「え、じゃあ名前がヒゼンなの?」
「そう。ちなみに言うとソーマじゃなくて相馬」
それはちょっとした違い。あくまで彼にとって“相馬”は家名であり、さも名前のような発音をされるのには慣れていなかった。彼がこの世界について気づいたことが事実であるならばそれも致し方ないかと諦めてもいたが、まぁ言わないよりはましだろうという少しだけ後ろ向きな要望。
少年――肥前がレベッカ姉妹とゆっくりと話をしたのは彼がほぼ体力を回復し、村長への挨拶を終えた頃だ。彼は自分がいた国について事細かに説明し、一方でここがどういった世界なのかを姉妹に聞いていた。そうして彼は、自分の予想が当たってしまったことを理解したのである。
当然途方に暮れる。が、原因も、理由も、何もかもがわからない現状。助けてくれたこの姉妹を更に頼るという選択肢しか彼には残されていなかった。ということで肥前はある日突然投げ出されてから二週間の後、ようやく初めての安堵を得たのである。
さて。肥前の故郷とこことの違いはいわゆるカルチャーギャップである。ジェネレーションが付かなかっただけましと思いたい肥前だったが、とりあえずその差は埋められれば言うことはない。そこでまず、彼女らが勘違いしてそうなことを修正することにしたのである。尤も、きっかけは村長との挨拶だったのだけれど。
「イントネーションが違うんだ。ごめんね、変な感じだったでしょう?」
リーティアがすまなそうに言い、肥前は首を振った。知っていて欲しかっただけで実害はほぼない。これは自分の感傷に似た何かが原因だった。わけのわからない世界に放り投げられて自分の足元が揺らいでいる。そんな危機感が不安を煽っていただけの話で、彼女らには罪は無い。
「平気です。ここの人たちとはまた違うみたいだから」
「んー。じゃあ私はヒゼンって呼ぶねっ、私のこともイリカでいいよ!」
「わかった。よろしく、イリカ」
えへへ、とイリカが笑いかけ、肥前も微笑した。まだぎこちない笑顔だが、なんとか表情筋は動いてくれている。やっと落ち着けたのだろうと少年が微かな痛みを奥底へと押しやる中、リーティアはと言うと思案顔。
「…………」
「お姉ちゃん?」
やがて、うん、と頷き手を合わせる。そこに自賛の意はなく、ただ純粋に相手を思いやっていた。
「イリカがヒゼンって呼ぶんなら、じゃあ私はソウマ君って呼ぶわ。そうすれば君は故郷を忘れずにいられるでしょう?」
「――――っ」
不意打ち。
肥前がしまいこもうとした僅かな傷をしかしリーティアは見逃してくれなかった。
本当はわかっていた。発音なんて細かいことにわざわざ断りを入れた理由、それが郷愁の念から来ているということを。
表情に隠して誤魔化そうとしたことを。
だが、それももうできなくなってしまった。リーティア・レベッカは相馬と呼び、イリカ・レベッカは肥前と呼ぶ。ただそれだけで、少年は視界が歪んでしまった。
「ありがとう、ございます……っ」
「あ、ヒゼン泣いてるー」
「泣いてないっ」
「からかわないの。私のことはティアでいいわ、みんなそう呼ぶから」
「ティアお姉ちゃん、だからね。敬意を持って!」
調子に乗り始めた妹を嗜め、今後の関係構築を行う。リーティアにとって少年の呼び方を決めるのは全く難しくなかったが、肥前にとってはとても重い事態だったことは言うまでもない。全てを失った状況で家族ができる。故に、彼がそう決断するのも当然の帰結だった。いや、多分に照れ隠しが混じっていたことは否めないが。
「……じゃあ俺はリタ姉って呼ぶ。リタ姉が俺をそう呼んでくれるなら、俺もみんなと違った呼び方がいいから」
「あら」
「あらら」
レベッカ姉妹は呆ける。何に対してか。
「なんだよ……」
「ううん、ふふふ……」
「ヒゼンってばかわいんだからー」
出会って一週間、命の恩人に当たるとはいえ、まさか姉と呼んでくるとは――
「な、イリカ!」
「逃っげろー」
全く、可愛い弟ができたものだ。
***
ナガシ村は小さい。そもこの村がある島がはっきり言ってしまえば金魚の糞と同等なのだから当たり前だ。島に住む人間は昔偶然にも流れ着いた人間たちの子孫であるが、肥前と同様(というわけではないが)に流れ着いた者も数多くいる。始まりは同じなのだと一人が歓迎し、そして全島民が歓迎する。そんな成り行きでできた現在のナガシ村は総数100に満たないが、それ故に少人数ならではの絆を確かに持っていた。
「ねぇヒゼン、魚好き?」
「好きだけど……いきなり何?」
追いかけっこはいつの間にか村の散策と名称を変え、先をゆっくりと歩くイリカは肥前に尋ねる。肥前から見て三つ年下のこの少女は自由気ままで、しかし人を引き寄せる不思議な魅力を持っている。少年が僅かな時間で家族を感じられたのも偏に彼女の功績が大きかったのは言うまでもない。
「この村は漁村だからね、毎日いろんな魚が出てくるから食べられないときついわよって話」
「ああ、なるほど」
肥前は周囲を見回して得心する。今までの彼周辺では見られない作りの住居に加え、少し遠くを見れば途端に真っ青な空間が広がっている。この世界の象徴とも言うべき海だ。
なんか怖いな……
肥前は漠然と恐怖を抱き身体を震わせる。歩みが遅くなり、イリカが不思議そうに見つめていた。
「そういえばヒゼンはどうしてシンラにいたんだろーね」
素朴な疑問、しかし聞き飽きた言葉。肥前はうんざりするようなトーンで、知らないよ、と。
「私はお姉ちゃんが何を考えているのかわからないけど、でもヒゼンが少し違うことはわかるの」
「……違う、ね」
踏みしめる場所は土から砂へ、塩の香りが強くなる。
「うん。なんていうのかな、違和感、ってほどじゃないけど、違うの。そこらへんがシンラに認められたのかな?」
「それを言うならイリカだって違うんじゃないか?」
「うん、違うよ」
さらりと潮風が髪を揺らした。イリカはくるりと振り返り、止まる。バックには穏やかな、恐ろしき海。ぞっとするような錯覚に肥前は息を呑んだ。
「私はお姉ちゃんがいないと死んじゃうの。だから違う」
「…………好きすぎだろ」
「好きとか嫌いとかそういうんじゃないわ。あ、もちろんお姉ちゃんは大好きよ。でもね、うーん……難しいなぁ」
イリカは頤に手を添えて眉間に皺を寄せた。言いたいことを適切に表現する手段がない。語彙力がない。そういった部分は姉に比べてかなり差がある。
やがてぽんと手を叩き、目を見開いた。瞳の奥の少年が驚いていた。
「イリカは考えすぎちゃうから、代わりにお姉ちゃんが考えてくれているのよ」
***
「本当よ」
リーティアは静かにそう告げて肥前にお茶を差し出した。向かいに座り、ぱちぱちと音を出す火を眺める。
夜。イリカが静かな寝息を出し始めた頃、少年は昼の出来事を姉に話していた。姉は静かに最後まで聞き、そして肯定を示した。
「どういうことかさっぱりなんだけど」
「難しいのよ。イリカの言葉が全てなの」
「全てと言われても」
お手上げ、と万歳して寝転がる。そんな弟に苦笑したリーティアは、思い出すように口を開いた。
「例えば他人が3人いるとするじゃない」
「うん」
「一人は知らない人、一人は知っている人、最後は親しい人。それぞれが一つ話をするとします」
「どんな話?」
「嘘みたいな話、いや嘘かもね。夢みたいな良い話を三人に聞いたとして、ソウマ君は信じる?」
「マブダチのはまぁ信じるかな。後はうそ臭い」
話の信用度をその話し手への信用度で上げるということだ。いきなり初対面で嘘みたいな儲け話など信じられない。リーティアも同じく、と同意する。と、ここまでで肥前はもしかしてと想像した。この話が前振りだとして、ということは――
「イリカは全てを信じるわ」
ばち、と火が音を立てた。ぼんやりと室内を暗く彩る炎に照らされてリーティアは話す。
「あの子は疑うことを知らない。ううん、疑っても同じ。最終的には全てを信じ、受け入れる。それが例えどんなに途方もない話でも、ね。どうしてそうなったかなんてわからないわ、でも気づいたらそうだった。一度海賊がここに流されてきた時に危ないことが起きて、わかったの。イリカは、考えることはできてもその結果を必ず同じところに持っていってしまう」
それは普通に生きていればありえないような事実。実際にリーティアを始めとする村の皆は肥前の見たところ彼の普通の範疇にしっかりと入っている。それはもちろんイリカもそうだ。普通に話し、普通に働き、普通に笑う。世界が変わっても、そこだけは変わりない。が、今イリカだけは否定されようとしている。
「……例えば、俺が島みたいにでっかい金魚の糞を見た、とか言ったら」
「信じるわ」
「空には島が浮かんでいるんだって言ったら」
「信じる」
「俺が――――別の世界から来たって言ったら……」
「それは私も信じるけれど?」
「………………」
「とにかくね、どんなことすら受け入れてしまうの。器が大きいと言えば聞こえは良いけど、この世界、決して良い人だけじゃないから」
だから私は、イリカの姉なの。そうリーティアは言った。何かが外れてしまっているイリカを縛り、普通の生活を送らせる。それがリーティアの日々の全てだ。村の人間は皆家族、それでも血が繋がった肉親はもう少女しかいないのだから。
「だからこそ、私は君を信じてもいいと思っているわ」
「え…………?」
不意に話が自分になったことに肥前は驚き、眼前のリーティアは真っ直ぐに彼を見つめた。暗闇よりも暗い瞳の中で火が爆ぜていた。
「あの子がシンラに唯一入れる理由、正解かわからないけれど私はこれがそうだと思っているわ。無垢で、人を疑うなんて知らない、純粋そのもののイリカだから。自然と溶け込むのが当然だから、だからシンラは受け入れたんだって。だとすると、そのシンラから出てきたソーマ君は、つまりはイリカと同じなんじゃないかなって」
「……俺は人を疑うし、そんな純粋じゃない」
「でも、私たちとは違う。そうでしょう?」
少し、少しだけ、肥前はその言葉が突き刺さった。頼るもののないこの現実で唯一縋れる女性から零れた否定の言葉。まるで自分のことを嫌悪しているかのように聞こえてしまった。
ふるふると首を振る。リーティアがそんな人間じゃないことはわかりきっているし、話の流れ上当然の言葉だ。ナイーブになっているのかと、肥前は複雑な心情を自覚する。
「でもその違いはきっと良いものだから。だから私は君を信用しているし、これからも一緒に生きていけると思う。イリカもそう思っているはずよ、きっと」
「…………」
ほら、言ったとおりじゃないか。肥前は自分に言い聞かせた。独り相撲とはこのことだと、野球の一風景を思い浮かべながら思った。
「これから先、私だけじゃイリカを見ていられなくなると思う。だからこそ、聞くわ。これからもイリカと一緒にいてくれる?」
正直、元の世界に帰りたいと思った。だって何もかもが違うこの世界では、肥前は生きていく自信も、拠り所もなかったから。でも、今目の前で笑う彼女と、安らかな寝息を立てている少女を思えばそれも変わる。帰れるのなら、帰りたい。でも、この二人に恩を返すまでは、ここにいたい。そう思った。
「ありがとう。これはもしかして、いつかはレベッカを名乗ることになるのかな?」
「ならないから」
「イリカかわいいでしょ?」
「知らないよっ」
リーティアは笑う。少年の性格ももうよくわかった。言葉には出ない感情はしかしとてもわかりやすい。不謹慎だが、弟でありペットであるかのように思った。
さて。
とりあえずの話が終わり、いよいよ以ってリーティアも遠慮を排除する。困ったように頬に手を当て、首を傾いだ。
「ところでソーマ君、これから一緒にいるにあたって穀潰しはちょっとねえ」
「あ…………」
「明日から働いてね、男の子っ」
そして、彼は大工になった。
そして、彼は溺れた。
* * *
「本当にあるのねぇ、悪魔の実」
「ぜぇ、ぜぇ……っ」
「ヒゼン、生きてるー?」
全ての力を振り絞って倒れ伏すヒゼンとそれを見守るレベッカ姉妹。姉は不思議発見、妹は死体発見と言ったところか。ちなみに弟は不思議な死体役である。
ヒゼンは溺れた。完膚なきまでに溺れた。始まりはそう、イリカがふざけてヒゼンにちょっかいをかけ、追いかけるように海に入ったことである。ちなみにイリカは少しも悪いと思っていない。
「もう一度聞くけど……って今は無理かな。ソーマ君、とりあえず移動しよっか。立てる?」
息を荒立てながら頷く男の子。うん、と笑顔になったリーティアは頤に手を当て、さてと考える。
自称カナヅチではないヒゼンが溺れたのは多分悪魔の実が原因だろう。ならば、その実に宿る能力を彼は手にしていることになる。それが何なのか未だ特定できていないのは、偏に彼自身がそれを自覚していなかったからであろう。
「うーん、これはお仕事の前に把握かな」
自分を知る、何と難しいことか。まぁそれも三人でなら大丈夫だろう。
これからを思うとリーティアは頬が緩む。不安もある、だがそれ以上に楽しい日々になるだろうと確信していた。