DESIGNED LIFE   作:坂ノ下

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第17話 工廠科24時

「モユサマー、おるかー?」

「梅様、似てない」

「そうか?」

 

 工廠科、真島百由の工房前で、梅と鶴紗が機械式のスライドドアを前に気の抜けたやり取りを繰り広げている。

 講義を終えた二人はこの工房の主に、とある相談をするため足を運んでいた。が、ドアの横に設置されたインターホンに反応が無いため、不審に思い始めたところである。

 

「おかしいなー。気配はあるはずなのに」

「分厚い防音ドアなのに、気配とか分かるんですか」

「んーーー、ん? ロックかかってないゾ」

 

 梅がドアの開閉ボタンを押すと、彼女の言葉通り、金属の引き戸が低い音を立てて横にスライドした。

 勝手に開けるのはどうかと鶴紗が諫める前に、中の光景が視界に映る。故に梅を引き留める機会を逸してしまった。

 

「ま、梅様……鶴紗……」

「何だ、ミリミリ居るなら返事してくれよなー」

 

 中途半端な位置で出入り口のドアに背を向けて立つミリアム。首だけ回してこちらの方に振り返っている。彼女は百由のシルトなので、工房に出入りしているのも不思議でも何でもない。むしろ居て当たり前と言えた。

 問題は当の百由の方。鶴紗たちから見て、ミリアムを挟んだ反対側に、薄手の毛布に包まった人物が床の上に転がっている。

 黒髪のロングヘアーに赤縁眼鏡。毛布の中から顔だけ出しているので素性は分かる。ところが首から下、毛布の隙間から覗く範囲は肌色一色だった。

 要するに百由は全裸だったのだ。

 

「ミリアム、お前って奴は……」

「鶴紗、違うぞ? 前にも似たようなことがあった気がするが、誤解じゃからな?」

「酷いわ、ぐろっぴ! 私とは遊びだったのね!」

「それはもういいっちゅーんじゃ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 改めて、そこいらにあった椅子を円形に並べ、四人は工房の中で向き合って座る。言うまでもないが、工房の主は毛布を手放し制服に身を包んでいた。

 

「つまり、あまりの暑さに服を脱ぎ捨てた百由を発見して、慌てて毛布を掛けたわけだな」

「そういうことなのじゃ……」

 

 梅の確認に、疲れ切った様子のミリアムが力無く首を縦に振る。

 工廠科の工房にはチャーム製作のため、コンパクトながら鋳造炉や鍛造に用いるエアハンマーなどが設置されている。それらを稼働させ作業していれば冬でも真夏の如く暑くなるというわけだ。ましてや本当の夏であれば、その過酷さは察するに余りある。

 だからと言って、ドアにロックをかけないまま服を脱ぐのはどうかと思ったが。

 

「だって暑かったんだもーん」

「『もーん』じゃないわ!」

 

 不満げに口を尖らせる百由に対し、一瞬で気力を取り戻したミリアムが吼える。いつものシュッツエンゲル漫才であった。

 

「ぶーっ、シルトが冷たいわ。反抗期だわ」

「さて、それで二人は何か用があるんじゃないかの?」

 

 なおもブーブー言われるが、ミリアムは気にせず先を促してきた。鶴紗としても助かるところだ。

 

「実はチャームのことで相談があって」

 

 鶴紗は二人のアーセナルにぽつぽつと語り始める。

 高速飛行型ヒュージの対処法。射撃か接近戦か。チャームの改造でどうにかならないか。

 今度こそ特型を討つために、チャームの専門家へ知恵を請いに来たのだ。

 

「話は分かったわ。私も特型(あれ)の解析に関わってたし、他人事じゃないのよねえ」

 

 話を聞いている内に、百由はさっきまでとは一転して真剣な顔つきになる。やはり彼女に頼ったのは正解だったらしい。

 実際、百由はチャーム開発は勿論のこと、マギ理論やヒュージ研究にも長けた文字通りの天才。天が二物も三物も与えた稀有な存在である。その分、普段の生活面がアレなのはご愛嬌と言ったところか。

 

「夢結が勧めてきた『接近戦に持ち込め』って案、確かに一理あるのよ。どういうことかって言うと……マギインテンシティが高いから。強力なヒュージの傍ではマギ強度が高くなるからチャームの威力も上がる。ノインヴェルト戦術のパスも、ヒュージに近い場所で回した方がマギが貯まり易いでしょ。って今更説明するまでもないかぁ」

 

 周囲の反応など気にも留めず、百由は早口で捲し立てる。まるで頭の中に浮かんだ言葉を、そのまま口から垂れ流すかのように。

 

「で、あの特型、雨嘉さんのアステリオンの直撃弾に耐えたんでしょ? そうなると、より大火力のチャームを引っ張り出す必要があるんだけど。あのすばしっこいの相手に当てるのは至難の業ね。それに頭が回るようだから、ビームコートとか持ち出してくるかもしれないし」

「でも百由様、飛んでるヒュージに斬りかかるなんて余計難しい気が……」

「ふっふっふっ。そこを何とかするのが私たちアーセナルよ」

 

 鶴紗の懸念をよそに、腕組みして不敵な笑みを浮かべる百由。

 まさか、もう何か思いついたわけではないだろう。流石に今の今では。

 ところがどうやら本当にアイデアがあるらしい。良い意味で予想を裏切ってくれる。

 

「鶴紗さんの戦闘スタイルに合わせてティルフィングをカスタムしてみましょう。対飛行型……いや、対高機動ヒュージ向けのカスタムね」

「おおっ! 凄いな百由、もう閃いたのか!」

「ま、一から開発するわけじゃないからねえ」

 

 梅の称賛は軽く流された。百由はそれから改まって鶴紗の方に向き直る。

 

「今抱えている案件の合間になるから時間は掛かるけど、鶴紗さんはそれでもいい?」

「はい、お願いします」

「オッケー、決まりね。じゃあパパっと概要だけ説明しちゃうから、こっちに来てねー」

 

 急にテンションの上がった百由に促され、鶴紗は作業机の方へと付いて行く。更に後ろからは当然の如く梅とミリアムが首を覗かせてきた。

 机に広げた厚手の用紙に、百由が慣れた手つきでさらさらとペンを走らせる。手書きのティルフィングに、幾つかの注釈に、見慣れぬ小さなパーツが所々に描き込まれていった。

 全て終わるまで、僅か三分。三分間で改造図面を描き上げたのだ。

 

「カップ麺と同じぐらい早いゾ」

「週刊百由ならぬインスタント百由じゃな。わははっ!」

「そこっ! シャラップ!」

 

 百由は外野の茶々に背を向けたまま一喝するものの、すぐさま改造についての説明に入る。

 

「それでね鶴紗さん、刀身にこんな感じで小型のロケットモーターを取り付けて……」

「ロ、ロケット?」

「あとは姿勢制御や軌道変更。これは専用のスラスターなんか付けたらごてごてしちゃうから、メインのモーターとマギの操作で代用しましょう。あっ! 緊急時の急加速ブースターとか欲しい?」

「百由様、私をミサイルにでもする気ですか」

 

 大まかな方針を聞き、この場はそこで解散となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の一柳隊での訓練が終わり、入浴を済ませた後のこと。本校舎内の廊下にて鶴紗は両手で布の袋を提げたミリアムを呼び止める。

 窓の外は日が落ちてすっかり暗くなっていた。こんな時間から何をしに行くのか。大体予想はついていたが。

 

「ミリアム、どこにいくんだ?」

「百由様の所じゃ。また夜遅くまで作業のようじゃから、色々と持っていってやらんとな」

 

 呆れたように、しかしどこか誇らしげに答えるミリアムに、鶴紗は「やっぱり」と小さく頷く。

 

「私も行って良い?」

「うん?」

「今日頼み事したばかりだから……」

「おお、そうかそうか。じゃったら一緒に行こうかの。待っておくから準備してくるといいぞ」

 

 話が早い。皆まで言わずとも、ミリアムはこちらの話を快く受け入れてくれた。

 

 そういうわけで、鶴紗は百由への差し入れを手早く用意し、ミリアムと共に工廠科へと向かう。

 その途中、肩を並べて歩くミリアムの手元を横目で見る。彼女の持っている布袋はそこそこに大きいが、見た感じではそこまで重くなさそうだ。夜食用に何か軽めの食べ物でも入れているのだろう。

 

「百由様に気を遣ってもらってありがとうなのじゃ」

「別に。それよりミリアム、明日は休暇取ったって言ってたけど。まさかこのために?」

「うむ。できるだけ付き合ってやろうと思ってな。放っておいたら水分補給も忘れかねん」

「過保護なシルトだな」

 

 そんなことを話していると、よく見知った顔が二人に声を掛けてくる。

 

「鶴紗、ミリアム」

 

 遠慮がちの小さな声。特例で認められた白服。少し前まで訓練を共にしていた雨嘉だ。

 雨嘉の視線はミリアムの持つ布袋と鶴紗の持つ紙袋に注がれているようだった。

 

「おお、雨嘉か。わしらはこれから百由様の工房へ行くところじゃ」

「そう……。私も後で寄ってもいいかな?」

「ん、構わんぞ。じゃがチャームの整備を頼むなら、後回しになるかもしれん」

「うん、分かった」

 

 短く返事をすると、雨嘉は二人とすれ違ってすたすたと歩き去っていった。

 一体何だったんだと疑問に思う鶴紗だが、この時は特に深く考えず、再び工廠科へと足を動かすのだった。

 

 そうして目的地へと辿り着く。鶴紗にとっては本日二度目の工房である。

 二人一緒に立ち入るようなことはしない。まず最初にミリアムだけで様子を見に行く。彼女の強い要望で。前回の経験から、中でどんな姿をしているか分かったものではないからだ。

 偵察の結果、問題は無かったらしい。ようやく鶴紗も工房の敷居を跨ぐことができた。

 

「あら~よく来てくれたわねえ」

 

 暢気な調子の声が聞こえてくる。

 声の主は現在チャームの整備中。作業台の上に置かれたグングニルにドライバーを突き立ててフレームを固定しているところであった。

 このグングニル、学院保管の予備機なのか、誰かの整備を請け負ったのか。あるいは、ガーデンにおける百由の立場の重要性を考えると、何かの実験に用いる実証機の可能性が最も高いかもしれない。

 何にせよ、鶴紗が部屋の中に入っていくと、百由も仕事を切り上げた。

 

「いやー、二人して様子を見に来てくれるなんて、出来た後輩たちでお姉さん嬉しいわ~。お礼にチューしてあげる! チュー!」

「徹夜する前から徹夜明けのテンションなのじゃ。まあ気にせんでくれ」

 

 何故か異常に機嫌の良い百由をよそに、ミリアムが淡々と工房の中を漁っている。正確には、工房内でも百由の生活スペースと化した部分を漁っていると言うべきか。

 

「百由様ー、脱いだ洗濯物を丸めて一緒くたにするのは止めいと言ったじゃろうがー」

「あーーーっ! ぐろっぴ、私のソックス持ってどうするつもり!? あとで臭い嗅ぐんでしょ! エッチ!」

「たわけ! 今更靴下なんぞで喜ぶか! 嗅ぐなら直に嗅ぐわい!」

「あ、それもそっか」

 

 鶴紗は居心地が微妙になってきた。「二人とも徹夜明けなんじゃないのか?」と突っ込みたくて仕方がなかったが、そこはぐっと堪えた。

 

「それで百由様、夜食の類は用意しておるかの?」

 

 ミリアムが本来の目的へと話題を変える。

 すると百由は自信満々のしたり顔で机の引き出しを指差した。

 中に入っていたのは――――

 

「やはり、エナジーバーにエナジーゼリーか」

 

 引き出しを開けたミリアムが呟くようにそう言った。無論、視線にも言葉にも好意的な意味は込められていない。むしろその逆だ。

 シルトのミリアムは当然お姉様の認識を正そうとする。だがその前に、扉の向こうから三人目の来訪者がやって来る。

 

「あら雨嘉さんじゃない。ごきげんよう」

「ごきげんよう。あの、百由様。お夜食は……」

「ああ。ちょうど今、話してたとこなのよ」

 

 百由は雨嘉に向けて、細長いスティック状の固形物入りの袋とゼリー入りのパックを見せる。

 それらを目にした雨嘉の顔が強張った、ように鶴紗には思えた。

 

「百由様、こんなのばかり食べておったらいかんぞ。もっとバランスというものを考えねば」

「なによー。エナジーバーでも色々あるわよ。ほら、このサラダ味とか。こっちはツナ味」

 

 ガサゴソと引き出しを物色し、色とりどりの健康栄養補助食品を見せつける百由。何か問題があるのかと言わんばかり。

 そんな彼女に意外にも雨嘉が苦言を呈する。

 

「バーはバーです。新鮮な野菜の代用にはなりません」

「ほれ見たことか。雨嘉もこう言っておる。わしが来て正解だったな」

 

 そう言ってミリアムは自慢げなしたり顔になり、持ってきた布袋を逆さまにする。こういう仕草はシュッツエンゲルとシルトでそっくりだ。

 袋の中身が机の上にドバっと出てくる。ミリアム渾身の夜食チョイス。棒付きキャンディにロールケーキ、カステラに板チョコ。苦手な者が目の当りにしたら、口から砂糖を吐きかねない。お菓子の山だった。

 次の瞬間、また雨嘉の顔が強張った。見間違いでも気のせいでもない。普段から表情の変化に乏しい彼女だが、鶴紗も神琳ほどではないにしろ多少は読み取れるようになっていた。

 

「ミリアム、さっき自分でバランスがどうとか言ってたよね?」

「うむ。なので色々と取り揃えておるぞ」

「全部お菓子だよね?」

「う、うむ……」

「それはバランスって言わない」

 

 珍しく雨嘉が強く主張している。夜食の件に余程思うところがあったのだろうか。

 

「まあまあ、雨嘉さん。不肖ぐろっぴのことは私の顔に免じて」

「百由様、こんな食生活続けたら体を壊しちゃいますよ」

「はいぃ……」

「雨嘉、猫缶持ってきたんだけど」

「鶴紗ふざけてるの?」

「ご、ごめん……」

 

 取り付く島もない。怖い。

 鶴紗とミリアムはただでさえ小さめの体を更に縮めるのだった。

 

「……こんなことだろうと思って、これ、作ってきたから」

 

 無表情のままで、雨嘉が手提げ袋から大きなタッパーを取り出した。

 タッパーの中身は色鮮やかな具材のサンドイッチだ。瑞々しいレタスやトマトに、スライスされた玉子やハム。それらたっぷりの具をこぼれ落ちないよう綺麗に整え、大きなパンが挟み込んでいる。

 

「百由様、ミリアムと一緒に食べてください」

「いいの!? ありがとー、ありがとー!」

「鶴紗も、食べる?」

「いや、私はいいよ。もう寝るし」

 

 雨嘉の提案をお断りしつつも、ミリアムが持ってきたキャンディはちゃっかり頂いていく。

 その際、「歯磨きはしっかりね」という小さな声が聞こえてきたので、鶴紗は大人しく従おうと決めた。

 

 こうして二人のアーセナルを残し、鶴紗は工廠科を後にする。

 夜の工房が眠りに就くのは当分先になりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まさか雨嘉があんなにムキになるなんて」

「あははっ、それは珍しいものが見れたなあ」

 

 翌日の早朝、鶴紗は梅と共に百由たちの居る工房へと向かっていた。まだ朝の食事時よりも大分早い時間帯なのは、あのアーセナルたちの様子を窺うため。昨日の様子を見ても、夜更かししている可能性が高いから。

 

「あれは絶対、神琳の影響に違いない」

「んー、まあ良い影響じゃないか?」

 

 話している間に目的地の前まで着いた。

 梅がインターホンで呼び掛けると、意外にも部屋の主から返事がすぐに返ってきた。それから少しの間を置いて、ドアが開くと同時に気だるげな挨拶が聞こえてくる。

 

「はぁ、ごきげんよう……」

「ごきげんよう。何だ、ちゃんと起きてたのか。偉いゾ~」

「でしょー……」

 

 梅の軽口に対してもノリが悪い。起きてたと言うよりも、今起きたと言った方が適切か。

 百由はフード付きの、百合ヶ丘女学院工廠科制服をちゃんと着ている。着替える機会も無かったのだろう。

 

「ミリアムは――――」

 

 梅に続いて工房内に立ち入った鶴紗が開いた口を途中で閉じる。お目当ての人物がすぐに見つかったからだ。

 工房の隅に持ち込まれたソファの上で、毛布に包まれた小さな体。起き上がってくる気配は今のところ無かった。

 

「やっぱりミリミリは泊りがけか」

「そーなのよ。で、私シャワー浴びてくるから、ぐろっぴ見ててね~」

「へいへい。梅は二限目からなんで、ゆっくりするよ」

 

 梅はそう言うと適当な椅子に座り込む。

 一方の百由は右手をひらひら振ると、ドアから外へと出ていった。工廠科には共用のシャワー室が設置されている。そこに向かったのだろう。

 アーセナルは百由に限らず夜を徹するものが少なくないので、大浴場の入浴時間を逃しがちなのだ。

 

「鶴紗は一限目からだろ? 食堂行って朝飯食べとけよー」

「じゃあ、タッパーだけ雨嘉に返してきます」

 

 工房を立ち去る前に、鶴紗は机の上に置かれているプラスチックの容器を二つ回収した。中に詰まっていたサンドイッチは影も形もない。綺麗に完食済みだった。

 

(やっぱり、食べて貰えたら嬉しいものなのかな?)

 

 工房を出て廊下を歩きながら、この後に食堂で顔を合わせるであろう雨嘉の反応を想像する。

 鶴紗は料理が全くできないこともないが、得意というわけでもない。人に料理を振舞うこともほとんどなかった。せいぜい一柳隊の仲間にコーヒーを淹れてあげたぐらいだろうか。

 それに比べて雨嘉は料理が得意だった。一柳隊の中では梅と並んでトップの腕だ。隊内で何度も振舞われたことがあるので鶴紗もよく知っている。

 そんな彼女が作った料理の恩恵を一番受けられるのは、やはり同レギオンかつ同室の神琳だろう。丹精込めて作った料理を神琳に食べてもらい、普段は変化に乏しい顔に笑みを浮かべる雨嘉の姿が容易に想像できた。

 

 鶴紗は羨ましくなった。

 

(くそっ、神琳め……)

 

 好きな相手の手料理を身近で味わえる幸せ。平凡だが、誰でも一度は夢見るに違いない。

 鶴紗もこれまでの人生こそ平凡ではなかったが、人並みに夢ぐらい見たことはある。

 もっとも、自身の知らぬところで理不尽な憤りを向けられる神琳にとっては、堪ったものではないだろう。

 

 まだ人の声も気配も希薄な朝の廊下。

 考え事をしながら進む鶴紗の横合いから、不意に落ち着いた調子の声が掛けられる。

 

「鶴紗さん? ごきげんよう」

 

 梨璃の髪ともまた違った感じの、薄く透き通った桃色髪のリリィ。彼女は工房の一室から出てくると、鶴紗へ穏やかな微笑みを向けてくる。

 北河原伊紀(きたがわらいのり)。鶴紗とクラスは違うが、顔見知りだ。

 

「ごきげんよう。そっちも早いな」

「ええ。整備に出していたチャームを受け取りに来たんです」

 

 言われてみれば、確かに伊紀の背中には黒色のチャームケースが背負われていた。

 ただし、彼女が所持しているのはそれだけではない。肩からも結構なサイズのドラムバッグを提げている。チャームだけ受けとってこれから食堂……という様子にはとても見えなかった。

 

「一柳隊、ご活躍だそうですね。同じクラスの雨嘉さんから聞いていますよ」

「別に、そうでもないと思うけど」

 

 雨嘉の性分からして、自分から話して回ったとは思えない。横須賀での戦果が噂となり、周囲からの質問攻勢に合った結果、更なる噂になったというのが真相だろう。

 

「私も一年の身でレギオンを任されているので分かりますが。実際、大健闘されていると思いますよ? 高等部から編入された梨璃さんの下で戦われているのですから」

「まあ梨璃はね……」

 

 伊紀はレギオンの主将である。隊長ではなく主将ということは、ランクSS以上の強豪レギオンなのだ。一見穏やかな雰囲気の彼女も並のリリィではなかった。

 

「あっ、いけない。急いでるんでした。それでは鶴紗さん、ごきげんよう」

 

 台詞の割には最初と変わらず落ち着いたまま、伊紀が歩き出した。

 鶴紗は少しだけ逡巡したものの、伊紀の背中が離れていく前に口を開く。

 

「伊紀、気を付けて」

「……はい。ありがとうございます」

 

 立ち止まり、ウェーブのかかった桃色髪をふわりと回し、振り返った伊紀が微笑と共に静かに答えた。

 

 中等部時代。鶴紗がまだゲヘナの実験施設に囚われていた頃。伊紀のお姉様の、そのまたお姉様が所属するレギオンの手で、鶴紗は百合ヶ丘女学院に保護された。

 その縁があって鶴紗と伊紀は知り合っていた。

 伊紀もまた、鶴紗と同じ特別寮。

 同じ強化リリィだった。

 

 

 

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