俺がカイドウの息子…?   作:もちお(もす)

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2026/9/2 加筆修正





侠客と大名

日も沈み、町がすっかり夜に覆われた頃。

人通りの絶えた屋敷の一室には、行灯の淡い灯りだけが静かに揺れていた。質素ながら隅々まで手入れの行き届いた部屋には酒と煙草の匂いが薄く漂い、時折、夜風が障子をかすかに鳴らしていく。

 

向かい合って座しているのは二人の男。

一人は大柄な身体に、薄青色の炎を思わせる髪を持つ男――“花のヒョウ五郎”。

そしてもう一人は、真っ黒な髪とつり上がった眉が特徴的な男――白舞の大名、霜月康イエ。

 

二人の間に置かれた膳には酒瓶と盃が並んでいるが、旧知の間柄で酒を楽しむために設けられた席ではないことは、部屋に漂う重い空気が雄弁に物語っていた。

 

康イエは盃を口元へ運び、酒をひと口含んでから静かにヒョウ五郎を見る。

 

「……で、呼び出したって事は"例の件"か」

その問いに、ヒョウ五郎は煙管を指に挟んだまま大きく頷いた。

 

「おうよ。信頼の置ける奴らを数名送った。」

「そうか……それにしても随分早い。」

思っていた以上に早い返答だったのだろう。康イエが僅かに眉を上げると、ヒョウ五郎は煙管を口に咥え、ゆっくりと煙を吐き出した。

白い煙が行灯の光の中を揺らめきながら昇っていくのを見送り、それから一段低い声で続ける。

 

「おれも興味があった。

……編笠村の元締になった童にな。」

それを聞いた康イエは、やはりそうかとでも言いたげに小さく息を吐いた。

 

「やはりか。今じゃ何処の村も編笠村の"レオヴァ"の話を知ってるみてぇだ…」

ここしばらく、編笠村に関する噂は驚くほどの速さで各地へ広がっている。

一つや二つならば、尾ひれの付いた与太話だと笑い飛ばすことも出来ただろう。だが、流れてくる話は日を追うごとに増え、それもどれも似通った内容ばかりだった。

 

「年端もいかねぇ童が元締めってだけで噂になるってェのに…

更には善政ひいて民から愛されてるとあっちゃなァ…気にならねぇ方が可笑しいってモンだ」

「あぁ、その通りだな。子どもが仕切るだけでも信じ難い話だ。

そこに良い評判しかねぇあっちゃ、ちょいと怪しく感じちまう。」

康イエの言葉が終わると同時に、ヒョウ五郎は傍らに置いていた箱へ手を伸ばした。

そして前触れもなく、その箱を康イエの方へ放る。

 

咄嗟に受け止めた康イエが訝しげな顔を上げると、ヒョウ五郎は酒瓶へ手を伸ばしながら顎で箱を示した。

 

「おれもそう考えた、怪しいってな。

……だが、まぁ結果は"ソレ"だ。」

康イエは箱を膝の上へ置くと、ゆっくり蓋を開いた。

中に収められていたのは、何枚もの紙を束ねた報告書だった。

 

一番上の一枚を手に取り、行灯の灯りへ近付ける。

初めこそ普段と変わらぬ表情で目を走らせていた康イエだったが、二枚、三枚と読み進めていくうちに、その眉間には次第に深い皺が刻まれていった。

 

時折、内容を確かめるように前の紙へ戻り、再び次へ進む。

ヒョウ五郎は何も言わず、その様子を横目に酒を煽った。

自分も最初は、似たような顔をしたのだから無理もない。

報告の内容は、あまりに出来すぎていた。

 

最後の一枚まで読み終えた康イエは、暫く紙から目を離せなかった。

やがて、勢いよく顔を上げる。

 

「お、おい、ヒョウ五郎!

これは……これは本当なのか?」

思わず身を乗り出した康イエの手の中で、報告書がくしゃりと音を立てた。

その反応を予想していたヒョウ五郎は、特に驚くこともなく盃を置く。

 

「本当だ、諜報に長けた奴もいた。

10人送って10人がその評価だ。

……信じざるを得ない!」

ヒョウ五郎自身、報告を受けた当初は信じられなかった。

だからこそ一人や二人ではなく、送り込んだ者たちそれぞれから話を聞いた。立場も役目も違う者たちへ別々に問いただし、食い違いがないか何度も確かめた。

 

それでも返ってくる答えは変わらなかった。

武器工場では働いた分だけの銭が支払われ、休む時間も与えられている。職人たちは

怯えながら働くのではなく、自ら技術を磨き、新しい武器を作ろうとしている。

 

工場だけではない。

汚れていた川は澄み、農作物の実りは増え、村の人間は以前より明らかに健康になっているという。

何より、送り込んだ者たちの誰もが最後には口を揃えた。

――編笠村には、今のワノ国とは思えぬ光景がある、と。

 

嘘をつくような奴らではない。ましてや、脅された程度でヒョウ五郎を裏切るような部下でもなかった。

だからこそ、信じるしかなかったのだ。

 

康イエは手元の報告書へもう一度目を落とし、まるで紙の中に何か見落としがあるのではないかと探すように視線を動かした。

「こんな……年端もいかぬ若者が……本当に…

いや、いや、だが……」

その声には、隠しきれない戸惑いが滲んでいる。

ヒョウ五郎は煙管の灰を落としながら、そんな康イエを静かに見据えた。

 

「信じられねぇのはわかるがな…

だが、こりゃ悪い事じゃねぇ。

もしかしたら…その"レオヴァ"っつう童は

……御天道様が堕ちたこの国の新しい陽になるかもしれねぇぞ。」

その瞬間、康イエが目を見開いた。

驚きはすぐに険しさへ変わり、畳へ置いていた片手に力が入る。

 

「この若者が!?

違う。この国を照らすべき者は……"光月おでん"であろう!」

思わず声を荒げた康イエを見ても、ヒョウ五郎は怒鳴り返さなかった。

ただ視線を酒瓶へ落とし、深く息を吐く。

 

「…まったく。らしくねぇな康イエ…

……確かに、おれも おでんに期待していた。

確かにあいつはこの国を統べる事ができるデケェ男だ。」

それは嘘ではない。

ヒョウ五郎も、おでんという男の器を疑っていたわけではなかった。

幼い頃から常識外れで、何をしでかすか分からず、その度に周囲を振り回してきた男。

 

 

それでも最後には人を惹き付け、気付けば大勢がその背を追っている。

あの男ならば、いずれこの国を変える。

かつてはヒョウ五郎も、そう思っていた。

 

「なら、何故その若者のことを…その様に申すのだ!」

康イエの問いへすぐには答えず、ヒョウ五郎は暫く黙っていた。

煙管の先で赤い火が小さく明滅する。

やがて、ゆっくりと康イエへ顔を向けた。

 

「…………いつだ?

いつ、おでんは立ち上がるんだ?」

「…それは、わからないが…

だが絶対におでんは立ち上がり、将軍の座につくはずだ!

あいつは、おでんはそう言う男だ…!」

康イエの声には迷いがあった。

それでも最後だけは、言い聞かせるように強く断言する。

ヒョウ五郎はその言葉を否定しなかった。

むしろ、短く頷く。

 

「だろうな。奴はきっと立ち上がるだろうよ。

けどな、そりゃいつになる?

今この時だってオロチの野郎に苦しめられてる町人たちゃ山ほどいる!!

“いつか立ち上がる”じゃ、今生きてる奴らの苦しみはどうなるってんだ…!?」

最後の言葉には、抑えていた苛立ちが滲んだ。

声こそ怒鳴り散らすほどではなかったものの、畳へ落ちるその一言一言には重みがあり、康イエは何も言い返せなくなる。

 

部屋に沈黙が落ちた。

康イエとて、分かっていないわけではない。

自ら治める白舞にも、オロチの支配に苦しむ民はいる。

食うものに困り、仕事を奪われ、不安を抱えながら日々を生きる者たちを、大名である康イエは嫌というほど見てきた。

 

しかし。

それでも、おでんが将軍となる未来を信じていたかった。

あの男がいつか立ち上がり、全てをひっくり返してくれる。

そう考えることが、今の康イエにとって一つの心の拠り所になっていたのだろう。

 

だがヒョウ五郎にとって、目の前で苦しんでいる民を「いつか」のために待たせ続けることは出来なかった。

 

おでんに期待していないわけではない。

むしろ、期待しているからこそ腹が立つ。

どうしようもない事を仕出かし、周囲を巻き込む男ではあったが、己の志に背くような男ではない。

その認識は今も変わっていなかったし、本当ならばこれからも変えたくなかった。

 

だからこそ、今のおでんの姿が理解出来ない。

来る日も来る日も裸踊りを続け、各里を見回ってはいるものの、その理由を誰にも話そうとしない。

 

何か事情がある。

それくらいはヒョウ五郎にも分かっていた。

だが、その事情を語ってもらえないことが、日を追うごとに胸の奥へ澱のように溜まっていく。

 

何故、おれに言わねぇんだ。

これまで何度も助け合ってきたというのに、何故一人で抱え込む。

 

……おれじゃ力不足だってのか。

おでんに対する苛立ちだけではなかった。

頼られない自分自身への腹立たしさもあり、何より、苦しんでいる人々を前に何も出来ていないという事実が、ヒョウ五郎には堪えていた。

 

弱きを助け、強きに屈しない。

それが侠客として生きてきた自分の矜持だ。

組の者たちも、町の人間も、ヒョウ五郎にとって守るべき者だった。

 

そんな折に耳へ入ってきたのが、“編笠村と鈴後”の噂だったのである。

最初に聞いた時には、悪い冗談かと思った。

二つの村では、人々が仕事にも食べ物にも困らず、以前とは比べものにならないほど穏やかに暮らしているという。

今のワノ国で、そんな場所があるはずがない。

 

そう思ったからこそ、自分の部下を送り込んだ。

そして返ってきたのが、康イエの手元にある報告書だ。

噂は誇張ではなかった。

少なくとも編笠村に関しては、実際に人々の暮らしが変わっている。

 

ヒョウ五郎にとって、これほど都合の良い話はないはずだった。

民を助けたい、そのための方法を持つ者が現れた。

 

ならば話を聞けば良い。

だが一つ、大きな懸念があった。

その“レオヴァ”という少年は、よりにもよって百獣のカイドウの息子だったのだ。

 

海賊の子。

しかも、この国をオロチに明け渡すに至った一端を担う男の血を引く者。

そんな相手を簡単に信用出来るはずがない。

 

どれだけ良い噂を耳にしても、その裏に何かあるのではないかという疑念は拭えなかった。

ヒョウ五郎が結論を出せずにいるところへ、折よく康イエから話が来たのだ。

ならば一人で決める必要もない。

 

康イエの考えを聞き、それから判断しても遅くはない。

そう考え、今日この場を設けたのである。

 

ヒョウ五郎は酒の入った盃を見下ろし、暫く黙った後でゆっくりと口を開いた。

 

「康イエ、そろそろ身の振り方を考え直す時が来たんじゃねぇかと おれァ思ってる。」

 

康イエはすぐには答えなかった。

膝の上に置かれた報告書へ視線を落とし、その紙をじっと見つめる。

そこに書かれている内容が真実ならば、ヒョウ五郎の言葉を一笑に付すことは出来ない。

それでも、長年信じてきたものを簡単に手放せるはずもなかった。

 

「ヒョウ五郎…だが、な…

…こんな子どもに賭けるつもりか……?」

その問いに、ヒョウ五郎は首を横へ振った。

 

「まだ完全に決めたワケじゃねぇが、まずは会って話をする。

……少なくとも奴は工場と町の問題を解決した。

このワノ国でいま一番民の為になる行動を起こしてんのはコイツだ、会う価値はある。」

「あぁ……この報告書通りならば…そうだろう。」

康イエの返事は、まだ歯切れが悪い。

ヒョウ五郎はそれを聞くなり眉を寄せ、煙管を置いた。

 

「ったく、腹決めろってんだ。

康イエ、おめぇは大名だ!民の事を考えなきゃならねぇ……!

報告書を疑うなら、おれと確かめに行く気概ぐれぇ見せな!」

叱咤するような言葉に、康イエは暫く黙っていた。

やがて手元の報告書を丁寧に揃え直し、箱へ戻す。

迷いが消えたわけではない。

それでも、何もせずに疑い続けるより、自分の目で確かめるべきだということは理解したのだろう。

康イエは静かに頷いた。

こうして二人の男は、自らの目で真実を確かめるため、“編笠村”へ向かうことを決めたのだった。

 

──────────────

 

数日後。

 

編笠村へと続く道を歩いていたヒョウ五郎と康イエは、村の入り口へ差しかかったところで自然と足を緩めていた。

事前に受け取った報告書には、編笠村の暮らしが以前とは比べものにならないほど豊かになっていると記されていた。

それでも実際に目の前へ広がる光景は、文字から想像していたものより遥かに生き生きとしている。

 

農作業に精を出す者、漁を終えて戻って来る者、道端でチャンバラごっこに夢中になっている子ども達。

見渡せば人の姿は多かったが、以前のワノ国の村々で当たり前のように見てきた、疲れ切って俯く者や、食う物を求めて彷徨う者の姿は見当たらない。

 

何より、皆がよく笑っていた。

畑では母親と三人の息子らしき家族が、腰を屈めながらみずみずしいキュウリを次々と籠へ入れている。作業をしながら絶えず談笑しており、時折、母親が子どもの手元を見て何かを注意すると、周囲から朗らかな笑い声が上がった。

 

別の道では、漁帰りらしい年長者と若者たちが、誇らしげにその日の収穫を村娘へ見せている。

籠の中では銀色の魚が陽を反して光り、それを覗き込んだ娘たちが楽しげに声を上げていた。

 

少し離れた空き地では、枝を刀に見立てた子ども達が走り回っている。転んでもすぐに立ち上がり、笑いながらまた駆け出していく姿には、飢えや病に怯える様子など微塵もなかった。

 

康イエは無意識のうちに歩みを止める。

ヒョウ五郎もまた、口を閉ざしたまま周囲を見回していた。

 

求めていた理想が、其処にはあった。

少なくとも、今この瞬間に目の前へ広がっている光景だけを見れば、そう思わずにはいられない。

 

編笠村へ足を踏み入れてから、二人は殆ど言葉を交わしていなかった。

報告書に書かれていた内容が事実であることを一つずつ突き付けられているようで、どちらも軽々しく感想を口にすることが出来なかったのである。

 

そんな中、一人の小さな女の子が康イエの前へ近付いてきた。

手には先ほどまでチャンバラごっこに使っていたらしい細い枝を握っており、警戒するように二人を見上げている。

 

「おじさん、はじめて みる、 わるいひと……?」

突然の問いに、康イエは一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかく笑って腰を落とした。

 

「え、あぁ。商人のヤスってんだ。

レオヴァって人に会いてぇんだが。」

康イエは変装していた。

白舞の大名である霜月康イエが、この時勢に堂々と他の里を歩けば余計な注目を集める。ましてや今から会おうとしている相手はカイドウの息子だ。どこから話が漏れるか分からぬ以上、身分は隠しておくに越したことはない。

対して、ヒョウ五郎にはこれといった変装をさせていなかった。

ワノ国で“花のヒョウ五郎”の名を知らぬ者は少ない。そのため先ほどから彼に気付いた町人たちが、何事かと遠巻きに視線を向け始めていたが、当の本人はまるで気にする様子はない。

むしろヒョウ五郎は、自分たちを警戒する女の子をどこか面白そうに見下ろしていた。

すると、康イエから事情を聞いた少女は頬を膨らませ、枝を両手で構え直した。

 

「むぅ~ おじさんたち わるいひとだ

 れおう"ぁさま は わたしが まもる!」

小さな身体で通せんぼするように二人の前へ立ち、本人なりに精一杯鋭い顔を作っている。

康イエは困ったように眉を下げ、ヒョウ五郎は思わず喉の奥で笑った。

まだ何もしていない自分たちを敵だと決めつけるのは少々早計だが、これほど幼い子どもが何の迷いもなく「レオヴァ様を守る」と言い切ることの方が、二人には気になった。

 

その時、少し離れた場所から慌てた声が飛んでくる。

 

「あぁもう、この子ったら!」

畑の方から一人の女が駆け寄り、少女を後ろから抱き上げた。少女はなおも枝を握ったまま足をばたつかせているが、母親らしい女はそれを抱えたまま、ヒョウ五郎たちへ深々と頭を下げる。

 

「すみません!

花のヒョウ五郎さま、商人のおひと!」

やはり、ヒョウ五郎の顔はすぐに知られていたらしい。

康イエは女が必要以上に恐縮しているのを見て、慌てて両手を振った。

 

「おっと、奥さん!そんな、謝らんでください。」

「はっは!元気なのは良いことだぜ。」

ヒョウ五郎も怒った様子はなく、母親の腕の中でまだこちらを睨んでいる少女へ視線を向けると、自然と頬が緩んだ。

元気な子どもが、元気なまま子どもらしく振る舞える。

 

かつてなら、それだけのことを特別に思う必要などなかったはずだ。

だが今のワノ国では、その当たり前さえ失われている土地があまりに多い。

だからこそ、目の前の少女の姿が妙に眩しく感じられた。

ひと悶着はあったものの、母親からレオヴァの居場所を聞き出すことは出来た。

なんでも今日は、仕事を終えた職人たちと話をするため武器工場へ顔を出しているらしい。

 

「仕事終わりの職人と話をしに行く、か……」

康イエが歩き出しながら小さく呟く。

ただの視察ならば分かる。

生産状況を確認し、責任者から報告を受けるだけなら、元締めとして当然の仕事だろう。

 

しかし聞けば、レオヴァは役人や工場の責任者だけではなく、実際に働いている職人たちと直接話をするため、頻繁に自分から足を運んでいるという。

相手は職人とはいえ、身分だけを見ればただの町人だ。

その者たちへわざわざ元締め本人が顔を見せ、それも一人一人から話を聞いているという。

康イエは隣を歩くヒョウ五郎へ視線を向けた。

 

「随分と変わった若者らしいな。」

「……そうみてぇだな。」

ヒョウ五郎も短く返したものの、視線は道の先へ向いたままだった。

まだ会ってすらいない。

報告書を読み、村を少し歩いただけにすぎないのだから、今ここでレオヴァという人物を評価するつもりはなかった。

それでも、最初に抱いていた“カイドウの息子”という肩書きから想像した人物像と、ここまで見聞きしたものとの間には大きな隔たりがある。

その違和感は、武器工場へ近付くにつれてさらに大きくなっていった。

村の中心部を抜け、二人は工場へ続く道へ入る。

やがて最初に目へ入ったのは、道沿いを流れる川だった。

 

「……ん?」

ヒョウ五郎が立ち止まる。

川幅そのものは特別大きくない。

だが流れる水は川底の小石が見えるほど澄んでおり、流れの緩い場所では小魚の姿まで確認出来た。

水辺には青々とした草が茂り、色鮮やかな花が風に揺れている。

さらに道の両脇には葉の厚い木々が根を張り、枝の間から鳥の鳴き声まで聞こえてきた。

 

康イエも同じ違和感に気付き、周囲を見渡す。

武器工場はもう近い。

普通ならば、工場の近くへ来れば来るほど空気は濁り、煙や煤の匂いが鼻につくはずだ。川へ廃液を流している工場も珍しくなく、その周辺では植物が枯れ、水が濁っているのが当たり前になっている。

 

だというのに、この場所は逆だった。

吹き抜ける風には僅かに工場から流れてくる鉄や炭の匂いこそ混じっているが、それを覆うほど水と土の匂いが濃い。

工場のすぐ傍とは思えぬほど、自然がしっかりと根付いていた。

 

「なんとも……」

康イエは思わず言葉を失った。

どこか懐かしい。

オロチの支配が今ほど強まる以前、各地にまだ豊かな自然が残っていた頃のワノ国を思わせる景色だった。

いや、それだけではない。

道は歩きやすいよう整えられ、川辺も荒れ放題にはなっていない。人の手を入れながら自然を残しているという点では、昔よりも整備されているとさえ感じられる。

隣に立つヒョウ五郎も、川の流れを目で追いながら眉を上げた。

 

「……なんだって工場の近くでこんなに綺麗な景色がみられるってんだ…」

これは報告書にも記載されていた。

工場から出る汚れを処理する仕組みを作り、水質を改善した、と。

文字で読んだ時には半信半疑だったが、目の前の川を見れば疑う余地はない。

かつて汚れ始めていたという川が、本当にここまで戻っている。

しかも武器の生産を止めたわけでもない。

康イエは流れる水から視線を外し、道の先に見え始めた工場の建物を見つめた。

 

「……これも、レオヴァって若者に会えば謎が解けるかね…」

「どちらにせよ、会わなきゃ始まらねぇさ。」

ヒョウ五郎の言葉に、康イエも小さく頷いた。

ここへ来るまでは、報告書の真偽を確かめるための訪問だった。

だが今は少し違う。

二人とも、この村を作り変えた少年が一体どんな人物なのか、自分の目で見てみたいという思いが確実に強くなっていた。

 

止めていた足を再び動かす。

澄んだ川の流れる音を背に、二人は武器工場へ向かって歩き始めた。

やがて木々の向こうから、大きな工場の建物がはっきりと姿を現す。

そこから聞こえてきたのは、怒号でも、監視役が職人を急かす声でもなかった。

仕事を終えた者たちらしい、賑やかな話し声と笑い声だった。

ヒョウ五郎と康イエは一度だけ顔を見合わせると、その声のする方へ足を進めた。

 

──────────────

 

 

工場内の食堂は、仕事終わりとは思えないほど賑わっていた。

広い室内には長机と椅子が並び、まだ食事を取っている者や、酒を片手に談笑している者、仕事着のまま仲間と話し込んでいる者の姿がある。

 

その中でも、ひときわ大きな人集りが出来ている場所があった。

一つのテーブルを囲むように何人もの職人たちが集まり、皆が中心に座る人物へ次々と声を掛けている。

 

「レオヴァ様!おれの考えた新しい武器のことなんだが……」

「おれの嫁さんがついに三人目の子どもを授かってよぉ!」

「最近、腰が悪くてのぅ……レオヴァ様が前にして下さった"低周波治療"をお願いしたいんじゃが…」

「昨日うちのガキが足首を怪我しちまって……レオヴァ様が前に田中のばぁさんにやってた不思議な力で治りを早くしてもらえねぇですかね……痛そうで見てらんねぇんス…」

「工場で使ってる工具で古いのが増えて来たんで新しい工具をお願いしたいです!」

仕事の話から家族の祝い事、身体の不調、子どもの怪我、設備の要望まで、内容はまるで統一されていない。

普通であれば、これほど一度に話しかけられれば嫌な顔の一つでも見せそうなものだ。

 

だが、その中心にいる若者は違った。

一人の話を聞き終える前に別の者へ視線を移すこともなく、相手の顔を見ながら最後まで言葉を聞き、そのうえで順番に返事をしていく。

 

「その発想の武器は今までなかった。

 ぜひ、試作品を作ってくれ!」

武器の話を持ち込んだ職人には、興味を示すように身を乗り出す。

 

「三人目か、めでたいな。

祝いにお前の嫁の好物をいくつか送ろう。」

子どもを授かったと報告した男には、柔らかく笑いながら祝福を返す。

 

「じぃさんは良くやってくれている。

この後にでも時間を作るから腰の痛みは心配しなくていい。」

腰を押さえていた老職人には、体調を確かめるように視線を向ける。

 

「子どもが怪我を…? それは大変だったな…

怪我の度合いによってはうちの船医に頼もう、治療費?気にするな、それくらいおれが請け負う。」

子どもの怪我について聞けば、僅かに眉を寄せた。

 

「そうか。確認でき次第、新しい工具を手配しよう。

お前はいつも細かい所に気付き教えてくれる、感謝しているぞ。ありがとう。」

最後に工具の交換を申し出た職人へは、要望を受け入れるだけでなく、その働きまで具体的に認めてみせる。

それを聞いた男は、意表を突かれたように一瞬固まった後、照れくさそうに頭を掻いていた。

 

工場の入り口で出会った職人に案内され、食堂へ足を踏み入れたヒョウ五郎と康イエは、その光景を少し離れた場所から見つめていた。

報告書で読んだ通りだ。

いや。

紙の上では分からなかったものが、ここにはあった。

 

元締めと職人。

本来なら、それなりの距離があって然るべき立場だ。

ましてや相手はカイドウの息子。

部下を使い、報告だけを受け取る形でも何もおかしくない。

だというのに、目の前の若者は職人たちの輪の中心で、一人一人の話を当たり前のように聞いている。

職人たちの側にも、元締めを前にしているような過度な緊張はなかった。

 

礼儀はある。敬意もある。

それでも、怯えてはいない。

ヒョウ五郎は腕を組み、暫くその様子を眺めた。

そして、ほんの僅かに目を細める。

 

「おいおい、あの歳でアレか……?

童のくせに随分大人びた態度と話し方じゃねぇか…」

感心半分、驚き半分で漏らした小さな呟きだった。

 

だが、隣にいた案内役の職人は、その言葉をしっかり聞き取っていた。

 

「なんだァ…? いくらヒョウ五郎親分さんだってレオヴァ様のこたぁ悪く言うのは許せねぇ!」

先程までにこやかだった男の眉が一気につり上がる。

一歩前へ出た姿は、今にもヒョウ五郎の胸倉へ手を伸ばしかねない勢いだった。

その豹変ぶりに、康イエが慌てて間へ入る。

 

「おっとと、兄さん悪いね!親分も悪気はないんだ。

ただ、裏の人だから言い方が良くなくてね……

……あの坊っちゃんは若いのにすげぇって言う意味さ!」

両手を広げながら宥める康イエの説明を聞き、職人は何度か瞬きをした。

そして、ヒョウ五郎を見る。

 

「なんだぁ!ヒョウ五郎親分!誤解しちまって悪ぃな~…

そう、レオヴァ様はスゲェのさ!おれらも最初はまだ若いあの人に不安を持ってたんだが……レオヴァ様はその不安を態度と行動で消し去って下さったんだ!」

怒りは何処へやら。

今度は誇らしげに胸を張り、頼まれてもいないのにレオヴァについて熱く語り始める。

その切り替わりの早さに康イエは苦笑し、ヒョウ五郎はますます興味深そうに男を見る。

 

褒美で釣られている。

脅されている。

それだけでは、こんな反応は出ない。

 

名前を少し悪く言われただけで咄嗟に怒り、誤解だと分かれば今度は嬉々としてその人物の良さを語る。

そこにあるのは、もっと単純な感情だった。

 

慕っているのだ。

職人たちは、この若者を。

熱弁を続けようとした職人の下へ、食堂の奥から別の男が近寄って来る。

 

「おい、与助! レオヴァ様からのお酒、お前も貰うだろう!」

呼ばれた職人――与助の顔がぱっと明るくなった。

 

「え、レオヴァ様からの!?

おうおう! 貰うに決まってるってんだ!

…じゃ、ヒョウ五郎親分に商人さん、案内したからおれはこれで。」

そう言い残すや否や、二人の職人は本当に嬉しそうに人集りの方へ走って行ってしまった。

何やらレオヴァが持ってきた酒を皆へ分けているらしく、遠くからでも楽しげな声が聞こえてくる。

 

残された二人は、暫くその背中を眺めていた。

やがて康イエがヒョウ五郎を見る。

ヒョウ五郎も同じタイミングで康イエを見た。

互いに言葉にはしないが、考えていることは大体同じだった。

 

「……どうする康イエ。

声をかけるにもあんなに楽しそうにしてる職人たちを退かすのも忍びねぇ」

「…そうだな、これは終わるまで待つしかなかろう。」

急ぎの用ではない。

何より、ここまで来たならもう少し見ていたいという気持ちもあった。

二人は人集りから少し離れたテーブルへ腰を下ろし、話が落ち着くまで待つことにした。

 

──────────────

 

 

あれから半刻。

あれほど大きかった人集りも、ようやく少しずつ小さくなっていた。

 

家へ帰るのだろう。

レオヴァへ頭を下げて食堂を出て行く者が増え、室内に並んでいた職人たちの姿も徐々にまばらになっていく。

それでも康イエもヒョウ五郎も、待たされているという感覚はほとんど持っていなかった。

 

食堂そのものも居心地が悪くない。

清掃は行き届き、椅子も机も壊れたまま放置されているものはなく、職人が休憩するための場所として十分に整えられている。

だが、時間を忘れていた最大の理由はそこではなかった。

 

目の前にいる人間たちだ。

あちこちから笑い声が聞こえる。

仕事の愚痴をこぼす者もいるが、その内容はどこか明るい。

明日の仕事について話す者。

新しい武器をどう改良するか仲間と相談する者。

酒を飲みながら家族の話をする者。

どれも、かつてなら珍しくもなかった光景のはずだった。

 

康イエは盃を持つ手を止め、談笑している職人たちへ目を向けた。

今のワノ国には、こうして気兼ねなく笑える場所がどれほど残っているだろう。

働いても働いても生活は良くならず、今日を生き延びるだけで精一杯の者。

今日の食事があるかも分からない者。

工場で身体を壊しながら、それでも逃げることすら許されない者。

大名である康イエは、嫌というほど見てきた。

ヒョウ五郎も同じだった。

 

町を歩けば、否応なく苦しむ者が目に入る。

組の者からも各地の惨状を聞いている。

だからこそ、この食堂の光景には妙な懐かしさがあった。

まだ国中がここまで追い詰められていなかった頃。

人が仕事を終え、酒を飲み、明日の話を笑って出来た頃。

目の前にあるのは、そんな当たり前の日常だった。

 

二人にとって半刻という時間は苦ではなかった。

むしろ、あまりにも自然に過ぎていったため、待っていたことさえ忘れかけていたのかもしれない。

 

ふと、人の減った食堂の中心で、レオヴァが最後まで残っていた職人と話を終える。

何かを頼まれたらしく、頷きながら短く言葉を交わすと、職人は嬉しそうに頭を下げてその場を離れていった。

 

その後もレオヴァは帰る職人たちへ一人ずつ声を掛けている。

今日は無理をするな。

家族によろしく。

そんなやり取りを終えながら、やがて視線がヒョウ五郎たちの座る方へ向けられた。

 

二人は自然と姿勢を正す。

遠目では年齢に似つかわしくない落ち着いた若者という印象だった。

だが、正面からこちらへ歩いて来る姿を見れば、それだけではないことが分かる。

長い黒髪。

頭から伸びた白い角。

そして、人を静かに観察するような鋭い瞳。

 

まだ若い。

それは間違いない。

だというのに、歩みには妙な落ち着きがあり、周囲から向けられる視線を意識しているのか、背筋も崩れない。

 

単なる町の少年とは違う。

そう思わせるだけの雰囲気があった。

ヒョウ五郎は無意識に目を細めた。

康イエもまた、先程まで職人たちへ向けていた柔らかな表情と、今自分たちへ向かってくる時の落ち着いた顔つきとの違いを見ていた。

やがて若者は二人の前まで来ると、足を止めた。

 

「お初お目にかかる。

随分と待たせてしまい申し訳ない。

 おれに用と聞いたんだが…」

まず軽く会釈をする。

待たせたことへの謝罪から入ったことに、二人は僅かに目を見開いた。

自分を訪ねて来た相手を待たせることなど、カイドウの息子という立場を考えれば気にする必要もないはずだ。

ましてやヒョウ五郎の正体には気付いているとしても、康イエは今ただの商人として変装している。

それでも少年は態度を変えない。

 

レオヴァは二人の反応を特に気にした様子もなく、真っ直ぐにこちらを見つめている。

ヒョウ五郎はその視線を受け止めた。

自分より遥かに若い。

それでも、妙に目を逸らしづらい。

威圧しているわけではない。

殺気があるわけでもない。

ただ相手をきちんと見ようとしている、そんな目だった。

 

康イエも同じものを感じたのだろう。

一瞬だけ喉を鳴らした後、商人らしい笑顔を浮かべる。

二人とも、目の前の若者を平凡な子どもとは、もう思っていなかった。

 

報告書。

編笠村。

職人たち。

ここへ来るまでに見てきたものが、否応なくそう思わせていた。

あとは本人と話をするだけだ。

ヒョウ五郎と康イエは互いに短く視線を交わすと、レオヴァへ改めて向き直った。

そして、その場で詳しく話をしたい旨を伝え、会談の場を取り付けたのであった。

 

 

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