長く細い縦穴を下り、長い横穴を通り抜け、鶴紗はもう一度この場所に戻ってきた。
ここに至るまで、陰鬱とした薄暗さと圧迫感は以前と変わりがない。だがここから先は初めて足を踏み入れた時とは違うだろう。もはや敵方にもこそこそと潜んでいる必要は無い。全力で迎え撃ってくるはずだ。
実験場の入り口に当たる分厚い隔壁の前、結梨がふと疑問を口にする。
「どうしてこんな所に逃げ込んだんだろう?」
それは当然の疑問だった。高速飛行型のヒュージがわざわざ暗い穴倉に陣取るなど、自らの強みを殺す自殺行為にも思える。
だからこその、こちらを誘い込むための罠。そう推察していたが、本当にそれだけだろうか。特型が人の知性を備えるのならば、何か他の思惑があるのではないか。
そもそもあの特型が鶴紗を狙う理由は――――
そこで鶴紗は頭から無理矢理に思考を追い払う。あれはあくまでもヒュージなのだと、改めて自分自身に言い聞かせて。
「では皆様、参りましょうか。目標は一に特型の撃破、二に実験データの回収。進軍経路は前回と同じ、端末室を目指して進みます。当然待ち受ける敵の数も多いでしょうが、この地下迷宮を闇雲に探検するよりマシですわ」
皆に対して方針を確認する司令塔の楓は、結梨と共に隊の中衛に位置していた。前衛が夢結と梅、後衛が鶴紗とミリアムという布陣である。こういった入り組んだ地形では、後ろも決して安心できるポジションではない。
開かれた隔壁をくぐり抜けて、六人は地下実験場に足を踏み入れた。薄ぼんやりとしたトンネルの中、早速お出迎えの影がちらつく。
「正に袋の鼠ね」
「どっちが鼠なんだ? 梅たちか?」
遠く前方を見つめる夢結に、隣から茶々が入る。
先頭に立つ二人が対峙するのは、長大なトンネルのあちらこちらに浮かび上がる赤い光。不自然なまでに静まり返ったその光景は底気味悪く、さながら人魂のようである。
「決まってるわ。向こうよ」
そう言って夢結はブリューナクの砲口を前に突き出すと、躊躇いなく引き金を引く。その一発は着弾と同時に噴煙の如き煙を立ち昇らせた。
ところが煙が完全に晴れる前に、赤の人魂は消え去っていた。それどころか視界に映っていた他の光も全て、トンネルの奥へ奥へと逃げ出す始末。
「これは、誘われてるなあ」
「警戒しつつ、予定通りに端末室を目指すしかありません。あれと鬼ごっこなんて御免ですわ」
梅の危惧はもっともだ。
とは言えここで立ち止まるわけにもいかず、楓に促されて一行は歩き出す。
延々と続く地下道に、非常用電灯による半端な灯り。ここには何度来ても慣れそうにない。
背中の上を何か細長いものが這い回るような不快な感覚に陥るのは、自分が過敏になっているからだろうか。鶴紗は内心でそう自問する。
時折、進路上に赤い光が揺らめくが、リリィたちの接近に合わせて砲火を交える前に退いていく。
そんな奇妙な光景が暫く続いた後、六人はやや広まった空間に出てきた。眼前には、大きさも形も同じ通路が三つ横並びになっている。分かれ道だ。
前回は一番左の道を選んで端末室を発見したので、今回もそうすることになるだろう。
ところが夢結と梅の前衛コンビは立ち止まったまま、中々分岐点に入ろうとしない。二人の後ろに続く楓もまた、先へ進むよう催促することはなかった。
「多いわね。少なくとも20は居る」
「天井の方にも何か隠れてるっぽいな」
「サーチャーは?」
「ダメダメ、相変わらず反応なし。やっぱこの実験場がおかしいんだろうな」
夢結と梅の会話は、敵の伏兵の存在を示すものだった。それも今までのような逃げ腰ではなく、大兵力を集めて一戦仕掛けるつもりらしい。
そこで楓がくるりと振り返り、鶴紗たちに向かって口を開く。
「鶴紗さん、前衛に加わってください。一気にここを制圧しますわ。ミリアムさんは後背の安全確保を」
「やるのはいいけど、その後はどうする?」
「特型が出てくれば、そちらを優先。出てこなければ、データの回収。それからこの地下空間を虱潰しにしますわ」
楓の至ってシンプルな案に首肯だけすると、鶴紗は先輩たちに並んで前衛に立つ。
「楓、私は?」
「結梨さんは中央で待機。不利に陥った所へフォローに回ってください。あと、楓お姉様と呼びなさい!」
「分かった、楓!」
「楓お姉様、ですわ!」
後ろの賑やかしに、鶴紗が「うちもアールヴヘイムのことを言えないな」と苦笑する。
「おーい、始めていいかー?」
「……ええ、梅様。皆様も準備はよろしいですわね? では、制圧開始」
夢結をセンターに、梅と鶴紗が彼女の左右に展開して、分岐点の大広間に踏み込んだ。
居る。鶴紗にもはっきりと分かった。これまでコソコソと逃げ回っていたヒュージたちが待ち構えている。
長く強靭な顎に大きな前歯を光らせる四足歩行の獣。薄暗い地下というシチュエーションに相応しい、鼠のような姿。ファング種フィープ・ピープ型が広々とした空間の中に点在していた。
積み上げられたコンテナの上に陣取る者、コンテナの影から顔を覗かせる者、分かれ道の通路のすぐ前に立ちはだかる者。いかに鼠を模していても正体はヒュージであり、いかにスモール級とは言え体長は一メートルを超す。そんな連中がそこかしこで牙を尖らせているのだから、威圧感は相当なものだろう。
「梅、鶴紗さん、下の敵は任せるわ」
「いいゾ。そんじゃ天井の方は夢結に任せた」
たったそれだけ打ち合わせをすると、夢結が前方からの威圧を無視して真上に跳んだ。マギの力でぐんぐんと上昇し、手に持つブリューナクを発砲する。
すると、とても地下とは思えない程に高い天井の一角から、金属片と青い液体が降ってきた。ヒュージだ。気が付けば、天井の至る所に赤い光の目玉が浮かび上がっていた。
空中に躍り出た夢結を目掛けて、天井に巣くっていたヒュージが左右から迫る。丸みを帯びた胴体の両翼から、反りのついた刃物の如き翼を生やす。見た目こそあまり似ていないが、その所作は蝙蝠を思わせる。
夢結のブリューナクはすぐさま変形を図った。大型のギアが回転し、折り畳まれていた砲身と刃が前方にスライドして分厚く剣呑な刃を形作る。その間、僅か一秒半。ブリューナク十八番の高速変形だ。
夢結は右から来る蝙蝠型ヒュージを横薙ぎで片付けると、チャームを振った勢いのまま体を捻り、左の敵を返す刀で逆袈裟に斬り捨てる。下から見ていても、視界不良の地下でも分かる鮮やかな
二つの残骸は明後日の方向へ墜ちていき、やがて床に激突して小爆発を起こすのだった。
「ニフテリザ。現代ギリシャ語で蝙蝠を意味するヒュージですわ」
「蝙蝠? あんまり似てないよ」
「ふふっ。でしたら『再現する気があるのか』と、あとでヒュージを問い詰めてやりましょう」
上空に向けて援護射撃を試みる楓と結梨が、右へ左へと砲口を動かしながらも、良い感じに力の抜けたやり取りを見せる。
一方の夢結はと言うと、最初の二体を撃破した後、空中で体勢を立て直して戦闘を継続していた。宙を自由自在に飛び回るニフテリザに対し、夢結もまた滑空するように飛んで大広間の壁に着地。更にその壁を蹴って滑空を繰り返す。
限られた空間内での芸当とは言え、それはもはや空戦と呼んでも差し支えないものだった。
「限定的な地下空間に、スモール級ではあるものの多数のヒュージ。辺りのマギインテンシティが上昇しているんですわ。それこそ大型ヒュージとの戦闘時並みに」
「楓も空飛べる?」
「できなくはありませんが、夢結様ほど華麗にはいきません。あれは非常に高度なマギ操作技術の賜物ですから」
「そっかぁ」
「結梨さんなら恐らくは可能でしょう。もっとも、わたくしたちが出しゃばる必要はありません。今は援護に徹しましょう」
「分かった!」
最前線にはそぐわない楓と結梨の会話を背中で聞きつつ、鶴紗は前方へ意識を向ける。彼女たちが受け持つ敵も、中々一筋縄ではいきそうになかった。
この実験場が現役で稼働していた頃の名残だろう。人が何人も中に入れる程のコンテナがピラミッド状に積み重ねられている。それらは表面が黒ずみ汚れているが、コンテナとしての機能面は問題ないようにも見えた。
そのコンテナ群の天辺に、タンキエムの砲弾が炸裂する。頂に陣取っていたヒュージを狙ったものだ。
しかし直前に飛び下りていたために難を逃れていた。近くの床に着地したヒュージは鶴紗たちを挑発するかのように、赤く光る前歯を上下に振って見せつけてくる。
「なあ鶴紗、知ってるか?」
「何をですか」
「蝙蝠って昔は
「単に暗い所が好きなだけでしょ」
砲撃を躱されたにもかかわらず、梅は世間話でもするかのように話し掛けてくる。
けれども、それは梅が実戦を軽んじていることを意味しない。仲間や後輩の張り詰めた気を紛らわせようとしているのだ。地上でのアールヴヘイムのやり取りとよく似た話であった。
「梅が回り込んで掻き乱すから、鶴紗は慌てて飛び出した奴から仕留めてくれ」
「了解。梅様、暗いから転ばないでよ」
「はははっ、転びそうになったら夢結みたいに飛んでみるかな」
鶴紗の軽口に笑って返しながらも、梅は前方の敵から目を離さない。
トントン、と床を靴の爪先で叩く音がした。それを合図に、鶴紗から見て左手に立っていた梅が消える。攻撃開始だ。鶴紗も射撃形態のティルフィングATを抱えて前に走り出した。
それから時を置かずして、広間に分散して展開するフィープ・ピープたちが爆煙に巻かれる。首を捻って下手人を補足しようとする鼠型ヒュージだが、上手く捉えることができないでいた。
レアスキル、縮地で射撃位置を頻繁に変えながらの高速移動。命中精度は落ちるが牽制程度ならばそれで十分だった。
一方、鶴紗も自身の役割を果たすべく動く。
梅の牽制砲撃によって堪らず跳躍したヒュージへ、肩に担いだティルフィングから砲弾を放つ。着地のタイミングを狙ったその攻撃は、標的に回避する暇を与えず、灰色の体躯を打ち据え叩き潰すのだった。
側面に回り込んだ梅と正面から前線を押し上げる鶴紗。二人の十字砲火はその威力を存分に発揮していた。
「何体かは分かれ道から逃げていったゾ。残りはあのコンテナの山に隠れてる」
「分かった。今行く」
鶴紗はある程度の距離を取り、横たえられた直方体に、コンテナ群に注意を向ける。
先程の梅の砲撃は山頂部分のコンテナに大穴を穿っていた。穴の周囲も滅茶苦茶にひしゃげている。取り立てて頑丈な物質で作られたわけではないらいしい。
コンテナの中身については、鶴紗はあまり考えたくなかった。場所が場所だけに、詮索しても碌なことにならないのは目に見えている。
それでも目の前に存在する以上、どうしても思考の中にちらついてしまう。そして、そんな僅かばかりの動揺が僅かな隙を生み出した。
「来るゾっ!」
焦りを色濃く滲ます梅の警告が響く。
間合いは十分取っていたはず。梅の支援砲撃を待って、それから確実に仕留めるはずだった。
けれども先に相手が仕掛けてきた。コンテナ同士の隙間から飛び出て、跳躍し、鶴紗の頭上から襲い掛かってきたのだ。
ブレイドモードへの変形は、とても間に合わない。とっさに一発だけ撃てた砲弾は、敵のすぐ横を掠めるに止まった。
鶴紗の眼前で、空中から落下してくるヒュージが牙を剥いた。ファング種最大の特徴にして最大の武器、頭部が裂けんばかりに開かれた大口が獲物を頭から飲み込もうと襲い来る。
「鶴紗!」
「……大丈夫っ、何とか」
梅の声に、どうにか返事をする。ティルフィングを横向きにかざして盾にしたのだ。
不意の危機からは逃れたものの、事態は依然として芳しくない。ヒュージの口をチャームで押し止めた状態で、鶴紗の両手は塞がり、足は相手に押し込まれないよう踏ん張っている。
ほぼほぼ密着しているためヒュージも熱線の類は撃ってこない。しかし少しでも油断すれば、今は宙を空振りしている凶悪な牙が鶴紗の喉笛を切り裂くだろう。少々のことでは死なないと分かっていても、それでも背筋に嫌な汗が流れる。
けれども、鶴紗は自棄を起こさない。
失敗したなら、どうにかして埋め合わせをする。
「そうだ、モーター」
鶴紗は百由に改造して貰った新生ティルフィングを早速活用することにした。マギを操作し、刀身に装着したロケットモーターに火を入れる。射撃形態でも作動できるようにしたことが、まさかこんな形で役に立つとは夢にも思わなかった。
マギの炎を点火されたティルフィングは持ち主に握られたまま翔け始める。モーターが真横を向いているので、宙に飛び上がったのではなく床上を匍匐飛行しただけだが。しかしそれでもティルフィングに噛み付いていたヒュージは早々に振り落とされていた。
コンテナや部屋の壁に激突しないよう、鶴紗はマギを操りモーターの角度と出力を調整する。本来、彼女はこういった細やかなマギ操作は得意ではなかったが、特訓のお陰で様にはなっていた。
鶴紗が旋回を経て、元いたコンテナ群の前に戻った時、フィープ・ピープ型は既に梅の手で倒されていた。
「窮鼠が猫を噛んだなあ」
「うん、油断した……」
「ま、結果オーライ。それより上の方も片付いたみたいだゾ」
梅に釣られて天井の方を向くと、そこにあるのは動くものが夢結しか居ない空間だった。
先程からヒュージの破片らしき物体がバラバラと振っていたため、夢結の八面六臂ぶりは直接目にせずとも伝わってくる。
とにもかくにも、最初の決戦には勝利し、分岐点に居座る敵は排除した。疑念をその場に残したままで。
「やはり解せませんわ」
端末室の外に伸びる廊下にて、神妙な様子の楓がそう呟いた。他に音を立てるものが無い静まり返った地下空間なので、否が応でも声は響く。
廊下には楓を含めて四人が警戒に当たっている。廊下と言っても、そこは巨大地下施設。次元が色々と違う。ミドル級ヒュージが十分活動できる程度には広い。
だが逆に言えば、ラージ級は動き回るのに大分難儀するということを意味していた。
「分かれ道での戦闘以降、敵はまともに攻撃してきません。わたくしたちを見て後退するか、一撃離脱に徹するか。これではまるで消耗戦ですわ」
「追い込まれてる方が消耗戦を仕掛けるのか? ここではケイブも使えないし、増援をすぐには呼べない。奴らからしたらデメリットの方が大きいだろ」
「だから解せないのです。罠にしても、もう少しやり様があったはず。あの特型ならば」
楓と梅が現状について思うところを明かし合う。それは地下空間に侵入した当初から浮かんでいた疑念であった。
梅の言う通り、LGシグルドリーヴァが事前に設置した小型のエリアディフェンス装置によって、実験場近辺のケイブ発生は抑止されていた。なのでこの地下に増援のヒュージが直接出現する可能性は無い。文字通り袋の鼠状態なのだ。
しかしだからこそ、一柳隊は特型の意図を量りかねていた。逃げるなら戦力を集中して一点突破を仕掛けるはずだし、迎え撃つならやはり集中攻撃を仕掛けるだろう。包囲している以上、小競り合いの繰り返しはリリィの側を利する。
それとも地上の包囲を打ち破れるつもりなのか。しかし生憎、地上にはアールヴヘイムが居る。そう簡単に破れるようなものではなかった。
「取りあえずは、ミリアムさんたちのデータ回収を待ちますが」
楓が首を回し、後方にある扉を一瞥してそう言った。現在、端末室にはミリアムと護衛の夢結がデータの回収作業に当たっている。
問題はその後。予定通りに特型の所在を求めて奥に踏み入ることに、一抹の不安がないではない。
だがそれでも、この六人に掛かれば勝算は十分だと思われた。流石に地下にまでギガント級は呼び寄せられないだろう。数に限りがあるのなら、ラージ級以下は夢結や梅、結梨たちにとって難敵ではなかった。
「ねえねえ、鶴紗はヒュージが居なくても空飛べるよね」
「飛んでいるというか、飛ばされているというか……」
「私も百由にグングニルを改造して貰おうかな」
「そこまで楽しいものじゃないけど。割と命懸けだし」
警戒中でも、雑談程度の力は抜く。端末室の前の通路は直線で、遠くに設置式の照明を置いたので視界は利くようになっている。進軍時と違って奇襲を受ける危険は無いだろう。
実際、熱線を浴びる前に敵の接近を目視で確認できた。通路の両側から挟み撃ちの形でフィープ・ピープ型がじりじりと近付いてくる。数は片側三体ずつ。スモール級といえども、通路で一度に多くの戦力は展開できないらしい。互いに邪魔し合って、持ち前の機動力を殺すからだ。
端末室の出入り口を守る四人は二組に分かれて二方向の敵と対峙する。楓と結梨、梅と鶴紗という組み合わせで。
戦端を開いたのは梅のタンキエムだった。腰だめに構えた砲が三点射撃を放つ。残り百メートルまで距離を縮めていたヒュージの足元に、着弾の硝煙が立ち昇った。
するとヒュージたちは槍の切っ先の如く鋭い四つ足を動かし、元来た方へと素早く後退し始めた。
「また、性懲りもなく嫌がらせか」
敵の動きを見て鶴紗は吐き捨てるように呟いた。フィープ・ピープ型は後ろに下がりながらも、赤く光る前歯から熱線や光弾を撃ってくる。だがそれは明らかに牽制を意図したものだった。
リリィたちが深追いせず射撃に徹していると、やがてヒュージたちも後退する足を止めて本格的に応戦し始める。ある程度の間合いを空けて、忽ち激しい撃ち合いが勃発する。
距離を詰めれば、早く決着が付いただろう。だが鶴紗も縮地使いの梅も、そうはしない。あからさまな敵の誘いには乗らなかった。
鶴紗たちと背中を向け合っている楓たちも、それは同じ。必要以上に前には出ていない。
鶴紗と梅、楓と結梨。二つの組を隔てる距離は二十メートルも無かった。
ところがその僅かな隔たりの中で、突然異変が起きる。
「なっ……まずい!」
「梅様!?」
チャームを構えていた左腕をいきなり引っ張られ、鶴紗は驚きと困惑の声を上げる。
梅の不可解な行動の意味はすぐに分かった。さっきまで鶴紗たちが背を向けていた空間に、分厚い壁がそそり立っていたのだ。
縮地を発動しようとして間に合わなかったのか、梅は壁の前で急停止して掴んでいた鶴紗の腕を離す。代わりにチャームで斬り付けたり砲弾を撃ち込んだ。しかし表面を傷付けるだけで、とても破壊できそうにはなかった。
端末室の扉と楓や結梨は壁の向こう側。鶴紗と梅は分断されてしまったのだ。
「梅様、鶴紗さん! そちらはご無事ですか!?」
壁の反対側に居るであろう楓から通信が入る。
だが落ち着いて返事をする余裕は無い。間隔を空けて、更なる壁が天井から下りようとしていたのだから。
梅は鶴紗を抱えて縮地を発動させる。今度は間に合った。
一定の距離ごとに、順々に閉じていく壁。それらを六枚ほど通り抜けたところで梅は足を止める。辿り着いたのは十字路の交差点らしき場所だった。
もう壁が下りてくる様子は見られない。壁と壁の間に閉じ込められる最悪の事態は回避できたが、仲間たちと完全にはぐれてしまった。
「何なんだ、これ……」
「分からない。分からないけど、ちょっとピンチだゾ。さっきのヒュージもいなくなってるし。してやられたなあ」
背後の壁を振り返った鶴紗は唖然とする。
梅も冷静ではあるが、顔の表情は若干硬くなっていた。
「ティルフィングのバスターキャノン、撃ってみますか?」
「止めといた方がいい。対ヒュージ用の隔壁だ。それに、こんな所であまりでかいの撃ち込んだらどうなることやら」
鶴紗の提案は却下された。常識外れに広大ではあるが、ここはあくまでも地下施設なのだ。確かに、まかり間違って崩落でも起きたら堪ったものではない。
「――――さまっ! 梅様!」
「おお、楓か。そっちはどうなってる? 夢結たちとは合流できるか?」
「端末室とは分断されておりません。ミリアムさんの回収作業が終わり次第、こちらは四人で動けます」
通信機から声を響かせる楓は無事なようだった。ただ、少しばかり状況に苛立っている様子。
「ですが、隔壁の突破は控えます。戻ってそちらに繋がるルートを探しますわ」
「それがいい。だけどこっちはこっちで移動するゾ。今ヒュージに囲まれたらヤバいからな」
「そうですわね……。でしたら件の搬入エレベーターの傍で落ち合いましょう。他に合流に適した場所も存じませんし」
「分かった」
目的地が定まると、梅は物言わぬ隔壁に背を向けて歩き出した。しかし通信はまだ終了せず、足を動かしながら口を開く。
「なあ、楓。さっきの隔壁、狙ってたよな」
「当然ですわ。そもそも緊急時の隔壁閉鎖は事前に警告灯やサイレンが作動するはずですが、それがなかった。まず間違いなくあのタイミングを狙ったものです」
「これも罠っていうわけか……」
「皆様、覚えておいででしょう。何時ぞやの、百由様謹製メカヒュージをハックして暴走させたヒュージ。あれと似たようなことができるなら、施設の設備を操れても不思議ではありません」
あの事件なら勿論覚えている。鶴紗は梨璃と共に非番でチャームを所持していなかったため、かなり危うい目に遭ってしまった。厄介な性質のヒュージだったが、百由のサポートと二水の機転によって討つことができたのだ。
「迂闊でしたわ……。このような可能性、考慮に入れるべきでした」
いかにも歯噛みしていそうな楓の声を耳に入れつつ、鶴紗の思考は現状を見つめ直す。
特型が、一度は脱走したこの実験場に立て籠もった理由。勝手知ったる何とやら、ではないが、ここでならリリィを迎え撃てると判断したのだろう。近場にあるネストを避けたのは、いずれ多くのリリィが討伐しに来るからか、それとも鶴紗を狙っているためか。
何にせよ、事態は特型の思惑通りに進んでいるのかもしれない。
「袋の鼠」
腹立ちと空恐ろしさが混ざる中、鶴紗の口からついて出た言葉。それは前を行く梅以外に誰も居ない通路の暗がりへ消えていく。