エヴァンゲリオン LAS短編集   作:三只

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錆びたコイン

氷点下の汗をかき、あたしは跳ね起きる。

 

ベッドを飛び出し、廊下を這って、洗面台にもたれ堪えきれずに嘔吐した。

 

全身が震え、涙がこぼれ、胸が締め付けられ、喉が痛い。

 

まるで、黒い蛇を吐き出しているよう。

 

 

 

「…アスカ、大丈夫?」

 

 

一頻り痙攣が治まり呼吸を整えているあたしの背後から、心配そうな声。

 

「大丈夫よ…」

 

振り向いてそう答えようとしたけれど、シンジの顔を見た途端更に吐き気がこみ上げてきた。

 

「アスカ…」

 

あたしの背に添えられる手。

 

瞬間的に跳ね除けた。

 

手振りだけで、あっちへ行けと指示する。

 

あいつは黙って立ち去ったようだ。

 

あたしは洗面台に突っ伏し、吐きつづけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

錆びたコイン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忘却は人間の防衛本能。

 

時が人の心を癒してくれる。

 

心の傷が癒えるのには時間がかかる。

 

通俗的な論法。

 

一面の真理かもしれないが、言葉は決して癒しちゃくれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれから五年。

 

全てが終わり、全てが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

みんなは過去を忘れて行く。

 

みんなは過去を切り捨てて行く。

 

白痴の道化の仮面を纏い。

 

忘却と享楽のカーニバル。

 

みんながピエロ。

 

観客なんかいやしないのに。

 

 

 

 

 

 

あたしは取り残された渡り鳥。

 

茹でたマカロニで作られた檻に閉じ込められて。

 

あたしを囲ったのはこいつ。

 

傍らで眠るこの男。

 

傷を癒された鳥は、羽ばたき方を忘れた。

 

それがあたし。

 

 

 

 

時折、全てが憎らしくなる。

 

砂糖菓子のような日々。

 

暖かな眼差し。

 

空気のような愛情。

 

それを享受する自分自身。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、決まって忌まわしき夢を見た夜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

迫り来る八つの白い影。

 

牙を剥き、

 

一羽の赤い鳥へと襲いかかる。

 

 

 

 

激痛

 

苦悶

 

恥辱

 

無念

 

憤怒

 

 

 

 

安っぽい赤い雨

 

頼りなく風に靡く

 

にごった髪の毛

 

転がる爪

 

違う

 

あれは目玉だ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたしは跳ね起きる。

 

スプリンクラーの下にいたような汗。

 

安っぽいドラムみたいに脈打つ心臓。

 

深呼吸して髪をかき上げた。

 

頬に貼り付いて気持ち悪い。

 

 

 

「ん…アスカ? 」

 

 

傍らから声。

 

 

みると、壊れた人形のように瞬きしたシンジ。

 

 

「なんでもないわ…」

 

 

と答えた語尾が震えた。

 

 

いつもこうだ。

 

 

しばらくしてから震えが来る。

 

電池の切れかけた目覚し時計みたいに。

 

 

 

「また、あの夢をみたんだね……」

 

優しい声。

 

あたしは抱きすくめられた。

 

震えがおさまっていく。

 

 

 

 

「大丈夫、僕がずっと一緒にいるから…」

 

微笑むシンジ。

 

その微笑み。

 

温かくも、憎らしい。

 

 

 

 

瞬きもせず、あたしは彼の腕の中。

 

沈み込んだベッドの上。

 

彼の呼吸が寝息に変わったとき、あたしはそっと腕を伸ばす。

 

 

 

 

シンジの首へ。

 

そろそろと。

 

 

 

 

 

 

憎い。

 

憎い。

 

全てが憎い。

 

いっそ壊してしまいたい。

 

 

 

 

 

 

 

彼の喉へ指を立てる。

 

 

 

シンジは目を開けた。

 

 

あたしは力を込める。

 

 

彼は微笑んだ。

 

 

 

 

 

「いいよ…」

 

 

 

 

 

 

あたしは手を離し、彼の胸へと顔を埋めた。

 

 

 

 

 

 

 

もう一度、羽ばたけるような気がした。

 

たとえ、狭い世界だとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人を愛したことのない者は、人を憎むだろうか

 

人を憎んだことのない者に、人は愛せるだろうか

 

二つは表裏一体。

 

一枚のコインのようなものだ。

 

コインはクルクルと回る。

 

クルクル、狂狂と。

 

 

 

 

 

あたしの記憶もコインと同じ。

 

夢と現の両面を回転させながら、時という狭間へと。

 

深く静かに落ち込んでいけばいい。

 

やがて錆びつき、温かい泥濘の中に沈んでしまえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、その日は遠い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、記憶とは、忘れることはないのだろう。

 

ただ、思い出す回数か減り、細部が劣化し、擦り切れたレコードのように限られたフレーズが繰り返される。

 

その存在は確かにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれから10年。

 

きままな無意識の手は、時の海を探り、赤錆の浮いたコインを引っ張り出す。

 

ざらついた感触。

 

苦味を帯びたブラウン管は、もはや正常に像を結ばなくなった。

 

残ったかすれた音が、曇りガラスの向こうの光景が、あのときの感情が、心を揺さぶる。

 

だけど、あたしはもう(あし)じゃない。

 

(やすり)を混ぜたようなその風にも、十分耐える力がある。

 

 

 

 

 

あたしの傍にいる彼。

 

彼のことを愛している。

 

彼のことを憎んでいる。

 

どちらも、殺したいほどに。

 

 

 

それでもいい、と彼はいう。

 

君の全てをうけいれよう、と。

 

 

 

 

 

 

 

先のことなんか、分からない。

 

展望はなくもない。

 

薄めた絵の具をばら撒いたような不鮮明な未来。

 

 

 

でも、今は。

 

 

 

だから、今は。

 

 

 

彼の胸に顔を埋めて。

 

 

 

 

 

 

 

あたしは緋色の夢を見る………。

 

 

 

 

 

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