その日はずっと胸騒ぎがしていた。
起きたらお母さんは既に居らず、いつものちゃぶ台には作り置きされた朝食といつもは無い書置きが残されていて……それが酷く私を不安にさせた。
布団も仕舞わず、寝間着のままで神社を走り回る。
無意味な事だと、今ここにお母さんが居ないことは知っている。
でもそうやって探すことを辞めることは出来なかった。
走れば走るほど、汗をかけばかくほど、心にべったりと粘ついた不安が絡み付く。
お母さんがこうして居なくなる事はあまりないが、それも絶対では無い。
昔も妖怪退治があると言っていなくなることは何度かあった。
だから、今日が特別だということは無い……変に不安になったりする必要なんて……どこにもない。
――はずなのに。
不安が消えない。
良くない事が起きている。
そう思えてならなかった。
なんで、どうして、今日に限って居てくれないのだ、と。
たった一度お母さんの顔を見れば、この不安も収まるのに。
でもそれは叶わなくて、僅かな苛立ちと焦燥感に心が支配される。
そうして無駄に境内を走り回って、少し冷静になり、思い出す。
――あの男なら。
いつも何かするわけでもなく、ただ神社にいるだけの存在。
話したこともほとんどなければ、どんな奴かも全然知らない。
わかっている事と言えば、お母さんの知り合いという程度。
私は知らないけれど、お母さんは言っていた。
自分がまだ未熟だったころ、彼に助けてもらっていた……と。
なら、あの男にお母さんを助けてほしいと頼めば……!
神社で無気力にお茶を啜る姿からは想像もつかないけれど、私が頼れる人なんてあの男しかいない。
そうしてあの男に助けを求めるべく、再び神社を走って回る。
居たり居なかったりする男だが、記憶が正しければ少なくとも毎日一度は神社に居た。
全く知らないうちに神社に居る時もあったのだ。私の知らない方法で帰ってくる可能性もある。
だから、探す。
少しでも可能性があるなら、この不安を取り除けるのならば……。
探して、探して……探して…………。
「なんで、なんで……あの男も……!いつもは居るのに……!」
探すのを諦めて、帰りを待つことにして……時間だけが過ぎていった。
焦燥感がじわり、じわりと広がる。
太陽は既に沈み、星が見える時間。
お母さんはまだ帰ってこない……あの男も。
夜の静けさが恐ろしい。
一人の夜は何度かあった。
けれど、孤独を感じたのは初めてだった。
もう探し回る様な気力もなく、かといっておとなしく眠ることもできない。
そんなとき、音が聞こえた。
わずかだが、確かに規則性をもって聞こえる音。
コツコツ、と次第に音は大きくなっていく。
――まるで、誰かが歩いてきているかのように。
「――――ッ!!」
跳ね起き、靴も履かずに外へと飛び出す。
そうであって欲しいと願うように。
必死に辺りを見渡して、その足音の主を見つける。
……お母さんじゃ、ない。
居たのはいつも神社で見かけたあの男。
けど、それでも……見つけた。
息を切らせて男の前にたどり着く。
「……は、……っ!お母さん、おかーさんは、どッ……」
男の顔を見ようと、顔を上げて……言葉が詰まる。
声が……行き場をなくして崩れ去る。
いつもの顔だ。
感情を見せない無表情。
それが、その顔が、あの瞳が、とても冷たくて。
その瞬間、だらりと力が抜ける。
無意味な努力を止めるように、ぷつりと切れた。
――ただ、もう一度お母さんに会いたかった。
会って安心したかった。
それで……ああ、それでどうしたいんだったか。
いや、どうするわけでもない。ただ私は……いつも通りに……
「巫女は死んだ。よって、今よりお前が次の博麗の巫女となる。」
「――――」
驚かなかったのは、どこか自分の中で確信めいた予感があったからかもしれない。
ただその事実をゆっくりと理解して、心がズシンと重くなる。
「あんたは……何してたの……お母さんが死んだとき、何を、してたの……?」
何とかできたはずだ。
この男なら、お母さんを助けられたはずなんだ。
だって、お母さんが言っていた。何度も助けられた、と……言っていたのだから。
だからこの男ならお母さんを助けられたはずで……。
けどきっと、それが出来なかったのは……きっと、きっと……
「蕎麦を食べた。」
「……ぇ?」
「夕暮れ時の人里で、適当に立ち寄った店で、蕎麦を食べていた。」
思い出すように頭を傾け、何でもないかのようにそう言った。
感情のこもってない、いつも通りの、あの顔で。
◆
その男は、いつも記憶の中にいた。
物心ついたときには母が居て、温かくて、優しくて、そして……神社の隅にその男は居た。
作った御札を母に見てもらおうとして、神社の中を歩き回った時も必ずどこかにその男はいた。
母もその男が居るのを当然として受け入れていて、だから私もそういうものだとあんまり不思議に感じたことはなかった。
灰色の着物に、灰色の頭、そしてやっぱり灰色の眼。
にこにこと表情を変える母とは正反対に、その男はいつも同じような顔をしていた。
日によってほとんど動くこともなく置物のようで、でも時折新聞を捲ったり、お茶を飲んだり……そういうところを見ると、しっかり動くんだなぁ……なんて納得もした。
ずっと前からいる、静かで、あんまり動かない変なやつ。
それがその男への最初の印象だった。
そこからその男のことが気になったのは、母から博麗の巫女のこととか、幻想郷についてとかを教わってからだった。
自分の家が特別だと、普通とは違う幻想郷唯一の神社なのだと。
そのこと自体はへー、と流すだけでそれ以上の興味はなかった。
その逆に、頭に思い浮かんだのはあの男のこと。
妖怪退治をする特別な家で、唯一の神社で……じゃあ普段から何も変わらず座っているあの男は、一体何のためにいるのだろうか?
時々母と話しているところを見たことがある。ほとんどは母が喋るばかりで、男の方はうなずく程度しかしない。
正体不明のその男に興味を持ったのは、もはや必然だった。
でも、当の本人に話を聞くのは憚れて、だからまずは母に話を聞いてみることにした。
ちょっとした予測もかねて……。
『ねぇ、お母さん。あの人はお父さんなの?』
そう聞くと、虚を突かれたように母は固まり、しばらく時間を置いてから”あ~、”と困ったように頬をかいた。
それはまずいことを聞かれたというより、なんて答えればいいのかと言葉を選んでいるような雰囲気だった。
それから母は昔を思い出すように話してくれた。
『ふふ、彼はお父さんじゃないよ。昔はお母さんも未熟でね……私の手の及ばぬところを彼に手伝ってもらってたんだ。彼がこの神社に居るのは……まあ、そのころのよしみだよ』
『助けてくれた人?』
『ああ、気難しい人だけど、霊夢も何か困った時は彼を頼って……あーまあ、もしかしたら助けてくれる……かなぁ?』
母はどこか自信なく、曖昧にそう笑った。
そうして神社にいる居候は、全く知らない人から母の旧友程度の認識になっていた。
それでもやっぱり母の話の中に出てくる男と神社にいる居候の姿は重ならない。
だって、どれだけ母が語ってくれても、私が見たことがある男は座って本やら新聞を読む姿だけだから。
稀に聞く声だって、ぼそぼそとしていて聞こえづらい。
その上自分から話しかけることもなければ、あっちから話しかけてくることもないので、私はあの男の声すら知らない。
でもまあそれでも良かった。
母との生活はとても充実していて、それが全てだったから。
よくよく考えれば、別にあの男が誰か知らなくても困らないし、居るのが嫌なわけでもない。
だって、そもそも私が生まれる前からああしているみたいだし。多分この先もずっとこうだろうなとも思う。
そうやって私の中でそれは日常になっていった。
ただまあ……ずっと無関心というわけでもなく、母から彼が妖怪なのだと聞かされた時は、好奇心から妖怪退治と言って、座る彼の背にべちんと作ったばかりの御札を貼りつけたこともあった。
そこそこ力を込めたけど、全く堪えた様子もなく、ただ確認するようにゆっくり後ろを振り向く彼と目が合っただけだった。
その顔はやはりいつもと変わらない無表情で、怒られるかもしれないと思ったのを覚えている。
結局、その後も彼の口から何か言葉が発せられることはなく、数秒無言で見つめあったあとに、顔を真っ青にした母がとてもとても謝ることで何事もなく終わった。
あんなに慌てる母の姿は後にも先にもあれっきりだった。
しかし、そんな母の姿を見ても喋らず無表情なのだからお手上げだ。
どれだけ観察しても母の言う彼とあの男は似ても似つかない。
よくわからない母の旧友で、そして、それがいつも通り。
わからないから気になっていたけれど、何も分からないことが分かったから、私の中ではそれでおしまい。
そうして段々とあの男のことを気にすることも無くなり、そして初めに戻った。
ずっと前からいる、静かで、あんまり動かない変なやつ。
多分、この先も今以上にあの男のことを気にすることもないだろうし、今以上に知ることもないだろう。
母の言うようなかつてのあの男を知ることもないだろうし、この関係もずっと変わらないだろうと……。
まだ幼く、無邪気だったあの日の私は、ただ何となく、そう思っていた。
そう思って……いたはずなのに。
『巫女は死んだ。よって、今よりお前が次の博麗の巫女となる。』
無神経に、無関心に……ただ淡々と。
その男のことは何も知らない。
どんな奴かも、母との関係も、よくわからない。
でも、だから。
なにも知らないからこそ、私の心を埋め尽くす。
心の底から嫌悪する。
あの夜の理不尽を全て押し付けるように、この不幸を呪うように、私はその男のことが嫌いになった。