オルゴール・オブ・メモリーズ
果てしない闇の中
手探りでその蓋を開ける
溢れ出る柔らかい旋律
これが僕の思い出のアルバム………
オルゴール・オブ・メモリーズ
蝉時雨。
刺すような日差し。
怒り。
悲しみ。
寂しさ。
むなしさ。
あらゆる感情が雑然と、しかも希薄に満ちていたあの頃。
未来とは、まだ希望的なものを多分に含んだ言葉だった。
たとえ、不安という厚い雲が、僕の前に立ちこめていたとしても。
暗雲を打ち払うような友人たちの微笑み。
太陽のような彼女の自信に溢れた笑み。
だから、僕は逆に翳ったこともある。
でも、あの頃にも、無自覚だけど、確かな幸せの中にいた。
その後に訪れる苦難の日々を知らずに。
『アスカ…起きてよ、アスカ…。前みたいに、僕をバカにしてよっ!!』
『シンジくんっ!! 弐号機がっ!! アスカがっ!!』
『しっかり生きてから、死になさいっ!!』
『そんなこといったって、初号機は動かないんだ…』
『うわああああああああああああああああああああああああっっっっっっっ!!!!!』
朱に染まった世界。
絶望という言葉すら空しい光景。
浜辺に横たわる、傷だらけの彼女。
死のうよ、アスカ。
もう、何もかも…。
僕の頬に当てられた彼女の手。
その行為に、果たして意味はあったのだろうか。
今でも、判らない。
ましてや、彼女に訊ねるわけにもいかないだろう。
でも結果としてその温もりが。
世界を開く鍵となる。
気がつけばベッドの上。
見知った顔が僕を見ていた。
『みんな還ってきたの、何もかも…』
涙ぐむミサトさんのその声の意味も解らず、僕は再び眠りに落ちた。
目を醒ますと蒼い世界。
月明かりに照らされたあの光景は、はっきりと印象に残っている。
廊下へと出た僕が、導かれるように入った病室。
そこに彼女はいた。
あまりにも痛々しい姿の眠り姫。
僕は黙って部屋を出る。
彼女の側にいる資格はないんだ。
でも、出来るなら、もう一度、あの頃に戻りたい。
僕は切実に願った。
何に願ったかは、覚えていない。
彼女の傷が癒えるのに二年。
彼女の心が癒されるのにもう一年。
そして僕の後悔は一生。
彼女は僕を許してくれたのだろうか?
傍らに眠る彼女を見ても、僕の疑念は消えない。
未だ訊ねられない。
いや、訊いてはならない。
そう考える僕は、やはり卑怯なのだろうか。
それでも、彼女は僕を求めてくれる。
なら、僕は答えよう。
僕のありったけの想いを、彼女に注ごう。
束の間の蜜月も終わりを告げた。
何の前触れもなく。
『どういうこと!? 四年ぶりにエヴァを起動させるなんて!!』
『解って、ミサト。これしか方法がないのよ…』
『僕が、乗ります。僕がエヴァンゲリオンに乗ります』
「行かないで。行かないで、シンジ……ッ!!』
懇願するアスカを振り切り、僕は初号機へと乗り込んだ。
以前のような母さんの温もりは感じられなかった。
…これは、贖罪?
あの忌まわしい逃避に対する、僕の懺悔なのだろうか?
解らない。
ただ、二度とアスカを傷つけたくなかった。
そして、僕は勝った。
敵が何者であったか、
正しいことをしたのか、
人類は救われたのか、
それは僕の知ったことじゃない。
アスカがいる現実を守れれば。
たとえ、全てが色あせた世界でも。
―――代償に、僕は光と下半身の自由を失った。
目を覚ましても、闇。
寝てもさめても、闇。
果てしなく、深く、暗い世界。
僕は生きているのだろうか?
ひょっとして、既に死んでいるんじゃ?
生きて帰ったベッドの上。
幾度そのような考えに囚われたことか。
「大丈夫、シンジは生きてるわ…」
傍らから温もり。
暖かい声。
声と体温が、
果てしない闇を照らす唯一の明かり。
そう。
君は生きている…
君がそばにいる…
これは現実…
新しい世界に馴れた頃。
幾人もの訪問者が僕のもとへやってきた。
「…もう、シンジくんはゆっくり休んでちょうだい。
後は、わたしたちがあなたを守るから。
ずっと、ずっと………」
ミサトさんの震える声。
言い終えると同時に、幾つもの嗚咽が続いた。
「…泣かないで下さい、ミサトさん」
僕は優しくいった。
「みんな生きてるじゃないですか。それに…僕は幸せですよ」
暖かい温もりが、僕の右手をそっと包む。
左手をその上に重ねた。
彼女の手の温もり。
互いの左手の薬指には…。
アスカはどうして僕の傍にいてくれるの?
まだ入院していた頃、訪ねた事があった。
『ふん。この天才たるあたしぐらいしか、大馬鹿なあんたの傍にいてあげられないでしょーが』
曖昧な答えが返ってきた。
ミサトさんたちが帰ったあと。
再び僕は訊ねてみた。
「どうしてアスカは僕の傍にいてくれるの?」と。
どうやら世界を救ったらしい僕には、膨大な額の年給が支払われるらしい。
人を雇って、王侯貴族とまではいかないけれど、それなりに贅沢な生活ができるほどの。
彼女が世話をしなくても、十分生きていけるのだ。
アスカの答えは又もや曖昧で適当だった。
「結婚しちゃったんだから、しようがないでしょ?」
僕は納得できず、食い下がった。
こんな僕の傍にいて、君は何をやっていくの?
まだまだ若いし、君には無限の可能性があるじゃないか。
思い返せば、卑怯で残酷な問いかけだった。
そこまでして彼女から、
「あなたのことが好きだから」
という言葉を、確証を引きずり出したかったのだろうか?
とにかく僕は必死だったのには違いない。
後悔は直後にやってきた。
僕の右頬が弾ける。
左も。
二度。三度。
「この……馬鹿っっっ!!」
空気が震える。
アスカが…泣いてる?
彼女の手が僕の胸倉をつかみ上げた。
息がかかるくらい近くに彼女の顔を感じる。
「卑怯者!! うすら馬鹿!! 自己完結の駄目男っ!!」
矢継ぎ早の彼女の怒声。
「あんたは……、ずっと、ずっと逃げつづけて、最後はあたしの中に逃げ込もうとしてるのっ!?」
…………っ!!
僕は嫌でも悟らずにはいられなかった。
そうだ。
僕の人生は、逃げてばかりだった。
ただ、流され、逃げて…。
自らの意思で立ったことも皆無ではない。
でも、肝心なところで僕は逃げ続けた。
そして、何よりたくさん彼女を傷つけたというのに…!!
考えてみれば、無意識で自覚していたのかも知れない。
だからこそ、僕は彼女に質問を発したのだ。
甘えという逃避。
この暗い世界で、彼女という明かりに縋りたかった。
「あんたなんか、野垂れ死んじゃえっっっっっっ!!」
彼女は叫ぶと僕を突き飛ばした。
乱暴に扉を閉ざす音に、部屋を出ていく気配。
取り残された僕は、茫然とする。
…そう。
僕は何も彼女に与えられたわけじゃない。
逆なんだ。
彼女の方こそ、僕をずっと離さないで抱えていてくれたんだ…!!
そう気づいたとき、僕は必死で車椅子を操作していた。
ほとんど体当たりするようにドアを開け廊下へと飛び出す。
勢いあまって床に投げ出された僕は、痛みすら厭わず、動かない下半身を引きずって廊下を這う。
「ごめん、アスカ! 僕が悪いんだ! 僕は卑怯者だ!
君を苦しめて、君を救えなくて、逃げて、逃げつづけて!!
ごめん、ごめん、ごめん……!!」
僕は叫んだ。
僕は泣いていた。
ふと暖かいぬくもりが、僕の頭を包み込む。
「アスカ…!?」
「ほんとに馬鹿よね、あんたは」
ポツリと漏れた彼女の言葉。
「…ああ、馬鹿だよ、僕は。だから、改めてはっきりいうよ」
僕は彼女に縋りつつ上半身を起こす。
そして壁に背を預けた。
「アスカ…君が好きだ。愛してる。ずっと傍にいて欲しい。
僕は何もできない。満足に働くことも出来ない。
でも、今度は逃げないことを約束する。
絶対に君を裏切るような真似はしない……!!」
……つくづく勝手な言い分だったと思う。
でも、広げた腕の中に飛び込んできた温もりは、偽りでなく彼女の心そのものだった。
「何やってるの、パパ?」
腕に弾けるような温もり。
それが回想を断ち切り、僕を現実へと引き戻しす。
オルゴールから流れる旋律は、二巡目にさしかかっていた。
いや、二巡目なのかすら定かではない。
もっと長い間こうしていたかもしれない。
光を失った身には、時間とはひどく曖昧なものだ。
「おいで」
僕はオルゴールの蓋を閉じると、愛娘を抱き上げる。
それは一つの奇蹟。
僕が最後にエヴァに乗る直前に、
アスカは懐妊していたのだ。
「それは何?」
腕の中で5歳になる娘は訪ねて来た。
オルゴールを指しているに違いない。
「ああ、あれはね、
パパの思い出の宝箱だよ」
そう答えると、娘は考え込んだ気配。
「思い出がタカラモノ…?」
「ミクも大きくなったらわかるよ」
僕は困惑する娘の頭を撫でた。
この子は、アスカ譲りの金髪に、目は僕に似て黒い、らしい。
僕たちは彼女を、
「未来(ミク)」
と名付けた。
願わくば、この子に幸福に満ちた未来があらんことを。
「あら、ここにいたの、シンジ」
妻の声。
君は僕の太陽。
君がいるから、この暗い世界でも生きていける。
何より大切な娘もいる。
世界はささやかな黄金郷へと姿を変えていく。
「ヒカリたちが来たわ。早く行きましょ? 」
「ああ、そうだね」
「ミクがパパを押してくーっ! 」
そうして僕は大切な思い出を後にする。
リツコさんたちの尽力や、目覚しい医療技術の進歩で、
僕の傷が癒える可能性も皆無ではないらしい。
でも、あのオルゴールはこれからもずっと大切な宝箱の役割を果たしてくれるはず。
増えつづける思い出を、その旋律にのせて。
だから、悲しみはしまっておこう。
オルゴールの一番奥へと閉じ込めてしまおう。
この蓋を開くときだけ、悲しみを思い出せればいい。
最愛の君と、
生涯見ることが叶わないかもしれない娘と供に、
僕は生きる。