船は穏やかな海面を押し分けながら進み、船首が波を割るたび、白い飛沫が陽光を受けて細かく散っていた。
潮を含んだ風が甲板を抜け、帆が大きく膨らんでは低い音を立てる。
俺の隣では、ジャックがいつになく落ち着かない様子で水平線の先を睨んでいた。
本人なりに平静を装っているつもりなのだろうが、時折ぎゅっと拳を握り直している辺り、かなり張り切っているらしい。
少し前に「今度は絶対に役に立ってみせる」と宣言していたことを思い出す。
……ふふ。
分かりやすい奴だ。
ジャックには、俺が父さんからこの任務を受け、それに同行させるのだと伝えている。
だが――実のところ、今回の任務はジャックに対するテストの様なモノだ。
俺が発案し、そして父さんから許可を得た今回の任務。
ぜひジャックには成功して貰いたいと思っている。
弟の様に目をかけていると言うのも有るが、それだけではない。
純粋に、ジャックの生命力は素晴らしい。
推定七歳。
まだ身体も成長途中だというのに、既に並の船員たちを上回るパワーとタフさを持っている。
多少吹き飛ばされても立ち上がり、傷を負っても食らいつく。
そして何より、一度決めたことを簡単には諦めない。
今はまだ未熟だ。
だが――時間さえかければ、間違いなく伸びる。
将来、きっと父さんの役に立つはずだ。
そんなわけで、ジャックの実力を買っている俺は悪魔の実を食べさせようと考えた。
能力者となれば、今持っている身体能力をさらに伸ばすことが出来る。
特にジャックの戦い方を考えれば、小細工の多い能力よりも、単純に身体そのものを強化出来る動物系との相性が良い。
出来れば、ジャック自身の頑丈さを最大限に活かせるような――
そう考えて探しあの手この手を使い、ようやく手に入れたのが、ゾウゾウの実 モデル“マンモス”。
動物系、それも古代種だ。
見つけた時には、我ながらよくこれほどジャック向きのものを引き当てたと思った。
ただ、一応、自分で手に入れたとは言っても悪魔の実は貴重品だ。
俺の一存でジャックに与えてしまうより、父さんに許可を得てからの方が良いだろう。
そう考えた俺は、悪魔の実を手に入れてすぐ父さんへ話を持っていった。
──────────────
父さんの部屋。
酒の匂いが薄く残る室内で、俺が持ってきた悪魔の実を父さんは興味深そうに眺めていた。
掌の上で転がすように角度を変え、表面に浮かぶ独特な渦巻き模様へ視線を落とす。
『動物ゾオン系の古代種か……!
で、誰に食わせてぇって?』
俺は父さんの正面に座り、迷うことなく答えた。
『ジャックに食わせようと思ってるんだ。』
『…ジャックか。
確かにレオヴァが気に掛けてるだけあって見所はあるがなァ、まだガキだぞ?』
父さんの眉が僅かに寄る。
反対している、というより確認しているのだろう。
ジャックがまだ幼いこと。
そして、一度食べれば取り返しがつかないこと。
言いたいことは大体分かる。
だからこそ、俺も考えていたことをそのまま伝えた。
『……父さんの言いたいことは だいたい解るが
子どもだからこそ長い時間を使って能力を扱えるよう指導できるし
なによりジャックのウチの海賊団に対しての忠誠心は目を見張るものがある。
将来的にみたらこれ以上ない人材だとおれは思うんだが…』
今のジャックに必要なのは、完成された強さではない。
これから何年、何十年とかけて育てていく価値があるかどうかだ。
そういう意味では、俺の中で答えはとうに出ている。
父さんは腕を組んだまま、暫く考えるように黙っていた。
『確かにアイツは仕事も真面目にやってる
キングとクイーンに面倒みさせても生きてるってだけで他の奴らよりも優秀ではあるからなァ』
父さんもジャック自身をそれなりに評価していることが分かり、俺は少し身を乗り出した。
『あぁ、本当に…真面目で素直な子なんだ
おれは将来 ジャックは父さんのお眼鏡に叶う漢になると考えてる。
だから…駄目だろうか?』
父さんは俺の顔を見た。
視線が合う。
数秒の沈黙。
俺としては十分な理由を並べたつもりだが、最終的な判断は父さんに任せるつもりだった。
すると――父さんの口元が大きく吊り上がった。
『レオヴァが言うんだ間違いねぇだろう!
それに、その悪魔の実は自分で手に入れたモンじゃねェか。好きに使えば良い…!』
思わず頬が緩む。
『父さん ありがとう!
この実は好きに使わせてもらう!』
『ウォロロロロロ…!
おれの息子なんだ、やりたいようにやれ。』
豪快な笑い声が部屋へ響く。
その言葉を聞いた途端、胸の奥がじわりと温かくなった。
俺が考え、自分で手に入れたものなのだから、自分の判断で使えば良い。
父さんはそう言ってくれたのだ。
……やはり父さんは器が大きい。
─────────────
そうして、俺は早速ジャックに悪魔の実を食べさせることにしたワケだが――。
なにもせずに悪魔の実を渡しては、周りの奴らが五月蝿いだろう。
ただでさえ貴重な悪魔の実だ。
それをまだ幼いジャックに渡すとなれば、
何故ジャックなのか、他にも適任がいるのではないか。
そう考える奴が出てきても不思議ではない。
ならば、先に手柄を立てさせれば良い。
実力を示し、結果を出した上で褒美として与える。
それならば筋も通る。
ついでに、ジャックの実力がどれ程付いてきたかも確かめられる。
そう考えて、今回のテストを行うに至ったのだ。
俺は横目で隣を見る。
ジャックは相変わらず、進行方向を睨みつけるように見ている。
任務で役に立とうと気合いを入れている姿を見ていると、なんとも微笑ましい。
……さて。
問題はジャックが戦っている間、俺がどうやって暇を潰すかだな。
手を出したらテストにならない。
かといって、ただ眺めているだけというのも退屈だ。
そんなことを考えながら、俺は小さく息を吐いた。
─────────────
──ジャックのテストの結果は、合格だ。
俺が思っていたよりも、遥かに良かった。
海賊たちとの戦闘が始まった直後、ジャックは真っ先に敵陣へ飛び込んでいった。
子どもにしては大柄な身体が甲板を蹴る。
真正面から振り下ろされた刃物を身を沈めて躱し、そのまま懐へ潜り込む。
踏み込んだ勢いを殺さず拳を突き上げれば、大人の男の身体が大きく浮き、そのまま数メートル先まで吹き飛んだ。
別の男が横から殴りかかってくる。
ジャックは腕で受けた。
鈍い衝撃音が響いたが、体勢はほとんど崩れない。
逆に相手の腕を掴むと、そのまま力任せに引き寄せ、地面へ叩きつける。
ドンッ、と重い音。
砂埃が舞った。
……やはり、力が強い。
まだ子どもどあるにもかかわらず、正面から押し負けない。
それ以上に良かったのは、一度勢いに乗ったからといって完全に周囲が見えなくなるわけではなかったことだ。
危なっかしい場面がないわけではない。
だが以前に比べれば、明らかに動きが良くなっている。
戦闘が終わった後も同様だった。
敵を片付けたことで気を抜くこともなく、他の部下たちに混じって物品の確認と積み込みへ回る。
大きな木箱を抱えて船まで運び、戻って来ては次の荷へ手を伸ばす。
誰かに指示されるまで立って待っていることもない。
仕事を見つけ、自分から動いている。
子どもとは思えぬほど手際が良かった。
さすがはジャックだ……!
少し離れた場所からその様子を眺めていた俺は、どうにも緩んでしまう口元を抑えられずにいた。
期待していた相手が、期待以上の結果を出したのだ。
嬉しくないはずがない。
最後の荷物が船へ積み込み、仕事を終えたらしいジャックがこちらへ気付いた。
一瞬、表情が明るくなる。
そして、そのまま俺の方へ走って来た。
「レオヴァさん、 終わったぞ!…です。」
俺の前まで来たところで勢いよく止まり、途中で言葉遣いを思い出したらしい。
慌てて付け足された「です」に、思わず笑いそうになる。
だが、ここは先にきちんと評価してやるべきだ。
「お疲れ様、ジャック
今回の任務はとくに動きが良かったな。」
「…! ありがとうございます!」
ぱっとジャックの顔が明るくなる。
素直な反応だ。
褒められたことが嬉しいのだろう。
その顔を見ていると、こちらまで気分が良くなる。
さて――これなら文句なしだな。
俺は用意していたものを思い出し、ジャックへ向き直った。
「それで任務の褒美として渡したい物があるんだが…」
「褒美…? おれはカイドウさんとレオヴァさんの役に立ちてぇだけだから……あんまモノとかはいらねぇ、です!」
予想通りの答えが返ってきた。
本当に欲がない。
カイドウさんと俺の役に立ちたい。
それだけを真っ直ぐ口にする。
……こういうところも、俺がジャックを気に入っている理由の一つだ。
「そう言うとは思ってたが……
今回の褒美は強くなる為に使える物だぞ?」
「強くなるのに使えるモノ…?」
先程まで「いらない」と言っていたジャックの目が、露骨に揺れた。
ふふ。、食いついたな。
「まぁ、見てから決めりゃいい」
俺は懐から包みを取り出し、その中身をジャックの前へ差し出した。
独特な形状。
表皮を覆う、自然界の果実にはまず存在しない渦巻き模様。
それを見た瞬間、ジャックの目が大きく見開かれた。
「!? 悪魔の実……!」
驚きに声まで上擦っている。
「 動物系の悪魔の実だ。
単身で敵陣に突っ込んで行くジャックにぴったりな能力だと思うぞ?」
ジャックの視線が悪魔の実へ釘付けになる。
だが、すぐに手を伸ばそうとはしなかった。
驚きから覚めるにつれ、今度は戸惑うように眉を寄せる。
「……本当におれが食っていいのか…?
悪魔の実は貴重だってクイーンの兄御が…」
……そこを気にするか。
普通なら、貴重な悪魔の実を差し出された時点で喜んで飛び付く者も多いだろうに。
ジャックは俺を見上げたまま、本当に自分が貰って良いのかと迷っている。
「構わない。
それにこの悪魔の実はおれが手に入れた物だから好きにして良いと言われてる
……おれはジャックに食べて欲しかったんだがなァ…」
最後に少しだけ残念そうな声を混ぜてみる。
途端にジャックの表情が変わった。
「レオヴァさんが…!な、なら おれが食いてぇ!」
……よし。
やはり素直な奴だ。
「ふふ……よし、なら早速食べるか
どうする? フルーツナイフで切るか?」
「いや、かぶりつくんで大丈夫だ、です!」
俺が悪魔の実を差し出す。
ジャックは両手で受け取ると、少しだけ角度を変えて眺めた。
そして次の瞬間。
迷いなく、大きく口を開けて――勢いよくかぶりついた。
ぐしゃり。
果肉を噛み潰す音がする。
直後、ジャックの眉間にこれでもかというほど深い皺が寄った。
口元が引きつり、鼻まで歪む。
「…ゥ"……不味ぃ…!!」
あまりにも見事な変化だった。
さっきまであれほど嬉しそうだった顔が、一口で凄まじいことになっている。
さすがに、耐え切れなかった。
「ふはははは! 凄い顔だぞジャック…!」
腹の底から笑い声が漏れる。
「聞いてたがこんなに不味いとは思わなかった…です……」
ジャックは涙目になりながら、恨めしそうに手の中の悪魔の実を見る。
それでも吐き出さなかったあたりは偉い。
もう能力は宿っているのだから全て食べる必要はないのだが――今は言わない方が面白いかもしれない。
いや、それは流石に可哀想か。
しかし、ジャックのこの子どもっぽい顔は…。
また笑いが込み上がる。
「ふふふ……いや、すまない。笑いすぎたな…ふ…」
「…レオヴァさん……」
ジャックがなんとも言えない顔で俺を見る。
怒っているわけではない。
だが「そんなに笑わなくても」とでも言いたげだ。
その表情を見て、また笑いが込み上がってくる。
……いかん。
これ以上笑ったら流石に可哀想だ。
俺は一度口元を手で隠し、息を整えた。
その時、妙な視線を感じる。
周囲を見れば、少し離れたところにいた部下たちが、揃ってこちらを見ていた。
物珍しそうな顔で。
……つい大声で笑ってしまった。
部下たちが近くにいるのを失念していた。
普段の俺がそれほど声を上げて笑わないせいか、何人かは完全に作業の手を止めている。
……だが、まぁ。
悪い印象にはならないだろうから良しとしよう。
気持ちを切り替える。
今はジャックが無事に能力者になったのだ。
次に確認すべきことがある。
俺はようやく笑いを収め、ジャックへ声をかけた。
「ふぅ……で、どうだ?
能力者になったワケだが……一回試してみるか?」
さっきまで悪魔の実の味に絶望していたジャックの顔が、一瞬で輝いた。
「ああ…!試してみたい!」
やはり、そちらへの興味の方が勝ったらしい。
「なら、おれが相手しよう。
そこがよさそうだ。」
俺は船から少し離れた、開けた場所を指差す。
周囲に部下も荷物もない。
初めての能力を試すには丁度良い。
「はい…!」
ジャックは力強く頷いた。
─────────────
船から十分な距離を取った場所で、俺とジャックは向かい合った。
「まずは能力を使う感覚を掴め。
焦らなくていい。」
そう言いながら数歩距離を取る。
ジャックは自分の身体を見下ろし、どうすれば良いのかと考えるように拳を握った。
能力者になったばかりだ。
頭で理解して変身するというより、本能的な感覚を探すしかない。
暫くして――ジャックの身体に変化が起きた。
身体が膨らみ骨格が軋むように大きく、手足が太く、重くなっていく。
地面へ掛かる重みが一気に増し、足元の土がめり込んだ。
そして、長い鼻。
巨大な牙。
全身を覆う厚い毛。
ほんの少し前までの子どもの姿は消え、そこには巨大なマンモスが立っていた。
「……ほう。」
思わず声が出る。
やはり良い。
元々のジャックが持つパワーと頑丈さに、この巨体が加わる。
成長し、能力を使いこなせるようになれば相当な戦力になるだろう。
ジャック自身も変化した身体に驚いているらしく、大きな鼻を動かしたり、足を上げたりしている。
ただ立っているだけでも、先程までとは比べものにならない重量感だ。
俺は軽く腰を落とした。
「来い、ジャック。」
マンモスとなったジャックが地面を蹴る。
――速い。
巨体から受ける印象より、遥かに初速がある。
ドドドドッ、と地面を震わせながら一直線にこちらへ向かって来る。
正面から受ければ、それなりの衝撃になるだろう。
俺はぶつかる寸前で横へ身を滑らせた。
ジャックの巨体が俺のすぐ横を通り過ぎ、巻き起こった風が服と髪を大きく煽った。
勢い余って数歩先まで駆け抜けたジャックが、慌てて踏ん張る。
太い足が地面を削り、土煙が上がった。
……旋回はまだ苦手らしい。
当然か。
つい数分前まで二本足で動いていたのだから、突然四足の巨大な身体を与えられて上手く扱える方がおかしい。
だが――。
「もう一度来い!」
俺の声に、ジャックはすぐこちらを向いた。
再び地面を蹴る。
今度は先程より僅かに速度を落とし、俺の動きを見ながら接近してきた。
さすがはジャック、学習が早い。
俺は攻撃を受け流しながら、何度か軽く反撃を加えてみる。
一撃。
二撃。
身体が揺れても、ジャックは踏み止まった。
やはりタフさが段違いだ。
元々頑丈だった身体が、能力によって更に強化されている。
単純なパワーも比較にならない。
まだ能力を得たばかりだというのに、これだ。
……うん。
やはり、この実を選んで正解だったな。
その後も暫く、軽い試合形式で手合わせを続けた。
俺の目的は勝つことではなく、今のジャックがどの程度能力を扱えるのか確認することだ。
走らせる。
攻撃させる。
止まらせる。
方向転換させる。
何度か繰り返すうちに、最初より動きは明らかに良くなった。
能力を扱うという点ではまだまだこれからだろう。
それでも、パワーとタフさは予想通り――いや、予想以上に上がっている。
これなら、しっかり訓練を積めば相当強くなるだろう。
満足した俺は一度手を上げた。
「よし、今日はこのくらいにするか。」
ジャックが動きを止める。
初めての変身に加え、慣れない身体で動き回ったのだ。
疲労もあるだろう。
あまり初日から無理をさせる必要はない。
俺は船の方へ身体を向けた。
「戻るぞ、ジャック。」
返事がない。
……ん?
振り返る。
巨大なマンモスが、その場にじっと立っていた。
先程まであれほど元気に走り回っていたというのに、一歩も動こうとしない。
どうした?
どこか痛めたか?
俺はジャックの顔を見る。
……困った様な顔をしている。
いや、マンモスだから表情は解りにくいが……おそらく困った顔だ。
長い鼻が所在なさげに垂れ、巨大な身体が妙に縮こまって見える。
俺が首をかしげていると。
暫く黙り込んでいたジャックが、ボソリと呟いた。
「……戻り方がわからねぇ……」
一瞬、意味を理解するのに時間がかかった。
そして――理解した瞬間。
自分が初めて能力を使った時の記憶まで一緒に蘇る。
あぁ。
そうか。
そうだった。
最初はおれも変身は出来たが、戻り方が分からなかったな。
身に覚えがありすぎる。
「!?ふっ…ふはははははは…!!」
駄目だった。
堪えようとしたが無理だった。
俺はまた、大声で笑った。
─────────────────────────────────
──なんてジャックの呟きに笑っていられた時が懐かしい。
あれから二日たった今。
俺はある島にて、常識はずれな爺さんに絡まれていた。
いや。
絡まれている、という表現では少し生温いかもしれない。
ズガァンッ――!!
凄まじい轟音と共に、ほんの一瞬前まで俺が立っていた場所が抉れた。
石畳が内側から爆ぜたかのように砕け、大小の破片が周囲へ飛び散る。
もうもうと立ち上る土煙の向こうから、場違いなほど豪快な笑い声が響いた。
「ぶわっはっはっは!!
なかなかやるのぅ小僧!海軍に入れ!」
……何をどうすれば、この状況で勧誘という発想になるんだ。
着地した足で地面を擦りながら、数メートルの距離を保つ。
「……断る…!」
「なら捕まえんといけん…な!!!」
言葉が終わるより早く、爺さんの姿が視界から消えた。
――速い。
反射的に上体を逸らす。
直後、俺の鼻先を巨大な拳が通り過ぎた。
空気そのものを殴り飛ばしたような圧が頬を叩き、長い黒髪が激しく後ろへ靡く。
一撃でも、まともに食らえばいつも通りの動きは厳しいだろう。
足元へ力を込め、身体を捻りながら横へ跳んだ。
爺さんの拳が、そのまま地面へ突き刺さる。
轟音。
足元から突き上げるような振動が走った。
着地と同時に振り返れば――爺さんが殴った地面は大きく割れ、蜘蛛の巣のような亀裂が周囲へ伸びている。
…………いや、本当にデタラメなパワーだ。
石造りの地面を殴ったというより、巨大な砲弾でも落としたような有様だった。
しかも、それだけの威力を出しておきながら本人の拳には傷一つない。
僅かに眉を寄せる。
なぜ、変わった爺さん。
…もとい“英雄ガープ“に絡まれているのか。
俺とジャックはワノ国へ帰る途中に寄った島に、運悪くも海軍が停泊していた。
補給程度で済ませる予定だったのだが、向こうがこちらに気付き、小規模な戦闘になった。
こちらとしても捕まる気などない。
当然、撃退した。
――そこまでは良かった。
問題は、その海軍が応援を呼んだことだ。
そして。
よりにもよって、応援に来たのがこの男だった。
海軍本部中将 “英雄ガープ”。
本当にツいていない。
せめて、もう少し普通の海兵が来てくれれば良かったものを。
最初は俺を子どもだと思っていたのか、ガープもかなり油断していた。
その隙に船へ戻れば逃げられそうだったのだが――。
部下たちがおれを様付けで呼んだせいで疑いの目で見られ。
挙げ句にアホな新入りが口を滑らせたおかげで、百獣のカイドウの“息子“だとバレた訳だ。
……あの新入り、どんな罰にするか…。
別に失敗そのものを咎めるつもりはない。
だが、敵を目の前にして重要情報を口にするのは流石に教育が必要だ。
今回の件が終わったら、始末書を書かせて――。
「戦闘中に考え事するヤツがおるかァー!!!」
ッ――!
視界いっぱいに拳が迫る。
俺は咄嗟に腕を交差させながら後方へ跳んだ。
拳そのものは直撃しなかった。
だが、その一撃が生み出した圧だけで身体が押される。
靴底が地面を削り、数メートル後ろまで滑った。
「くっ……馬鹿力ジジィが……!」
腕がじん、と痺れる。
本当に何なんだ、この力は。
こちらの悪態を聞いた途端、ガープの顔が目に見えて歪んだ。
「ジジィじゃと!? ぬおぉ~!
“ガープさん“と呼ばんかーー!!」
……そこに怒るのか?
そして、また突っ込んで来る。
おれが躱す。
ガープが殴る。
地面が壊れる。
今度は横薙ぎ。
おれが身を沈める。
拳が建物の壁を掠め――そのまま壁の一部が吹き飛んだ。
ガラガラと石材が崩れ落ちる。
少し離れたところで様子を窺っていた海兵たちが悲鳴を上げながら避難していくのが視界の端に映った。
……正直、海賊よりも町に被害出してないか…?
そう思わずにはいられない。
おれが壊した建物はほとんどないというのに。
爺さんが拳を振るうたび、新しい瓦礫の山が一つずつ増えている。
「逃げてばっかりじゃ捕まらんぞ小僧!!」
「捕まる気がないから避けてるんだが!」
「ぶわっはっは!そりゃそうじゃ!!」
……会話が成立しているのか、していないのか分からない。
だが、笑っているわりに攻撃は一切緩まない。
足運びも、拳を振るう速度も。
年寄りという見た目からは到底想像出来ない鋭さだ。
手段を選ばず倒そうとしたとしても、かなり難しい相手だろう。
そもそもの目的は、この爺さんと決着をつけることではない。
皆を逃がすことだ。
ジャックを含めた部下たちは、既に船でこの島から離れた。
だから、俺がするべきなのは勝つことではなく――適当なところでこの爺さんを撒いて、船へ追いつくことだ。
問題はどうやって逃げるか。
見聞色で周囲を探る。
海兵はまだいる。
港にも数人。
海へ出ても、この男が追ってこない保証はない。
獣化して一気に飛ぶのが一番確実だが、そもそも飛んでいく為の隙がない。
どうするか……。
そんなことを考えていると。
ふいに、ガープの動きが止まった。
拳を握ったまま、何かを思い出したように目を丸くしている。
「あ! そういえばワシ、センゴクに呼ばれとった…!」
…………今か?
絶対に今思い出すようなことじゃないだろう。
しまった!という様な顔をした爺さんだったが、すぐに気を取り直したのか、ぽんと手を叩いた。
「まぁ、忘れとったもんはしゃーないじゃろ。
……よし、わし本部に帰るから小僧も来い!」
あまりにも自然な調子だった。
まるで近所の子どもを家まで連れて帰るかのように。
「…は? 行くわけがないだろう。」
「ワガママ言うな!!
まったく…なら、少し窮屈かもしれんが檻の中に入ってもらうか!」
どこがワガママなんだ。
敵対している海賊が海軍本部行きを断るのは当然。
しかし、そんな疑問などお構いなしにガープはじりじりと距離を詰めてくる。
顔は笑っている。
だが、隙はほとんどない。
……本当に面倒だな、この爺さん。
苛立ちを感じながら、俺は片手を上げる。
空気が僅かに震えた。
指先の周囲で青白い光が瞬く。
次の瞬間。
バリバリッ――!!
数発の雷が、ほぼ同時にガープへ落ちた。
地面が白く閃光に染まる。
まともに受ける気はなかったらしい。
ガープは大きく後方へ跳び、雷撃の範囲から外れる。
雷が石畳を穿ち、焼けた石と土の匂いが一瞬遅れて鼻を突いた。
距離が開いた。
――今なら。
そう思った矢先。
ガープの近くへ、一人の海兵が慌ただしく駆け寄って来た。
息を切らし、手には電伝虫を抱えている。
「が、ガープさん!
センゴクさんからの電伝虫でんでんむしが!!」
その名前を聞いた瞬間。
ガープの顔が見るからに嫌そうに歪んだ。
先程まで戦闘を楽しんでいた男とは思えないほど、露骨な苦虫を噛み潰したような顔だ。
「えぇ~~。それ、わしが出なきゃダメ?」
「当たり前です!!」
即答だった。
「……絶対に?」
「駄々こねてる場合じゃないですから!」
海兵が半ば怒鳴るように言う。
ガープは心底嫌そうに電伝虫を見下ろした。
完全に注意がそちらへ向いている。
――好機。
この爺さん相手に、これ以上都合のいい隙が出来る保証はない。
俺は迷わなかった。
足元へ力を込める。
同時に身体の輪郭が大きく変化していく。
腕が翼へ。
全身を羽毛が覆い、骨格が急激に膨れ上がる。
白い角を残したまま、人の姿は一瞬のうちに巨大な鳥のものへ変わった。
黄金色の光を纏った翼を大きく広げる。
バサァッ――!!
一度羽ばたくだけで、地面の砂塵と細かな瓦礫が周囲へ吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
突然巻き起こった突風に、海兵が腕で顔を庇う。
俺はそのまま地面を蹴った。
巨大な翼で空気を叩く。
身体が一気に上昇し、崩れた町並みも海兵たちも急速に小さくなっていく。
眼下から豪快な笑い声が聞こえた。
「わっはっはっは! 能力者だとは思ってたが動物系だったか!」
……あぁ。
そういえば、まだ獣化は見せていなかったか。
飛び立って行く大きな鳥を見て、海兵は驚き、爺さんは豪快に笑っていた。
俺は一度だけ眼下へ視線を落とす。
ガープは追って来る様子を見せていない。
センゴクからの連絡とやらに捕まったのなら、暫くは動けないだろう。
なら、今のうちだ。
俺は船が向かった方角へ身体を向ける。
翼に力を込めた。
大気を押し退けるように羽ばたくたび、速度が増していく。
島が遠ざかる。
眼下には、どこまでも続く青い海。
潮風が羽の間を抜けていく。
……とりあえず、逃げ切れたか。
あの爺さん相手に無理に勝負を続ける必要などない。
皆さえ無事ならそれで良い。
俺はワノ国へ向かった船を追い、広い海原の上を飛び続けた。
─────────────────────────────────
~船の上にて~
海は穏やかだった。
風を受けた帆が低く軋み、船体が波を越えるたび、規則正しく水を掻き分ける音が響いている。
本来なら、ワノ国への帰路についた船内には任務を終えた安堵が漂っていてもおかしくない。
だが――今、この船にそんな空気は欠片もなかった。
ジャックは海楼石かいろうせきで縛られ、酷く項垂うなだれている。
だが、それは拘束されているからではない。
海楼石が辛いからでもない。
そんなものは、今のジャックにとってどうでもよかった。
敬愛している人が、独りデタラメな強さの海兵に挑んでいったから項垂れているのだ。
「……おれは…また、役に立てなかったッ!!」
吐き出した声は低く震えていた。
次の瞬間、ジャックは拘束された身体を無理やり前へ倒し――。
ゴンッ!!
壁へ思いっきり頭を打ち付ける。
鈍い音が船室に響いた。
近くにいた船員がびくりと肩を震わせたが、止める者はいなかった。
あの時、俺も共に闘うとジャックは言った。
敵がどれほど強かろうと、レオヴァを一人で残すつもりなどなかった。
けれど。
敬愛するレオヴァは、まだ俺たちじゃ勝てないと言い――共に闘うことを許しはしなかった。
だがそれは、あの男を見た瞬間から、ジャックにも分かっていた。
強い。
今まで相手にしてきた海兵とは、明らかに違う。
立っているだけで感じる圧も、僅かな動きから伝わる力も。
自分が飛び込んだところで、足手まといになる可能性の方が高い。
ジャックとて馬鹿ではない、敵わないことくらい気付いていた。
それでも。
ただ、全てを与えてくれた人の盾になりたかった。
居場所を与えてくれた、強くなるための道を示してくれた。
そして今回だって――自分を認め、貴重な悪魔の実まで与えてくれた。
だから。
……役に立ちたかったのだ。
たとえ勝てなくても。
たとえ一撃で倒されても。
ほんの少しでも相手の注意を引けたなら。
一発でも代わりに攻撃を受けられたなら。
それだけでも良かった。
なのに。自分は今、船の中にいる。
レオヴァだけをあの島へ残して。
「ッ……!」
ぎり、と奥歯を噛み締める。
全て、すべて自分が弱いせいだ。
もっと強ければ。
自分があの海兵と戦えるほど強ければ、レオヴァは一人で残らなくても済んだのではないか。
そんな考えばかりが頭の中を巡る。
レオヴァが簡単に殺られるとは思っていない。
そんなことがあるはずがない。
ジャックは知っている、レオヴァは強いと。
自分では到底届かないほど。
他の船員たちとは比べることすら出来ないほど。
ずっとずっと強い。
だが。
あの海兵には勝てるとは思えなかった。
目を閉じれば、島へ残ったレオヴァの姿が蘇る。
自分たちを先に行かせた、あの時の背中。
遠ざかっていく島。
姿が見えなくなるまで、ジャックはずっと振り返っていた。
ジャックはただただ己の弱さが憎い。
何度頭を打ち付けても、胸の奥に溜まった悔しさは消えてくれなかった。
もう二度とレオヴァには会えないのだろうか……。
そんな考えが一瞬でも浮かぶたび、胸が強く締め付けられる。
嫌だ。
考えたくない。
レオヴァが帰ってこないなど、考えたくもない。
そう考える自分がイヤだった。
しかし、その不安も仕方がないことだった。
レオヴァが皆を逃がす為に独りで海兵に挑んでから、2日も経っている。
一日目は、まだ誰も口には出さなかった。
レオヴァ様なら大丈夫だ。
すぐに追いついて来る。
きっと何事もなかったような顔で船へ降りて来る。
皆、そう思おうとしていた。
だが。
一日が過ぎ。
夜が明け。
二日目になっても――黄金の鳥は空に現れなかった。
電伝虫も鳴らない。
海を見ても、空を見ても。
何もない。
誰かが甲板へ出るたび、船員たちの視線が一斉にそちらへ向く。
けれど、その度に落胆したように俯く。
食事を取る者も少なかった。
話し声もほとんど聞こえない。
普段なら威勢よく飛び交う号令さえ、今はどこか沈んでいる。
ジャックだけではなく、船に乗る誰もが通夜の様な顔をしている。
帆が風を孕む音。
波が船腹を叩く音。
時折聞こえる木材の軋み。
それだけが妙に大きく耳につく。
この船はまるで幽霊船の様だった。
――彼が帰って来るまでは。
甲板で作業をしていた誰かが、ふと顔を上げた。
何かを見つけたように目を細める。
次の瞬間、その男の表情が変わった。
手にしていた物を取り落としそうになりながら、身を乗り出して空を凝視する。
そして――叫んだ。
「あ……あぁ! おい!!
レオヴァ様だ!!!」
一瞬。
船の時間が止まった。
次いで、甲板にいた船員たちは一斉に顔を上げた。
船室にいた者も、声を聞きつけて次々と外へ飛び出してくる。
誰もが同じ方向を見る。
青い空。
照りつける太陽。
その眩しさの中に、小さな光があった。
最初は点にしか見えなかったものが、見る間に大きくなっていく。
翼。
大きく広げられた翼が陽光を受けるたび、黄金の輝きを撒き散らす。
そこには光輝く黄金の鳥が太陽に負けない眩しさを放ちながら飛んでいた。
間違えるはずがない。
二日間。
何度も何度も空を見上げ、待ち続けた姿だ。
船内から物凄い音と共に海楼石に縛られたままのジャックが船尾へと飛び出る。
重い身体を引きずるような動きだった。
海楼石に力を奪われていることなど関係ない。
壁へ肩をぶつけても。
床へ足を取られても。
そんなことを気にする余裕などなかった。
ただ、外へ。
あの姿を自分の目で確認したかった。
「レオヴァさん…!」
掠れた声が漏れる。
生きている。帰ってきた。
その事実だけで、二日間胸の奥を圧迫し続けていたものが一気に崩れていく。
黄金の鳥は船へ近付くにつれ速度を落とした。
大きな翼が一度、ゆっくりと羽ばたく。
巻き起こった風が甲板を駆け抜け、船員たちの服や髪を大きく揺らした。
そして船の真上まで来たところで、その巨大な身体が急速に縮んでいく。
黄金の羽が消え。
翼が腕へ戻り。
鳥の輪郭が人の姿へと変わる。
船の上で人の形に戻ったレオヴァが降ってくる。
着地の瞬間、膝を僅かに曲げて衝撃を逃がす。
とん、と。
二日間待ち続けていたことが嘘のような、あまりにも軽い音だった。
ジャックは目を逸らすことなく、その姿を見つめた。
本物だ。幻でもない。ちゃんと、ここにいる。
そんなジャックへ、レオヴァがいつもと変わらない調子で声を掛けた。
「あぁ、ジャック。
おれが留守の間、航海は首尾よく行ってたか?」
まるで少し席を外していただけのような口調。
だが、レオヴァの服は所々、破れ汚れていた。
布地には土埃が付き、裂けた箇所もある。
長い黒髪も普段より乱れている。
確かに戦闘があったのだと分かる姿だ。
ジャックの視線が、レオヴァの頭から足元まで忙しなく動いた。
血は。
傷は。
どこか動かしにくそうな場所はないか。
何度も確認する。
だが、大きな怪我はないようだった。
両足で立っている。
声も普段通りだ。
息が乱れている様子もない。
その事にジャックと船員たちは安堵した。
甲板のあちこちから、押し殺していた息を一斉に吐き出すような音が聞こえる。
ジャックもようやく、強張っていた肩から力を抜いた。
「……航海は問題なかったです。」
声が少し震えた。
けれど、ちゃんと答えられた。
レオヴァはそれを聞くと、穏やかに周囲を見渡した。
二日間、自分の帰還を待ちながら船を進め続けていた者たちを、一人ずつ確認するように。
「そうか…皆、ご苦労だったな。
ワノ国まで もう少しだ。頑張ってくれ。」
その一言だけで。
沈みきっていた空気が変わった。
「あぁ…!」
「「「はいッ!」」」
二日前までなら、いつも通りの返事だったはずだ。
だが今は、声を張り上げずにはいられなかった。
甲板いっぱいに船員たちの声が響く。
レオヴァはそんな皆へ柔らかい表情を向けると、ジャックの海楼石を外すように指示を出し、船内の部屋へと歩いていった。
その背中が扉の向こうへ消えるまで。
ジャックはずっと見送っていた。
……帰ってきた。
本当に、帰ってきてくれた。
海楼石のせいで身体には力が入らないままだというのに、胸の奥には二日前とは比べものにならないほど力が満ちているように感じた。
周囲を見れば、それはジャックだけではない。
さっきまで俯いていた船員が声を張り上げて指示を出す。
帆の状態を確認する者。
舵へ戻る者。
荷を確かめる者。
誰に言われるでもなく、それぞれが急いで持ち場へ戻っていく。
幽霊船の様だった時とは違い、今は皆 活気に溢れていた。
同じ船。
同じ海。
同じワノ国への航路。
それなのに、たった一人が戻ってきただけで船全体が別物のようだった。
帆が大きく風を受ける。
船首が波を割り、白い飛沫を上げながら前へ進む。
きっと、想定よりも早くワノ国に着くだろうと誰もが思った。