しばらく紫に抱き着かれたままでいると、ベッドの上の銀子が寝返りを打つのがわかった。このままの姿勢だと銀子が起きた時に確実に不味いことになる。俺に顔をうずめている紫には当然見えていない。夕乃さんもこちらをみつめているので気づいていないようだ。声を出さずに夕乃さんにアイコンタクトを送ると、夕乃さんは銀子の眠るベッドを見る。さっきまでと体勢が違う事に気が付いたのか、一度頷くとこちらに近づいてきて小声でささやく。
「紫ちゃん、落ち着きましたか? ひとまず外に出ましょう。村上さんが起きそうです」
「ん……そうか。分かった。真九郎心配をかけたな、ありがとう。夕乃も、ありがとう」
最後に抱きしめる力を一層強くすると紫は、俺から腕を離して笑顔で礼を言った。そのあと照れた様子で夕乃さんにも礼を言う。夕乃さんは気にしないように言うと紫を連れて外に出ようとする。俺はその場で立ち上がり二人に声をかける。しなければならないことがある。不安と覚悟の入り混じった感情を声に出す。
「俺は少し、銀子と話していきます。たぶん、一人なら大丈夫だと思いますから」
「……分かりました。行きましょう、紫ちゃん」
「分かった。真九郎ならできる。大丈夫だ。心配するな」
「あぁ。ありがとう、紫」
俺の言葉に夕乃さんは逡巡してから許可をくれた。紫は俺を励ました。それだけで勇気が湧いてくる。とはいえ、その勇気が役に立つような場面ではないことは分かっている。これから必要なのは勇気とか、そういうものではないのだ。銀子に襲われるかもしれない。泣かれるかもしれない。銀子におこられるだろう。それでも俺にとって必要な事だ。そして銀子にとっても必要な事の筈だ。わざわざ今の情緒不安定な銀子に話すのは酷かもしれないが、こんな時でないとあいつは感情をしまい込んでしまう。だから。
夕乃さんと紫が部屋を出て、扉が閉まるのを見届けると俺は体を翻して銀子のベッドに向かう。ベッドの横に置かれた丸椅子に座って銀子が目覚めるのを待つ。
何度目になるかも数えていないが、また時計を見る。時間の進みは遅い。感覚的には五分十分、実際には一分か二分程度しか進んでいない。それだけ緊張しているという事だろうか。ふぅっと息を吐き切って落ち着こうとする。深呼吸前に見たばかりだというのに終わればまた確認してしまう。あぁだめだ、これ意味ないな。そう思っても銀子が起きるまでは手持無沙汰ですることがない。散らばったガラス片は片付けてしまったし、手紙の内容は既に消えて読み返せない。
できることと言えば、何を話そうかと既に決まっていることを考え直してみたり、夕乃さんと紫に出て行ってもらった以上もう退けないと覚悟を決めたふりをしてみたり。一番建設的なのは、どう話すか考えることかもしれない。いま銀子は不安定で、話の流れ次第ではまた、発作と呼ぼうか。発作を起こさせてしまう。だったらそんな話は避けるべき、なのかもしれない。でも、これは銀子への俺の決意表明だ。今後の為にも避けては通れない道だ。タイミング的には最悪に近いのかもしれない。ここに決意してきたわけじゃない。病葉に焚きつけられたというのも否定はできない。それでも、いずれやらなければならない事だったんだ。こんな時でもないと、俺も銀子も機会を作らない。作ろうとせず無視する。だから、いま。
「ん……ぅ……」
「っ! ……はぁー……よし。銀子? 起きたのか?」
「ぅー……ぁー……?」
うだうだと言い訳を考えていると、唸り声を上げた銀子に驚いて息を呑んでしまう。おそるおそる、銀子をゆすってみると曖昧な声をあげる。起きているが起きれないという状態なのだろう。とりあえず銀子の上半身を起こすと、銀子が薄く目を開いていたようで、目が合う。開き切らない瞼でこちらを睨んでくる。実際に睨んでいるわけではないんだろうが、銀子は低血圧で、寝起きがすごく悪い。眼を満足に開けないのだろう。据わったような目だが、ピンボケした視界が広がってるのは想像に難くない。
そうして、しばらくみていると銀子が俺の顔を両手でつかみぐいっと自身の目の前まで寄せる。銀子の吐息が顔にかかってくすぐったい。心臓がわずかに早くなる。数秒、鼻が触れるほど近い状況で目を合わせていると、銀子の口が動くのがわかった。
「……しんくろー?」
「おはよう」
「……? ……眼鏡、とって」
俺の名前を呼んだはいいが状況がわからないようで、銀子は周囲を見渡す。しかし案の定というか、何も見えなかったようだ。枕の横にあった眼鏡を取って銀子に渡す。眼鏡を付けた銀子の目つきはよくなる、筈もなく。睨んでるかのような目つきのまま再び周りを見て、今度はしっかりとわかった様子で頷いた。
「……あぁ、そうだったわね」
呟いた言葉に紛れていたのはある種の諦観。他の人だったら気が付かなかったかもしれない。普段通りの銀子なら気が付けなかったかもしれない。だが、銀子で、それも弱っている、今みたいな状態なら。俺でも気が付ける。話しながらベッドに腰かける。
「どうしたんだ?」
「別に、どうもしないわよ。本当、嫌な時だけ鋭い」
「つまり、やっぱりなんかあるんじゃないか」
「やめて」
つつけば拒絶。気にはなるが親しき仲にも礼儀あり、俺にも銀子にも、互いに言いたくない事はある。しかし、おかげで話すこともない。話さなければいけない事はあってもそれを話す場にならない。二人で側にいて、何も話していない。人が見れば気まずそうに見えるのかもしれないが、俺はこの空気が好きだ。銀子もだろう。夕乃さんと居る時のいい意味での緊張感や、紫と居るときの暖かい感じとは違う。なんというか、話さないからこその安心感。そういう感覚が心地よくて、崩したくないなんて思ってしまう。それではいけない。分かっていても流されそうになる。
だからこそ、未練を振り払うように声を絞り出す。心の中でどれだけ悩んだって、言葉にしなければ無かったことにできる。
「……ダメだな」
俺の声に銀子は反応する。リラックスしていた体が一瞬硬直して、泣き出しそうに声を震わせる。
「なにがよ」
先ほどよりも分かりやすい。分かった。銀子は俺が話そうとしていることに気が付いている。ちょっと察しが良過ぎると思わなくもないが、それが長年の阿吽の呼吸という奴で。普段は心を隠すのがうまい銀子も、今はポーカーフェイスが崩れている。俺だけでなく誰が見ても分かる程に動揺している。
あぁ、もしかしたら俺も自分で気が付かないだけでそうなのかもしれない。だからきっと今の一言で、銀子に気づかせてしまった。
「……なぁ、銀子」
「……なによ」
銀子の名前を呼ぶ。自覚したからだろうか。自分でも声が振るえているのがわかる。さっきまでは、こんなんじゃなかったと思うがそんなことないんだろう。なんだこれじゃあ分かって当たり前じゃないか。銀子どころか、夕乃さんや紫にも気づかれて当然なほど情けない声。それでも、二人が俺を止めなかったのはきっと、二人がいい人だからだ。いや、あの二人みたいなのが法泉さんの言ういい女なのだろう。全てを察して、その上で黙って男を送り出す。
気が付いてしまえば余計に引けない。二人に気を遣わせて、結局できなかったじゃ、今度は俺が、男として情けない。ちっぽけな意地だ。プライドだ。二人に情けない姿を見せたくない。人に見せびらかすようなプライドは要らないが、一度決めた己の道を覆すような情けなさはもっと要らない。どんな些細でも、どんな馬鹿でもいい。彼らに顔向けできる人間でいたい。
だからこれはきっと甘えだ。銀子になら、どんなに情けない姿も見せられる。その抵抗が、ないとは言わないが、薄い。だから銀子に甘える。ある意味で銀子が一番割を食うのだろうし、銀子が一番悲しむのだろう。申し訳なさを感じても、伝えなければいけない。今度は声は震えなかった。
「……なぁ、銀子」
「っ……だから、なによ」
「俺は、人を殺すよ」
「そう。それで。何が言いたいのよ」
今にも泣きそうな顔で、震えた声で、必死に自分を抑えて銀子は答える。眉間にしわが寄って、良く知らない人なら怒っているようにも見える。それでも、これは、涙を必死にこらえている顔なのだ。
「だから、もう戻れない」
一つ呼吸を置いて、そう口に出した瞬間。衝撃を感じる。体ではない。口だ。思いがけぬ衝撃に抵抗もできず、ベッドに押し倒される。目の前にはとうとうと涙の溢れた銀子の瞳。キスをされている。なにを、なんて言う間もなく口が開かれ、異物、いや、銀子の舌が入り込んでくる。歯と歯はぶつかるし、気持ち良いというよりかはくすぐったい。拙くも必死な、銀子の気持ちが伝わってくるような行為。混乱状態、それ以上の悲しみによってなすがままとなる。気持ち的には数十分以上も口内を愛撫された後、銀子の唇が離れた。
キスでズレた眼鏡が俺の顔の横に落ちる。互いに荒い息のまま見つめ合う。銀子の顔が赤い。俺の顔も赤いだろう。認識する暇すらない最中と違って、終わってから一気に心臓が音を上げて体中が熱くなる。色々と言葉にしたいことはある。焦りも驚きもあるが、全て銀子の顔を見ると口に出せなくなる。いつぞやの狂気に囚われたモノとも違う。泣き顔の中で眼だけは泣いていない。涙を流して尚前を見ている、戦う人間の眼。
「好きよ。大好き。愛してるわ」
「そうか……ごめんな」
珍しい、銀子からの愛の言葉。正真正銘の告白だ。だが、それに応えるわけにはいかない。涙を流し、俺の腕を握る手に力を入れる銀子に可能な限り微笑みながら答える。
同時にふっと銀子の手から力が抜ける。俺が上体を起こすと銀子は力なく俺の横に座りなおす。ぽろぽろと涙が膝に落ちる。何をできるでもなく、俺は何も言えずに唇を噛みしめた。
無言が苦しい。言葉を交わさぬ隣に座りあうだけの空気が辛い。銀子と俺にとって、初めての感覚。そんな時間がしばらく過ぎて、嗚咽の収まった銀子が呟いた。
「……なんでよ」
何も言えない。銀子は立ち上がって俺の正面に立つ。そして目がある。睨まれている。俺の眼を真っ直ぐに見据えて睨んでいる。怒気だけではなく、心配。愛情。伝わる思いはポジティブなものばかりだ。やはり銀子は優しいのだ。その優しさに付け込んでいるのが俺だ。何も言わずにいると銀子は声を大きくして再び言う。
「なんでよ」
静かな病室で、聞き逃すはずのない音量。俺は答えない。銀子が地面を強く踏む。だんっ、と音が部屋に響き。銀子が俺の服の襟を掴んで上げようとする。力が足りない銀子は逆にこっち側に引っ張られて倒れ込んでくる。結果としては先と変わらない状態。俺が銀子に押し倒されているような状態だ。さっきとすこし位置が違って、ちょうど照明が逆光になる。銀子の表情は見えない。だが分かる。
「ねぇ! なんでよ!」
叫ぶ。耳をつんざいて部屋を満たす絶叫。それでも俺は、口をつぐむ。銀子の言葉も、心も、自分の痛みも、全て無視する。一向に返事をしない俺に銀子は、とうとう感情を爆発させる。
「――っ! なんでっ! どうしてそんなこと言うのよ! 別にいいでしょ! そんな危ない仕事なんてやめて、私と一緒に家を手伝えばそれで済む話じゃない! いっつもいっつも怪我ばっかりして、本当に死んじゃうんじゃないかって思ったこともあった! あんたが死んだらどうすればいいの! 馬鹿で、阿呆で、無鉄砲で、人の気なんて知りもしない朴念仁で、それでも、それでも私は真九郎の事が好き! 大好き! 愛してるわ! 応えてよ! ずっと真九郎の傍に居たい。真九郎と結婚して、真九郎と一緒に楓味亭を切り盛りして、真九郎の子供が生みたい! ただそれだけでいいの! 危ない事なんてやめて、こっちで暮らしましょうよ! 浮気も愛人もいいから、私だけを愛してなんて言わないから、それでいいから、もう、揉め事処理屋なんてやめてよ。やめてよ、もう、ほんとに、しんぱいさせないでよ。おねがいだから、真九郎――ぁ――!」
ポカポカと俺を叩く。まだまだ、言いたいこともあるだろうに、声を出せなくなって、口だけ動かしながら俺を叩き続ける。いつまでも続くかと思われたそれも、やがて力無く俺の胸に降ろされて、子供の様に大口開けて泣く。俺は、銀子の腕をとると起き上がる。銀子を引っ張ってベッドに乗せる。銀子は顔を腕で隠しながら泣き続ける。
ベッドの上の銀子にもう一度謝ってから俺は病室を後にする。後ろ髪を引かれるなんて生易しいものではない。心を引き裂かれるような、かつての飛行機事故の時のような気分にもなって、俺は部屋から出る。扉を閉める瞬間。銀子がこちらに手を伸ばすのが見えて、手が止まる。震える腕を思い切り反対側の手で叩いて、むりやり動かして扉を閉める。そして、銀子の姿が見えなくなると、扉に縋りつくように体を崩してしまう。
心を満たすのは後悔と懺悔。それから僅かな喜びと安堵。もう引き返せない。いずれやらなければいけなかった銀子との決別。だがこんな機会が無ければやらなかっただろうこと。あのままでは俺はいずれ揉め事処理屋を止めていたに違いない。だが、もうその未来はなくなった。年取って引退するか、大怪我して引退するか、命を落とすか。それら以外の理由で、もう俺は揉め事処理屋を止めないだろう。銀子とのある意味での決別以上に辛いことはまずない。今更仕事を止めれば、これは茶番に成り果てる。それだけは決して許せない。
それに、手紙に書かれたことが真実ならば、本当に激しい感情の高ぶりで虚村の暗示が解けるというのなら、もう銀子は救われた。あれだけして、俺を害そうとはしなかった。自傷にも走らなかった。信頼性は高い。ひとまず信じて構わないはずだ。監視は付けなければいけないが、引き続き山浦さんに頼めばいい。いまのまま、仮に俺が死んでも、銀子が犠牲になることはない。
もう全力で虚村と戦うだけだ。そのための算段は付いている。やはりルーシーに連絡する必要がある。ルーシー・メイ。さらに星噛絶奈。この二人は間違いなく虚村とのつながりがある。
失意の中で、そんなことを考える自分自身に激しい嫌悪感を抱きつつ、八つ当たりだと理解しながら俺は、虚村への敵意を奔らせた。
少々浮気していて遅れました。
個人的に真九郎が揉め事処理屋を続ける上でいずれ乗り越えなくてはいけないと思う事の一つ。揉め事処理屋を続けながらの銀子ルートはないと思います。