
「あ、ああ。……了解した」
結構。ご歓談中の御二方にはスミマセンが、御友人の黒くて白いのをしばらく借りていきますよ。
茶請けはー、見た感じどっちも余ってそうだし追加は要らんか。よし、さっさと行くぞ。実際、こんな美味い茶なんてそうそう飲めやしないんだからな。