百合ヶ丘女学院の広大な敷地には緑あふれる豊かな自然がある。校舎周りは綺麗に整えられた庭園みたいであり、奥まった所はちょっとした森のようであった。
よく晴れた昼下がり。学院奥の森付近にある空き地に鶴紗は居た。彼女が屈み込んで見つめている先には、プラスチックの皿から一生懸命キャットフードにパクつく黒猫。一人と一匹はそこそこの付き合いになる。
「お前とも随分仲良くなれたニャー。最初は挨拶しただけで逃げられたニャー」
同じレギオンメンバー以外の者なら目を疑うような光景だった。
鶴紗が奇妙な猫撫で声で、食事中の黒猫に語り掛けているのだ。本人は至って真面目である。
やがて皿の中身が完全になくなったのを確認してから、鶴紗は後ろから黒猫の体を両手でそっと抱え込む。抵抗されないと分かるや否や、そのまま胸の前で抱き締めて、草地の上に仰向けで寝っ転がった。
「にゃにゃにゃにゃー! にゃーにゃー!」
頬を緩めた満面の笑みで喜びの奇声を発する鶴紗。同じレギオンメンバーでも目を疑いかねない光景だった。
一方の黒猫はというと、抵抗はしないが迷惑そうに喉を鳴らしている。人間で例えるなら、諦観の表情といったところか。
一柳隊が真鶴外征から帰還した翌日のこと。今日は講義を朝だけに留め、昼からは休みに当てていた。面倒事を先に済ませる
「鶴紗ー、猫が離して欲しいって」
「にゃ?」
鶴紗の真上に、彼女の腑抜けた顔を見下ろすクリっと丸い瞳。
気が付けば、中腰の結梨がすぐ傍に立っていた。
「結梨、いつからそこに?」
「鶴紗が通じない猫語で猫を困らせてたとこから」
「そ、そう……」
分かってはいたが、改めて言葉にされると少しショックである。
「ていうか、梨璃と夢結様の様子を見に行くんじゃなかった?」
「うん、そうなんだけど。二人から甘い匂いがしたから、気を遣って戻って来たんだ」
「そうか。結梨は偉いな」
「えっへん!」
仰向けの姿勢から上体を起こした鶴紗がそう言うと、結梨は自信満々に小さな胸を張る。
梨璃は今、夢結とマンツーマンで講義の内容の復習を行なっているはず。真鶴での外征中、そんな約束を二人がしたのを鶴紗も耳にしていた。
それにしても、結梨が気を遣うほどの
「ここ気持ち良いねえ。お日様の匂いも木の匂いもよくするし」
結梨が鶴紗の隣に並んでペタンと座る。
すると少しして、周りの草むらや木の陰から何匹もの猫が姿を見せた。いつの間にか近くまで寄ってきていたのだろう。
白色に茶色に三毛に。六匹ほどの猫たちが結梨を囲むように集まった。
結梨はやたらと動物に好かれる。猫は勿論のこと、小鳥や兎や狸や狐など。
ある日、学院の敷地のすぐ外で熊と出くわした時は流石にたまげた。少しばかり可哀そうだが、尻を叩いて近くの山にお帰り頂いた。
ヒュージ出現当初に「小動物が軒並みヒュージ化するかもしれない」と噂された時期がある。それが事実なら、今頃こうして心を癒すこともできなかっただろう。ただの噂で本当に良かったと思う。
「…………」
それはともかく、猫まみれの結梨に悔しさと羨ましさを覚え、鶴紗は胸元で抱き抱えている黒猫をじっと見つめる。そうして自身の顔に近付けると、その匂いを嗅ぎ始めた。
クンクンクンクン――――
結梨にちょっとでも近付こうと思って。
しかしそんな鶴紗の手の中を嫌がったのか、黒猫は結梨の方へ逃げてしまう。
「鶴紗、そんなに一生懸命嗅いでも洗ってない猫の匂いしかしないよ?」
「洗ってない猫なんだから、洗ってない猫の匂いがするのは当然だ」
「ふーん、そっかー」
取り留めの無いやり取り。
その間、結梨は寄って来た猫たちの頭や背中を両の手で撫でていた。最初は興味深げに熱心に。
ところが、ふとした瞬間の後、彼女の瞳はどこか遠いところを見ていた。
「ねえ、鶴紗。動物が私に懐いてくるのって、やっぱり私が人と違うからかなあ」
「……どういうこと?」
「ヒュージの細胞って色んな動物の情報を持ってるんでしょ。講義で習ったよ」
そんなことを言われても、鶴紗はあまり驚きはしなかった。
出会った頃こそ生まれたての赤子みたいだった結梨だが、教わったこと経験したことを見る見るうちに吸収していったのだ。それこそ水に浸したスポンジの如く。
彼女は決して実年齢通りの子供ではない。仕草や性格が子供っぽいのは、また別の話であるが。
もっとも、結梨の内にあるヒュージ細胞は既に活動を完全に停止している。間違いなく彼女は人と断言できる。生物学的に。
けれども結梨が思い巡らしているのは、そういうことではないのだろう。何となく鶴紗にも察せられた。それ故、下手に小難しく考えず、直感的に思ったままを結梨への答えとする。
「でも、私だって他の人とは違うけど、動物があまり懐いてくれない。だから関係ないと思う。それに猫に纏わりつかれているヒュージなんて、見たことも聞いたこともないし」
「そっかぁ」
納得したのかしてないのか、傍目には分からない。だが結梨はそれ以上この話題を続けなかった。
暫くすると、結梨が立ち上がってスカートの土を手で払う。
「そう言えばこの後、
「広夢って、ローエングリンの
どうやら結梨の交友関係は鶴紗が思っている以上に広いらしい。
聞くところによると、彼女の保護者の梨璃も、レギオンを作る際にいつの間にかメンバーを増やしていたのだとか。かく言う鶴紗もそのメンバーの一人なのだが。
「子は親のするように育つ」
「えっ、なに?」
「何でもない」
誤魔化しつつも、将来結梨も自分のレギオンを作ったりするのだろうか、などと気の早いことを考える。しかしそうなると「梨璃が大騒ぎするな」と想像し、密かに笑みを浮かべる。
そんな鶴紗に結梨が一旦は背を向けた。ところが、ふと思い出したかのように振り向いて、鶴紗の赤い瞳をジッと見つめてから口を開く。
「前に皆と話してたんだけど。家が近い子はお休みの日、たまに帰ってるんだって。鶴紗は帰らないの?」
「ああ、結梨には言ってなかったな。私には家も家族も、もう無いから。だからここに居るよ」
「そっか」
結梨は詮索などせずに、別れの挨拶をしてからこの場を離れていった。彼女には他意などないのだろう。
結梨がいなくなると、鶴紗は一人になった。猫たちは草むらの奥へと消えたため、今度は正真正銘一人である。
不意に、吹き荒んだ風に頬を撫でられると、一人であることをより強く実感させられた。
一人。
この時間にこんな場所に来る人間はそうそういない。
そのはずだったのだが。
鶴紗の背後、鬱蒼とした茂みがガサゴソとざわめき、緑の中から小さな緑のツインテールがひょっこりと顔を出した。
「何で市街?」
彩り溢れる花壇と広葉樹が連なる並木道で、前を進む背中に向けて鶴紗が呟いた。
由比ヶ浜の駅から電車に揺られてやって来たのは鎌倉市街。どうしてこうなったのかというと、「暇なら遊びに行くゾ」と突然先輩に連れ出されたせいだった。
学院への外出届は出してある。出した傍から受理されたのは、行先が鎌倉の街だったからだ。市を跨いだり鎌倉府の外だったりすると、流石にこうもあっさりとはいかないだろう。
余談だが、昔は鎌倉市街と言えば鎌倉駅周辺を指していた。しかしそこは現在ヒュージとの戦闘の余波で廃墟同然と化している。よって今ではそこから移転してきた新市街を指すのが普通であった。
「こうでもしないと、街に来ることなんてないだろー?」
「まあ、そうですけど」
前を行く梅が振り返って事も無げに答えた。
百合ヶ丘のリリィが街へ遊びに行くといったら、それは大抵の場合鎌倉の街を指す。遠出をしようと思えば横浜や横須賀、あるいは更に遠くの東京になるのだろう。しかし距離的にも手続き的にも気軽なので、すぐ傍の地元を選ぶケースが数的にはずっと多い。
そういう事情があったので、昼間から制服姿で街に繰り出しても人の目を集めなかった。百合ヶ丘の黒い制服を、鎌倉市民も見慣れていたからだ。
「梅様は何か用事でもあるんですか?」
「いや、特には無いな。けど外征から帰って次の朝から講義だろ? 気晴らしでもしないとなあ」
「梅様、二年の割には単位かつかつだな。去年何してたんだか」
「あーあー、聞こえな~い」
両の耳をそれぞれ手で塞いでわざとらしく声を張る。そうして梅はスタスタと歩くペースを上げるのだった。
鶴紗はどちらかと言うと、人混みが苦手である。人と話すこと自体は嫌いではないし、一柳隊の賑やかな雰囲気も好きではあるが、あまりに混み合うような場所は正直息苦しい。
当然、市街全てに人が溢れているわけではない。中心部から離れるに連れ、雑踏音が減じて閑静な様相を呈してくる。
今、梅と共に歩いているのは、まさにそういう比較的落ち着いた雰囲気の空間だった。大通りの並木道から外れ、小川に沿った小さな道。道路も周りの店舗も小振りだが小綺麗な印象を受ける、そんな場所。
「遊びに行くって張り切ってたくせに、気を遣っちゃって」
わざと聞こえないような小声で零してから、鶴紗は梅の背中を追いかけた。
「梅ちゃんよく来たね~! ゴマみたらしも一袋おまけしちゃうよ」
「おばちゃん、いいのか?」
「この前片付け手伝ってもらったから、そのお礼。そっちの可愛いお友達と一緒に食べなよ」
「やった! ありがとなー!」
「ここのコーヒー屋は穴場なんだ。前に迷子を捜してた時に偶然見つけたんだよ」
「梅様、そういうことばかりしてるから単位がきついんじゃあ……」
「でも美味いだろ?」
「……梅様のコーヒーの方が好きかな」
「鶴紗は甘党だなあ」
「この街外れの木の枝にだな、こうしてミカンを刺しておくと、メジロが一杯飛んで来るんだゾ」
「……カラスしか来ないんだけど」
「あれー?」
暫くの間、半ば行き当たりばったりで歩き回っていた二人だが、川縁にある小さな公園で一休みすることにした。
砂場と滑り台と鉄棒と、あとは小さなベンチが三つばかりの、こぢんまりとした公園。その中の隅っこにあるベンチに並んで腰掛け、鶴紗は梅のお喋りに付き合っている。
「皆は梅のことサボり魔だのなんだの言うけど、取れる単位を全部取ってる夢結の方がおかしいんだ。あとの時間何するっていうんだよ」
「そうっスね」
「それに、的の全く同じ場所に砲弾何発も撃ち込むとか、わけが分からん。夢結を基準にするとおかしくなるゾ」
相槌を打つ合間、透明なカップに入ったコーヒーに口をつける。時間が経っているため若干冷めてるが、猫舌の鶴紗にとってはちょうど良かった。
「また飲んでるのか。本当にコーヒー好きだな、鶴紗は」
「まあ、好きですね」
自分では指摘されるほど飲んではいないつもりだった。が、客観的に見ると人より多く飲んでいるらしい。
どうあれ好きなのは事実なので、そこは肯定しておく。
「昔、父さんが飲んでたコーヒーが気になってしょうがなかったから、隠れてこっそり味見したことがあった」
「それで、美味かったのか?」
「苦かった」
「あははー。そりゃ甘いの飲みたくなるわけだ」
思い出補正とでも言うのだろうか。幼い時分に体験した内容は後々まで影響し得る。良きにつけ、悪しきにつけ。
「そういう梅様はコーラとかよく飲んでるな」
「好きだからなあ。でも、夢結がよく『体に悪いから止めなさい』って説教してくるんだ。まったく心配性だよな。世界中の人間が飲んでるんだから、そんな悪いものじゃないだろう」
「その考え方もどうなんだ」
「いや、本当心配性なんだ。梅が肉料理ばっか食ってる時も――」
話している内に、鶴紗は自身の身に異常が起きていることを自覚した。
体の内が重い。
正確には、心臓の辺り。
やがて、それは実体を伴う重さではなく、心の重さなのだと気付く。原因はすぐに分かった。
「梅様、さっきから夢結様のことばっかりですね」
「へっ? そうでもないだろ」
「そうでもありますよ」
鶴紗の中で「これ以上言うな、言ってどうする」という声と「言ってしまえ、言わなきゃ分からない」という相反する声がせめぎ合う。
理性と感情。期待と不安。それらがない交ぜとなった結果、浮き出てきたのは停滞を守ることではなく、変化への欲求だった。
「そんなに気になるんなら、夢結様を誘えばいいのに」
「……あ~、それはできないだろ。邪魔しちゃ駄目だ」
「邪魔って、梨璃がいるから?」
「そうだゾ。今頃きっと、勉強会にかこつけてラブラブに違いない」
そう言って梅が笑う。
鶴紗にはその笑みが、無理に作られたものに見えた。実際のところは不明だが、一度こうと決めたら何でも疑わしく思えてしまう。
だから鶴紗は前へと踏み込んだ。
「梨璃に気を遣って遠慮してるんですか」
「言っただろ? 梅はこう見えて結構繊細なんだ。色々と気を遣ってるんだゾ」
「私にも、もっと気を遣って欲しい」
我ながら、子供の我がままみたいな物言いだった。今でも梅に気を遣われていると分かってはいた。
それでも鶴紗は欲を出す。我らが一柳隊リーダーの影響かもしれない。彼女の我がままで今の鶴紗があるのもまた事実なのだが。
一方、そんな鶴紗を前に目を丸くする梅。しかし瞬きの後、すぐにいつもの調子に戻る。
「勿論、鶴紗も好きだゾ! 梅は皆のことが好きだからな」
「皆が好きってことは、夢結様も好きなんでしょ」
「ん、まあ……ってか話が戻ってないか?」
「だったらやっぱり、夢結様に声を掛けるべきじゃないですかね」
梅がいつもの調子から、今度はだんだんと困った顔になってきた。
いっそのこともっと困ってしまえと、鶴紗はある意味開き直った心境になる。そうなれば少しは本音を聞けるだろうと目論んで。
「でも鶴紗は自分に気を遣って欲しいんだろ。なのに夢結に声掛けろって……」
「だからこそ、ですよ。このままはっきりしないのはモヤモヤする」
「どうしてだ?」
「何か、嫌だ」
梅の口にする
何せ鶴紗にとって、この感情はほとんど未知のものだったから。家族に対する気持ちとも別物だろうから。
「う~~~ん、単純に夢結も皆も同じぐらい好き、でよくないか」
「じゃあ、もし仮に夢結様が梨璃に同じこと言ったら?」
「……うわぁ、凄く嫌だな」
「でしょ?」
自分で言い出しておいて何だが、そんな光景は想像したくない。
梅も同感だったらしく、顔をしかめて舌を出した。
「あ~、うん、今日のところは夢結との話は保留ってことで」
「今日は?」
「そうだ」
「ふーん。まあ、いいですよ。梅様が夢結様に告白してフラれる日を待ってるから」
「酷くないか?」
台詞とは裏腹に、後輩の失礼な言葉にも意を介さないかのような、梅の屈託の無い笑み。
もしかしたら、梅には初めから屈託など無かったのかもしれない。鶴紗があると思い込んでいただけで。
分からない。いつも皆に見せている姿が本当の彼女なのか。分からないから、知りたいと願う。
「だいたいなあ。今は鶴紗とデートしてるんだから、この話はいいだろう」
「何言ってるんだか。デート中に他の人の話をして。無意識ですか」
「うっ、それは悪かったよ。お詫びに良い所に連れてってやるからさ」
「良い所?」
首を傾げる鶴紗を見て、梅は自信ありげに胸を張る。
「ペットショップだゾ! ここより人の多い街中になるけど。猫の餌は勿論、玩具とか一杯あるから良さげなのあったら買ってやろう」
「そんなことじゃあ誤魔化されない」
「行かないのか?」
「行きます」
それとこれとは話が別だと言わんばかりにベンチから立ち上がる鶴紗。梅の顔を見て「早く行こう早く案内してくれ」と目で訴える。
すると梅はゆっくりと腰を上げた。こちらも「やれやれ」と目が語っているようだった。
そうして二人は公園を後にしようと歩き出す。
「そう慌てるなって。梅より先に行っても場所分かんないだろ」
「梅様は本当、この街に詳しいな」
「勝手知ったる何とやら、だな。鶴紗もたまには街に来るんだゾ」
人混みも街の喧騒も、やはり好きではない。
けれども今日みたいな日があるのなら、本当にたまになら、足を運んでみても良いと思えた。