「人間は正義がなければ生きていけない。それは正義というのが平和的に人生を送るためには必要不可欠であるからで、故に人間は平和を愛し秩序を好み、混沌を忌避し無秩序を憎む。正義を追い求める海軍は自分達の味方で、その対極を成す海賊は悪であり自分達の敵である」
長くなった爪に鑢をかけ、塵になったそれを息で吹き飛ばす。出来栄えをつまらなそうに眺め、その先に見える景色をおぼろげに捉えた。
「正義とか、悪とか、そんな抽象的で脆弱な概念に拠り所を求めて行動しては物事を尽く都合のいいように解釈して呑み込んでいく。結局のところ、人間は自分にとって都合のいいことしか正義じゃないんだ」
「…………」
不自然なほどに滑らかな岩に腰掛ける彼女の横に後ろ手で立つスーツ姿の青年はただ黙って聞いている。身長は高いが顔の造りはそこまで年輪を表していない。まだ二十にも至っていないようだった。
少女の口は止まらない。粉になった自身が風に乗って空気に溶けていった。
「正義も悪も人間の利己的な判断で全て変わる。だからこそ人によって正義も悪も変わるの。でもさ、それってつまりはその人次第で世界が変わるってことでしょ? イリカはね、そんな変てこなものはいらないと思うんだ」
さらりとまっすぐに伸びた髪が風に揺れる。額に大きな傷を持った青年は、絶えず形を変えて靡く栗色をただ見ていた。
「世界は綺麗だなんて戯言を言っていいのなら、イリカの見る世界がどんなに醜悪か力説しても、それを否定することはできないの。でもなんでかなぁ、イリカってばずっとずっとそれを否定され続けてきたの。会う人会う人にお前は間違っているとかもっと素直に見つめてみろとか言われてさ、でもおかしいよ。イリカはずっと素直に世界を見て、だからこそこんな汚物塗れの世界なんて嫌いなのにさ」
「……イリカが感じたことが全てだ。それを疑う奴らはイリカの前にいなくていい奴だったんだ」
青年の同意に対しても興味を示さず、長い睫毛は若干伏せられ瞳は腰掛ける岩を見つめていた。凹凸のない完全な球体を地面に埋め込んだような岩、その冷たさが心地よい。
「ヒゼンってばおかしいこと言うのね。イリカが知ってる人は二人だけなのに、まるでいろんな人がイリカと会ったみたい」
くすくすと笑う少女の言っていることは破綻している。しかし青年はそれを言わず、ただ沈黙で返した。これが最善の対処法だと知っていた。
よっと掛け声一つ、岩から飛び降りた。踏みしめる地面にも何の凹凸はない。土は均したように平らで、その平坦さは異常であるが少女にとっては正常だった。彼女の歩く道はただ平らでしかないのである。
そこかしこが赤くなっている地面の中、まるで道しるべのように自然な色をした茶色の道を少女は歩く。その後ろを一定の距離を保って青年は続いた。
「ああ、汚いなぁ。匂いもすごいし、ここにいるこトガ堪らなく好きになってきたよぉ」
「……何が、好きなんだ?」
「好き? 好きって何だっけ。スキップ?」
跳ねるように軽やかに進む少女、青色のワンピースがひらひらと舞った。彼女の感情のようにふわふわと、しかし決して離れることはなく。
「ここにもいなかった。何が人口300人よー、一人もいなかったじゃない」
「そうだな、君の求める人間なんてここにはいなかった」
夥しい300の屍の景色がまるで視界に入っていない少女はくるっとその場で一回転、ハイヒールの踵が地面にめり込む。僅かな土煙が起こり、それは一瞬で掻き消えた。
「ねぇヒゼン、そういえば思い出したわ。もう一人いた、イリカが会ったことあるの」
「そうか。どんな奴だった?」
「んーとね、すっごい髭で、すっごい目つきで、すっごい丸い人間」
「マーシャル・D・ティーチ?」
「そんな名前だったっけ? まぁ名前なんていっか。あの人はすっごくかっこよかったわ、人間という存在を煮詰めて凝縮して腐らせたような人だった」
黒ひげと呼ばれる危険人物との邂逅を思い出し、少女は手を広げてバランスを取りながら歩く。新品のような服には鼻をつく匂いがまとわりついていた。
「彼の勧誘には興味がなさそうだったが」
自分より一回りも小さい身長、少女の成長速度がおかしいことを青年――ヒゼンは気づいていた。それが力の代償であることも承知の上で、それでも少女を止めることはできなかった。
「勧誘? なんかおかしいのよあの人。イリカは全ての人の頼みを断らない、だからイリカは全ての人間の味方なの。それなのに仲間になれって変な話じゃない?」
「……イリカ、君がそういうつもりでも、他の人はそうじゃないんだ。君が思う以上に世界は君に厳しくなってしまった」
ヒゼンは立ち止まった少女――イリカの前に立ち、その両肩に手を置いた。ゆっくりと引き寄せ、小さな体を抱きしめる。イリカはそれを不思議そうな顔で受け止めていた。
「世界中の誰もが君の命を狙っている。でも俺は、この先どんなことになっても君の傍に居続けるよ。それが俺の――君を守りきれなかった俺の咎だと思うから」
抱きしめた腕に力が篭りすぎて、イリカは青年の胸で苦しそうにもがく。それにようやく気づき、ヒゼンはその腕を解き放った。
「もうヒゼンっ、私を殺す気なのっ?」
頬を膨らませる少女にヒゼンは曖昧な笑みを返し、背を向けた。もうこの場所にはいられない。左右から怨嗟の声が聞こえてくる気がしてヒゼンは歩みを速めた。
小鴨のように彼についてくるイリカは鼻歌を刻みながら上機嫌で、その空気がより一層彼の気持ちを強固にする。
「Dが付く名前、あいつはきっと危険な存在だ」
「何か言った、ヒゼン?」
「いや、何も――――イリカ、今度はどこに行きたい? ここは寒かったから暖かい島に行こうか?」
「んー、ヒゼンの行きたいところでいいよ。イリカが行きたい場所よりもヒゼンの行きたい場所のほうがお姉ちゃんがいそうなの」
早く会いたいなー、と鉛色の空を見つめて呟く少女。青年は嘆息し、内ポケットに入れておいた永久指針を見て行き先を決める。三択である次の行き先、しかし彼にとってはそうではなかった。
「……決めたよ。じゃあ船に戻ろうか」
「次はどこかなー」
イリカは今まで目的地を聞いてきたことはない。新鮮な感情を大事にしているから、という理由は遠い昔の少女のそれだ。もう理由が違っていても、結果的に行動が同じなら青年にとっては嬉しいことだ。
ほんの少しだけ、幸せだった過去を思い出すことができるから。
「ヒゼン。イリカはね、ヒゼンが大嫌いなんだよ」
「そっか。俺はイリカが大好きだよ」
「殺したいくらい?」
「殺したいくらい」
「なら許してあげるっ。えへへ」
「イリカは、俺のこと殺したいか?」
「ううん、ヒゼンはイリカに殺されたがっているから殺してあげないっ」
「そっか」
「そうだよ」
「……そっか」
いつの間にか手を繋ぎ、青年と少女は血塗られた島から消え去った。残ったのは血生臭い人間だったモノの塊と視界が陵辱されるような濃い空気の色だけ。
冬島故に、腐敗の速度は遅い。だからこそ、これより一週間後にこの島を訪れた海賊が見た光景は、氷の中で鮮明に残り続けていた惨事そのものであった。
“咎人”イリカ・レベッカ。懸賞金4億1600万ベリー、デッドオンリー。
“導き”ヒゼン・ソーマ。懸賞金2億ベリー、アライブオンリー。
探し物は見つからない。
* * *
カタ・ナユタは久方ぶりに彼女の船に戻っていた。艦長室の椅子に身体を預け目を瞑り、静かに頭を整理していく。自分の中にある始まりの記憶と先ほど聞いた事実を照らし合わせると、驚くほど簡単に真実が浮かび上がった。とても滑稽で、酷刑な事実だ。
「私は死人、か」
手のひらを見つめるとそこには確かに血色はある。しかし実質、彼女の出した結論ではそれはまやかしでしかない。
覇気とは、生命力だ。彼女が食した悪魔の実がそれそのものだというのなら、確かに彼女は死人であってもおかしくはないのだろう。
「生命以外でも悪魔の実を食べられる、というのは事実だね。それなら生物だった私が食べることもまた可能」
そこで、彼女の疑念は深まっていく。カタ・ナユタが死人で、悪魔の実を食べたことによって存命しているというのなら、今の自意識はいったい何なのだろうか、と。
生前のカタ(本名不詳)がそのまま残っているのか、それとも悪魔の実に宿る生物の遺伝子の作り出した人格か。それとも、悪魔の実に宿る悪魔の意識なのか。
「ハキハキの実、モデル“海賊王”。いったいどういう経緯で生まれたのやら……」
カタ・ナユタが生まれたのは滅び去った漁村、その場には夥しい死体の山と、カタを呼び起こす声だけが存在していた。あの声の主が悪魔なのか、それとも自分に実を食わせた人物なのか。それもわからない。
ゆっくりと椅子を揺らしながらまどろむ。吐き気は不思議と落ち着いていた。彼女の帰還を知っているにも拘らず、しかし未だ些細な音すら届かないのはその異常を察しているからなのか。普段とは違う雰囲気はありがたくもあり迷惑でもあった。現状の異常を間接的に教えてくれている気がするから。
ノックが響く。音の位置が低いのですぐにわかった。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのはいつものハリー・キサヤ軍曹。表情には若干の固さが入っている。まるで初めて会った時のようだと思った。
「――それで?」
「……中佐、間もなく新しい島に着きます」
差しさわりのない報告。おかしくて哂った。
「それで? そんな報告のために私の前に姿を見せたと、そう言いたいのかな?」
「はい」
その即答に、たった二文字の言葉に、カタ・ナユタは全てを理解できてしまった。手のひらで目を覆い、背もたれに寄りかかる。軋む音が響いた。
「あのさぁ軍曹、私今ちょおっと不機嫌でね。言いたいことがあるなら言ってくれないかな? それとも私の八つ当たり相手にでもなってくれるの?」
「……それが命令であるなら」
「――ッ!」
机を弾き飛ばし一直線にハリーに飛び掛る。上を取り両手で首を絞めた。肉の感触と温度を感じながら力を込めていく。
「…………」
「――――ッ」
埃が舞う中でカタは鬼の形相で手に力を入れ続け、ハリーは何の抵抗もせずに表情を歪めていた。爪が食い込み血が流れていく。
「血が出てるねっ、ん、生きている証拠だよっ……」
「…………」
「気づいてなきゃいけなかったんだよ、今までもっ、変なことはたくさんあったのに……っ、ね」
少しだけ力が抜けて、ハリーがむせるような呼吸をした。慌てて力を込めるが、それ以上入ってくれなかった。
「海楼石を使った後の記憶がないとか、どんなに吐いても血も出なければ栄養失調にも脱水症状にもならない。風邪だってひいたことない……」
「…………」
ハリーは何も言わない。風邪を引かないのはあなたが馬鹿だからだ、そう言ってほしかった。
「身長だって伸びなかった。そりゃ伸びるべき年は越えていたけどさ、生理だって来なかったんだよっ。それが異常なんだってことすら気づかないでさ、いくらなんでもおかしいじゃないか……っ。トイレだって、行ったことすらなかったんだよ……?」
カタ・ナユタは摂取した全てを口から逆流してしまう。それは彼女の身体がもう必要としていなかったからだ。ハキハキの実による生命力は彼女の行動力にのみ注がれ、それ以外の機能は全て停止したまま。排泄という当たり前の行為すら、彼女は必要としなかったのだ。
ハリーは黙って聞いていた。ただ、苦しさが徐々に消えていくのは理解していた。目の前の顔がくしゃくしゃになっているのも理解していた。
「今だって泣こうとしているのに、そんな水分なんかない。身体が健康に見えるのは生命力が溢れているからで、生きている人みたいに成分が充実しているからじゃないんだよ……」
「前、泣いていたじゃ、ないですか……」
ようやくハリーは口を開いた。その言葉にカタは首を振り、悲しそうに笑う。
「なんでかな、理解しちゃったんだよ。私は生きていないんだから、そんな機能はないんだよって、そう理解しちゃったから、もう出す方法がわからないんだ」
「出す方法、ですか……」
ハリーはカタの瞳をまじまじと見つめ、そして言った。
「出す方法なんて知らなくていいでしょう? ――知ってますか中佐。今、泣いているってこと」
「え」
一滴、頬に落ちた。それを契機として止め処なく、それは数を増やしていく。冷たくて、でも温かい涙だった。
「……な、んで……」
「あのですね、中佐。中佐は今“生きている”んですよ、涙なんて出るに決まってるじゃないですか」
「で、でも……わた、し……」
「血が出ないとかトイレに行ってないとか、そんなあほなことばっかり言ってるからあほなんですよ。いいじゃないですか、不必要な行為をしなくていいなんて羨ましい。排泄なんて煩わしいものをしなくて済むようになった、生理なんていう鬱陶しいものを気にする必要がなくなった。それだけでしょ」
どいてください、とカタを押しやりハリーは立ち上がった。座り込んだカタは呆然と彼を見上げる。涙は止まっていない。
「涙なんて無理して出すもんじゃない。出す方法なんてたまねぎ切るだけで十分です。後は、自然に出てくるもんでしょう」
「あ、えと……」
「いってぇ、治療代請求しますからね。何で俺がこんなことに付き合わなきゃいけないんだ」
首を擦り、手に付いた血を見て顔をしかめるハリー。カタはそれを見、しかし言葉は出てこなかった。
あ、そうそう、とハリーは首を鳴らしながら言う。
「あんた頭良くないんだからそんな考えるもんじゃないよ。何者か知らないけど、俺にとっては迷惑な上官ってだけで十分だ」
扉が閉まり、カタは一人残された。座り込んだまま呆然と青年が去った扉を見つめ続ける。不意に手を見ると彼の血が付いていて、
「鉄の味だ」
なんとなく、これでいい気がした。
「あんた頭良くなんだから、かぁ……」
少しだけ、悔しくて。
彼女は、少しだけ笑った。
そして、彼女と彼を乗せた艦はその島にたどり着く。麦わらの一味も上陸したその春の島には既にある二人がやってきていて、季節に合った桜吹雪を舞わせていた。
不気味なほどに綺麗で、それ故に恐怖を呼び起こす。
その花は、四年ぶりの再会を祝福していた。