君がこれを読んでいるということは、私はもうそこにはいないのだろうね。
思えば君が私の副官としてやってきた時は、なんでこんな若造が……とも思ったが、いややはり上層部はその才能を見抜いていたようだね。私がしくじった時の対応は実に堂々としていて、その手さばきには感心したものだよ。私が褒めても、君は決して嬉しそうではなかったがね。
不満もあったことだろう。上官が女であるという事実を内心納得していなかったのも知っている。性差別な気もするが、それも個性の一つとして受け入れた。私は君の上官だからね。
しかしできることなら、これは私の願望に過ぎないが、それは改めて欲しいと思う。
矯正できなかった私が言うのも何だが、視野狭窄だよ、それは。世界には君より強い女がいて、君より強い男がいる。事実としてはそれで十分だろう?
性差なんて、子どもが生めるかどうかというだけさ。だから君が疎むべきは性別関係なく、君より上の階級であるべきだ。そしてそれは向上心が強い、出世意欲が高い、という評価に変わる。決して今のようなマイナス要素にはなりえないはずだ。
長々と語ったが、そろそろ限界なので筆を置こうと思う。願わくば、私のこの思いが、十全に伝わってくれることを祈る。
「…………」
最後に綴られた名前を見て、俺はその手紙をくしゃくしゃにしてしまった。思わず力が入ってしまう文面だったのだから仕方のない。更に丸めてゴミ箱に投げてしまったのも激情故に仕方のないことだ。
踵を返す。艦長室の扉を乱暴に開いて通路を通っていく。踏みしめる一歩一歩が体重以上の重さを持っているように思えてならない。
「お、どうした?」
向かいからやってきた同僚が尋ねてくるが、俺は一瞥しただけで返答しなかった。何故って、それはそいつの顔が気に食わなかったからだよ。にやにやと気持ちの悪い面しやがって。どうせ事情は予想しているんだろうよ。それでも正義の海軍か!
艦はそこまで広くないし、複雑な構造をしているわけでもない。そして向かう場所も通いなれた場所だ、時間がかかるわけもない。そうして階段を一度下り、左折。最寄の部屋に入る。
ああ、もちろんノックは忘れない。他に利用者がいたら申し訳ないからだ。そして俺は静かに三度戸を叩き、
「中佐ぁぁあああああああ――ッ!」
「うわぁ! いきなり大声を出すなよ、軍曹!」
怒鳴り散らして入った先には白く清潔そうなカーテンがあり、その先から若い女性の声が聞こえてくる。いや、若い女性などと失礼なことを言った、中佐だ。
「いや失礼でも何でもないからねっ、完全に事実だからね。まるで私が老婆のような言い方はやめてよね!」
ちなみに美人な、と付け加えてもいいよ? とのたまうカーテン。変わらぬ足取りで近づき力の限り開放する。
「それは失礼しました。では改めて――――中佐てめぇ!」
「うわ、なんも説明されない呼称だよ。もうちょっと親しみを込めてよ」
「うるせぇ! 何度言ったらわかるんだあんたは!」
ベッドに上半身だけ起こしてこちらを見つめる中佐。栗色の髪を肩口で切りそろえた童顔娘。垂れ目なところは小動物を思わせるが、別にこやつをかわいいと思ったことはないし、庇護欲を駆り立てられたことも皆無だ。むしろ率直に言ってむかつくのである。
寝ていたからか、上着は脇のハンガーにかけられており、白いシャツのいでたちでリラックスしているようである。
イライラする。
「いいご身分だな」
「中佐なもんで、艦長なもんで」
「あの手紙はなんだ」
あの、とは読む人が間違えば遺書のように取れるゴミ屑である。丁寧な文字で、高級な紙を使用するあたり性質が悪い。人の悪意を煮詰めて作ったと言っても過言ではないはずだ。だって読んだ俺の堪忍袋が炸裂したんだから。
ああ、あれ、と思い出しながら中佐は上に視線を向け、そして顔色を青にした。まずいと思う間もなかった。
「でも嘘は書いてないうぇろおおおおおおおああっ!」
「くそがああああああああああ!」
ぶちまけられた、間に合わなかった。中佐のやろう、清潔なベッドをその吐瀉物で汚染しやがった。まるで油の混じった水溜りのような色をしている。こやつの胃の中で何が起こっているというのだろう。
滝のように口の幅のそれを吐き出し、途絶えたと思ったら息を整え口を拭う中佐。
「でも嘘は書いてないよ。私嘘つけないから」
「何さらっと流してんだあんたは!?」
「嫌だなぁ、これを流すのは君の役目だよ軍曹」
これ、と指すのは現在進行形で侵食を続けるゲロである。このアマは本当に女なのだろうか、羞恥の欠片もない。
「でもさ、君もなってみればいいんだよ、私のようにさ。そうしたら私の気持ちがわかるってもんでしょう?」
「わかりません、全く以って理解できません。艦長室をゲロの海にし、避難先でさえもその魔の手で破壊するあなたの気持ちなんて」
魔のゲロか……などとどうでもいいことを考えつつ、俺は仕方なくベッドから中佐を抜き出し腰に巻いた仕事道具でゲロの始末をする。仕事に入ると汚いとか汚くないとかそんなことがどうでもよくなるのは自分のことながらいい性質だと思う。
そしてそんな俺の横で腕組しながらうんうん頷く中佐。殺したい。
「いやはや、やはり君は掃除の才能があるね」
「ありがとうございます。死んでください」
「でも軍曹なのに清掃員って……ぷぷ」
口元を抑えぷすーっと笑う中佐。今腹部に肘鉄を入れても俺は悪くないと思う。しかしそんなことをすれば仕事が増えること請け合いだ。きっと今度は胃液をぶちまけることだろう。
「ぷ、くくく…………うぇろあああああああっ!」
「アンタって人はああああ――っ!」
俺の眼の中で何かが弾けた。やはり入れておけばよかったと後悔した。
* * *
中佐も落ち着いたと信じたい。とりあえず元に戻った艦長室、備え付きの机に腰掛け中佐は資料を読んでいた。俺はその横でただ立ち尽くしている。紙がめくられる音だけが響く艦長室。実に平和なことだと思う。わずか一時間前まで腐海だったことを思えば本当に心安らぐというものだ。
「――ねぁ軍曹」
そして平和は消え去った。
「…………なんでしょう」
「なんで君は私を邪険にするの?」
「………………」
なんということだろうか。彼女は俺がこやつを厭う理由がわからないと言う。思わず半目で睨みつけるが、僅かに小首を傾げるだけである。本当に年上か、こいつ。
すると中佐は得心したのかぽんと手を叩き、
「あれかな? 私が刀嫌いだから?」
「違います」
中佐が刀嫌いなんて情報は初耳である。というか中佐は俺にしきりにちょっかいを出してくるのでそれは意外だった。なんせ俺の得物は言ったとおり中佐の天敵なのである。確かに赴任前に調べたデータでは、中佐が人生を終わらせた人たちは剣士が一番多かったけれど。
「むぅ……ならやはりアレかな? 掃除の腕を褒めたからかな? 確かに海軍軍人たるもの、海の平和を守ってこそ褒め称えられるべきだと思うけど、別に私は君を貶しているわけではなくてだね……」
「――あのですね」
うん、と佇まいを正しこちらに向き直る中佐。こうして見るとやはり年上には見えない、普通の少女である。しかし俺には日頃から蓄積してきたものがある。ここは遠慮なく言わせてもらおう。
「毎度毎度汚物を撒き散らしていく上官、それを片付けさせられる部下。部下からしてみたら堪ったものじゃないでしょう」
中佐の言ったとおり、海軍たるもの平和を守ってこそ存在を認められるべきなのだ。俺はゲロを掃除するために海軍に入ったわけではない。
中佐もようやく気づいたのか(本気でわかってなかったのか?)、しかし困ったように笑った。その表情は初めて見た。
「――でもね、仕方のないことなんだよ。これは代償だから」
「悪魔の実の、でしょう? ならそれに見合う力を得たはずだ、それで余りあるんじゃないですか?」
悪魔の実、それは契約を具現化したものだ。特殊な能力を得る代わりに海に嫌われる、それでもいいのか、という契約。そして彼女はそれにサインしたのだ。
まぁ、海の上でまで嫌われる人は初めて見たが。
「それを言われると何にも言えないんだけど……でも、私のコレは不条理だよ。今では後悔してる」
ぎゅっと両手を握り締めて俯く中佐。俺は何も言わず、ただ言葉を待った。今まで聞いたことがなかった話、それをなんとなく聞ける気がした。いや、あんま興味ないけど。
「私の手に入れた力はね、悪魔の実を食べなくても使えるのよ」
「は?」
「ほら、不条理でしょ? 海に嫌われ、毎日戻して、それを対価に得た力のはずなのに、それなのにそんな代償なくたって使える人は使える。こんなのってないよ……」
声が震えているのがわかった。いつも朗らかに能天気に、こちらを振り回す中佐が見せた暗部。きっと彼女は俺を信用して、そして信用されたくてこれを話したのだろう。こんな間抜けな話、誰だってしたくはないはずだ。
割り切っていればその類ではないが、中佐が違うことはわかりきっている。本当に、この人は今弱い部分をさらけ出している。もしかしたら泣いているのかもしれない。
いや、マジでどうでもいいけど。
「その、中佐……?」
しかし俺は、そんな中佐に本心を言えなかった。ただどもり、言葉に詰まり、沈黙する。あまりにマイナスな感情が伝わってくるので、流石に哀れに思ってしまったのだろうか。
「失礼しますっ、前方に海賊船を発見しました!」
そして空気を読まずに乱入する同僚その2である。しかしこの空気を打破したあなたには賞賛を送りたい。
「ぐす、どこの……?」
中佐が鼻をすすりながら聞いた。本当に泣いていたのか、何の間違いか少し胸が痛かった。
「サウスブルーのスコール海賊団! 船長は“五月雨”のムラクモ、懸賞金6400万ベリーです!」
「部下でめぼしいのは?」
「2100万ベリーの“石手”のイチジリがいますがそれ以外は問題ないかと!」
そう、と中佐は呟き、一つの命令とともに彼を下がらせた。
彼がいなくなると中佐は、ふう、と一息吐き、それまでの様子を急変させて俺を見た。そんな時の中佐はいつ見てもゾッとする瞳をしていて、全てを見透かされているようにさえ思えてしまう。
「石手は君が討て、ハリー」
「……了解です」
席を立つ。軍服がはためき、絶対正義の意志が笑った。
「五月雨は私が受け持つ。私より先に勝てたなら、褒美を一つやろう」
「褒美、ですか……?」
ああ、と呟く中佐。艦長室を出て、甲板に出る。既に歪に爛れた髑髏のマークは間近に迫っていた。
辺りを見回して他に人がいないことを確認、剣を抜く。曇りのない刀身が俺の迷いを断ち切ってくれる。今から俺はただの剣士、剣をいかにして最速で振るうのかという命題しか存在しない。
「そうだな、君に一日うぇろうううあああああっ!」
「あんたまだそれやるのかああああ!?」
がくりと膝を着いた中佐は口元を拭い、まるで仇を見るかのような瞳で呻く。
「く……未だかつてここまで動きの酷い艦は乗ったことがないよ! 責任者出て来い!」
「あんたが艦長だろうがっ!?」
「っ!?」
「いや驚くなよこのくそ中佐!」
剣士としての心得なんてなかった。そう、俺は剣士なんかじゃない。思わず手で顔を覆った。
「俺はっ、この人の副官でしかないのか……っ」
「うぷ、何を今更――――あ、あいつか」
中佐が見やる先には多くの海賊たち、その中で一際異様を誇っているのがおそらくはムラクモだろう。紫色の髪を腰まで伸ばした厳つい男は、何故だろう、全身がずぶぬれだった。腰に挿してある剣が得物なのだろう。
その傍にはムラクモの二倍以上の体躯を誇る巨漢がいる。両の拳が岩のような物体になっているので間違いないだろう。海軍の軍艦を前にして戦意が落ちるどころか漲っている様子、賞金額の割には好戦的なようだ。
「中佐、俺が――」
「ハリー、慎め。それと私が話し出したら奥歯噛み締めて耐えろよ」
ムラクモが剣士だとわかったので俺が相手をしたかったのだが、それは中佐に遮られてしまった。こればかりは上官の意向に従うしかなく、また、中佐の横顔を見ればそれが無駄な提案であったことが歴然である。さっきまでゲロってた人にはとても見えない。双子説を提唱したい。
「私はカタ・ナユタ中佐だ」
ギリ、と言われたとおりに奥歯を噛み締め気合を入れた。
「さて、五月雨のムラクモ及びスコール海賊団に告ぐ――――死ね」
「――ッ!」
瞬間、中佐から異常なまでの威圧感を覚えて気が飛びそうになる。まるで衝撃波、物理的な力ではないのに吹き飛ばされるかのようである。それは中佐を中心に波紋のように広がって彼方に消えていく。
必死になって耐え、そしてそれが凪となった時――
「ふむ、二人か」
無数にいたはずの海賊どもは船長と副船長を残し泡を吹いて気絶していた。
「な、なんだ今のは……」
ムラクモが唖然とする中、俺は確かにそれを知っていた。いや、現実に使い手を見るのは初めてなので俺も驚いているのだが。
「やはり小物だな、五月雨。覇気も知らないでグランドラインの三分の一を抜けたのは褒めてもいいが、それにしても運が悪い……」
覇気。人であれば当たり前のように持っている力。しかし常人ではそれに気づくことはできず、また気づいても使えるようになることが困難な力だ。俺も少ししか使えない。
そして中佐が使ったのは間違いなく覇王色の覇気。選ばれた存在にしか備わっていない伝説の力だ。普段のおちゃらけた中佐からは想像も付かない能力である。
「ハリー、行っていいよ」
「中佐?」
「先、譲ってあげる」
指で先を促されたので仕方なく跳ぶ。あっけに取られたままの二人が見つめる中敵艦に侵入。ムラクモ――じゃないイチジリに照準を合わせ一閃。吹き飛ばした。
「イチジリ!? くそ!」
ムラクモが喚き、剣を抜いた。その瞬間、中佐が跳躍する。高高度から舞い降りた中佐は眼前のムラクモを冷めた目で見やる。半身となり、指を鳴らした。
「くそがあっ!」
ムラクモが剣を振るう。すると剣にまで付いていた水滴が散弾銃のように飛ばされた。剣戟と水弾、これこそムラクモが五月雨を冠する由来である。
「――――」
しかし、当たらない。着弾するであろう水滴だけを拳で弾き、斬撃を紙のように回避する。
全ての攻撃を受けきった後、中佐は左手を突き出した。指の第二間接までしか曲げない妙な握り方。人差し指と中指の間だけが広く開けられている。
「終わりだよ、五月雨」
刹那、中佐は神速の踏み込みでムラクモの懐を制圧する。それに気づいたムラクモが驚愕に顔を染める暇すら与えず拳打を見舞う。
その矛先は、剣。歪に開いた隙間に刃が滑り、その瞬間に力を込めて固定。肘先からを捻転して負荷をかけ破壊する。金属音を立てて二つに分かれる剣。そして中佐の拳には折れた切っ先が残っている。その牙を得た拳を更に引き絞り、一言。
「――武装硬化」
そして、ムラクモの顔が破裂した。
* * *
「中佐、結局褒美って何だったんです?」
やってきたハエの始末をし、上機嫌で艦長室に戻った中佐に聞く。すると中佐は、ああ、と呟き、悪戯が大好きで仕方ない子どもが大層いいことが思い浮かんだぞ、というような表情を見せた。
「日頃から世話になっているハリー軍曹のために、私が一日君の世話をしてやろうと思ってね」
むん、と慎ましい胸を張る中佐。この時ほど俺は賭けに負けたことを喜んだことはない。
ちなみにあの時、俺はイチジリを吹き飛ばしてしまったがために海に沈めてしまった。一向に浮く気配なし、そりゃ両手に重いもんつけてりゃ沈むわな。戦闘終了後に引き上げるのが大変だった。
あからさまにホッとした俺に対し、中佐は機嫌が悪そうだ。
「なんだよー、私の世話にはなりたくないってこと?」
「どうせその間もちょくちょくゲロるんでしょう? なら一緒じゃないですか」
四六時中一緒にいることになりそうだし、それはそれで俺の仕事が増える。そんな褒美より一日のゲロ回数を減らす努力をしてほしい。
「ん?」
「え、何?」
そういえばさっきのが中佐の副官になって初の戦闘だったわけだが、はて。
「中佐、悪魔の実の能力って何なんです?」
「うん? 見てなかったの?」
「え、使ってたんですか?」
中佐が能力者だとは知っていても、それが何なのか俺は知らない。先の戦闘でも使っていた様子はなく、むしろ覇気くらいしか使っていない。
「あれですか? ゲロゲロの実、とか……」
実は戦闘前に吐いたことで何かしらの作用が…………ないな、うん。精神攻撃でしかない、味方への。
「そんなわけないでしょ! どうして私がそんな妖しげな、そして例え良くてもカエルにしかならなそうな実を!」
だってなぁ。中佐の悪魔の実の効果で俺が知っているのって毎日吐くことくらいしか――――吐く?
「……中佐、今気分はどうです?」
毎日吐いている。実を食べなくても使えるようになる。戦闘中に使った力。
“私嘘つけないし”
そして中佐の何気ない一言。
「え、気分? そりゃいつものように吐き気がこみ上げてきてるうぇろおあああああ!」
「しまったああああああ!?」
本日何度目のリバースであろうか。そして俺は中佐に駆け寄りながら思ったのである。
――――なるほど。だから中佐は嘘を