約束のネバーランドという作品に気付けば転生していたことに気付いたのは五歳の時だ。
深夜までゲームをして就寝、そして気付けば俺は幼児だった。
転生、と言うと少し違うかもしれない。より厳密に言えば憑依なのだろう。死んだ記憶が無ければ、この幼児の身体で生きてきた記憶もない。公式の変数に数字を代入したみたいに、俺の意識は唐突にこの世界に産み落とされた。
孤児院、37人の子供たち、首筋の五桁の数列、毎日のテスト、里親。
それらの要素を知って、すぐに確信を抱いた。
ここが約束のネバーランドという作品の、人間農場であると。
約束のネバーランド、略して約ネバ。そのジャンルは日常ラブコメではなく、どちらかと言うとアポカリプス系である。
中でもこの孤児院にいる子供たちは全員、逃げねば死というクトゥルフ冒険者さながらの宿命を背負ってしまっている。里親に出され孤児院から卒業した日には1d100のSAN値チェックと確死する程度の肉体ダメージが待ってます。ハードコアすぎる。
そんな世界にいる自覚を持った俺が最初に抱いた感情は『へぇ、アニメって現実になるとこんな感じなのかぁ』というかなり楽観的なものだった。
孤児院の人間は知らないが、この世界は鬼によって支配されている。孤児院は鬼が食すための家畜を育てる農場だ。ここにいる37人は全て食用児でママによって管理されている。生まれてから12年以内に里親が見つかったという体裁で孤児院から出荷され、そして食われる。
子供に毎日テストを課すのも脳に負荷を掛けるためだ。そうして肥大化した脳は鬼からすると美味であるらしい。子供たちはスコアの低い順に先に出荷され、12歳まで生き残れるのはテストで満点を取れる一部のみ。何でも天才の脳味噌は一等格別らしい。
ポテチを食べながら鑑賞して、随分ルナティックな世界観だ、とかぼんやり考えたのを覚えている。
夢みたいに、ふわふわした心地を抱きながら一日を終えて俺は寝た。
どうせこれは夢だろうと考えたのだ。楽観的になっていたのもそれが理由だった。次に目覚めたら見慣れた実家の自室であると思いながら。
しかし。
朝目が覚めて、目に飛び込んだのは孤児院の天井だった。
その時、初めて俺は危機感を覚えた。
アニメで見たような、原作キャラは見当たらない。
年代が違うか、或いはここが第三プラント以外の人間農場か。どちらにしても、今いないならば頼ることは出来ない。
二日、三日と経過しても夢は醒めない。
現実のような味覚と、現実のような草木の音。楽し気に外で遊ぶ子供たちの声に、ママの慈しむような優しい笑み。
……これは、もしかすると夢じゃないのかもしれない。えっ、じゃあここで死んだら俺も死ぬ?
俺の危機感はそこで漸く最大値に到達した。
ともかく脱出だ。
夢じゃなければ、このままだと俺も鬼に食われて死んでしまう。
俺は行動を起こそうとして、すぐに行き詰まった。
まず、俺は体力が乏しかった。運動が出来ない訳ではないがこの身体は貧弱体質らしく、少し走れば息切れを起こしてしまう。
次に物資の問題。
俺はアニメを見て、この人間農場に関する知識は一通りはある。だが知っているだけじゃ逃げれないのがこの施設のヤバいところだ。孤児院の外側を囲む大きな壁を上る手段、耳に埋め込まれた発信器を壊す手段、そして壁と森の狭間にある巨大な崖を超える手段。加えて脱出を終えるまでにママを引き付けておく手段。
どれか一つでも欠けていたら、脱出は出来ない。
壁を上るのにはロープが必要だ。更に崖を超えるのにも同じくロープが必要。まあロープくらいなら何とかなると思う。適当に布を奪って繋ぎ合わせれば用意出来る。強度は不安とはいえ、流石に子供の荷重くらいは支えられると思う。
問題は左耳に埋め込まれた発信器を取り出す手段だ。この発信器がある限りママの懐中時計型受信機によって位置が把握されてしまう。四六時中見てる訳じゃないが、それでも逃げる時に確実に妨げになる。
まず原作通り発信機を壊すアイテムを工作をするのは却下だ。俺には機械系の知識は無いし、仮に学んでも素材が無い。レイというキャラは子供たちを内から制御するスパイとしてママに雇われ、その報酬として発信器を壊す機械を作るためのパーツを集めて自作したが俺には無理だ。レイがスパイになれたのはこの施設の本質を知っていたというのもあるが、他にも二つあると思う。毎日のテストでフルスコア、つまり満点を出せる逸材だったからという側面と、そもそもレイが本人に自覚は無かったとはいえ第三プラントのママの子供であるという側面だ。
俺は既にテストは四度ほど受けているが、最高で80点ほどしか取れていない。300点満点でだ。それでも過去最高スコアだとママに褒められたから、憑依する前の少年は地頭が相当良くないのだろう。
ついでに後者に関しても当然期待できない。俺の髪は茶色、ママは金色。親類縁者であるはずがない。つまりスパイ作戦はバツ印である。
となると、発信器を何とかする方法として一番有力なのは耳そのものを削ぎ落してしまうというパワープレイになる。原作のエマと同じことをするのだ。考えるだけでも心臓が縮みそうになるが、これしか方法は無い。ただこれにも問題がある。この孤児院はナイフなどの刃物の類が存在しないのだ。既に確認したがキッチンには包丁の影すら見当たらなかった。これじゃ削ごうにも削げない。もしやるならば痛いのを我慢して自分の手で強引に千切るしかないのだ。絶対無理だ。ナイフでやるのも嫌なのに、素手でなんて出来るはずが無い。
考えている間に一週間が過ぎ去る。
孤児院の満期は12歳だが、俺のスコアは低いから食用児として出荷されるのはもっと早くだろう。出荷は6歳以降からと決まっているが、俺は自分の誕生日を知らない。今俺は5歳であると孤児院の子供たちから聞きはしたが、その生まれた月日によっては来月出荷されても不思議じゃないのだ。
「ケヴィン、あっちでみんなと遊ぼ? 面白いゲームを考えたんだ」
自由時間に庭にある木の下で悩んでいると、エリエが話しかけてきた。
エリエは沖縄の海のような鮮やかな青色の髪を持った少女だ。純白な笑みはこの閉じられた箱庭の残酷なシステムを知らず、ただただ俺を気遣うように作られている。
エリエはどうやらケヴィンとして5年間生きてきた俺の、一番仲の良い友達だったらしい。俺が憑依してから様子が変わったのに気付いたのか、こうしてこまめに声を掛けてくれる。ギャルゲなら良く出来た幼馴染だなぁ、とか呑気な感想を抱けるのだろうが今の俺にそんなことを考える余裕は無い。
本当の事を話そうか、と一瞬思ったが俺は頭を振った。
信じてくれるはずが無いのだ。
過不足無くこの孤児院で暮らす子供たちは全員優しいママのことを家族だと思っているし、よもや食べられるために育成されているなんて思ってもいない。それは当然だと思う。俺だってもしアニメを見ていなかったら孤児院に一縷の疑懼すら抱かず滔々と生きて、里親に出されるのをただ待ちぼうけていたはずだ。
「いいよ、やろう」
「やった! ケヴィンこっち!」
無邪気に笑顔を浮かべるエリエに手を引かれながらも、こうも思う。
こんな思いやりのあって優しい、普通の子供がただ食べられるだけに生きているなんて間違っている。どうにかせねば、と。
孤児院では一日のルーティンが年間通してほぼ変わらないため、カレンダーを捲ったときにこのケヴィンという少年に成り代わって一ヶ月が経ったことに初めて気づいた。今日は4月1日である。
今日は孤児院から一人、里親が見つかって出立する日だ。
その子供は俺じゃない。エリエでもない。
だがほんの少しとはいえ面識のある、9歳の子供だった。
その子供は嬉しそうに喜んでいた。これから先の人生を待ち焦がれるみたいに笑顔を咲かせ、将来を口にしては他の子供たちに希望を振り撒いた。
何とも残酷な光景だと思った。
現実は将来なんて存在しない。
この孤児院を卒業するということは、人生を終えるということなのだ。
期待した先に、未来だって希望だって欠片も無いのだ。
それを知らずに胸を膨らませて旅立つその子供が堪らなく哀れに思えてならない。
何も出来ず、見ることしか出来ない自分にやるせない気持ちが募って行く。
俺はどうしてもその子供の顔が直視できなかった。
「どうしたの? 何か表情暗いよ?」
「エリエ……」
「もしかして寂しいの?」
エリエは首を傾げると、俺の頭に手を置いた。俺と同じ年齢らしく、成長途中の小さな手だ。
寂しい……とはかなり違う。
俺の心を覆うのは無力感だった。
「いいや……違うんだ。ありがとうエリエ、心配してくれて」
「それなら良いけど、折角のアリオの門出だよ? 笑顔で送ろうよ!」
「そう、だね」
暗い表情をしていても周囲に心配されるか、ママから疑われるだけか。
俺は努めて明るい表情を作る。
「……その笑顔はちょっと違う、かな」
俺の顔を見て、エリエは駄目出しするように曖昧に笑った。
アリオを見送って、更に俺は危惧を募らせる。
アリオは死んだ。
きっと死ぬ間際に自分が死ぬことすら理解出来ずに死んだ。
俺がしてやれることは無かった。
逃がす準備など出来ていないし、何より真実を話したところで理解されなかったはずだ。原作で知能キャラとして名を馳せるノーマンだってレイの手引によってその目で見ていなければきっと信じなかっただろう。
土台トロッコ問題にすらなっていないのだ。俺は線路の転換装置を握ってなかったし、そのトロッコは別の線路にいる二人を巻き込んで殺せるほど大きかった。
だがそれは助けなかった理由にはならない。
エマならきっと作戦が無くても自分が死んでも、無鉄砲に助けようとした。
ノーマンなら脱出は出来ずとも、何かしら時間稼ぎの策くらいは思いついた。
レイなら粘り強く工作を続けて、絶対に諦めなかった。
俺は見捨てた。
助けられない。自分だけで手一杯だ。
そんな言葉をつらつら並べて、9歳の子供を見捨てた。
消極的殺人と同じだ。
俺はアリオの墓を作った。
誰にも分からないよう、子供たちが近づかない柵の近くに枝を一本地面に突き刺した。その下にアリオが使っていたコップを埋めた。
酷い墓だ。
小学生の頃に飼っていたヘラクレスオオカブトの墓を思い出す。
それでも、こんなのを作っただけでも微かに罪悪感が安らぐのが分かる。
安らいでいるのに、最悪な気分だった。
何度手を合わせて、頭を下げても気分は晴れない。
当然だ。死んだら戻って来ないのだから。
……発信器で場所を突き止められて、ママにこの場所を見られたら怪しまれるかもしれない。
俺は30㎝程の枝を一旦抜き、折ろうとしてみるが中々折れない。自分の非力が恨めしい。両端を持って岩に何度か打ち付けて短く折ると再び土に突き刺して墓が見つかり辛いようにすると、その場を後にした。
それ以降、作戦を練ったり工作をしたりすること以外にも運動を始めた。逃走が出来るように鍛えるのだ。
運動といっても単純なもので走るだけ。
エマがやっていたようなパルクールをするには俺の身体は貧弱だった。
2分も走れば膝を崩すような身体じゃとても自由自在に飛んだり跳ねたり、なんて真似は出来ない。最低でも20分は障害物を避けながら走れるような身体じゃないと施設から逃走するなんて夢のまた夢だ。
ママは野を走る俺を嬉しそうに眺めている。貧弱な俺が運動していることが好ましいのだろう。まさかここが食用人間を育てる農園だという真実を俺が知っていて、脱出を目指しているなんて疑ってもいないはずだ。
何よりママは10歳以下の子供を警戒対象に含めていない。傍から観察していると分かる。
この施設で10歳以上の子供は全員、毎日のテストが優秀だ。つまり頭が良い。無論彼らはこの施設の真実を知らないが、もし知られたら一番厄介な存在になる。合理的な判断だと思う。
走れて疲れた時は図書館で本を読みつつ戦略を練った。
努力してフルスコアを取って、満期で出荷されるまでにたっぷり時間を使って脱走準備するのも良い。しかし俺の心がそれまで持つかと思うと、疑問だ。
殆ど見知らぬアリオという少年が一人死んだだけで、俺の心は軋んだ。
俺が今5歳で、満期まで6年と幾許。
満期になるまでに俺は更に孤児院の子供たちの顔を覚えてしまうだろう。アリオは見知らぬ少年だったが、数か月後には彼らとは話さなくとも知り合いくらいにはなる。数年後には友人程度にはなってしまうかもしれない。
それで、これから何人死ぬんだ?
二ヶ月に一回出荷されるとして、一年に6人。満期までいれば最低でも36人の子供が出荷される。俺はその度無力感を覚えながら救えなかった命の墓を作って首を垂れて、謝罪の言葉を内心で吐き出すのか。
無理だ。
俺の心は数十人を見捨ててなお壊れないほど強靭なものじゃない。
そう思うと、今のうちに逃げた方が良い。
見捨てるのは一緒でも、手の届く場所で死ぬのと手の届かない場所で死ぬのは明確に違う。まだ俺は子供たちに情は湧いていない。今を逃せば、何かが壊れてしまう。
それに、可能性はある。
準備は否が応でも急がなくちゃならないが、5歳という年齢の子供をママが警戒していないのも大きい。年齢が上がれば上がるほど、俺を見るママの目は何も出来ない子供から、物を考え実行が出来る子供へと評価を改まる。
……ママから注目されない今なら1人くらいは助けられるかもしれない
「こんなとこにいた。ケヴィン、何しているの?」
森の浅いところで走っていると、エリエが歩いて俺の方へと近寄ってきた。アリオが死んでから、エリエは毎日のように自由時間に俺へと声を掛けかけに来ていた。
それに手を挙げて答える。
「エリエ。今日はボール遊びをしてたんじゃないの?」
「そう! 一人で可愛そうだからケヴィンも誘いに来たの!」
「俺は良いよ。みんなで楽しんで来て」
「むー。ケヴィン、最近あんまり付き合ってくれないわ」
エリエは頬を膨らませた。
最近、というのは多分俺が憑依してしまった時からだろう。
エリエからケヴィンという少年の来歴を聞いた。ケヴィンは元は根暗の少年だったらしい。それを見兼ねたエリエが遊びに誘ったことで、ケヴィンはエリエと仲良くなった。エリエは社交的で、ケヴィンを他の子供たちとの様々な遊びに誘った。しかしケヴィンが参加するのはエリエの誘いを断れいからで、他の子供とは打ち解けずに現在に至る。
だからエリエはアリオが死んでから誘いを断り続けている俺に違和感を覚えているのかもしれない。まさか中身が入れ替わっているなんて思ってもないだろうが。
「悪いね。やることがあるんだ」
「やること? それって私もやって良い?」
「良いけど……楽しくないぞ?」
「遊んでたわけじゃないの?」
「ああ。走ってるだけだよ」
その言葉を聞いたエリエはうーんと唸ると、大きく頷いた。
「分かった! ケヴィンがやってるんなら、それは面白いことだろうし」
「……本当に面白い訳じゃないんだけどね」
思わず小声で呟く。
なにその信頼感。
走るって言葉はホントにそのままの意味だ。
ただ小さな段差や水溜まり、切り立った低い石などの障害がある決まったルートを繰り返し何度も走るだけである。何度も何度も走って、俊敏性と持久力を得る。ママに見つかっても『一周にかかるタイムを短くするのが楽しいんですよ』とか言っておけば、変な子供と思いつつも納得してくれると俺は睨んでいる。
「よし、やろう」
エリエもすぐに飽きるだろう。
そう思って並走することになったのだが、流石にエリエは速かった。女児といえ貧弱体質な俺より身体能力は高いそうで、コツを掴めばすぐに俺のペースを越した。これでも少し前よりかは全然マシになったんだけど、すぐには筋肉は付かない。
「遅いねケヴィン! また勝っちゃった!」
「はぁ……はぁ……そう、だね」
息も絶え絶えの俺を横にして、エリエは誇るように胸を張った。
「でも前よりも身体強くなったのねケヴィン」
「ま、まぁね……こうやって走ってれば多少はさ」
「うんうん! 身体を動かすのは良いことってママも言ってたし、ケヴィンは良い子ね!」
「……記憶通りならエリエと俺、同年齢だと思うんだけど」
「私は6月生まれ、ケヴィンは12月生まれ! 私の方が半年上!」
なるほど、思いかけず有用な情報を知った。
今が4月だから、最低でも猶予があと8ヶ月はある。俺のスコアを鑑みて、プラスでさらに半年は合っても良い。それまでに脱出の糸口を作り上げて、身体を鍛えないといけない。
と考えているとエリエの指が俺の頬に突き刺さった。
「まーた難しいこと考えてる。ねえどうしたの? 何だかずっと、変な感じ」
「そんなことは無い」
「アリオのこと?」
肩が震えた。
それだけでもエリエは十分だと思ったのだろう。
「もしかしてアリオの里親を知ってるの? アリオの里親が悪い人で、心配だとか」
「何言ってんだエリエ。俺が知ってるわけないだろ?」
「それか、アリオの行った先を知ってるとか?」
知っている。
天国だ。
「知らない」
「嘘ね」
「何で分かる?」
「勘よ。私、鋭いもん」
何だよそれ、と俺は頭ごなしに否定しようとしてエリエの瞳を見た。
エリエは本気で言っていた。
推論を重ねて辿り着いた結論じゃないのだろう。エリエの頭はお世辞にも良いとは言えない。今朝もテストのスコアは60点を推移している、理論派でないのは確かだ。
それなのに、勘なのに嘘と言われて何だか納得した。
救われた気がした。
「……本当のことを知ってるって言ったら?」
「やっぱりケヴィン知ってるの? 教えてよ」
「でも聞いても信じられないし、後悔するって言ったら?」
「聞くよ。私、ケヴィンのことは信じてるもん」
即答だった。言葉を失った俺をエリエは不思議そうに見返す。
……エリエという少女は賢いのかもしれない。
俺が5歳の頃なんて大したことを考えてなかったはずだ。寝て、遊んで、食って。思考の九割はきっとそんな感じだった。
俺は無意識にエリエもそうだと思っていた。エリエを見縊ていた。とんでもない。エリエは俺より出来た子供……人間だ。
入念に周囲を警戒して誰も居ないことを確認した後に、俺はエリエに話した。この小さな世界の真実を。
聞いているエリエが何を思っていたのかは分からない。いつもは天真爛漫に笑みを浮かべているのにこの時ばかりは自然体で、頷くこともなくただ傾聴していた。
絶望とも違う。恐怖に震えるのとも違う。
そこにある事実を飲み込むように、エリエは俺の目を逸らさなかった。
「……そっか」
一通りの話を聞き終えると、エリエは初めて表情を表した。
泣くでも、失意でも無い。
この数日で見慣れた笑みだ。
年下から冗談を言われて困ってるときの笑みだ。
「ケヴィンの話、信じるよ。ここには食用の家畜しかいなくて、ママがそれを制御する牧羊犬と言われても、信じる」
「その顔、どうだか」
お道化てみせようとして、顔を上げて。
優しく抱きしめられた。
頭をさすられる。
「ケヴィン……辛かったね。知っているのに何も出来なくて、相談する相手もいなくて」
「俺の心はそこまで弱くないって」
「ケヴィンは弱いよ? だって泣いてるんだもの」
「泣いてる……?」
本当だった。
目元に手を当てて、初めて気づいた。
泣いていた。
何故だろう。自分でも分からない。
どうしてこんな、目の中から異物が押し出されるように流れ出るんだ。
「泣くのに理由なんて必要ないわ」
エリエの言葉は自分でも異常に思えるほど、胸にスッと入ってきた。
自覚していないだけで、普段から相当に心がキていたのかもしれない。知ってもらう、それだけの行為がこんなに心の重しを取り払うなんて知らなかった。
ぐちゃぐちゃだ。
何を考えてるのか自分でも分からない。
それでも、この少女だけは絶対守ろうと俺は思った。
それまで一人でやっていた工作や作戦立案をエリエとやることなった。
エリエの知恵はあまり高い方じゃないから後者では頼りにならないが、力仕事を任せられるのは非常にありがたい。女児の力に頼ると思うと何だか情けないが、適材適所だと思って甘えておく。
着々としてきた努力も実って、今の森は罠だらけだ。勿論他の子供たちが引っかからないように罠は柵の奥に仕掛けている。エリエにはその辺りで力が必要な仕事を手伝って貰っている。
それ以外の時間は作戦を考えたりしているが、進捗は乏しい。
今のところ、自由時間はそんな感じだ。
エリエの態度は今まで通りである。
何時ものように何気ない言葉に笑って、ママを前にしても一切動揺していない。大した子役っぷりだ。まるで普段から演技をしていたかのような……なんて考え過ぎだよな。
ママの方も俺とエリエがこそこそと準備しているのを一切気付いていない。良い兆候だ。順調すぎて怖いくらいである。
世界がどうあれ、一日の始まりは平等に訪れる。
日本の食事と比べて味気ない朝食を作業的に口へと運んでいると、突然荒げた甲高い怒声が響き渡る。
「また私のぬいぐるみ盗んだでしょリグ! なんでそんなことするの!」
「僕はやってない! タオのぬいぐるみならメルアが物欲しそうに見てただろ!」
「わ、私? 確かに可愛いと思ったけど私はやってないよ……!」
互いに互いを疑う三つ巴だ。争う対象はぬいぐるみなれど、その幼い瞳に宿った疑念は根深い。
このようなやり取りはここ最近、やけに多い。争う面子はいつも違うし、争いの原因も大した内容じゃない。だけど何があったのか、この一ヶ月強で孤児院の子供たちの間に溝が出来たように見える。
疑心暗鬼だ。
ママも動揺一つ見せずに仲裁してはいるが、何処か雰囲気がピリピリしている。ママも生まれ育ちは孤児院の子供で人間だ。どれだけ優秀でポーカーフェイスが得意と言えど、そういう内心を完全には心の奥底に隠すことは出来ない。ふとした瞬間に僅かに零れ落ちる本当の表情は苦しみを帯びていた。
しかし、何故ここまで人間関係が分断されたのだろう。
少し前までは自分たちを家族として、共通の帰属意識を抱いて仲良く清貧ながら幸せに暮らしていた。それが今となって毎日喧嘩が起こる始末。アニメで見た第三プラントはこんなに嫌な空気は流れていなかった。そう言えば第三プラントは五つあるプラントの中で一番優秀なプラントと言われていた。第三プラントのママが優秀だったのだろうか。
更に一週間経って、二週間経って、一ヶ月経っても空気感は変わらない。寧ろ悪化する一方だ。
日に日に喧嘩が増え、しかし俺たちにとっては好都合だった。
争いが勃発するたび、ママの監視の目がそちらに向く。多少怪しい行動をしていても俺たちに構う余裕は無い。
「明日は皆さん、全員で遊ぶのはどうでしょう」
6月9日。
常に後手に回って喧嘩の仲裁に駆り出される現状を改善しようと思ったのか、唐突にママはそんな提案をした。
「俺はまあ良いけどよ……ずっとこんな感じなのも嫌だし」
「私も、他の人ならまだしもママがやるって言うなら参加する」
ママの提案は一応は子供たち全員に受け入れられた。何だかんだと子供たちもこのままじゃ暮らし辛いと感じている。子供たちにとって家はここしかないんだからな。
俺とエリエも流れから参加することになった。
これで多少は最近の火薬庫みたいにひりついていた空気も和らいでマシになるだろう。
とか思っていた時代もありました。
その時間になってみると、遊びの渦中でまた低レベルな言い争いが起こること起こること。
鬼ごっこでタッチしただとかタッチされてないだとか、かくれんぼでズルをしただのしてないだの。
結果的にママの提案は失敗だった。
この数日で出来た溝の深さを再確認しただけに終わったのだ。
その日の夕食時。当然のように隣に座ったエリエは小声で言った。
「何だか怖いね……今のハウスの雰囲気」
「そうだね。少し前までとまるで違う……本当に違う」
「ケヴィンは今のハウスの空気嫌い?」
エリエの言葉につい顎に手を当てる。
嫌いかどうかで言えば嫌いだ。居心地は悪いし、会話の数も依然と比べて格段に減った。今じゃハウスの中を響かせる笑い声も少なくなった。人によっては朝の挨拶すらしなくなってそれをママに咎められる光景も日常と化してきた。
だが、俺からすると都合が良い。
心は痛む。けど不仲が深刻になればなるほど立ち回りが楽になっているのも事実だ。
「ノーコメントで」
「正直だねーケヴィンは」
俺がそう言うと、エリエは少し嬉しそうに微笑を湛える。注視しないと分からないくらい僅かな表情の変化だ。
「エリエはどうなの?」
「私? 私もケヴィンと同じ気持ちだよ?」
つい聞いてみると、エリエはそう答えて食事に戻った。
まあエリエも俺も同じ立場だしな。
どうにかしたいとか答えない辺り、俺達は案外似た者同士なのかもしれない。
───その日の夜、エリエの里親が決まった。
─────────
ママがエリエのことで話があると孤児院の子供たち全員を集めて話を始めた時、絶望感よりも遂にこの時が来たんだという気持ちの方が大きかった。
覚悟はしていた。
俺と同い年のエリエは6月が誕生日と言っていた。つまり今月で出荷が行われ始める年齢だ。加えて毎日のテストで出すスコアが低い。50点~60点を推移しているのだ。だから6月になってからはそんな日がいつか来るのではないかと思っていた。
でも早すぎる。
まさか6月になって早々に出荷なんて、幾ら何でも予想外だ。
ロープはベッドやカーテンから布をパクって作り上げた。逃亡当日のため罠も張った。崖を飛び越える手段として、布の先端に石を結び付けて崖向こうの木に巻き付ける練習もした。最後に関しては俺は非力なせいで距離が飛ばず、エリエが何とか出来るといった感じだが。
しかし発信器を壊す方法は見つからない。見つからないのだ。
ナイフは依然として手に入らない。作るのも無理だ。木製ナイフは脆弱すぎるし、磨製石器じゃ切れ味が悪い。何より研ぐのに時間が掛かり過ぎてママに見つかる。
俺の体力も未だ酷いものだが、この際それはどうでも良い。
俺には時間がある。エリエには時間が無い。
それならエリエだけでも逃がさねばならない。
とにかく準備を急ぐ必要がある。
エリエの出立は3日後だ。
翌日の自由時間、俺はエリエを森の中に連れ込んだ。
道中は俺もエリエも無言だった。
少なくともエリエの顔色は悪くない。里親が見つかったというママの言葉を嬉しそうに受け入れていた。今も平然とした顔で俺の手に引っ張られている。間違いなく虚勢だ。
滅多に子供が来ない森の外れ、いつも使っている密談場所まで来ると手を離した。
「3日後か……短いな……」
何を言えば良いか分からないと思っていたのに、自然と口は開いた。
出てきた無神経な発言に、自分で自分が嫌になる。
慰めとか、気を紛らわせる言葉とか、もっと気を遣ったことを言えよ俺。相手は女児だぞ。どんだけ俺は気が利かない奴なんだ……!
「大丈夫だ、方法は何とかする。エリエだけは絶対に助ける。何としてでも手段を見つ」
「3日あれば十分じゃないかな?」
「けて…………へ?」
間抜けた声が出た。
その笑顔も普段通りの仕草も虚勢だと思っていた。まさか、違うのか? でも何の確信があって十分なんて言えるんだ?
「エリエ。この前も説明したから分かってると思うけど、改めて言おうと思う。この施設から脱出するには障害が3つある。内、2つは何とかなる算段は付いてる。壁を上る方法と崖を超える方法だ。だが最後の一つ、この左耳に仕組まれた発信器がどうにもならない。耳を切り落とそうにも、過電流で壊そうにも道具が無いんだ」
「ふーん」
「いや、ふーんって他人事みたいに……」
分かっているんだか、分かっていないんだか。
エリエからは危機感が見えない。
しかしふざけているようにも見えない。
幾ら能天気気味なエリエと言えど状況の深刻さは分かっているはずだ。それなのに何処からそんな余裕そうな態度が出てくるんだ?
多少無理矢理にでも脅して、と思って肩を掴んで分からせようとすると、その前にエリエは口を開く。
「発信器、私何とかする自信あるよ」
「……えっ。発信器を壊す方法を思いついたのか?」
「出来なかったら恥ずかしいから言いたくないけど、そんなところ」
胸を張って、純粋無垢な顔でそう言い放った。
まさか、エリエが発信器を壊す手段を見つけるなんて……。アニメで見た知識をそのまま流用している俺には全然予想が付かない。
いや、何も発信器は壊す必要は無いのかもしれない。例えばアルミホイルみたいな電波を阻害する物質で耳を覆ってしまえば発信器はその役割を果たさずただのガラクタになる。でもそんな物質、この孤児院にあるはずもない。とはいえ嘘を言う理由も無いだろうし……。
いや、取り敢えずは信じてみよう。俺の話を世迷い言と切り捨てなかったエリエのことを。
「まあ、何か考えがあるなら良かった。じゃあ作ったロープは全部持って行ってくれ、隠し場所は分かるな?」
「え? ケヴィンも一緒に出るでしょ?」
当然のようにエリエはそんなことを言った。
だけどそんなことは出来ない。孤児院の子供たちに情が湧いたとかではなく、単純な問題だ。
「俺は駄目だよ。情けないながら体力が持たないんだ。森の中でママに追いかけられたらすぐに追いつかれる」
「じゃあ森の罠は何のために?」
「そんなの先を見越してに決まってるだろ。今となってはエリエの為になったけどな。俺はあの程度の足止めじゃ追い付かれて捕まるのが関の山だけどエリエは違う。ちゃんと駆使すれば逃げ切れると思う。結構エグイのもあるし」
俺の言葉に何故かエリエは頬を赤らめた。……あ、エリエの為って台詞が臭すぎたのか? まあ気にする程のことでも無いか。
森に仕掛けた罠を思い出してみる。
簡単なところから草結び、枝を足先に引っかける位置に固定し設置、それに2mほどの落とし穴。落とし穴の下には枝を立てたから殺傷力にも欠片くらいは期待できる。
だがママを甘く見てはいけない。
アニメではノーマンたち子供の仕掛けた策略の意図の悉くに気付いて、対処していた。その洞察力を見縊ったらその瞬間、この未来の無い孤児院にアイルビーバックだ。この程度の小細工じゃ大きな時間稼ぎは期待出来ない。
「ケヴィン、一緒に逃げよ?」
「いや、エリエは先に逃げるべきだ。俺は後から体力が付いた段階で逃げるからさ、外で合流しよう」
「いいや出来るわ! 私たちなら出来る!」
「……流石に自信過剰すぎなんじゃ」
「そんなことない! ケヴィンを信じる私を信じてケヴィン!」
「それって一周回って俺を信じろって意味になってるんだけど……あ、分かってないなこれ」
不思議そうに首を傾げたエリエにそう確信する。
自分が3日後に出荷されると分かってもエリエはエリエだな。大物だよ本当に。……やっぱ不安になってきた。
「一応聞いておくが……大丈夫なんだな、エリエ?」
「うん、大丈夫だよ。一緒に助かろうねケヴィン」
「……待ってくれ。そうだ、皆はどうする?」
頷きかけて、出荷される直前のアリオの姿が脳裏を過った。
脱出するのは良い。ここにいても食われて死んで、それでジ・エンドだ。
だが他の子供たちは見捨てるのか?
子供たちはここが食人鬼の畑だとは知らない。誰しもが親に捨てられる不幸はあれど、この孤児院で小さな幸福を享受している。この世界の中にも外にも疑問を抱かずに生きている。
だから間違いなく死ぬ。子供が死ぬところを見たことはないが、俺は知ってるんだ。この小さな箱庭が如何に運営されているかを。
だから、分かる。
ここで見捨てたら子供たちは死ぬ。
それってつまり、俺が意図的に殺すってことだよな。
分かってた。逃げたって同じだ。結局は俺が殺すんだ。直接じゃなくとも、俺が選択して、俺が殺す。
「無理だよ。幼い子供も多いし、何より今のみんなの様子は知ってるでしょ? ギスギスしてる中、こんな話を信じてくれる子が何人いるか分からないもん」
加熱する思考と真反対に、エリエは冷静だった。
その佇まいに俺の思考も冷水が掛けられたみたいに醒める。
論理的な見解だった。原作でもそうだったようにインドア派の子供たちじゃ壁を上れない。それ以前に、孤児院の空気は最悪だ。この短い期間で孤児院は幾つかのコミュニティに分断されてしまっている。一致団結出来るとは思えない現状、全員で逃げるのは不可能だ。密告される可能性すらある。
それらの事実は理解は出来る。
「だけど……死ぬだろ。このままじゃ」
「分かってるよ。でもケヴィンも理解してるんでしょ? 私たちは他のみんなを見捨てなきゃ、到底ここから逃げられないことに」
「見捨てる……か。手を下さないだけで殺すのと何も変わらないな」
「でも、やらないとみんな死んじゃうのよ? ここにいたみんなの記憶は外の誰にも残らずに消えちゃう。私、人って繋ぐ生き物だと思うの。何かを継承して、後世に託すのが人って生き物の本質だと思う。なのにこのままだと孤児院の子供たちは何も残せない。逃げなかったら私もケヴィンもみんなも、歴史の空白に沈んじゃう。誰からも受け継がず、誰にも覚えられずに朽ちるなんて私は嫌だから。私たちだけでも、みんなのことを忘れずに生きるのがせめてもの贖罪になるんじゃない?」
歴史の空白に沈む。
確かにそうかもしれない。ママも含めてこの孤児院の中で生きる者は全員この孤児院内で完結する生物だ。何かを世界に残すことは出来ない。ただ食われるだけの食料として消費され、終わり。家畜の生き様だ。家畜は世界に爪痕を残すことも出来なければ自由を手にすることも出来ない。
彼ら彼女らはアニメにすら登場しない、言わば全員が存在しないモブキャラだ。アニメや漫画と言った媒体で描写されたモブキャラとも違う。物語として楽しむ傍観者からも認識されない存在。それはつまり、本当の意味で誰からも知られず死んでいくだけの子供たちなんじゃないだろうか。
そんなことを考えると余計に俺の中の哀れみが増して行く。
エリエが言うのは要するに、当人が死んでも記憶の中では生き続けるという理論だ。
だが言い訳染みていると俺は感じてしまう。
結局、死は死だ。しかも老人が寿命で大往生するのと違う。まだ余命何十年もある子供が理不尽にその命を簒奪される。それを受け入れるための容量が俺には無い。
「なら、外の世界で私たちが基盤を整えたあとにこの孤児院のみんなを助けるっていうのはどう?」
何も言えず押し黙る俺にエリエは柔和な口調で語り掛ける。
……考えたことなかった、脱出した後のことなんて。
俺はアニメより先の知識が無い。だから無自覚にこの孤児院を出た後のことを考えていなかった。脱出してはいおしまい、なんてアニメみたいの通りに考えていたのかもしれない。原作はその先も続いているのに。
助けるまでに子供たちの何人かが死ぬだろう。だけど、その死は無意味じゃなくなる。その死も人の記憶に残る。
「そうだな、そうしよう。いつか必ず助ける。そのために逃げる」
「そうそう。一緒に頑張ろう、ケヴィン!」
互いに頷くと、握手を交わす。
ロープはある。
発信器をどうにかする当てがあるなら後は俺の体力の問題だけだ。
今から少しでもトレーニングを重ねて1メートルでも長く走れるように訓練しなきゃな。
3日という時間はあっという間に過ぎて行った。
最初の2日は走り込み。何もしないよりかはマシと思ってやってみたが、正直あまり効果のほどがあったとは思えない。それでも多少は長く走れるようになったと前向きに考えておく。
最後の1日は図書館での仕込みで終えた。本の白紙のページを破って、そこに真実を記した。信じるかどうかは置いておいて、知る権利はあると思ったからだ。難しめの本の間に挟んだからいつか読書好きな子供に見つかることだろう。読み聞かせ用に使われないのを選んだからママに見つかることもない。
完全に自己満足だが、それでも少しは心が晴れた。
計画実行当日。
作戦は昼の自由時間スタートだ。
作戦はシンプルだ。
まず体力の無い俺が先に森へと入り、壁の上で待機。それからエリエと合流して脱出。
「っても、なんか俺何もしてない気がするな……」
ゆっくりと森の中を歩いて、壁際まで来ると思わず溜息が零れる。ここに来る道中は当然誰ともすれ違わず、この脱出も露見してないはずである。
脱出に当たって必要なロープや情報は俺が提供したとはいえ、当日に限って言えば俺は本当に何もしてない。ママの気も引かずにただ壁に向かって歩いてきただけだ。その点エリエはママの陽動や発信機をどうにかするつもりなんだから少し気が引ける。というか発信機壊してないのにここまで来て良かったんだろうか……今更だけど。まあ、俺もエリエのことを信じたんだ。後は転がしたダイスの目次第である。
ロープを握り締め、3度目のトライで壁の上へと何とか上る。急いでない状態でこれなんだから我ながら情けない。
壁の上で待つ。呆然と待つ。
エリエはこの間にも脱出の為に色々とやっているはずだ。俺も何か手伝えたら良かったが、今の俺が出来る事は壁の上で木にロープを結ぶことだけだ。
壁の外はアニメで見た通り崖と森しかない。
気がかりはやはり発信器か。
エリエは何も言わなかったがあれから俺も考えた。
発信器を壊す手段。だがエリエに発信器をどうにか出来るとは思えない。ナイフも無ければそういう機械も無いのだから、体内から取り出すなんてどうすれば良いのか俺じゃ検討も付かない。
とは言え、考えてみればそれは発信器にのみ言える話だ。受信機だったらどうにかできる……かもしれない。推測だけど。
懐中時計型受信機は恐らくママも一つしか持ってない。それを奪うか、或いは使用不能状態にする。そうすれば発信器なんて関係なくなる。俺とエリエが壁の上で屯していてもバレないはずだ。
考えれば考えるほどそういう気がしてくる。どうママを言い包めるのかは分からないけど、俺達が発信器を実質的に無効化するなんてそれくらいしか方法が無いと思う。
「ケヴィン……!」
エリエの声がして、振り返った。
一人だった。上手くママを撒いてきたのか、凄いな。
「エリエ。ママは?」
「大丈夫! 他の子たちの相手してる。森にあるトラップすら使わなかったし、意外と行けるもんだね」
「へー……まあ使わない分には良かったよ。発信機は?」
「これ」
それ、懐中時計型受信機……!
どうにかするとは言っていたが本当に奪ってくるなんて……。全くどうやったんだか。純朴そうな顔して意外と手癖が悪いのかもしれない。
「それにしてもケヴィンの話、本当だったんだね。壁の向こう、こんな崖だったんだ……。私たち、ほんとに何も知らず生きてた」
「そうだな」
「……まだママは私たちの脱走に気付いてないよ。でも時間の問題だわ。早くしないと」
エリエはピンと張ったロープの強度を確かめるみたいに触る。
その通りだ。いつ見つかってサイレンが鳴らされるかも分からない。ここでゆっくりする時間なんて欠片も無い。
そう思って見ていると、はいじゃあこれとエリエからハンガーを渡される。あ……普通に忘れてた。アニメでもハンガー使って脱出してたっけな。このままだと消防士みたいに太腿でロープを挟んで向こうまで渡るところだった……絶対落ちる。俺の体力とか筋力的に絶対落下死する。危ないところだった、マジで。
にしても助かった。まさかエリエが持ってくるとは。エリエってそんな頭良くないはずなんだが……もしかしたらあのテスト、あんまり正確なIQを測れないのかもな。
「ケヴィン、先行って」
「う、うん。何だか俺全然だな……ありがとう」
「いいの。これからが大変なんだからね」
エリエの視線が壁内へとスライドして釣られて俺の目も動く。
何だかんだと二か月強いた孤児院。ただ、自分でも不思議なくらい感傷とかは無い。信じられる人間がエリエしかいなかったから……?
エリエは違うんだろうか。違うだろう。6年もいたし、子供たちとも仲が良かった。それを見捨てて逃げるんだから俺なんかよりよっぽど辛いだろう。
それでもエリエは逃げることに決めたんだ。そして子供たちを見捨てることを提言して、俺を説得した。
その瞳はただただ眼下に広がる木々を見つめている。果たしてエリエは何を思っているんだろう。
「じゃあ先に行くな」
「うん、行って」
ハンガーを握ってロープに掛けると、思わずエリエの顔を一瞥する。エリエは俺の視線に気づくとニコリと笑みを浮かべて、俺の肩を軽く押した。
……俺は外の世界を知らない。アニメで見た範囲しか知らない。
サバイバルすら未経験で、生きて行けるかも分からない。
それでもエリエだけは守ろうと思った。
「…………そろそろ、一人くらいは死ぬかな」
エリエの独り言は風に吹かれて消えて行った。
約ネバ一期を最近見て、衝動的に書いたから設定の齟齬とかあったらすみません。
エリエ視点は余裕あれば書きます