DESIGNED LIFE   作:坂ノ下

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第20話 西へ

 この日、鎌倉の空は灰色混じりのどんよりとした雲に覆われていた。

 昼食後の余暇。本来は憩いの時間になるはずだが、鶴紗は捜し人を求めて忙しく学院の敷地を歩き回っていた。

 本日の放課後にレギオンでミーティングを開く。その連絡のために。

 本当なら携帯を使えば済む話だった。ところが鶴紗が電話を掛けても繋がらなかったのだ。電池切れか、はたまた部屋に置き忘れたか。

 

「まったく、世話の焼ける先輩だ」

 

 一人ぶつくさ言いつつ、鶴紗は本校舎の裏手を進む。

 上級生寮の旧校舎は夢結が捜してくれていた。となると、鶴紗が担当すべきは他のどこか、心当たりのある場所だ。

 この時間、人が少なそうでゆっくりごろごろできる所。思い付く限りで一番近い場所から当たっている。

 本校舎の裏には石畳の小道が伸びており、鶴紗の住む特別寮の他にも林の木々や観賞と防災を兼ねた池など、自然と人工物が上手く調和した空間だった。

 探し人がここで昼寝を決め込んでいる可能性は高い。少なくとも鶴紗の見立てでは。

 

「……ん?」

 

 ふと、足を止める。

 小道から外れた池の畔にベンチがあった。ベンチとそこに座る人影が視界に入り、気になった鶴紗は近付いてみる。

 残念なことに、探し人ではなかった。

 

「あら、ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 

 百合ヶ丘お決まりの挨拶の言葉を掛けてきたのは、柔らかな印象を受ける亜麻色の長髪をしたリリィ。

 鶴紗はあまり話したことはなかったが、彼女はある意味で有名だった。もっとも、彼女に限らず三年生で第一線に立ち続けているリリィは皆、名が知られているのだが。

 

「もしかして、ロザにご用事?」

「いえ、そういうわけでは……」

 

 ベンチに腰掛けるリリィ――田村那岐(たむらなぎ)の傍らにはもう一人リリィが居た。

 全身をベンチの上に横たえ、上から厚手のケープを毛布代わりに掛けている。頭は那岐の膝の上。顔を那岐のお腹に向けているため、美しく長い銀髪が鶴紗の方からよく見えた。

 この曇り空の下、こんな所で寝て風邪を引かないのか。初めはそう思った鶴紗だが、すぐに心配は無用だと悟る。柔らかい膝枕に顔を沈めている姿が、いかにも暖かそうに見えたから。

 

「ちょっとうちの先輩を捜してて」

 

 鶴紗のそんな言葉に真っ先に反応したのは那岐ではなく、もう一人の方だった。膝枕の上でくるりと180度向きを変え、青い瞳で鶴紗と目を合わせてきた。

 

「何かお悩みかしら、鶴紗さん」

 

 寝ている人間を起こすほど、鶴紗は大きな声を出してはいない。かと言って相手の狸寝入りというわけでもなさそうだ。

 銀髪のリリィ――ロザリンデはベンチと那岐の上で横になったまま、鶴紗の目を覗き込むように視線を送り続けている。

 

「後輩の前よ。起きたのなら、しゃんとしなさい」

「んー、もうちょっとだけ」

 

 だらしのない態度を那岐に咎められるものの、ロザリンデは改める様子を全く見せない。それどころか首を揺らして頬をこすり付け、膝の感触を気持ち良さそうに堪能していた。ほっぺたの形がぐにゃぐにゃと変形する程に。ワールドリリィグラフィックのモデルにも負けない美貌が台無しである。

 ゲヘナから救い出してくれた恩人で尊敬していた上級生のこんな姿を目の当たりにし、正直なところ、鶴紗は残念な気持ちになるのだった。

 一方、那岐は那岐で一度だけ口で注意すると、以降はされるがまま。常日頃の彼女なら、平手が飛んでいてもおかしくないというのに。

 そこで鶴紗は以前に耳にした伊紀の話を思い出す。「任務明けの休みは大抵、那岐様がお優しくなるんですよ」という話を。

 

「それで鶴紗さんの悩み。先輩のことだったわね」

「え? まあ、はい」

「そうねえ、私からアドバイスできるのは――」

 

 考え込んでいるロザリンデを見て、鶴紗は疑念を抱く。何か勘違いしてないか。自分はただ、猫みたいに気まぐれな先輩の行方を知りたいだけなのだが。

 

「金魚みたいに口を開けているだけでは、望むものを得られない。時には自ら一気呵成に攻め込まないと」

「何の話ですか?」

「想い人をゲットする方法よ」

 

 やっぱり勘違いじゃないか、と鶴紗は叫びそうになる。

 

「私と那岐のことは話したかしら?」

「…………」

 

 問われた鶴紗は無言で記憶の糸を手繰り寄せる。

 程なくして思い出した。二人の馴れ初めを。

 

 中等部時代にゲヘナの実験施設から百合ヶ丘へと助け出されてからも、鶴紗の心と態度は荒んだまま。

 そんな鶴紗に、時々だが、ロザリンデは話し掛けていた。取り留めの無い話題の中には、那岐との逸話も含まれていた。

 

 初対面の際、ロザリンデの好みに直球ストライクだったため、西欧式の挨拶と称しキスしようとして那岐にひっぱたかれたそうだ。それ以後ロザリンデは那岐に夢中となり、猛アタックの末、友人を経て今の関係に至ったとか。

 その話を聞いてすぐの頃、鶴紗は「オットー様って、ぶたれるのが好きなんですか?」などと本人に対して質問したことがある。

 今思えば噴飯もの。思い出しただけで顔から火が出る勢いだ。どうしてあんな馬鹿なことを聞いてしまったのか。

 

(私も当時は幼く、浅はかだった)

 

 もっともロザリンデはロザリンデで、「ぶたれるのが好きなんじゃなくて、気丈で芯の強いお淑やかな女の子が好きなのよ」などと真面目に答えていたのだが。

 

「参考にさせて貰います」

 

 結局、鶴紗は当たり障りの無い答えを選択した。他に答えようが無かったとも言う。

 

「ええ、十分参考にしてちょうだい」

 

 そう言うとロザリンデは真上を向き、膝枕の上で仰向けとなった。

 目を細めてロザリンデの銀髪を手櫛で梳いている那岐。そんな彼女の亜麻色の髪を、ロザリンデが伸ばした指先にくるくると絡めて弄る。

 その光景を見て初めて、鶴紗は自分が惚気られているのではないかと気付いた。

 油断していたのだ。一柳隊においては、主にピンクヘッドとセクハラ魔人2号のせいで惚気には慣れていたが、まさかよそのレギオンの上級生にまで惚気られるとは思ってもみなかった。

 

(私ってそんなに惚気やすい顔してるのか……)

 

 割と真剣に悩みつつ、鶴紗は先輩の捜索に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――ってことが昼に校舎裏であって」

「それはご愁傷様でした。でも鶴紗さん、よく考えてみてください。面倒臭がりで大雑把なロザ姉様には、手綱を握って管理してくれる那岐様のような方がお似合いだとは思いませんか?」

「伊紀、もうちょっとオブラートに……」

「鷹揚で懐の深いロザ姉様には、小まめで世話を焼いてくれる那岐様がお似合いだとは思いませんか?」

「まあ、うん、そうだな……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、講義を終えた放課後、一柳隊は自分たちのレギオン控室に集合していた。軍令部作戦会議、通称13レギオン代表会議からの通達について話し合うために。

 

「なんだなんだ、また外征か? 特型絡みだったりして」

 

 控室にあるソファの手掛けに行儀悪く座り、冗談めかしてそう言うのは梅だ。

 昼間の努力もむなしく、鶴紗は結局この先輩を見つけることができなかった。梅に召集を伝えたのは、旧校舎の屋上で出くわした夢結であった。

 

「梅の言う通り、外征任務です。それも特型関係の」

「マジか」

 

 夢結があっさり肯定すると、流石に梅も驚いたらしい。丸い両目でパチクリと瞬きして手掛けから降りた。

 

「ガーデンの調査によって、特型ファルケがとある工場に由来すると分かりました。場所は静岡県の伊豆半島北東部。言うまでもありませんが、陥落指定地域です」

 

 夢結の説明を聞き、鶴紗の肩が僅かに震えた。どうにか何気ない風を装ったが、目敏い楓や神琳などには気付かれたかもしれない。

 

「その工場、今では放棄された工場跡地ですが、とある製薬会社が所有していた施設で、特型に関する情報が眠っている可能性がある。そこで我々一柳隊に調査の命令が下りました」

 

 静岡というワードに意識を持っていかれた鶴紗はそれどころではなかったが、夢結の説明に不審点を感じたらしい楓が口を挟む。

 

「夢結様、もったいぶらないでくださいな。どの道、全て知ることになるのですから」

「……そうね。回りくどい話は無しにするわ」

 

 夢結は隣の梨璃と頷き合ってから改めて話し出す。

 

「ここから先は軍令部作戦会議とは別に、生徒会から直接伝えられたことなのですが。特型ファルケはゲヘナによって生み出された実験体。とある製薬会社というのはゲヘナの関連企業。我々が調査を命じられた工場跡地には、極秘の実験場が存在する可能性があるのです」

 

 その話を受けて控室の中が一瞬ざわつく。

 

「それは、わしらのような一介のレギオンが関わる案件なのか?」

「ミーさん、それは今更ですよ。結梨さんの件といい、鶴紗さんの件といい、わたくしたち一柳隊はもはやゲヘナの問題と無関係ではありません」

 

 ミリアムの疑問に対し、神琳が取り繕うことなく真正面から答えた。

 事実だ。ここが反ゲヘナの有力ガーデン百合ヶ丘でなければ一体どうなっていたことか。それぐらい一柳隊は危ない橋を渡っていた。

 

「ですが、そんな道を選んできたのは、他でもないここに居るわたくしたち自身。……違いますか?」

「いいや、何も違わんぞ。捕まりそうになった結梨を連れ戻したのも、鶴紗を追い掛けて横浜に乗り込んだのも、全てわしらの意志じゃ」

「うん、そうだよ。皆このレギオンの仲間のためにやってきたんだから」

 

 続く神琳の問い掛けに、まずミリアムが、次いで雨嘉が力強く答える。他の者の反応も似たようなものだった。

 話の当事者である結梨がはにかんだような笑みを浮かべ、最初の動揺から落ち着いてきた鶴紗もこそばゆい気持ちになる。

 

「皆さん! ありがとうございます!」

「私からもお礼を言わせてください。ありがとうございます」

 

 梨璃と夢結が並んで仲良く頭を下げた。

 柔らかく暖かい雰囲気に包まれる控室。

 しかしながら、話はこれで終わったわけではない。

 

「それで、改めて今回の外征任務を受けるかどうか決めたいのだけど」

 

 そう言って夢結は沈黙を保っている鶴紗へと視線を向けた。

 何が言いたいのかは察しが付く。鶴紗の出身地が静岡であると、彼女の父親が静岡で無念の死を遂げたと、夢結ならば把握しているだろう。

 

「別に、私は平気ですよ。ただ調査に行くってだけだし」

「そう……。では賛成ということでいいのね」

「ちょっとした里帰りだと思っておきます」

 

 強がりで言っているわけではない。だが夢結や皆に無用な心配を掛けたくもなかったので、言い方がわざとらしくなってしまった。この辺りの塩梅はまだ慣れない鶴紗であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所を移して、百合ヶ丘の屋内訓練場。頑丈な壁と見上げるほど高い天井を持つ広大な空間で、一柳隊は訓練に精を出している。

 朝から続く曇天が遂に我慢できず雨を降らせていたが、屋根のあるこの場所なら技を磨くのに支障は無い。

 

「結局、皆が賛成して決まったが。改造の件はちと残念じゃったのう」

「私のティルフィングのこと?」

「うむ、そうじゃ」

 

 訓練場の隅でチャームの整備に勤しむ鶴紗に、隣へ腰を下ろしたミリアムが声を掛けた。

 

「百由様はやはり忙しいらしく、図面はあっても作業に取り掛かれてないのじゃ」

「仕方ない。ていうか、そもそも今回は調査だから」

「いやいや、それはフラグというやつじゃぞ。横須賀の件があったばかりじゃしな」

「止めろ。洒落にならない」

 

 手にしたドライバーでティルフィングのパーツを分解していく鶴紗。横ではミリアムが同じような作業を、鶴紗よりも手際よくこなしている。

 最後の一言はミリアムなりの気遣いなのだろう、と鶴紗は思う。腫れ物扱いせず今まで通りに接する。実際そちらの方が、遥かに気が楽であった。

 お姉様が絡むとぶっ飛んだことをしかねないミリアムも、そうでなければ常識人で思いやりのある人間なのだ。基本的には。

 

「どうせ改造しても、使いこなすにはまた訓練が必要だろうし。焦らず待つよ」

 

 鶴紗はそう言ってこの話を終わらせた。

 言葉通り、本当に全く焦ってないと言うと、嘘になるが。

 

 カチャカチャと、ティルフィングのフレームが金属音を立てる。鶴紗は無言で整備を続ける。

 隣のミリアムは巨大なハンマーの如きチャーム、ニョルニールの砲身内を清掃中。長い棒に清潔な布を巻き付けて、その棒を砲口から差し込み内部を拭き上げていく。

 砲身の掃除を終えたミリアムは分解していたニョルニールのパーツを組み立て始めた。どうやらこれで彼女の整備は終了らしい。アーセナルの腕とチャームの簡易な構造が相まって、非常に迅速な仕事であった。

 

「おっ、結梨の奴が何か始めるみたいじゃぞ」

 

 そんなミリアムが唐突に好奇の声を発した。

 手を止めて顔を上げた鶴紗の目に、演習場の真ん中辺りでチャームを構えた結梨が映る。

 赤紫のグングニル。バレル本体の上にブレイドを折り畳んで重ねたシューティングモード。その銃口を上向きにかざして結梨は静かに佇んでいる。

 

「始めるわよ、結梨」

「うん!」

 

 どこか別の場所から響いてきた機械音声越しの夢結の言葉に、結梨は元気よく返事をした。

 それから一呼吸置いて、遠く宙の中に円盤状の物体が舞う。射撃訓練用の空中標的だ。

 決して鈍くはない速度で山なりに飛ぶ的に対し、結梨のグングニルは照準の後に軽快な唸りを上げて弾を放つ。

 次の瞬間、標的は軽く揺れたものの、また元の軌道で山なりに落ちていく。グングニルの弾は訓練用の模擬弾で、円盤状の標的はホログラフを用いた立体映像だった。そのお陰で屋内でありながら射撃訓練ができるのだ。

 最初は一度に一つずつだった的だが、徐々に二つ三つと数を増していく。高度もばらばら、発射角度もまちまち。飛行速度も緩急がついている。

 しかしそんな状況においても、結梨は視線と銃口を盛んに動かして的を的確に射抜いていた。

 

「ほほぅ、大したものじゃなあ。あの訓練プログラムの設定、決して易しいものではないはずじゃが」

 

 胡坐を掻き、右手を顎の下に添え、ミリアムは感嘆して唸る。

 元々、結梨のセンスの良さは特筆すべきものだった。そこに彼女の気質、素直さやひた向きさが加われば、めきめきと上達していくのは必然と言えるだろう。

 

「何か……やっぱり梨璃に似てるよな。こういうところ」

「ん? 何のことじゃ?」

「素直で、どんどん成長してること」

 

 鶴紗は梨璃の過去を、レギオンの長としての過去、リリィとしての過去を振り返る。結梨の保護者である彼女もまた、生まれ持った素直な性格で周囲から様々な物を吸収してきたのだ。

 

「詰まるところ、結梨の力の本質は生まれなどよりも、あ奴が得た人間性に由来しているわけじゃな」

「ミリアムもたまには良いこと言うな」

「さっき控室でも良いこと言ったじゃろ!」

「そうだっけ?」

 

 わざとらしくすっとぼけてミリアムを揶揄いつつ、鶴紗はティルフィングの整備に戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 広い訓練場の中に一際長い電子音が鳴る。射撃訓練プログラム終了の合図だ。さっきまで乱れ飛んでいた円盤は影も形もなくなっていた。

 

「ふぅ」

 

 結梨は構えていたグングニルの銃口を下げ、息を小さく吐き出した。

 そんな結梨の傍に、小走りの梨璃が向かう。遅れて夢結も梨璃の後に続く。

 

「凄いよ結梨ちゃん! 頑張ったねぇ!」

「50発中、命中47。上出来よ」

 

 梨璃と夢結から立て続けに褒められて、二人へ向き直った結梨は胸を張る。鼻息も自慢げに荒くなる。

 そんな結梨の頭が梨璃の手によって撫でられる。小さな円を描くように、「いい子いい子」と何度も撫でられる。

 初めは気持ち良さそうにされるがままだった。しかしやがて、結梨は体を引いて自分から梨璃の手を逃れてから、改めてグイッと梨璃へ近寄った。

 

「ん!」

「?」

「ごほうび!」

 

 結梨の不可思議な行動に首を傾げていた梨璃だが、催促されたことでその意図を理解したらしい。困ったような笑みを浮かべながら、しかしどこか嬉しそうに、結梨の右の頬へ押し当てるように口づけをする。その勢いによって、柔らかいほっぺたの肉がゴムまりみたいに弾んで揺れた。

 

「夢結も!」

「仕方ない子ね。誰かさんそっくりだわ」

 

 そんなことを言いつつも、屈み込んだ夢結が梨璃とは反対側、左の頬に軽く口づけする。結梨はくすぐったそうに身を捩った。

 

 結梨を中心とした一連の光景を遠目に眺めて、鶴紗は眩しいものを見たかの如く目を細める。

 あの三人、横須賀から帰って以降、仲睦まじさにますます磨きが掛かっていた。梨璃はともかく、夢結は訓練場ではもっと厳しかったはずだが。訓練の中身が厳しければ問題ないということなのか。

 もっとも、前みたいにすれ違うよりずっと良いので、鶴紗としては特に文句は無かった。ひょっとすると、惚気に慣れたのかもしれない。

 ところが全員が全員、鶴紗のようには受け取れないものだ。現に今も、離れた場所から結梨たち三人に熱い視線を送る者が居た。

 

「挨拶、あいさつ、アイサツ……ベーゼぐらい、フランスではただの挨拶ですわ……」

「楓さん、梨璃さんも夢結様も日本人ですよ」

 

 ぶつぶつと低く小さく言葉を羅列していく楓に、横から二水が突っ込んだ。

 だがそれでも楓の意識はどこかに行ったまま帰ってこない。聞こえない振りをしているのか、あるいは本当に聞こえていないのか。

 

「お前はよく戦った。もう休め」

 

 他人事だと思って鶴紗がそんなことを言う。勿論これも本人には聞こえていない。

 

 ふと、そこで動きがあった。

 楓の様子に気付いた結梨が梨璃と夢結の間から抜け出して、一直線に駆け出した。

 皆が不思議そうに見つめる中、結梨は楓の目の前にやって来る。そうして背伸びをし、背の高い楓のほっぺたへ飛び込むようにキスをした。

 

「楓、元気出せ!」

 

 笑顔でそう言ってのけた結梨に、流石の楓も意識を現実に引き戻した。

 

「わわわわわたくしはっ、こんなことで絆されたりしませんことよ」

「滅茶苦茶動揺してますよ」

 

 あからさまに目を泳がせる楓と冷静に突っ込む二水。

 そんな対照的な二人を興味深く見ていた結梨が、自分のことを呼んでいる人物に気付く。

 

「結梨さん、結梨さん」

「んー?」

 

 名前を呼ぶ神琳のもとへ、トテトテと歩いていく。そこで結梨は何やら耳打ちをされる。

 

「ごにょごにょごにょ、かくかくしかじか……」

「ふんふんふん、まるまるうまうま……」

 

 秘密のやり取りは程なくして終わる。

 今度はどんな悪巧みを吹き込んだのかと鶴紗は訝しむ。

 するとまたもや結梨が勢いよく駆け出して、再び楓の前に戻っていった。

 

「楓おねーちゃん、元気出して!」

 

 ほっぺたへの二度目のキス。

 楓は固まった。

 鶴紗とミリアムは吹き出した。

 確かに結梨の出生には楓の実家であるグランギニョル社が関わっている。総帥である父を説得して結梨への助け船を出させたのは楓だ。ある意味、身内と言えなくもない。

 やがて復活した楓の口から出てきたのは、訓練場の広大な空間に響き渡る慟哭であった。

 

「うっ、うあああぁぁぁ!」

 

 誰も声を掛けることができない。

 そうしてひとしきり泣いた後、楓は改めて口を開く。

 

「わたくしっ、わたくしは、お二人の子供になりますわ。梨璃さんと夢結様の子供になりますわ。……梨璃さんっ!」

「はっ、はい!」

「どうかわたくしを産んでください、梨璃さん!」

「えっ、それはちょっと……」

 

 泣きじゃくったりしたかと思ったら、熱い眼差しで梨璃に詰め寄ったり。

 いつもの空気、いつもの一柳隊。しかし当たり前だが全く同じというわけではなく、どこかが少しずつ先へと進んでいた。

 

「何やってんだ、あいつら」

 

 呆れて呟かれた鶴紗の言葉も、姦しさの中に紛れて溶けていく。

 

 

 


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