ジョゼと虎と魚たち~人魚とかがやきの翼・After~ 作:空想病
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◇
二階から見渡すアリーナの様子は、無論、ジョゼにとってはじめてのこと。
里緒たちの出番まで他の学校の演目を楽しみつつ待つ間も、拍手の時以外は隣に座る恒夫と手を握り合わねば緊張に堪えられそうになかった。
《続きまして、プログラム10番。「劇」『人魚とかがやきの翼、プラス、アフターストーリー』です》
里緒たちの学校名が読み上げられる。
とうとう出番が来た。
ジョゼは自分が舞台に立つような恐怖を必死に抑え込みつつ、見知った少女が舞台脇の演壇に立つのを見守った。
ふと、里緒と視線が合った。
自分が頷くと、里緒もほころぶように笑みを返した。
里緒はマイクに向かって語りだす。
かつてジョゼが読み聞かせた時とは違う、まぎれもない語り手の声。
「『人魚と、かがやきの翼』」
里緒はゆっくりと、それでいて聴くものに不快さを一切感じさせない歯切れの良さで、ジョゼの紡いだ人魚の物語、その第一節を読み上げた。
「青い青い海の底から、賑やかな音楽が聞こえてきます」
それと共に、
舞台上には海底にある人魚の城が現れ、人魚役の少女と共に、海の仲間たちが姿を現す。同時に、音響室で学年主任の先生がBGMを流した。
かつてジョゼが語った内容を忠実に再現した劇は、書いた本人でも息をつくほど素晴らしい仕上がりである。まるで絵本の世界が、そのまま立体を得たかのよう。
物語は進んでいく。
──魔法の貝殻をプレゼントされた人魚。
──美しい足に変わった尾ひれ。
──目の前に現れた怖ろしい虎。
──人魚を助けてくれる翼を広げた青年。
舞台上で演じられる物語に、ジョゼたちだけでなく、コンクールの観客たちの多くが魅了されていく。
演者たちのパフォーマンスや舞台装置の再現度なども秀逸だが、何より、里緒の口から紡がれる物語の顛末が、聴くものの耳に心地よく響いていた。
里緒は直前、言っていた。
……あん時の先生みたいに……
ジョゼは感嘆するしかない。
もはや自分以上と評するほかない里緒の語りに聞き入りながら、恒夫の肩に頭を預ける。
「ジョゼ?」
薄暗闇の中、ひそめた声で彼が訊ねるが、ジョゼは猫が甘えるように恒夫の肩の感触を確かめた。
「劇って、こんなにええもんやったんやな……」
公開前の稽古・練習では実感していなかったが、いざ本番を迎えて、その魅力を十分噛み締めるジョゼ。
そうして、物語も佳境を迎えた。翼を失くした青年が再起し、夢をかなえ、光の海へ飛び込むと、観客席もワァっと沸き立った。
それを見届けた人魚が、青い青い海の底へ戻っていって──これで、物語は「おしまい」とはならない。
スポットライトを浴びる里緒が玉のような汗をこぼしつつ、「続き」を語りだす。
ここからが、『人魚とかがやきの翼』そのアフターストーリーとなる。
里緒の肩が、深呼吸するように上下した。
・
「──光の海に辿り着いた青年は、オレンジ色の魚たちと泳ぎ終えると、自分をここまで導いてくれた優しい人魚を探します。
──ところが、どの浜辺にも、どの入江にも、彼女の姿はありません』」
舞台上には、途方に暮れる青年の孤独な姿がのこされていた。
「『彼女は、いったいどこにいるんだ!』どんなに強い心の翼も、彼女を失った衝撃にはひとたまりもないようでした」
膝をつき項垂れる青年に、光が差し込みます。
そのさまは、さながら光の翼が生えてきたかのようにも見える。
「それでも、青年は諦めません。
『そうだ。彼女が教えてくれたんだ! ぼくは心の翼でどこへでも飛んでゆける! “彼女のもとにだって”!』」
その一念で立ち直った青年は、再び航海を続けました。
オレンジ色の魚たちに助言を請い、海の底へもぐって、彼女の手掛かりを求めました。
しかし、海の仲間たちは多くを語りたがりません。
「青年は彼女との思い出を頼りに探し続け、ついには、自分を傷つけ翼を折った虎にまで、彼女のことを尋ねました」
虎は青年の説得に応じ、長旅で疲れきった彼を背に乗せて走り出します。
虎の跳躍はすさまじく、まるで青年の翼がもどったかのようなスピードで大地を翔けていきます。
「そうして、虎の証言により、彼女がはじめて陸に上がった浜辺が分かったのです!」
そこへ一目散に飛び込む青年。
しかし、人魚は見つけられません。
日もすっかり落ちかけ、青年は体力の限界でした。
今度こそ打ちのめされたように、浜辺にぐったりと身を横たえました。
「青年は、月下の浜辺にうちあがった貝殻を見つけます。いつだったか、自分の傷を癒してくれたひとが持っていたものと似たそれに向かって祈ります。
『──彼女に会いたい。もう一度会って、この気持ちを伝えたい。君のおかげで、僕は夢を叶えられた。君がいたから、僕は光の海に辿り着けた。彼女がいまも助けを求めているなら、また助けてあげたい。僕を絶望の暗闇から救ってくれた時のように。
……僕の気持ちを、彼女に、伝えたい……』」
青年の祈りは、西日が沈みゆくのと合わさるように消え入りそうでした。
しかし、貝殻が答えます。
『わかりました』と。
青年は人魚の城へと飛ばされ、そこで、思い出だけを胸に生きることを決めた彼女と再会します。
そうです!
彼が願った貝殻こそ、人魚に足を与え、青年の傷を癒した、魔法の貝殻だったのです!
「『どうして、ここに?』人魚の問いかけに、青年は貝殻へ願った事実を口にします。人魚は悲嘆にくれました、『ああ、なんてこと! あなたは自分のために願いを叶えた! これでは、あなたは、泡となって消えてしまう!』」
その事実を聞かされても、青年は清々しい笑顔で人魚に歩み寄ります。
「『それでもいい。僕は、君のおかげで夢を叶えられた。君がいたから、あのオレンジ色に輝く魚たちと、光の海を泳げた。そして、最後に、夢にまで見た君と、再会できた……君に「好きだ」と、ようやく伝えられるから』」
悲哀の涙を歓喜の雫に変えて、人魚は青年の胸の中に飛び込みます。
「『ああ、貝殻さん! どうか! どうか彼を泡にしないで! 彼が泡になるくらいなら、私も泡になって消えてしまいたい……私も、あなたが好きです!』」
青年は人魚を力いっぱい抱き締めました。
これが最後の別れになるならばと、互いに強く抱き合います──しかし、彼の体は、泡になりません。
魔法の貝殻は、言います。
「『彼は“自分のためでなく、君のために願い事をした”──だから彼は、消えることはないのだよ』」
魔法の貝殻は続けて言いました。
城に戻ってからも、青年のことを思わずにはいられなかった人魚の日々を。
海の仲間たちですら閉口してしまうほどに重い、葛藤と苦悩を。
そうして、彼女を助けたいと願う青年の言葉に、魔法の貝殻は答えたのです。
「『だから、もうけっして離れてはいけないよ。
君らは互いを助け合い、支え合い、共に暮らすほうが、きっとお似合いだから』」
そう告げて、魔法の貝殻はどこかへと消えてしまいました。
残された二人は、固く抱き合ったまま、ある誓いを交わします──
青い青い海の底から、にぎやかな音楽が聞こえてきます。
夕暮れの海の上では、人魚と青年の結婚式が、盛大に開かれています。
海の仲間たちは勿論のこと、あのオレンジ色の魚たちも、二人の門出を祝福しようと集まっています。
陸に住む青年と海に住む人魚。
二人は互いに住む世界は違えど、共に生きることを固く誓ったのでした──
──おしまい──
里緒が最後の締めの言葉を言い終え、息をついた直後、ホール内は万雷の拍手で満たされた。
ジョゼと恒夫たちも、惜しみない拍手を送る。感動して半泣きになっている舞を、花菜と隼人が支え立たせた。
・
コンクール後、恒夫とジョゼは最優秀賞を受賞した里緒たちとの挨拶もそこそこに、公会堂からほど近い夕暮れの浜辺を訪れていた。
「波打ち際まで行く?」
「うん。頼むわ」
ジョゼは甘えるように恒夫の首に縋りつき、慣れたように彼の両腕に抱えられて、波打ち際の砂浜に連れていってもらう。
その道中。
「ありがとな、恒夫」
「うん? 何? どうしたの?」
ふと思い出したようにジョゼは呟く。
「ほら。恒夫がくれたアイディア、意外とよかったからな」
「俺のって? ──ああ! あの虎が青年を助けるとこ?」
恒夫はなんてことはないという風に語り明かす。
「実はさ。ジョゼがいなくなった時、動物園で虎舎の前まで行って、その時に、ジョゼの車椅子の
あれがなければ、到底ジョゼの後を正確に追うことはできなかった。
一度はその轍跡も途切れてしまったが、恒夫はどうにかジョゼのもとにまで追いつくことができたのは、今も鮮明に記憶の中に残っている。
それが文学に対しては疎い恒夫にとって、天啓のごときヒントを授けてくれたのだ。
「それにほら。物語の悪役が、主人公のピンチを助けてくれるって、物語の展開だと熱くない?」
「むむ、確かに──管理人のくせに生意気や」
二人は笑い合った。
恒夫は波打ち際の白い砂浜あたりでジョゼを下ろし、自分はその隣に腰を下ろす。
潮騒の音色が心地良い。夕暮れの海の光景は、二人が初めて訪れた時と何ひとつ変わっていないのに、今では二人とも、立場も関係性も、あのころとは違い過ぎている。
「今日は、すごかったな」
「うん……まさか本当に、アタイの絵本が劇になる日が来るなんて、夢にも思えへんかったわ」
今でも夢を見ているような気分だ。
授賞式で一番大きなトロフィーを授与された里緒たちの姿が、今でも瞼の裏に張り付いている。
「里緒ちゃん、ホンマに立派に育って、びっくりするわ」
「ああ。あんな大舞台で、劇の進行役をやり遂げるなんてな」
「うん──あの里緒ちゃん見てたら、なんか、変な気分になってしもたわ」
「変な気分?」
ジョゼは言ってしまうべきかどうか、数旬の間だけ考える。
けれど、肩を抱いて寄り添ってくれる恋人の顔を見て、つい口がすべってしまった。
「……アタイに子供ができたら、こんな気ぃになるんかな……って」
言ってしまってから羞恥心が耳まで熱くさせた。
砂浜の砂を掴んで恒夫に投げつけると、恒夫はまるで予期していたように避けてしまう。
「よっ、避けんな、アホッ!」
「いや、誰だって避けるって」
ジョゼはムキになって砂を両手に鷲掴むが、どれも恒夫には効力を示さない。
ジョゼ自身がそこまで本気ではぶつける気がない以上に、こんな至近距離でそれが可能なほど、二人の心が通い合っている証左であった。
「残念、全部はずれ」
「ぐぬぬぬヌヌヌ!」
ジョゼは頬を膨らませてそっぽを向くしかできることがない。
「つ、恒夫の方はどうなんや! ア、アタイと……アタイと、その……」
二の句が告げなくなるジョゼ。
不安と緊張と、何よりも自分からそういうことを告げることへの臆病さが、彼女の唇を
そんな恋人の様子をどう思ったのか、恋人はすくりと立ち上がる。
「俺もさ、今回の劇を見て、ひとつ決めたことがあるんだ」
恒夫はジョゼの前に片膝をついた。
砂浜の傾斜分高い位置にいる女性に対し、男はポケットから小さな小箱を取り出す。
ジョゼは目を見開いて固まった。
「へ?」
「──結婚しよう、ジョゼ」
恒夫が開いた小箱の中には、夕日に煌めく見事な指輪があった。
それを恒夫はジョゼの左手薬指に難なくはめる。
「ちょ、い、いいい、いつの間にサイズ調べたんや!」
「夜中眠ってる時。ジョゼの指は本当に調べやすかったです」
「こ、こここ、こんな急に……き、聞いてへん!」
「もちろん、『ジョゼを驚かせようと思って』?」
ふと、桜の雨の中で再会した時と言葉が重なった。
その事実に気づいて、ジョゼは嬉しいやらくすぐったいやら、絶妙な心持ちを味わう。
自分の左手に輝く銀色の光沢が、夢や幻ではないかと疑うが、口元に引き寄せて触れた指輪の硬さは、偽りでも何でもなかった。
まるで、その硬さこそが、恒夫の決意の堅固さを表明するかのごとく。
「あの劇──あのアフターストーリーでさ」
恒夫は
「青年が言ってただろ?『僕を絶望の暗闇から救ってくれた時のように』って」
恒夫が足に重傷を負った日。恒夫は闇の底に落ちた。
赤い点滅灯が瞬き、自分の呼吸と鼓動の音が不自然なほど耳をつんざいていた。
目覚めてから告げられた、足が動かなくなる可能性。
夢を追いかけることの辛さ。
夢に届かないことへの怖さ。
ジョゼが言っていたことの本当の意味を、絶望の暗闇の深さを、あの時期に嫌になるほど痛感した。
それでも、恒夫は
「ジョゼのおかげで、俺は夢に向かって歩き出せた──メキシコへ、光の海へ行くことができた」
そのきっかけをくれた、救い出してくれた愛しい女性に、恒夫は意を決して申し込む。
「俺と、結婚してくれますか?」
真っ赤な顔で告げる愛しい青年に対し、ジョゼは真珠のように大きな涙をこぼしながら、答えた。
「……はい」
答えを聞いた瞬間、恒夫はジョゼと唇を重ねた。
ジョゼもすぐに応じて彼の肩に腕を回す。
恒夫は嬉しさと幸せを抑えきれず、ジョゼの華奢な体を抱き上げた。
「これからは、ずっと一緒だ、ジョゼ!」
「うん────うん!」
二人は初めての頃のように、夕暮れの陽射しの中、蒼い空の下で、蒼い波の上を、まるでワルツを踊るかのように、はしゃぎまわった。
そんな二人の様子を、ジョゼが置いていった電動車椅子のそばで見つめる隼人と舞、そして花菜と里緒の姿が。
「はっはー。お熱いね~、お二人さん!」
「ちょ、なに本格的なカメラ回してんですか隼人さん!」
「いやいや~。式あげる時に、二人の思い出映像として流してやろうかな思て?」
「大成功やね、花菜ちゃん!」
「うん。ありがと、里緒ちゃん」
手を叩き合って喜びを分かち合う二人。
──恒夫から、今回の告白に至るまでの遠大な計画を相談されたのは、花菜と隼人。
そうして、二人を経由する形で、里緒と舞まで巻き込んだプロジェクトに成長するのに、時間はかからなかった。
「ほんま、手のかかる二人やでー」
「ええ。まったくです。これで幸せにならなかった許しませんからね?」
「あら、略奪愛? 略奪愛に興味あるの、舞ちゃん?」
「ナンデソウナルンデスッ?!」
「舞ちゃん、りゃくだつあいって何なん?」
「あー、もう!
恒夫とジョゼが、四人の喧騒に気が付くまで、まだ数分の猶予がある。
◇
さらに数年後。
「なあ、お父ちゃん」
「うん? どうした?」
「これなんて書いてるん? ──の、ワ、ル、ツ?」
おやつのプリンを食べ終えた娘が、Blu-rayディスクの山から見つけ出してきたものには、父親と母親が結婚を誓い合った日の思い出を記録したもの。結婚式の日に、記念にと友人からの贈られたものであった。
どうにも娘は、そのタイトルの漢字一文字が読めないらしいが、無理もない。まだそれを習うのに適した年齢ではなかった。
父親は当時を振り返りつつ、妻が
おしまい