生まれて最初に思ったこと、なんて覚えている人はいないのだろうが、残念なことに例外も存在する。
* * *
「中佐、またですか……」
既に当たり前になった言葉、十分な顔見知りとなった人事担当の女性に素直に頭を下げる。こればかりはどうしようもないとはいえ、流石に同情を禁じえない。いや、全く以って私のせいなのだが。
「海楼石を付けたらどうです? 超人系の方ならそれで抑えられるのでは?」
「私も試したんだけどね、もう体に染み付いちゃっているみたいなんだ。それに何でか知らないけど上層部から海楼石使用禁止、なんていうわけのわからない辞令が下っちゃって……」
首をかしげる彼女だが、それをしたいのは私なのである。能力者を封じる海と同質の石は貴重だが確かな成果を見せている。実体のない自然系など覇気以外ではこれぐらいしか共通の弱点はないくらいだし。そしてそれは私の吐き気を確かに抑えてくれるはずだ。はずなのだが……
「結局体質になってしまった、ということですか……あなたは海賊にではなく海と船に殺されますね」
「それはそれで嫌だなぁ」
苦笑い、のち沈黙。
「ふう、まぁいいです。中佐からの希望転属という形でいいですね」
「ありがとう。いつもいつも世話になる」
「仕事ですから」
眼鏡を直し、さらさらと書類を作る。どうでもいいけど眼鏡変えたんだね。個人的には前の女教師みたいな黒縁丸のが好きだけど、ピンクも似合ってるよ。
「…………彼氏ができたんです」
ばーかばーか。
***
また一人副官がいなくなってしまった。非常に有能で、将来を嘱望されていた人物だが、どういうわけか私のところに来てしまった。南無。
「というわけで『美人艦長の補佐になれるよ! やったね!』くじ引きを行います!」
「中佐ー」
食堂にて行われる一大イベントである。発案は私。しかし宣言の後に現れるのは喧騒ではなく沈黙、そして一人の挙手であった。ラマラ曹長、軽薄だが確かに海軍の誇りを持っている者である。その癖のある灰色の髪が揺れていた。
「はい、ラマラ君!」
「もう個人で清掃員雇ったほうがいいと思いまーす」
「しゃらっぷ! 私は同時に仕事を補佐してくれる人がいい!」
「人事に頼んでダメならもうダメですよ。中佐の実態知っている俺らじゃ罰ゲ――――力不足ですよ」
「何、だと……?」
こんな垂涎ものの機会に対してクルーの全てが曹長に同意して頷いている。この一体感はすばらしい。責任者は誰だ? 私だよ!
「しかし同時に上司を敬わない態度。責任者は誰だっ!?」
「いやあんただよ」
これまたすばらしい一体感でつっこみを入れられる。どうでもいいけど合唱みたいですごいね。しかしこれでは私も考えてしまう。
今はまぁ停泊しているのでそこまでの吐き気はないが、一度海に出ればそこは死と隣り合わせなのである。具体的には書類が読めなくなり頻繁に栄養失調になる。食べても食べても外に出るのだから、もういっそ点滴とかつけようか。
「そしたら私の二つ名が点滴になる。“テンテキのカタ”って響きはすばらしくないか?」
「一目見れば失笑ものですけどね」
点滴をつけて戦う病人海軍とか面白すぎるが、私は威厳が欲しいのである。こう、部下が迷わず敬礼してくれるような圧倒的な威圧感が。
「はっ!? 覇王色の覇気を使えば――」
「仕事になりませんよ」
「む、職務怠慢か? 許さんぞ」
「訓練不足を他人に押し付けないでくださいよ」
やれやれ、と首を振る曹長。確かに覇王色がコントロールできないのは私のせいか。もともと選ばれた存在のみの力、私にはその適正がないためにここまで苦労するのだろう。これを使うときは戦場に部下を出せないのが私の現在位置なのである。
「心配しなくてもまたガープ中将が誰か寄越してきますよ」
「う、あの人のくれる人材は少し苦手なんだ。特に君とか」
「いやぁ、あっはっは」
「うん、そうだよ褒めてるよ」
たぶんだけど、中将も私が苦手なんだと思う。だからこそ私の苦手なタイプがわかるんだろう。関わってから長いしね。
いやらしい爺だが、あの拳骨には逆らえない。痛いし、痛いし、痛いし……
***
「本日よりカタ・ナユタ中佐の副官を勤めさせていただきます、ハリー・キサヤ軍曹であります。よろしくお願いします」
「…………」
そして数日後、見事に中将から渡された彼は不思議に苦手なタイプではなかった。青い髪は襟足だけが伸ばされていて不潔感はなく、切れ長の黒の瞳は意志の強さを思わせる。刀を差しているのは……まぁ目を瞑ってもいい。そこまで干渉することもないだろう。
しかしそれ以外は特にない。うん、中将からなのに苦手じゃない。
「中佐?」
「あ、いや。うん、よろしく頼むよ軍曹」
とりあえず握手をば。友好な関係を築いていけることを祈って。軍曹は一瞬面を食らったようだが、しかしさわやかな笑顔で握ってきた。うーん、しかし、わかっていたけどさ……
「……ちっさ」
「…………何か?」
君の手です。いやほんと、資料には18歳って書いてあった気がするけど、でも君本当に小さいな。私より小さいってやばいぜ?
「…………ちっさ」
「聞こえました、しかし触れないでいただきたい。中佐よりは高いとはいえ、それでも平均を大きく下回っているのです」
「いや私より小さいだろうがよ」
「小さくないです」
「小さいよ、認めなよ」
「うるさいな中佐、僻みですか?」
何この若造急に態度悪い! 苦手じゃないとか間違いだった。いや間違いじゃないや、苦手じゃないけどむかつくわ! 少しは敬え、私は上官だぞ!
「しかも年上だぞ! 24歳!」
「うっわ」
「処刑」
侮蔑の声が響いたので、とりあえず覇王色でオトス。そして落書き地獄だ。地獄だ。
「…………あれ?」
地獄が、というより気絶しないんですけど。というか本人何されたかわかっていないんですけど。
「――何か?」
ジト目で睨む軍曹、いやハリー。これがわざとでないのは明らかだが、それがなおさら堪える。私の覇王色は、この程度の奴すら落とせないのだ。
「く、くそぅ……」
「いや何勝手に落ち込んでんだあんた」
そして地を隠す気のないこやつ。中将、あんたって人はとんでもない刺客を送り込んできたもんだぜ。
「中佐、とりあえず俺はあんたの副官ということで何をすればいい」
だが甘い。私は上官でこいつは部下だ。その階級差、せいぜい利用してやろう。
「模擬戦」
とりあえず曹長に嬲ってもらおう。
「…………」
私は見誤っていた。私の覇王色が効かなかったハリーだが、よく考えるとそれ以外の現行のクルーには効いているのだ。それはつまり彼らよりもハリーのほうが強いというわけで……
「しかし少しは抵抗しなよ、曹長」
「いや無理ですわ。強いッス」
息も絶え絶えなくせになぜか笑顔の曹長。むかつく。そして曹長を一蹴した彼はというと模擬刀を鞘に収めてこちらを見ている。今回は私の負けのようだ。
「強いな、軍曹。まさか曹長を負かすとは」
「これぐらいはできます。階級は下でも、副官という立場である以上は簡単に劣るわけにはいきませんから」
そこには確かな自信が見えていた。確かにハリーの実力は想像以上である。伊達に中将に名前を知られているわけではないのだ。
「これで性格が変わって得物も変われば最高なのに」
「中佐、何か?」
「気にしないで」
ハリーは首を傾げるが、既に私という存在のおおよそを掴んでいるのか言及はしてこない。ああ、やっぱり有能なんだなぁ。
「ハリー軍曹、大変だなお前も」
気づけば曹長が肩に腕を回して絡んでいた。それに無表情で応えるハリー。しかし曹長、大変とはどういうことだ。
「ま、明日の出航には間に合ったね」
何とか副官を手に入れ、再びの巡航に入る。点滴はどうしようか。
「中佐、やっても中佐の二つ名は変わりませんよ?」
曹長、それはどういう意味だ?
そして始まる私の憂さ晴らしの日々。ハリーはなかなかにからかい甲斐のある奴で、反応がとにかく楽しくてしょうがない。私が初めて吐いた時は狼狽して必死になってくれたので根はいい奴なのだろう。やはり彼には海軍としての資質はあるのだ。
私が戻した理由を説明しなかったためにハリーは港に戻ろうと提案したようだが、それをにやにやと跳ね除けた曹長がいる。結局二日目にネタばらしをして半殺しにされていたが。
三日目には自分の仕事の大半が掃除だと気づいたのか、腰にはゴム手袋と雑巾が常備されるようになった。彼が名を上げた時には雑巾のハリーとして海賊に恐れられるだろう。やばい、これは彼には早く武功を立ててもらいたいものだ。
「いや待て、掃除屋のハリーとか割とかっこよくないか?」
悪を駆逐する掃除人とか粋じゃないか。それは正直羨ましいぞ。
「軍曹、君の腰にあるそれは捨てていいか?」
「中佐がもう吐かないってんならいいですよ。もしくは吐いても自分で片付けるなら」
「掃除屋のハリー、いいじゃないか」
雑巾のハリーの可能性もあるんだ、希望は捨ててはいけない。当の本人はそれも嫌いそうだが。
「そうだ、軍曹。君の剣術だが珍しいな。私も多くの剣術を見てきたが君のは初めて見た」
「そりゃそうですよ。刀という武器の長所を台無しにする剣術ですから」
ハリーとマラマ曹長との試合、曹長が棒術を駆使するのに対し、ハリーは刀を振るった。いや、突いたと言うべきか。
彼は斬撃と呼ばれる一切を使用しなかった。行ったのはただ一つ、突きだけである。それが何を意味するのか私にはわからなかったが、それはやはり固有剣術の特性というものなのだろう。
「突きのみ、というのなら剣である必要はないだろう?」
「それがあるんです。とはいえ俺もそこには達していないんですけど」
一種の誓約か、突きのみを使用し続けることである日突然悟るのだとか。わけわからん。
「わけがわからないよ」
「でも挑む価値はあると思っています」
ということは彼自身わけわからんと思っているわけだ。しかしそんな自分の認識と剣術の信頼を天秤に掛けたら重かったのが後者だと。それはそれで一途だな。
「よし、君は例外ということにしようじゃないか」
それなら君は剣士じゃない、突込みだ。なんか性格的にもそうっぽいし。
「何のです?」
「後で話すよ」
そう、とりあえず木っ端の海賊倒してからね。
* * *
あれからどれほどの月日が経ったか知らないけれど、というわけで倒しました。グランドラインの中では小物であった五月雨は海の藻屑である。刀を持ち、私の前に立ったことが敗因だ。
「刀が嫌い、というよりは剣士が嫌いなんだよ」
「そういえば言ってましたね。付け加えると、五月雨が剣士とわかった瞬間の中佐は凄みがありました」
いつもあれならいいのに、なんて失礼なことを言う軍曹には夕食の中にとっておきを入れてやろうと思う。
大きく息を吐いた。するとハリーも姿勢を正し沈黙する。こういう機微に敏い所は彼の長所だろう。彼を立たせたままなのは、座っている私が見上げたい心境だからだ。なんとなく、本当になんとなくだけれど。
「――私が海軍に入ったのはね、とある海賊をこの手で殺すためなんだよ」
「…………」
* * *
雨。
それが“私”の最初の思考だった。
手には真っ赤な血だけがあり、周囲には無数の屍と蹂躙された家々がある。既に雨により鎮火されたのか、ただ煙が小さく上がっているだけで、それ以外の変化は一切なかった。
「――――」
目の前には血まみれの少女がいた。栗色の髪をした、十歳くらいの、もうすぐ死ぬ女の子。雨で顔に張り付いた髪を除けることすらできず、しかし最期の力を振り絞って私を見た。
口が動く。
「お……ね、ちゃ…………」
その短い言葉すら言い切ることもできず、おそらく妹だった子は死んだ。その生の消滅を、しかし“私”は何にも感じることができなかった。
それはそうだ、“私”が生まれたのはついさっきのこと。私の妹だった少女は、“私”にとっては妹ではなかったのだ。
「…………ぁ」
小さく声を出してみた。他人の口のようにうまく動いてはくれない。いや、真実他人の口だったのだろう。他人の体だったのだろう。だから“私”のその小さな動きが、私の体を覚醒させた。
「ああ、あああああああ、あああああああああああああああああああ!」
声と、涙が止まらない。“私”の意志とは関係なく、体はそれをし続ける。肉親の死を、悲しみ続ける。
「あああああああああああああああ! ああああああああああああああああああああああっ!」
いつしか、“私”も声を出していた。“私”が声を出していた。体に引っ張られるように感情の奔流が襲い続ける。手に取ったもう動かない手は私の心に深く深くとげを刺していく。優しい、悲しい痛み。
「ああああああああ、ああああああ、あああ――! わ、だじ、は……」
雨が強くなっていく。体を強かに打ちつけていく。でもそれでよかった、私だけ助かったなんて、そんな痛い事実を弱めてくれたから。
「わたじ、は……わたしは…………」
――――どうして私だけ助かったのか。それを知るのはまだ早い。
そして、声が聞こえた。その声はただ雨をかき消すように脳に響き、不思議と心を落ち着けた。
辺りを見回しても姿はない。そんなこと、聞こえたときにはわかっていた。きっとこれは幻聴だ、私が崩れないために聞こえてくる無為なものだ。
「私は……誰……?」
だから、そんなありえない疑問を口にする。そうすればこの声が答えてくれる気がした。
「生まれたばかりの君に名があるとでも? 自分で適当につければいいだろう」
しかし求めた答えは残酷だった。名前はない、ただそれだけが真実だった。私には名前がない。今まで生きてきた私の体にある名前は、私の名前にはなり得ないとわかった。
「そうだな、一つだけ教えておいてやろう。君の傍には常に刀が存在する、それも最悪の形でな」
「どういう、こと?」
「この惨劇を作ったのは一人の剣士だ。そら、もう君の人生に刀なしなどありえない」
おかしそうに声は笑う。最初の時に比べてずいぶん癇に障る口調だったが、でも私にとって大切なことを教えてくれた。
けんし、と小さく呟く。それだけで、何かが沸き起こってくる。考えられない感情が爆発する。
「あ、はは、ははははははははははははは」
にやりと、口が曲がった気がした。
それは間違いなく歓喜の証明、今私は、初めて生きていてよかったと思っている。
「剣士。それが、それが……私の敵か――」
当たり前の話だが、この惨状には原因がある。それが自然災害なら悲しむほかないが、それが人為的なものだというのなら。
――これを作った人間が今ものうのうと生きているのなら、私はそれを許さない。
「許してなるものか。私は、私は――――そいつを塵一つ残したくない……っ」
にやりと、声が笑った気がした。
それは間違いなく愉悦の証明、今そいつは、自身の成功を確信している。
「ふふ、まぁいいよ。幻聴だろうがそうでなかろうが、私には何にも関係がない」
いつの間にか雨が上がっていた。立ち上がり空を見上げると鉛雲の隙間から青空が見えている。
「ああ、真っ赤な青空だ」
天と地がひっくり返った気がする。地上の惨劇は天にも写った。そう、私の世界はそれでいい。そのために“私”は生まれたのだから。
「ああ、名前、考えないと」
せめてもの名残をと、妹の体を具に見る。また涙が溢れてきた。すると妹のポケットの中から一枚の紙が見つかった。
「――か、た、なゆた」
女の子が二人、男の子が一人描かれている。それぞれの下には名前が書いてあったのだろうが、それは少女の血で歪に潰されていた。読める文字は一人の名前と二人の一部だけ。
「ナユタ、か。どこかにいるのかな……」
この死体の海の中にいるのだろうか、それすらもわからない。ただせっかくだから名前をいただいていこう。
「カタナって言うのは皮肉が利いているね。でもそれだけじゃ癪かな」
私は剣士を許さない。剣士にだけは絶対に負けない。だからこそ、剣士を剣士足らしめるそれを許さない。
「カタナなんて、私が真っ二つに折ってやる」
それが、私の名前だ。
* * *
「というわけでね」
流石に話し疲れたね。あまり話すようなことじゃないからついつい興が乗ってしまった。
「――中佐」
「うん」
流石に軍曹も顔が強張っている。ふふ、あまりそういうのに耐性なさそうだしね。黙っていればそこそこイケる顔なだけあってその深刻さがよく伝わってくる。少しかわいそうなことをした気がした。
「中佐は、どうしてその話を俺にしたんですか」
「…………」
さて、困ったな。特にこれと言った理由はなくて、単なる話の流れというのが本音だけど。ここは少しだけ優位に立たせてもらおうかな、今後のからかいのために。
「君が、信頼に足る男の子だと思ったからかな。この話を知っているのはこの艦では君だけだ」
そして放つ必殺のアルカイックスマイル。この俗世を超越した笑みは今の雰囲気にぴったりじゃないかと思う。密かに練習した甲斐があるってものだ。
というか、今の私の心境こそ空気読めと言われそうである。
「中佐」
「うん」
「その剣士って誰ですか」
そうだよね、そうくるよね。というか私の必殺コンボは無視かな。
「……いや、もうやめよう」
流石に心が荒んでくる。これ以上仮初の本音ではいられない。ゆっくりと深呼吸して、そして彼を見る。
小さいな、でも、結構頼りたくなる顔だよ、ハリー。
「ジュラキュール・ミホーク。それが私の――――“刃斬り”のカタが殺したくてたまらない奴だよ」