最強ノ一振り   作:AG_argentum

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いざ!ボーダー・玉狛支部へ

「ここが玉狛支部……ですか」

 

 河岸から掛けられた橋の丁度真ん中に位置する三階建ての建物を見上げるようにして来栖は呟いた。

 

「元々は川の何かを調査するために建てられた施設をボーダーが買い取って基地にしたんです。どうですか、響さん。ウチの支部は」

 

 林藤の運転するジープの助手席から降りてきた迅が来栖へ基地の感想を求める。ちなみに林藤は今そのジープを収容しにここからは離れていた。

 

「ボーダーの支部っていうからもっとこう、黒色の建物ってイメージだったんですけど。ここは全然ですね」

 

 本部があのような独特な(なり)なのだ。恐らく支部もそれに準じているのだろうと勝手に思い込んでいた来栖からすれば玉狛の外見は拍子抜けすぎた。一言で表すなら平凡。立地が特殊で所々塗装が剥げてレンガがむき出しになっているが古めの建物として市街地に溶け込める外見だ。

 

「ボーダーの支部は此処を含めて六ヵ所ほどありますけど、どこも普通のビルを借りて運営してますよ。準備はいいですか? 響さん」

 

「ちょ、ちょっと待って」

 

 木製のドアに取り付けられたドアノブに迅は手を掛けながら、後ろに控えた来栖に確認をとり、来栖はそれに待ったをかけた。

 

 秋の暮の水辺で冷やされた空気が来栖の肌に染み渡る。それが気持ちいいと思えたのは自身の体温が僅かに上昇しているからだと理解するのには時間を要さなかった。そして何故体が火照ってしまっているのか。これも既に原因は分かっている。不安から来る緊張。それが来栖の鼓動を早めていた。

 

 一体どのような人物が待っているのか。自分を玉狛の人間はどう思っているのか。

 先ほどの林道の話では過去の自分とここの隊員とは派閥上、敵対する関係であった。だからこそ玉狛の隊員とうまくやっていけるのかと不安を抱いてしまう。

 

「大丈夫ですよ」

 

「えっ?」

 

 気遣われるほど顔に出ていたのか。唐突の迅の一言に来栖は呆気に囚われてしまう。しかし迅は気にせず言葉を紡いだ。

 

玉狛(ウチ)の連中は強いですから。来栖さんの心配することなんて容易に受け止めますよ」

 

 迅の優しい声に来栖は核心を的確に当てられたことに心臓が飛び出しそうになった。

 だがその発言が、来栖の心の不安を一瞬にして拭い去る。

 

 この人にはかなわない、と来栖は息を深く吐いた。世話になりっぱなしだ。これでは今後この人に足を向けて眠れないではないか。

 

 荒れた鼓動が落ち着きを見せ始める。

 そうなるまでに迅の言葉を来栖は信じ切っていた。

 

「おし!」

 

「気合いは十分、みたいですね」

 

「はい、大丈夫です」

 

 川のせせらぎに紛れそうな静かな、けれど覚悟を決めた来栖の声に迅は笑みを浮かべる。

 

「それじゃ、入りましょうか。ただいま~」

 

 迅は手を掛けたままだったドアノブを引き、続くように来栖が玉狛支部に入って行く。

 

 さあどんな人物がいるのか。来栖がはじめに発見した第一ボーダー玉狛支部隊員は何と……。

 

「カピ……パラ?」

 

 そう、カピパラであった。

 塗装もなされていないむき出しのコンクリート床の冷たさを堪能するようにカピパラが気持ちよさそうに寝そべっている。その上に年端もいかない幼子が一人、器用に鼻ちょうちんを膨らませて寝ていた。

 

 どうしてカピパラがここに? 飼っているのか? そもそも飼えるのか? そもそもなんでカピパラ? 普通飼うなら犬とか猫じゃない? 

 テレビの動物番組、もしくは動物園でしかお目にかかれないようなカピパラの登場は来栖に多大な混乱を与えた。

 

 そんな来栖の混乱をよそに迅がカピパラ&幼子へと近づいていく。

 

「おい陽太郎。もう昼前だぞ。さっさと起きろ」

 

「むにぁむにぁ。……ぬお、迅? おかえりだ」

 

「ただいま。昨日夜更かしなんてするからだぞ」

 

 迅は呆れた様子で陽太郎を軽くゆすり、膨らんでいた陽太郎の鼻ちょうちんはパン! と盛大に音を立てて弾けた。

 迅によって起こされた陽太郎はまだ少し眠いのか両目をごしごしとこする。

 

「陽太郎、今誰かいるか?」

 

「レイジとこなみはかいものにいったぞ」

 

「宇佐美と京介はどうした?」

 

「とりまるはばいとをしにまちへ。しおりちゃんはきがえをとりにいえへかえりました」

 

「京介とは入れ違ったか。それと陽太郎、昨日なんか読んだのか? しゃべり方が随分と芝居がかってるぞ」

 

「そうだぞ、こなみにももたろうをよんでもらった。やはりおれのらいじん丸はさいこうだな! ところで迅。そいつはだれだ? しんいりか」

 

 桃太郎の話のあたりで随分とテンションが上がった陽太郎が迅の後ろで控えている来栖と目が合った。

 

 来栖は膝をついて陽太郎と視線の高さを合わせてから口を開いた。

 

「えっと。初めまして、かな?」

 

「はじめましてだぞ。へんなしつもんをするな、おまえ」

 

 こんな小さな子なら以前会っていても憶えていないかな、とも思いつつ念の為に質問してみたが杞憂に終わる。この子は以前の来栖響とも面識がない様であった。

 

「こら陽太郎、年上だぞ」

 

「おぶっ」

 

 陽太郎のヘルメット越しに迅が軽いチョップを決める。

 微笑ましい様子に来栖はにっこりとほほ笑んだ。随分と仲が良いようだ。今の一幕だけでそう思える。

 

「なら、自己紹介をしないとね。俺の名前は来栖響。君の名前教えてくれる?」

 

「これはどうもごていねいに。おれのなまえはりんどうようたろう。はえある玉狛しぶのかくしだまだ」

 

「そっか、それじゃあこの子の名前は?」

 

 名前から察するに林藤の親族か。大した疑問も持たず来栖は納得し、自己紹介の流れで陽太郎が騎乗(ライド)している触り甲斐のありそうなカピパラを撫でようと手を伸ばすがその一歩手前で陽太郎が手を突き出し待ったをかけた。

 

「こいつのなまえはらいじん丸。おれのきょかなくあいぼうにさわることはだんじてゆるさん」

 

「ご、ごめん」

 

 すぐさま伸ばしかけた手と溢れそうな欲求を引っ込めて謝る。確かに迂闊だったと後悔する。飼い主の許可なく触ろうとしたのは完全に来栖の落ち度だ。

 

 でも仕方ないのだ。触りがいがありそうなこの雷神丸とやらの魅力が悪い。

 その昔、妹と共に父に犬を飼う事をせがんだが母が動物アレルギーであったためにその夢は実現しなかった。それ以来、来栖響は動物には目がないのだ。特に触りがいがありそうなやつには。

 

「改めてなんだけど触っちゃだめ?」

 

 両手を合わせながら飼い主たる陽太郎に頼み込んでみる。

 

「いいぞ」

 

「あっ、いいんだ」

 

 来栖のお願いにあっさりと陽太郎は頷いた。

 

 陽太郎は雷神丸に“伏せ”の姿勢を命じる。どうやら自分が乗っていたままでは撫でにくいだろうと雷神丸から降りてくれるつもりのようだ。雷神丸は渋々といった様子ではあるが飼い主である陽太郎の指示に従い、来栖が初めて雷神丸を見た時のように床に寝そべった。

 そうして床に降りた陽太郎はどうぞと言わんばかりに雷神丸へ掌を差し出す。

 

 それをもって来栖はやさしくゆっくりと雷神丸を撫で始めた。

 

「お、おぉ~」

 

 素晴らしい。思わず来栖は感嘆の声を漏らしてしまった。なんだこの柔らかさは。なんだこの温かみは。こんなにもカピパラは素晴らしい生物だったのか。これならば陽太郎が眠りこけたのにも頷ける。病みつきになりそうだった。

 撫でられたのが気持ちいいのか雷神丸の目がわずかにおっとりとし始める。来栖はその変化に目敏く反応し、さらにさらにと両手でモフる。

 

 陽太郎は自慢の相棒の横でそうだろうそうだろう、としきりに頷いていた。

 

 そして迅は来栖にこんな一面があったのかと驚いた様子を見せ、玉狛に入る前の緊張感は何処へやら。来栖のリラックスした表情からアニマルセラピーって凄いんだなと実感していた。

 

「あっ」

 

 そんな声を迅があげると同時に彼の額に冷汗が一粒伝った。視えてしまったのだ。あまり良くない未来が。先んじて言ってしまえば来栖が何故か落ち込んでいる未来が。

 

 まずい、このままではいけない。この人のそんな表情は見たくないのだ、と迅はすぐさまアクションを起こした。

 未来変更のポイントは恐らくではあるがただ一つ。この目の前で一心不乱に雷神丸を撫でまわしている人物を落ち着かせ、自然体に戻す事。そうすればこの未来は回避できる。

 

「あの響さん。そろそろ雷神丸撫でるのやめてませんか?」

 

「いや、もうちょっとだけ触らしてください。迅さん」

 

 任務失敗。声を荒げながら来栖は返答した。

 

 今の来栖にはそんな交渉は暖簾に腕押しのようなものだった。

 いや諦めるなオレ、と迅は再び来栖に交渉を試みる。

 

 大丈夫だ。未来の確定まであと一分程度は時間があるはず。こうなったら仕方がない。小南に後でウダウダ言われるだろうが背に腹は変えられないのだ。

 

「あの、響さん。いいとこのどら焼きがあるんですよ。良かったら一緒に食べませんか?」

 

「……」

 

 無視である。迅の文字通りの甘い誘惑に来栖は一切反応する事なく、雷神丸をモフリ続けている。

 

 迅は思わず叫びたくなった。

 これだからこの人の()()はタチが悪いのだ。

 

「じん! いいのかどら焼きをくっても! レイジに怒られないか」

 

「陽太郎、頼むから今は黙っててくれ」

 

 釣るつもりの無かった人間が釣れてしまう。

 こうなったら仕方がない。強硬手段に出るとしよう。

 

 そう決意して彼の元へ一歩踏み出そうと決めた時に先ほど迅と来栖が入ってきたドアが大きな音を立てて勢いよく開けられた。

 

「ちょっと迅! あんた昼過ぎまで本部に用事でいるんじゃなかったの。せっかく昼の当番変わってあげたのにどーゆうことよ!」

 

「帰ってきたぞ迅。林藤さんから聞いたが会わせたいというのは一体誰だ」

 

「たっだいま~。陽太郎、今日のおやつはいいとこのケーキだよ~」

 

「えっ?」

 

 大きな物音に来栖は雷神丸を撫でる手を止めてしまう。予想外の出来事に来栖の体はその姿勢のまま硬直してしまった。

 

 これか、と迅が天を仰いだがもう遅い。

 

 一番最初に入ってきた女性と来栖との目が合った。女性はえっと声をあげてからまるで狐に化かされたかのような、信じられないものを見るようにまざまざと来栖を観察する。

 

 そして一言。女性はお構いなしに来栖に言葉を投げた。

 

「うそ、来栖さん?」

 

 どうやら彼女は。来栖響の知り合いらしい。 

 

 =======

 

 見られた。初対面の人に。あんな恥ずかしい姿を。一応書類上は21歳の人間が我を忘れて動物をこねくり回している姿なんてキモイことこの上ないだろう。少なくとも来栖はそう思った。大体、モフラー、モフリストのような癖は他人にはひた隠しにすべきもの。そう妹から口すっぱく言われてたのに久し振りのモフりがいのある動物に胸を躍らせてしまったのが来栖の運の尽きだった。

 

 人目をはばかる必要がないのならば来栖は今すぐにでも頭をかかえてのたうち回りたかった。

 無論はばかった為、そのような気狂いは起こしこそしなかったが来栖は来客用のソファに頭を抱えながら腰掛けており、その真正面には先ほど遅れて入ってきた林藤によって紹介された木崎レイジ・宇佐美栞・小南桐絵らが来栖を珍しいものを見るかのように凝視していた。

 

 唯一来栖と多少面識がある迅は昼食づくりの真っ最中。ちなみに昼食はチキンカレーらしい。カレーのスパイシーな香りがここまで届いていた。

 

「まあなんだ、来栖。あんまり気にすんな」

 

「いや無理です。羞恥心で死ねます。つか死にたい」

 

「いやいやせっかく生きてたんだから死にたいとか言うな。ほんと」

 

 誰がどう見ても今の来栖は目に見えて落ち込んでいる。林道がフォローしてみるがあまり効果はなさげだった。

 

「しかしまさか記憶喪失とはな」

 

 来栖の隣に座った林藤によってここ1か月の来栖について説明がなされ終えた今、その目の椅子に座らずたち続けている木崎レイジが会話の火ぶたを切った。

 

「ねえ、ほんとのほんとに来栖さん? あたしの知ってる来栖さんってもっと怖いイメージなんだけど」

 

「はい。ほんとのほんとに来栖響です。えっと、小南さん。そんなに過去の俺のイメージとかけ離れてるの? 今の俺って」

 

「……。ねえうさみ。悪いんだけどほっぺつねってくれる? あたしなんか夢みてるみたい」

 

「大丈夫だよ~。夢じゃないから」

 

 とは言ったものの小南の隣にいる宇佐美が少し強めの勢いで小南の餅のように柔らかい頬を引っ張る。その痛みに小南が耐えきれなくなって目を細めたあたりで宇佐美は手を離した。

 

「痛い! てことはやっぱり本物! うそ⁉︎」

 

「本物だよ。どんだけ疑ってるのさ」

 

「だってあの! 強くなることにしか興味が無さそうなあの来栖さんが! 雷神丸触ってるなんて信じられないわよ!」

 

「ゔっ」

 

 小南の叫びは来栖のいま一番触れて欲しくないところに的確なブローを打ち込む。

 

「ん~。だけどアタシも来栖さんとはあんまり面識ないけどイメージとは違ってたな~。もっと来栖さんってあんなとこ見られてもノリで何とか乗り切っちゃうようなイメージだったし」

 

「いや流石に初対面の人の前でそんな太々しく居られないですよ。宇佐美さん」

 

「あはは〜、だよね。あっ、敬語の方が良いですか?」

 

「いや別にいいですよ。そんな気使ってくれなくて。むしろ俺が敬語使うべきですかね」

 

 宇佐美の態度に即座に来栖は首を振って遠慮した。

 

「それじゃああたしのことは小南先輩って呼びなさい! いいわね、えっと。ヒビキ!」

 

「小南、おまえ……」

 

 小南は急に立ち上がり、意気揚々と来栖へ指図するがレイジが呆れたものを見るような視線を向ける。

 

「な、なによ。レイジさん! だってあたしの方が来栖さんよりずっと前からボーダーにいるし、今の来栖さんからすればあたしの方が年上じゃない。それに……」

 

 途端小南がムキになるが徐々に弱弱しくなっていく。

 はぁ、とレイジはため息を一つ吐いた。

 

「来栖、小南のことはおまえの好きに呼べ。一応、以前のおまえは小南、と呼び捨てだった。俺のことも好きに呼べ」

 

「アタシのことも好きに呼んでくださいね。来栖さん」

 

「それじゃあよろしくお願いします。えっとレイジさんに宇佐美さん。それに、まあ小南先輩」

 

「まあ、って何よ! まあって」

 

「小南~! 騒いでるんだったらカレーの容器出すの手伝ってくれ」

 

「あっ、俺手伝いま~す」

 

 キッチンのほうでカレーを作り続けていた迅が騒がしくなった客間に一声かける。

 これ幸いと来栖は小南からの言及から逃げるために素早く立ち上がり、急ぎ足で迅のいるキッチンへと向かって行った。

 

 =======

 

「ねえボス」

 

 小南は来栖がキッチンに隠れ切ったのを確認してから口を開いた。

 

「来栖さんにはどれで伝えてんの?」

 

「……。1番で話は通してある」

 

「そっか。わかった」

 

「小南。宇佐美のいる前だぞ」

 

「わかってる。でも遅かれ早かれうさみにも口裏は合わせてもらわないと」

 

 小南はレイジの苦言にバツの悪そうな顔をしてしまう。

 小南らの発言に宇佐美は天を仰ぐような仕草でおどけてみせた。

 

「あちゃ~。やっぱり聞いてた話と違うからあれっ、て思ったけど」

 

「悪いな、宇佐美。黙って聞いてもらって」

 

 宇佐美の言葉に林藤は申し訳なさそうな顔をしてしまう。

 

「いえいえ~。でも、説明はしてくれるんですよね。ボス」

 

「ああ」

 

 宇佐美のいつにも増した真剣な声が言う。

 

 嘘は許さない。暗にそう告げていた。

 

「皆さ~ん。カレーの用意できました~!」

 

 キッチンのほうから来栖の声が聞こえてきた。

 

「宇佐美。昼飯終わったら俺の部屋に来てくれ」

 

「あいあいさ~。さっ、行こ!こなみもレイジさんも!」

 

 普段通りの明るい返事を宇佐美が返す。そのままの元気で宇佐美は二人を引き連れダイニングへと向かって行くが林道は向かわず、階段を上っていきそのまま姿を消していった。

 

 =======

 

 来栖はガラスのコップに入った水を盛大に飲み干しカラン、と入っていた氷が小気味良い音を立てた。

 

「ご馳走様でした」

 

 額についた汗を拭い、米粒がひとかけらも残ってないカレー皿に手を静かに合わせる。

 

 旨かった。抱いた感想はそれだけだった。

 何もカレーを初めて口にしたわけでは無い。記憶のあるこの16年間でもカレーは数えきれないほど食ってきたし、記憶のない2年半も食してきただろう。しかし旨いとこれほどまでに思えたカレーは初めてだった。病院の味気ない料理をしばらく口にしていたのも要因ではあると思うが。

 

 語ろうと思えばいくらでも語れる。

 ジャガイモのほくほくとした食感。ニンジンの仄かな甘み。チキンからあふれ出る肉汁の旨味。カレーのルーの鼻を突き抜ける辛味。それをマイルドにするホカホカ白米。添えられた福神漬けは自家製だろうか。市販では出せないような複雑な味わいだ。どれもこれも至高といって差しつかえなかった。

 

 可能ならばお代わりをしたかったのだがいきなりそんな量を食えば変調をきたすだろうとレイジに咎められ協議の結果。半皿分までなら良いとお許しを頂き、それも食し終え背もたれに体を預けていた。

 

「マジでうまかった」

 

 誰に向けたわけでもない。強いて言うなら今は此処にいない迅にだろうか。さらっと来栖から漏れ出た独り言は向かいに座っていた小南の顔を懐疑なものへと塗り替える。

 

「ねえ、ほんとに来栖さん? あたし来栖さんからそんな一言が出ることが信じられないんだけど」

 

「信じられないんならさっきの宇佐美さんみたく頬引っ張りましょうか。そも、小南先輩が過去の俺にどんなイメージ抱いてるか甚だ疑問です。普通に言うでしょ、旨いの一言ぐらい」

 

 ボスに用事があると言って食べ終わったら直ぐに2階にあるというボスの執務室へと迅と共に急ぎ足でいなくなった宇佐美の名を借りて提案する。

 

 にしてもボスももったいないことをする。こんな美味しいカレーを後で食べることになるとは。いや、ひょっとして自分が来たことで急ぎの用事が出来たとか? もしかして宇佐美さんや迅さんも同じ理由で? 

 

 途端に申し訳なさで来栖の胸がいっぱいになった。

 

「来栖。残念だが小南のそのイメージはあながち的外れとは言えないぞ。現に俺も以前はお前から旨いの一言が聞けるとは思っていなかったからな」

 

「え? どういうことですか、レイジさん」

 

 キッチンで皿を洗っている、あり得ないと思っていた人物からの援護射撃。過去の自身の事柄という事で自然に姿勢が前がかりになってしまう。

 

「一言でいうなら以前の、一時期のお前は食という文化に唾を吐いているようなものだった。週に二回程度はまともな食事を摂っていたようだがそれ以外の日は全て三食ゼリー飲料とサプリで賄う。旨さより効率性を重視したような生活だった。そんな人間から旨いの一言が聞けたときは随分と驚いたものだ」

 

「それは木崎さん流のジョークかなんかですか?」

 

「事実だ」

 

「事実よ」

 

 バッサリと、レイジと小南は来栖の発言を否定する。からかって言っているとは思えないほどの真剣さだ。

 

 ホントなのか? いやでもそんな人としての破綻しかけている人間がいたとすれば、来栖自身も先ほどの小南同様、信じられないといった言葉を発せざる負えないのではないのだろうか? 

 

 過去の自分はどんな人物だったのか? 来栖の胸中に不穏な影が芽生えた。

 

「来栖」

 

 熟考に入りかけた来栖にレイジが反射的に声をかける。このタイミングで声をかけなければこいつの癖が出てしまうだろう、と同年代で迅よりも元から関わりがあったことが功を奏した。

 

「今晩、お前の歓迎会をやろうと思っている。お前の好きな料理は何だ?」

 

「歓迎会ですか? いやっ、いいですよそんなの。わざわざしてくれなくても」

 

「気にするな。今晩の料理をどうするかと決めかねていたときにお前が来た。それだけだ」

 

 嘘だ。来栖は言葉にこそ出さなかったが断言した。

 陽太郎が買い物に行っていると言っていたのもあるし、聡明そうなこの人が今晩の献立を考えあぐねているとは到底思えない。

 

「くるす、焼肉だ。焼肉と言え」

 

「陽太郎、何。急に」

 

 カレーをやっと食べ終えた陽太郎が来栖の袖を引っ張り、こそりと自分の要求を告げる。

 

「むっ、くるすは焼肉が嫌いか?」

 

「いや嫌いじゃないけど。むしろ好物だよ?」

 

「なら決まりだな」

 

「え! いや待ってくださいレイジさん。そんな豪華なのは自分には勿体無いですよ」

 

「遠慮するな。おまえの退院祝いも兼ねればむしろ豪勢にいくべきだろう」

 

 どうやら今晩の料理は焼肉に決定らしい。隣にいる陽太郎が良くやったと言わんばかりにサムズアップでアピールする。

 

 やれやれ、今日は随分と豪華な取り合わせだ。抑えきれず来栖は笑みを浮かべる。

 

 その笑みにつられるようにレイジもまた口角が密やかに持ち上がった。陽太郎が食べていたカレー皿を洗い終え、いそいそと玄関へと向かう。

 

「買い出しに行ってくる。小南、陽太朗。来栖を頼んだ」

 

「うむ、まかせておけ。レイジ」

 

「ちょっとレイジさん! 頼んだって何すれば良いのよ」

 

 ドアノブに手をかけ後一歩の所でレイジの足が止まる。振り向かず、いつもの調子で言った。

 

「宇佐美に聞け」

 

「はぁ?」

 

「おっ待たせ〜。呼ばれた気がしたから降りて来たよ〜」

 

「後は頼んだぞ、三人とも」

 

 まるで狙い澄ましていたかのようにタイミング良く二階から宇佐美が降りて来た。

 それを横目で確認したレイジはそう言い残して玉狛を後にする。小南は依然とレイジの発言の意図を読めないでいたが宇佐美の次の言葉で察しがついた。

 

「ん〜。何やら良い予感がするけど先にこっちの要件を言うね。来栖さん、トリガーのセッティングが終わったから早速なんだけど訓練室に入ってもらって良いですか」

 

 玉狛に弱いやつはいらない。記憶を失ったこの来栖響(ヒト)がどこまでやれるのか。小南の闘争心に火が灯った。

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