その日の朝はいつもと違った。
まだ少し残っている眠気を消すように瞼を擦り、冷たい水を一気に飲み干した。
耳をすませば、ガサゴソと二つ離れた部屋から音が聞こえる。どうやら巫女は俺より早くに起きていたらしい。
少し歩いて音の方へと体を向けると、丁度そのタイミングで巫女の部屋がドン!と音を立てて開かれた。
「白墨じゃないか、……?なんだ?そんなじろじろ見て……」
部屋から出てきたのは、髪を纏めて白い布で口元を覆った巫女だった。体には同じく白いエプロン、そして手にははたき棒。
まさに大掃除って感じの見た目だ。
「……あ、ああ、そうか。まあ、なんというか見ての通り部屋の整理をしてたんだ」
巫女はそう歯切れ悪く笑い、白いエプロンを外し始める。
もう掃除はいいのかと目を向けると、あらかた終わったからいいのだと返される。
この時間に終わるとはいったい何時から始めていたのだろうか?
服装を見るに、ちょっとしたお片付けというものでもないように見える。それが少し不思議に思えた。
巫女は俺の顔を窺うようにのぞき込むと、そのまま話を変えるように、お茶でも入れてゆっくり話そうかと言って笑った。
特に断る理由もなく、俺は巫女の横に立って歩く。
早朝に飲む茶は格別だ。それも他人が入れてくれるというのなら尚更良い。
しかしそんな良い気分のなか、やはり俺は疑問に思った。
――ああ、それにしても、どうして俺は巫女が掃除をしていることに気付かなかったのだろうか。
ふと気付いた違和感は、しかし歩いている内に消えていく。
朝の涼しい風が、やけに強く感じられた。
お湯を沸かして茶を入れて、ふっと一口飲めば、身体はすっかり温まる。
それは横に座る巫女も同じようで、あ〜と年に見合わぬ声で息をついていた。
そうして茶を楽しんでいると、巫女は世間話でも始めるように話を始めた。
「なぁ白墨、お前とはもう二十年以上の付き合いになるな」
巫女はそう言って、感慨深く息を吐く。
対する俺は、あれ?まだそんだけしか経ってないっけ?という感じだった。
感覚的にはもっと経ってそうだけど、案外二十年程度か、なんて気分だ。
だが、巫女の年齢を考えたらそんなものかという納得もある。
「……たった、二十年か。」
「そうか、そうだな……たった二十年、だな」
同じように考えていたのか、苦笑いする様に巫女は答える。
「そういえば、お前は紫の式神だと聞いているが、紫とはそれなりに長いのか?」
「…………ああ。」
少し考えて肯定する。
具体的にいつからを長いというのかは曖昧だ。
紫と初めて会ったときは昔過ぎてあんまり覚えていないし、本格的に紫と顔を合わせることが増えたのは地底に落とされてからだし……ただ幻想郷にいる妖怪の中では一番昔から関りがある奴だし、付き合いも長いと言っても良いだろう。
「それなら、安心だ」
そこまで話して巫女は古びたお守りを優しく握る。
その行為が、俺には気持ちの整理を付けるためのものに見えた。
じっとそれを見つめる俺に気付いてか、巫女が良く見えるようにそのお守りを取り出す。
糸がほつれかかったボロボロのお守りだった。しかしお守りとは名ばかりで、それからは何の神性も感じられない。
「これは……ずっと昔、夜に怯える私のために母が作ってくれたものだ。なんの力もないけれど、だからこそ、何物にも代えがたいありがたさがあるんだ。案外、ちっぽけな人間を救ってくれるのはそういうものなのかもしれない」
大切そうにそれを見つめて、そして……巫女はそのお守りを俺の前に持ってきた。
まるで、俺に渡すかのように。
生来の無表情から、訝しげに眉を顰めるようなことはできなかった。だが、その戸惑う態度は巫女にも伝わった。
しかし、それでも巫女は構うことなく再びそれを押し付けてくる。
「まあまあ……いいから」
わざわざこんなボロッちいお守りをよこして何だというのか。
欲しくもなければ困惑しかない。
「人は弱いから、妖怪のように何年も生きてはいけない。だから人から人へと受け継ぎ、継承していくんだ。経験を、残していった人たちの想いを、胸に残した後悔を。そうやって私達は今日まで生きてきた。私も……そうでありたい」
「……それで、こんなものをか。」
少しの違和感と大きな矛盾。
巫女の行動は矛盾していた。受け継ぐことを人の力だと主張しておきながら、
少なくとも、先ほどの巫女の言葉を信じるのなら、
押し付けられたお守りを巫女の方へ放って捨てる。
「……必要ない。」
ピシャリと言い切った。
「これは私達の後悔なんだ。この先には残せない」
「そうか。」
「私じゃあ……ダメだった。だから白墨、頼むよ」
淡白な返答にそれでも巫女は懇願する様にそう言った。
「それはお前の都合だ。」
食い下がるように手を伸ばす巫女を避け、俺は立ち上がる。
背を向け、もうこれまでだ、と。
結論の出た会話に、これ以上の追求は意味がないと話を切り上げたつもりだった。
現にいつもならこれで終わりで……いや、いつもならこれほど俺が拒絶の意思を見せているというのにしつこく巫女が続けることはない。
だと、いうのに……それなのに――
「……そうだな、私の都合だ。私の力の不足が生んだ、私の都合だ。……だから」
足を止め、振り返る。
懇願するような顔でも、迷いがあるような顔でも、ない。
まるで、そうであると。覚えのない無上の信頼を寄せる顔。
後腐れのないその様に、俺はかつての男の最後を思い出した。
後悔だらけのあの顔は、終わりを迎えるその瞬間だけは安らかなものだった。
始めはそれが今まで自分を縛り付けていたものから解放されることへの安堵だと思っていた。
だがそれは”終わる”だけであって解決ではない。
あいつもきっとそれをわかっていたはずだ。なのに……。
俺にはわからない。
「――だから我儘な私の都合でお前に託すよ」
こんな満足したような顔で俺を見る、この女のことが……俺には理解できない。
――冗談じゃ、ない。
まるで俺が拒否することなど関係ないかのような顔。
最初の顔はどうした。心に巣食う後悔があるならば、そんな顔できないはずだ。
それがどうして、不安も後悔も忘れたような顔が出来るのか。
ああ……きっと俺には理解できないだろう。
あの時も分からなかった。
「託す方はいつだって身勝手で、頼んでもいないのに期待と希望を混ぜて押し付ける。私の時もそうだった。けれど、今ならわかるよ。それにしか縋ることが出来ないんだ。だから、頼むことしかできない」
「………。」
懲りもせず俺にそう頼んでくる巫女を背に、俺は無言で神社を出る。今度は足を止めなかった。
それが俺の最大限の拒絶であり、そして……巫女との最後の会話でもあった。
相変わらず会話ともいえぬ、一方的な、最後となった。
◇
「やっぱり受け取っては貰えなかったか……気難しいなぁ、あの人は」
私は……やはり困ったように笑って、あの人が放り捨てたお守りを拾う。
初めから予想はできていた。だが、もしかしたらという期待もある。
こんなに長い間一緒にいても、結局あの人の行動は予想がつかない。
どっちかわからない時は自分の都合のいい方に解釈するべき……ならば私は都合よく、彼が私の望みを叶えてくれると信じてしまおう。
他ならぬ彼の言葉なのだから。
拒絶されたばかりだというのに、妙に晴れやかな気持ちになりながら立ち上る。
背伸びをしていつもの巫女服を締め直す。
霊夢はまだ寝ているだろうか。
妙に勘の良いあの子のことだから、起きたら私を引き留めようとしがみついて離れないかもしれない。なら、出るならきっと早い方がいい。
心地の良い青空のもと、一歩前へと踏み出した。
あいつはきっと、気付いてはいまい。
困惑したように大きく目を見開いたあの顔を。
それは私が見た、最初で最後の崩れたあいつの表情だ。
何度話しかけても変わらなかったあの顔を、最後に崩せたと考えればそれも良い。
……最後を託して終われるというのは、幸福なことだろう。
けれどもそれは酷く無責任で、時折そのことを悔しく思う。
「それだけが、持っていくことのできなかった心残りか……」
霊力を込めて合図を出す。
しばらくして、もう何度も見たスキマが現れた。
「……」
スキマから覗く紫の瞳には色がなく、冷たいものだった。
もう価値がないものを見るように、酷く酷く冷淡に私を見下ろしていた。
「それじゃあ、行こうか」
私は歩く、宙に浮かせた陰陽玉を携えて。
あの日感じた孤独は……もうどこにもなかった。
◆
肌寒い夜。
いやに静かで、月明かりはその神秘さを増していて、そして……その光の元に紫はいた。
帰路に着くなか、現れたのは突然だった。
いつから居たのか、それとも元からそこに居て、ただ俺が気付かなかっただけなのか。
目元を隠し、ただ静かに佇んでいた紫は、ゆっくりと俺に近付くと、億劫になりそうな動きで折り畳まれた紙を差し出した。
「博麗の巫女の代替わり……それを知らせる文書よ」
紫は疲れた声でそう言い、俺にその紙を握らせる。
よく見ると、確かにそれは見覚えがある。前の代もそのまた前も、同じ紙だった。
「……今の巫女は。」
俺の問いかけに、紫は顔を上げる。
そして、はっきりと……言い淀むことなく紫は言う。
「死んだわ」
「……そうか。」
死んだか、死んだのか。
短命な人のそれよりずっと早い。若いな。
……これで、本当に今朝のことも分からなくなってしまった。
あいつが俺に何を頼もうとしていたのかすら知らないのだから、居なくなってしまっては、いよいよどうしようもない。
……もう分からないことを考えても仕方ない。
俺は頭を切り替えて紫に向き直る。
「この紙は。」
「その文書は新しい巫女に……霊夢に伝えなさい」
紫の命令に頷いて答える。
容易い仕事だ。貰った紙を袂に入れて、神社の方へと身体を向ける。
そのまま神社へ向かおうとして……。
「気にならないのかしら?……あの子の最後を」
そう、呼び止められた。
ほんの少し不安が混じったような顔で、探るように紫は言う。
最後、死にざま……殺されたのか、自分で死んだか。
頭の中でグルグルと単語が回り、そしてそれらを全てかき消して言葉が漏れる。
「興味が無い。」
最後がどうのという話はどうでも良い。それは紛れもない本心だった。
紫の言葉の真意は分からない。だが、俺の答えを聞くと、少しだけ安堵したように顔を楽にした。
「……ええ、そう、そうね。貴方は変わらないわね」
「……?」
「それと、あなたにもう一つ、新しい仕事よ」
……仕事?
正直、今の幻想郷で俺が役に立つことなどあるのだろうか?
何かをやるにしても基本的には藍の劣化でしかない。
そんな俺の疑問をよそにして、紫はいつものように仕事の内容を告げる。
面倒じゃなければいいな、なんて考えながらその言葉に耳をすまして……。
「霊夢の世話をあなたに一任します」
耳を疑った。
今紫はなんて言った?
世話?一任?何を言っているんだ?
何かを言おうとして、言葉が出なくて口をパクパクと開閉させる。
待て、落ち着け。紫が突拍子もないことを言うのはいつもの事だ。
「…………世話、とは。」
「そのままの意味よ。次代を担う大事な巫女に何かあったら大変でしょう?だからあの子がしっかり一人前になるよう貴方に世話を任せます」
あっけらかんと言い放つ紫に絶句する。
「待て……待て紫。その考えは、おかしい、破綻している。」
「……」
「藍は……お前はどうした。」
確かにそこらの木っ端妖怪にやられるようではないが、それでも俺なんてせいぜいその程度。
だというのに霊夢を一人前にする?相手は博麗の巫女だぞ?紫は気でも狂ったのか?
それに昔と違って藍も……紫だって十分暇があるはず。わざわざ俺がやる理由がなければ損しかない。
「……そもそも、この幻想郷のバランサーである博麗の巫女に、管理者側である私や藍のような妖怪が深く関わるべきではなかった。幻想郷が本当の意味で正常に作動した今、それは尚更のこと」
絶句する。
紫が本当に俺にその大役を押し付けようとしているのがわかった。
質の悪い冗談という線は無くなった。
「……俺が博麗の巫女に何を教えられる。」
「別に、何もなくても良いわ。霊夢は天才だから、何を教えられるわけでもなく、戦う内に勝手に強くなる。時々そういう人間が生まれてくる、かつてあなたを地底の世界に落とした巫女のように。だから貴方には、ただ……ただ……そう、定期的に軽く相手をして……問題がないか監視して……それで……それで十分。世話、だなんて大げさだったわね」
そう自嘲気味に笑い、スキマを作り出す。
「待て、それでも……お前なら、やりようもあるはずだ。」
焦りから声をかけるも、紫はスキマの中へと消えていく。
「……私は少し、関わり過ぎたわ」
完全に姿が見えなくる寸前、ぼそりと呟かれた。
◆
月明かりが照らす深夜の参道を進む。
足音を鳴らして、急ぐわけでもなく、ゆっくりと。
その音に反応するように、音が返ってくる。
バタバタと激しく、急ぐような音。
人間はもう寝てる時間だというのに、裸足の少女が飛び出すように神社から出てくる。
何かを探すように必死にきょろきょろと辺りを見渡し、俺を見つけて期待が外れたように肩を下げ、そして息を切らしながら近付いてくる。
「……は、……っ!お母さん、おかーさんは、どッ……」
……目が、合った。
不安そうだった少女の瞳が、大きく見開かれる。
あえぐような呼吸はだんだんと静かになり、まるで時が止まったように俺を見上げて……
そんな少女に、伝える。
用意していた言葉を、俺の仕事を。
「巫女は死んだ。よって、今よりお前が次の博麗の巫女となる。」
博麗の巫女の代替わり。
静かな夜の中、それは告げられた。
明日のこの時間に五十八話を投稿します。