ぼっち『死者のストンプ』 作:ゆずぽん
それはまだ、彼女が幼かったころの出来事だ。
雨の日だった、と彼女は記憶している。
しとしとと降りしきる雨が、窓枠から冷気と共に滲みだすのを遮るように、彼女は毛布を首元までずり上げる。ベッドの上で身じろぎした自分を見て、母親が寒いかと聞いてくるのに黙って首を振る。
時刻は夜。ベッドライトに照らされて、母親が絵本を読んでいる。内容はいたって単純な勧善懲悪モノ。悪は悪であり、善は善であり、悪は善に倒れる。
父親がいないのに不満はない。パパは最近とみに忙しい、というのを彼女は母親に聞いていたし、仕方ないことだ、と了解している。だから、最近パパとママの中が悪いのも、仕方ないことなのだ。
庭先に帰ってきたエンジン音。窓枠を照らすサーチライトが消えて、一瞬の空白の後、玄関が開く音がする。どた、どた、と疲れ切った足音が彼女の部屋の前を通り、そのまま過ぎていく。行先はきっと奥の書斎だ。彼女はそれを知っている。
母親の読み上げる声によどみはない。物語はきっと中盤らへん、そんなことよりも、耳を澄ますのに忙しい。
母親の声から逃げるように、彼女は意識を耳に向ける。眠るように息を殺して、全神経を集中させる。書斎のドアを開ける音、父親の体を預けた椅子が、静かに軋む音。そして、鍵付きの引き出しが、開かれきった時に出る、カタン、という小さな物音。
物語はいよいよクライマックスで、悪事を暴かれた犯人が、悪あがきをし始める。どうせならこいつも道ずれだ、と。
―――ゴトリ、と重たいモノを出す音がして、彼女は咄嗟に目を閉じる。
心臓が冷めきる。母親の朗読も、窓の外の雨音もすべて置き去りにして、彼女の意識はまっさらに。永遠ともとれる一瞬の後。
―――ゴトリ、と重たいモノを置く音がした。
心臓が狂ったように動き出し、彼女は世界を取り戻した。安堵の息を、母親にバレないように、細く、長く吐き出す。途端に、ここまで張り詰めていたことが、ばからしく、気恥ずかしく感じて、毛布の中で身じろぎする。
ここまでが、最近の夜のルーチンワーク。絵本の中の物語のように、何十回と見知ったカタチに、彼女はゆっくりとまどろんでいく。犯人は正義に断罪され、正義は勝鬨をあげ、悪役の末路は物語の外へ。
―――そして、雨音に消された発砲音。
重たいモノが倒れる音がして、彼女の意識は浮上する。自室の扉は開いている。そして、傍らの母親がいないことに気付いた瞬間、彼女の意識は覚醒した。毛布を蹴飛ばすようにはがして、ベッドサイドから飛び降りる。地面に足がつくかつかないかくらいの瞬間に響く女の悲鳴。夫婦喧嘩で散々聞いたそれに導かれるようにして、彼女は書斎へと急行する。
マホガニーの重い扉を、全身を使って押し開けた彼女が見たものは、
―――物言わず倒れる父親の姿とか
―――それに泣きすがる母親の姿とか
―――カーペットに広がる血の海だとかではなく、
グリップが赤色に濡れたリボルバーと、一本の、つやつや光る酒瓶だけ。
そこからのことはよく覚えていない。ただ、父親が自殺したという、味気ない事実が彼女の中に転がり落ちてきただけで。
それでも警官を目指したのは、彼女にもよくわからない。
ただ、父親とその書斎の匂い、本と書架の木の香が、硝煙の匂いで上書きされてしまったことが。
悲しいと言えば、悲しかった。