きっと、これは決められたことだったと思うから。そんな顔をしないで、昔の笑顔を見せて欲しい。
きっと、曲げられないことだったと思うから。そんな顔をしないで、ただただ頼って欲しい。
きっと、とても辛いことだったと思うから。こんな私だけど、言わせて欲しい。
「ありがとう、ヒゼン君。今までイリカを守ってくれて」
血塗れで泥だらけの男の子、それがとても誇らしい。
***
「何しやがった、てめぇ……」
「う、動けない……っ」
サンジとチョッパーは全身が硬直している。それが戦闘におけるダメージのせいかと言われればそれは否、サンジは重傷こそ負っているが慣れたものであるしチョッパーに至ってはほとんど万全である。
それなのに、動けない。それは正しく、この終局がヒゼン・ソーマの狙ったとおりの結果だったからだろう。
「ぐ、ごほ……はぁ、はぁ……」
ヒゼンは血の混じった吐息を零しながら痛む身体を引きずって歩いていく。まっすぐには歩けない。よろけ、蛇行しながらそれでも少しずつ二人との距離を縮めていく。
やがて、体感時間は果てしなく、しかし実質三分ほどで二人に到達したヒゼンは薄ら笑いを浮かべて二人を見下ろした。
「トニー・トニー、チョッパー……質問に答えよう」
それは、チョッパーが最初に投げかけた問い。ヒゼンが言わなかった答え。
「君たち二人、相手に……俺が敵うとは思わなかった…………それでも足止めは、しないと、いけない…………だから、こうした」
二人を包むヒゼンの血液は既に凝固している。だがそれでも凝固と呼べるほどに量があるわけもなく、実際は付着したという程度だろう。だが彼にとっては、自分の血があるというだけで十分だった。
「俺と、君たちの生命力は繋がった。俺が致命傷とも言うべき一撃を喰らっても歩けるのは、君たちの力を使っているからだ。ごふ、はぁ……まぁ、怪我が治るわけじゃないけどね……」
内臓がやられた状態では呼吸もままならないが、それでもこれが最後、二人には話してもいいと思った。どのみち三人は運命共同体となっている、意識を失うのは同時だ。
「それじゃあっ、俺たちが動けない説明にならない……っ」
座ったままで話すチョッパー、今でも全力で動こうとしているが動けない。生命力を共有し、ヒゼンがサンジとチョッパーの力を使えるからと言われても二人の行動不能の理由にはならないのだ。
ヒゼンは頷き、ゆっくりと腰を下ろした。もう動けない、身体が限界だった。
「血路は凝固する。これでいいかな?」
「わかるかっ!」
「でも実際、俺には説明できない。そういう仕様だよ……はぁ」
大きく息を吐き、痛みを感じる。ここで彼が気絶した瞬間二人の束縛は解かれるだろう。それでは何の意味もない。
わざわざご丁寧にここまで歩き、説明までしたのは自分への追い込みと生命力の消耗を早めるためだ。ヒゼンが力を使えば使うほどに二人は消耗する。仮に気絶しても結構なダメージになるはずだ。
そして彼が近くにいることで精神的な追い込みも行う。敵が近くにいるという状況は、動けないことを地力で何とかしようと思う気持ちに繋がり、それは徒労に終わるのだ。
後はそう、この目蓋を決して閉じなければそれでいい。他の麦わら海賊団はオートでタイムオーバーだ。そうすればイリカの詩が響き渡り全てが終わる。
――――久しぶり、ソウマ君。
「え………………」
そんな、懐かしい声さえ聞こえなければ。
全てが終わったはずだったのに。
* * *
中佐が放心し、俺も何も言えない中、不意に電電虫が鳴きだした。それにようやく意識を引き戻された俺は本部からの直通連絡を受けることになる。それはまるで今の俺達を見ているかのような正確さで今回の核心に触れてきた。
「中佐が、駒……」
「そうじゃ。カタはトガトガの実の能力者の唯一の肉親であり、対抗できる術もようやく身についた。ここらが潮時だと上は判断した」
咎人イリカ・レベッカに対抗できるものは限られており、かつその存在を殺しきることができる人物は存在しなかった。故に海軍上層部は咎人専用の軍人を生み出すことを決める。それが咎人のただ一人の肉親である。
既に死亡していた肉体に悪魔の実を食べさせることで再稼動させるとともに、咎人との戦闘に耐えうるだけの性能を得るまで慎重に慎重を重ねて育て上げてきた。そして今、彼女の戦闘能力は計算上咎人を上回ったのである。
通信先は俺の元上司モンキー・D・ガープ、かつて中佐の後見人だった人物である。俺自身豪快ながら配慮もできるこの人を信頼し尊敬していた。が、今聞いた話に絡んでいたとなれば話は別である。
「ガープ中将、一つお聞きしたい……中将はいつから、どこまで知っていたのですか?」
「…………最初から、何もかもじゃ」
「っ、あんたは――!」
「――キサヤ、お前人のために命を捨てられるか?」
突然の問いに沸騰した感情が冷え、一呼吸置いて答える。はい、と。
「ならばわかるな?」
自分の命を無力な民のために投げ出せるのなら、自分の良心やプライドも捨てて然るべきである。何の罪もない人間を利用し、結果として多くの人間が救えるのなら、自分自身がどんなに許せない所業でも為すべきだ。それが海軍としての使命であり宿命なのである。
「それでも」
「…………」
「それでも俺は、あなたにはそうあって欲しくなかったです。どんな壁も壊して進むことができる人だと、信じていたかったです……」
「ありがたい話じゃがな、わしには力が足りんよ。年若き娘を利用してしまうほどに無力じゃ。だからのキサヤ、お前に頼みたいことがある。これは命令ではない、頼みじゃ」
「…………はい」
「あの馬鹿娘を守ってくれ」
「………………はい」
そんな頼みは命令と同じだ。俺にとっては、どちらも遵守しなければならないことなのだから。それでも中将が頼みと言ってくれたのが嬉しかった。頼られることがこんなに嬉しいことなんて知らなかった。
「上の席が一つなくなると思ったのに、残念だ」
「そうじゃな、じゃから精々力をつけることだ」
笑いがこみ上げてくるがいつまでもそうしていられない。俺の仕事はここからだ、心ここにあらずの守るべき上官を叩き起こさなければならない。
「中佐。行きますよ」
「…………」
「よくわからないが、導きに会わなきゃ何も始まらないし、ここで座っていても何も変わらないってのだけはわかるぞ。馬鹿なあんたにはわからないのか?」
ふ、と彼女の視線が上を向き、俺を見た。涙で濡れた瞳は扇情的だがそれ以上に繊細で脆い印象を与える。言葉には出さなかったが、否の感情が伝わってきた。
「わかっているなら早く立て。俺はさっさと上に行きたい、だけどそれは俺自身がその地位に見合う実力を付けてからの話だ。はっきり言って、今の俺はあんたに及ばない。だからあんたが勝手にこけて、その後釜に入っても意味がないんだよ。わかるか? あんたが正しく俺より下にならないと、俺がここにいる意味がないんだ」
「…………」
「今あんたがどんな状態か知らないけどさ、今行かなきゃ全部終わるんだ。俺の野望にもケチがつく、引っ張ってでも連れて行くぞ?」
「…………ふふ。引っ張られるのは、嫌だね……」
どんな心境の変化か、瞳に生気が戻り、ぎこちなく笑う。温かな、しかし困ったような微笑はまるで今までと別人のようだ。
……いや、もしかしたら彼女は既に、俺の知る中佐ではないのかもしれない。ゆっくりと立ち上がり涙を拭う。頬を両手で張り気合を入れた。
「ハリー。私ね、全部思い出したよ」
「そうっすか」
「それと、どうして私が今ここにいるのかも、さっき知った。いや、わかった、かな?」
「……」
聞こえていたのだろうか、それとも始めからわかっていて、それすら忘れていたのか。
歩き出す。そのまま部屋を出ようとする中佐は、そうそう、と付け足すように何気なく。
「私はカタ・ナユタだから安心するといいよ、軍曹。変わらず君の壁であり続けると約束する」
「……小奇麗過ぎて気持ち悪いな」
「君の天邪鬼っぷりには負けるよ、あははは」
振り向いてそう言った彼女だけど、それでもやっぱり違っていた。
まるで、嘘を吐いているかのようだったから。
* * *
踏みしめる道が懐かしい。関心があるわけでもないから普段歩く地面に思い入れは何もないけれど、それでも今立っている場所には不思議な感慨が湧いてきた。
ずっと、ずっと歩いてきた道だった。
三人の姿がある。一人は寝転がりタバコを銜えたままで、そのタバコの灰が今にも落ちそうな黒足のサンジ。その彼を診断するように傍に座り動かない綿飴大好きトニー・トニー・チョッパー。
そして――
「久しぶり、ソウマ君」
幽霊でも見るかのように呆然とこちらを見つめる導きのヒゼン・ソーマ。隣にいるハリーが一歩後退した。その配慮に素直に感謝する。
「ど、うして……」
「それとも初めましてかな? 私は海軍本部大佐カタ・ナユタ。こっちは副官のハリー」
ぎり、と歯をかみ締め導きは私を睨む。それには今日会ったばかりの人間に向けるべきでない激情が込められていた。
「どうしてここにいるっ!? 早く島を出ろと言った――がはっ!」
最後まで言い切れずに吐血し頭を垂れた。血塗れで、泥だらけで、いっぱいいっぱいで。記憶にある彼とはちょっと違うけど、それは成長したって証拠だから愛おしい。
何もできなかった彼が、こんなになってまでやろうとしていることが容易に想像できて、とても嬉しい。
「約束、守ってくれているんだね……」
「だからっ、早く……!」
胸に手を置き、万感を込めて。
「改めて久しぶり、ソウマ君。私はカタ・ナユタ、昔の名前はリーティア・レベッカ。君の義理のお姉さんだよ」
「…………………………………はは」
ソウマ君は私から視線を外し乾いた笑いを浮かべた。そこには自嘲と侮蔑と、何より怒りが込められていた。小さすぎる動作に大きすぎる感情を感じた。
「――イリカのことは調べているんだな、まさか姉さんを利用するなんて思わなかった。ああそうさ、死んだ人を騙るなんてごみくずにも劣る行為をするだなんて思わなかったさ!」
文字通り姉の仇を見るが如く睨んでくる。満身創痍であるにもかかわらず、出血がひどくなることにも構わずソウマ君は立ち上がった。
呼吸音がおかしい、内臓の損傷は命の危険にまで達していた。
それでもわかる、ソウマ君はまだ、自分を騙しきれていない。
私が死んだことは知っているけれど、それでもここにいる“私”が本人のように感じてしまっているのだ。だからこそ、そんな幻想を振り払うために彼は立ち上がった。自分の手で、そんな逃げ道を塞ぐかのように。
「でもね、私はそんなことしてほしくないよ」
「バウンド――!」
「――――やめなさい」
間合いを詰める。一瞬で距離を零にし両手を掴んだ。六式の一、高速移動術“剃”。きっと万全なら目で追うくらいはできたかもしれないけれど、今のソウマ君では捉えきれない。
呆然と私を見下ろす。ああ、ちょっと前までは私と同じくらいだったのに今ではこんなに大きい。
「わかっているんでしょう? 私が“私”であることを」
「違うっ! リタ姉は死んだんだっ、あなたは別人だ――ッ!」
「悪魔の実はモノでも食べることができる。死体というモノになった私に海軍は悪魔の実を食べさせ蘇生させたの。動物系ならば悪魔の他に動物の因子がある。銃が犬になるように、私はそれで今の私になったんだ」
可能性はあるという程度でしかない説明だ、ソウマ君には判断のしようがないと思う。
だから私には彼を信じて見つめることしかできない。記憶を掘り起こして本人だと教えることしかできない。
「ありがとう、ソウマ君。イリカはあんなことになっちゃったけど、近くにソウマ君がいたから今まで生きてこれたんだと信じてる。君とイリカが婚約した時、あの子はもうわからなくなっていたけど、それでも幸せだったって今でも思うんだ」
村のみんなで祝った二人の門出は少し物悲しかったけれど、でも私は本当に嬉しかった。
本当に嬉しかったから、だから今は嬉しくて、苦しい。こんなになってまでイリカを守ってくれるソウマ君――――いや、ヒゼン君。
「ねぇ、イリカはもう君のことをヒゼンって呼んでいる?」
「…………」
「――あの時のように、私は君のことを“ヒゼン”って呼んでもいいのかな……」
「………………あ」
イリカがヒゼンって呼ぶんなら、じゃあ私がソウマ君って呼んであげるよ。そうすれば君は故郷を忘れずにいられるでしょう?
……じゃあ俺はリタ姉って呼ぶ。リタ姉が俺をそう呼んでくれるなら、俺もみんなと違った呼び方がいいから。
ありがとう、ヒゼン。イリカは幸せだね。
…………どうして、ソウマじゃないんだ……?
……ごめんね。きっとイリカは本当ならこう言ってくれると思ったから。それに君はもう、本当の家族でしょ……?
……だめだよリタ姉。俺にはレベッカは名乗れない。イリカを守れない俺には、まだその名前は重過ぎる。いつか、いつか、それを受け入れるから、今はまだ……
…………うん、わかった。
膝が折れ、ようやく私と彼の視線は同じ高さになった。瞳から流れた涙が乾いた頬を伝っていく。
血塗れの両手を優しく包んだ。歪な手は骨も砕けて痛々しい。私に治す術がないのが悔しいけれど、せめてその痛みが少しでも和らいでほしい。
「リタ姉…………イリカを殺すの?」
あの時のような子どもの目で、ヒゼン君は私を見た。懇願に似た問いかけ、それに私は微笑むだけ。答えを言ってしまってはいけなかった。
「ありがとう、ヒゼン君。今までイリカを守ってくれて…………お姉ちゃんは、イリカは――――とても幸せだった」
受け止めるように抱きしめた。彼の体は固くて、温かくて、それはとても幸せな感触。儚い夢のように、泡沫のように、それを二度と感じることはないだろう。
覇王色の覇気を、最低の力で送った。苦しむこともなく眠るように崩れ落ちる。それを契機として今まで黙っていた二人が動きを開始した。とはいっても黒足は寝たままである。
「黒足のサンジ、山に向かったのは麦わらか?」
ハリーが問い、黒足は頷いた。あと糞マリモ、とはおそらく海賊狩りのロロノア・ゾロだろう。ヒゼン君が気絶したとて彼の変えた道が戻ることはない。まだ迷路の中にいるはずだ。
「ハリー、君は海賊狩りを頼むよ。望むところだろう?」
「ええ。中佐は――」
これが本当。本当なら村はあそこで終わっていて、私もイリカもヒゼン君も、あそこで果てていたはずだから。
「――咎人を止めるよ。麦わらは、まぁ余力があったらやろうかな」
* * *
ヒゼン・ソーマが倒れたことによってそれぞれの足止めに変化が起きた。サンジ・チョッパーは予想以上の消耗にへたり込み、ウソップ・ナミ・ロビン・フランキーは無限に修正されていた移動通路から解放された。
そしてロロノア・ゾロは奇跡的な方向音痴ぶりを発揮して山の反対側に到達し、モンキー・D・ルフィはじれたために道を形成していた壁を壊しながら上を目指していた。
そして麦わらのルフィはヒゼンの予想外の速さで頂上に到達、そこで死の羽を持った少女と再会した。
「あら? ……えーっと、そう。ルフィ、だったかしら。何しに来たの?」
「お前を止めに来たっ!!」
ずっと走り続けたからか、ルフィは大汗を掻き肩で息をしながら叫ぶ。そのテンションの違いは常人ならば軽く引く、しかしイリカに変化はない。
「“詩”をやめさせたいの? ここまで来るの大変だったでしょう? ヒゼンが頑張ったからね。そういうところは本当にだいっ嫌い」
からからと嗤う。その得体の知れなさ、違和感を覚える不自然さにルフィは張り詰めた緊張をなおも加速させた。
「……でも残念、もう終わったの」
両手を広げ、満面の笑み。怖気を感じたルフィは剃を敢行、瞬く間に少女との距離を詰める。その時間は一秒にも満たない、それなのにルフィは、少女の言葉を確かに聴いた。
「――もう、歌える」
終わりの鐘が、イリカ・レベッカを祝福した。