柔らかな陽光の差し込む部屋に、二つの影があった。
白く清潔な色合いで、独特の鼻をつくような匂いに混じってしっとりと優しい花の香りが漂う。薄いカーテンを越え、窓の先に見える空は青く澄んでいた。
ベッドには動きやすい衣を着た細い男が横になり、なだらかに傾斜のついた寝台は部屋と同じ色をしていた。
袖机の上には花瓶が置かれており、ベルのような形の真っ白な花――鈴蘭が活けられていた。ベッドの側へ椅子を寄せ、男の手の甲を撫でているのは緋色の髪を揺らす女。耳は頭頂部付近よりピンと立ち、臀部から見える尻尾はゆらりと揺れる。長い髪を二つに結んだウマ娘がそこにはいた。
そこは病室だった。
男の容体は目に見えて悪く、二人で太陽の下を駆け抜けた日々が嘘のように静かで弱弱しくなっていた。
男は、目の前にいるウマ娘の担当トレーナーであった。長く、長く。出会ってから十年は経つ。お互いに年を重ねた。あの頃が懐かしく、それでいて目の前に変わらずいる"憧れ"を見つめる。
大人になり、綺麗になった憧れの彼女――ダイワスカーレットを見つめる。
スカーレットのトレーナーである男は、相変わらず眩いばかりに美しいウマ娘の姿を見て一人笑う。
「と、突然どうしたのよ?大丈夫?」
「あは、はは。ううん。なんでもないよ。ただ、色々あったなぁって」
目を見開き、それから男の言葉を聞いて目尻を緩くする。男と同じように、スカーレットも過去を懐かしんだ。
「そうね。色々あったわね」
二人でぽつりぽつりと、懐かしくも遠い過去を振り返っていく。
「最初に会ったときから、アンタ、アタシのことばっかり見てたの覚えてる?」
「うん。覚えてる。君なら空を飛べるとか、僕と世界一になろう、とかだっけ」
「ふふ、ちょっと違うわね。"君と空を飛びたいんだ"、"僕と世界一を目指そう"だったわ」
「そっか。はは、よく覚えてたね」
「ええ、アンタとのことだもん。……忘れるわけ、ないじゃない」
そっと呟き、スカーレットは微笑んだ。
勝てなくて勝てなくて、必死に"1番"を目指していたあの頃。何をやっても勝てない相手がいて、これから本格的にレースに参加することになるというのに、もう手一杯だったあの頃。
無理をして身体を壊しそうな自分に、真面目な顔で"倒れそうになったら僕が受け止める"とか言い切る男を見て気が抜けちゃった。
結局、トレーナーが付いてもなかなか勝てなくて。頑張っても頑張っても形にならない現実が辛かった。
「あの頃は大変だったねぇ。一人だけずば抜けて速かったから」
「そうね。本当、今でも意味がわからないもの。ティアラに三冠と、六冠取りに行くって何考えたらそうなるのよ」
「ふふ、それはほら、勢いって言ってなかったっけ」
「ええ、聞いたわよ。まったく、そんなのにぜんっぜん勝てなかったんだから笑っちゃうわ」
二人でくすりと笑う。
穏やかな空気がいつも通りで、互いにいつからかまったく気を張らずに話せるようになっていた。
スカーレットの笑顔を見ながら、トレーナーである男もまた思う。
本当に、あの頃は大変だったと。
ジュニア級からクラシック級に上がり、始まったティアラ路線。負けて負けて、彼女に1番を取らせてあげられない自分が悔しくて仕方がなかった。
長い長い暗闇を乗り越え、ようやく辿り着いた先で見えた景色は格別だった。綺麗だった緋色の彼女が、太陽のようだと本気で思うくらいには眩しかったことを、よく覚えている。
「あの頃が、一番楽しかった?」
ふと、気づけばそんなことを聞いていた。辛く苦しい道のりではあったけれど、後ろ向きになる時もあったけれど、それでも前を見据えて進んだ時期。大変であった分、それ以上に強くなれたとも思う。
「どうかしら。トレーナーはどう?」
ふふっと悪戯っぽく笑って聞き返してくるスカーレットに、男は苦笑する。
こんな表情を見せてくれるようになったのも二人で歩いてきた道があるからで、それを思うと胸の内が温かくなる。痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
「どうだろうね。……まあ、シニア級に上がってからも楽しかったからさ」
言ってみて、自分の言葉に笑ってしまいそうになる。"楽しかった"。今だから言える、そう言えるくらいには時間が経ったのだと今さらながらに思ってしまったから。
男の言葉を聞いて、スカーレットはほんのりと頷いた。考えながら、撫で続けている手の甲に目を落とす。
細くなった腕、もともと線の細い男ではあったけれど、今はもっと細くなってしまった。痛々しい、とまではいかなくとも、胸がずきりと痛むくらいには見ているだけで辛くなる。
手を離したくないのは、離してしまうとそのまま消えていってしまいそうな気がするからだろうか。なんとなくそんなことを頭の片隅で思って、思考を逸らす。
シニア級に上がってから。
クラシックはクラシックで怒涛の勢いで過ぎていったけれど、シニアに上がりたてもまた毎日が飛ぶように過ぎていった。
正直、スカーレット自身としてはクラシックとシニアでそこまで変化を感じはしなかった。そもそも競っていた相手が相手なので、常に格上相手と走っていたようなものなのだ。シニアになったからいきなり相手が強くなるなんてことはなかった。少なくとも、彼女自身はそう感じなかった。
でも。
「――シニアは、みんながみんな強く感じたわね」
トレーナーがにこにこと笑うのを見て、スカーレットも釣られて笑う。彼の言った通り、確かに楽しかった。
急に強くなったというより、全員の平均値が上がったような感覚があった。
一つ上の黄金世代、もう一つ上に三冠ウマ娘や最速のウマ娘。さらに上は三強と。G1に出ると絶対強いウマ娘が複数はいる、そんな時代だった。
「それに、後ろからも追ってきていたじゃない?」
聞いてすぐ察したのか、男は苦笑とも微笑とも取れない曖昧な笑みを浮かべる。そういえばそうだったねと続けるトレーナーへ、彼女も頷いた。
「楽しかったのもそうだけど、一番忙しかったのもあの頃かもしれないわ」
スカーレット自身は、幸いにも大きな怪我をすることもなく過ごすことができた。けれど、何人かは怪我で引退するんじゃないかと思った。というか、まさか復帰レースで負けるとは思わなかった。
「あ、今スカーレット有馬記念のこと思い出してる?」
「う、ど、どうしてわかったのよ」
「はは、顔に出てたからね。一番悔しかったのって、やっぱりあのときの有馬記念?」
「そうかも――いえ、待って。悔しいレースが多すぎて難しいわ」
楽しそうなトレーナーを見ながら、改めて考える。
クラシック級のレースはどれもこれも悔しかったし、シニア級になってからだって悔しいことばかりだった。どうしてそこで負けるのか、どうしてここで足が踏み出せないのか、考えてみれば切りがない。そうすると――。
「――けほ」
さ、っと顔を上げる。思考を打ち切り、かすれたような声で咳をするトレーナーの手を握った。
「けほ、こほ……あぁ、うん。ごめんね」
申し訳なさそうな顔で謝る男に、首を振って意思を伝える。
「いいのよ。気にしないで」
言葉でも伝えて、儚げに微笑む男の手をもう一度、優しく握った。弱くも返ってくる手の感触に、温かさと痛みが胸の内に押し寄せる。あふれそうな涙をこらえて、トレーナーの言葉を待った。
「……はぁ、いやはや、咳一つでも大変だね」
「ふふ、もう、他人事みたいに言わないの」
「あはは、ごめんごめん」
まだ普通に会話を続けられる彼に、ほっとする半面怖くもあった。
気持ちを押し殺して、今しかない、この時間しかできない話を続ける。
「それはそうと、やっぱりスカーレットの手はすべすべだね」
「……ばか、それ今言うこと?」
昔の自分なら、こんなことを言われたら恥ずかしくてすぐ手を離してしまっていたかもしれない。でも、今は違う。頬が熱くても、照れくさくても手は離したくなかった。
ダイワスカーレットの内心を読み取り、自身の不甲斐なさと申し訳なさに顔が歪みそうになる。だけど、それはできない、したくない。ただでさえ心配ばかりかけているのだし、それに。それに、今だけは、この
「あんまり言う機会なかったからね。スカーレットの髪とか脚は褒めてきたけど、手なんて褒めてこなかったでしょ?」
「それは、そうかもしれないわ」
「だからほら、僕の好きなスカーレットを褒めておこうかなって」
「……そ。まあ、ありがたく受け取っておくわ。ありがと」
「ふふ、どういたしまして」
一度、二人の間で会話が途切れる。無言の時間は短くなくて、それでもどこか心地よささえ感じられた。
見つめる先には、長く連れ添ったトレーナー/ウマ娘がいて。老けたとか/大人になったとか、遠慮がなくなったとか/優しくなったとか、かっこよくなった/綺麗になったとか、全然変わってないとか/全然変わってないとか。浮かぶことはたくさんあれど、言葉にはしない。見つめ合っているだけで、十分に通じ合えるほど時間を積み重ねてきたから。
「ねえスカーレット」
「なに?」
「髪、触らせてよ」
「いいわよ」
特別だからね、とは言わない。トレーナーに髪を触らせるのなんてもう慣れたことで、コイツが他人(スカーレット限定)の髪を触りたがるのもよくよく知っていることだから。
より椅子を寄せ、二つ結びの片方を男の手に渡す。するすると指通りの良い髪が撫でられ、優しく丁寧に梳かれる。
「相変わらず綺麗な髪だね」
「ふふん、ちゃんとお手入れしてるもの。知ってるでしょ?」
「うん。知ってる。それはもう君にいっぱい聞かされたから」
からりと笑うトレーナーに、スカーレットもまたくすくすと声を漏らした。
優しい手つき。温かな眼差し。慈しむような、愛おしむような、トレーナーからウマ娘へ向けられる愛情。触れられた髪先から、絡んだ視線から、向けられた表情から。目の前の男の一つ一つから自分への気持ちが伝わってくる。
心地よくて、幸せで、愛おしくて――――泣きそうだった。
「っ……ほ、ほら。もういいでしょ?人の髪撫でてないで、アタシと……手、繋ぎなさいよ」
「あぁ、うん。そうだね……そうしようか」
少しだけ遠のいていた意識を戻して、彼女の可愛らしいお願いに応える。
照れた顔も、優しい顔も、全部懸命に抑えて堪えている顔も。ダイワスカーレットのすべてが愛おしかった。
なんとなく、少しずつ身体が重たくなっていくのを感じて苦笑する。ごめんと、ありがとうと。同時に思いながら目の前にいる大事な人と手を繋いだ。
「僕さ、君の――スカーレットのトレーナーでよかったよ」
「な、なによいきなり……」
本当は、いきなりじゃないってわかってる。わかってはいたけれど、それでも波のように動揺が押し寄せてきて、上手く言葉を返せなかった。
「最初から君のこと好きだったけど、どんどん夢を広げていくスカーレットを見てもっと好きになったんだ」
毎日、言いたいことは言ってきたつもりだった。でも、こうして向かい合って短くも長い二人だけの時間を過ごしていると、全然言い切れていなかったんだって自覚する。だから精一杯、今は彼女のトレーナーとして伝えたいことを伝えようと思った。
後悔も未練もあるけれど、あるからこそ、かな。なんて思いながら男は優しく微笑んだ。
「夢を叶えて、1番になって、海外まで行ってさ。戻ってきてまた走って。勝ったり負けたり、スカーレットのすべてに一喜一憂して毎日が楽しかったんだ」
トレーナーの瞳が優しすぎて、ダイワスカーレットはぎゅっと目をつむる。開けたままだと、彼の目を見たままだともう堪えられそうになかったから。
そして、頬に触れる温かな感触に気づく。
「ぁ」
「こんな風に君に触れられるようになって、僕は幸せだ」
頬を撫でる手から生きる人の温かさを感じ、自身の手を重ねる。もう、涙は抑えられなかった。
「僕の人生が緋色に照らされて、スカーレットの輝きに照らされて。スカーレットのおかげで、他の誰にも負けないくらいの自慢が僕にはあるんだって、そう言える人生になったんだ」
我慢は捨てて、涙はそのままにスカーレットは瞼を持ち上げる。トレーナーの愛する、紅く眩しい太陽色の瞳が潤み輝いていた。
「なによもう……アンタも、泣いてるじゃない」
泣きながら笑って、彼女はトレーナーに言う。彼もまた、泣きながら笑っていた。こぼれる雫がきらきらと光って、二人分の輝きが病室に広がっていく。
「あ、あはは。うんっ。そりゃ泣くさ。僕だって君とお別れしたくないから」
「っ!だったら!!」
気持ちを抑えきれず、声を張ってトレーナーとの距離を詰める。
だったら。
だったら、どうしろと言うのか。冷える思考の中、よりあふれる涙が胸の内の想いを示しているようで、どうしようもないことへの悲しみが募る。勢いが緩み、止まる。
「スカーレット」
ふわりと、彼女の背に腕が回された。痩せて細くなった腕だというのに、今だけはどうしてか力強く感じた。
「……スカーレット」
もう一度名前を呼ばれ、彼女はぐすりと鼻を鳴らす。首を振り、顔を首筋に埋め、途切れることのない涙をこぼしながら返事をする。
「な、によ」
「――いつか、いつかさ」
声が遠く感じる。遠いのに、遠いはずなのに、それなのにはっきりと耳に残る声。
「いつの日か、また二人で1番になろうね」
痛いくらいに優しい声がスカーレットの耳を揺らす。もう、限界だった。
「っあ、うぁ、あぁぁ……ば、か。ばかばか……ばかぁぁ……」
泣いて、叫んで。
背を、頭を撫でてくれる優しさに甘えて想いを吐き出す。本当は笑ってお別れするはずだったのに、引きずるものなんてなく、未練もなく幸せなままさよならするはずだったのに。
その言葉はずるい。卑怯だ。
もう叶うことのない未来を、遠く過ぎ去り叶った過去を。また、と彼は言う。ありえない未来を、二度と来ない可能性を、叶わない夢を、トレーナーはもう一度と言う。
わかってる。スカーレットにはちゃんと意図が伝わっている。きっとトレーナーは、また来世でと、生まれ変わっても君のトレーナーでありたいと、そういった意味で言っている。そんなことはわかっている。
わかっているけれど、けれど。そんないつかのよくわからない先じゃなくて、今この瞬間をもっと二人で過ごしたいと、そう思ってしまう。
これが我儘なのかと。どうしてこんな想いをしなきゃいけないのと。神様を恨んで、世界を恨んで、トレーナーを恨んで、自分を恨んで――――それでも、この人と会えたことだけは絶対に恨めなかったから。
だから、彼女は泣きながら言う。
「……当然じゃないのっ、アンタは……アタシのトレーナーなんだから!」
トレーナーの大好きな、太陽のような眩しさでダイワスカーレットは笑って言った。
嗚咽を漏らして。泣きながら、目元も赤くして。
それでもその笑顔は、いつだって男を照らし続けた緋色の輝きに満ちていた。
それから、ほどなくして男は旅立った。
ダイワスカーレットの専属トレーナーとして、彼女を傍で支え続けた男が天へと昇って行った。
死の瞬間までスカーレットは男の手を握り続け、男が永遠の眠りに落ちた後もしばらくの間、ずっと手を離さなかった。
離したくなかったのか、離せなかったのか。
本当にどうだったのかは、彼女にしかわからない。
けれど、ダイワスカーレットは後にこう語ったと言う。
「――だってアイツ、アタシのこと離さなかったんだもの」
彼女と彼女のトレーナーを知る人々は、それを聞いて朗らかに笑った。
了。