灰の旅路   作:ぎんしゃけ

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明けましておめでとうございます。
2026年もよろしくお願いします。
年内完結が目標でしたが、分裂でもしなきゃ無理そうです。なので来年完結を目標に頑張ります。


第七十二話 色のない夜が終わるまで

 人の血肉の味しか知らなかった頃、日常に色が付く、なんて表現を聞いた時、人間は変な言葉が遊びが好きだなぁとしか思わなかった。当たり前の生活、なんら変わりのないこれまでとこれから。そんな変り映えのしないものが、変わらないままに意味を持ち始める。

 

 要は全てが自分の意識の持ちようで変えられるという、貧しさから幸せを見つけようするような、自分を騙しているだけの思い込み。わざわざ変えようとするまでもなく、これが素晴らしいと言い聞かせるように藻掻いているだけなのだと、かつての私は嗤った。

 

 けれども今は、少し別の意味を持って理解できる気がする。あれは苦し紛れの幸せ自認ではなく、たった一つの好転が、どうでもいい日常の変わらない毎日さえ、素晴らしいものに変えてくれるという意味なのではないか。

 

 黒一色の私の世界に、真っ赤な血。その二つの色で構成されたものこそが私のこれまで。だから、色が付いたというならば、きっと最初はあれだろう。

 同じ赤、でも温かい赤、眩しい赤。私の知っている赤色とは違う、身を焦がすような眩しい光。ぱちぱちと音を散らす……小さな焚火の炎の色。

 

 私はその色が好きだった。その炎の先に見える未来を想うと胸が高鳴った。退屈だったこれまでと、そこから続いていくだろう、これからの世界に陰影をつける光。

 

 

 その影が、溶け合うように私の黒と混ざり合うのが待ち遠しくて、そして私は気づいた。私が欲しかったのは光じゃない。その光から生まれた影に惹かれたのだ。私の黒に同調する様なあの影、けれども似ているだけでその本質は違う。あの揺らめく光源が生み出す影と、私の黒は違うもの。光によって生み出された黒ならば、私と同じはずがない。

 

 でも、もう同じになるんだ。あんな半端なものではない、私と同じ黒い色に。そしてまた戻るのだろう、黒と真っ赤な血だけの()()の世界に。

 

 冷たい風が頬を上気させる。風で揺れるスカートすらも心地良い。……ああきっと、私の日常は色づいている。

 

「――やぁ、白墨。久しぶりのお散歩かー?」

 

 口角が上がるのは未来を想ってのことだった。

 

「……ルーミアか。」

 

 頭上から声をかけたというのにちっとも驚いた様子もなく、平坦な声のまま私を見る。

 別に探していたわけじゃない、でも目に入ったのだから声をかけるのは仕方がない。白墨も最近はずっと()()()()()()()()()、活動していても神社に引きこもりっぱなしで話す機会もあまりなかった。

 

 だからいいだろう。少しくらい、いいだろう。

 

 背にもたれかかるように体重をかけると、鬱陶しいことを隠そうともせず、引き剝がすように手を伸ばしてくる。くすぐったいようなその大きな手は……もうずいぶん弱っていた(熟していた)

 

「……っ。」

 

「おわっ!」

 

 不意にぐらりと白墨がバランスを崩し、私も一緒に倒れそうになって、慌てて白墨を引き上げる。脱力した身体を持ち上げるのはちょっと大変で……今はその重みが幸せだった。

 

「……なんだ、また眠くなっちゃったのか?」

 

「……すこし、だけ。」

 

 掠れるような声で白墨が呻く。

 

「……じゃあまたお昼寝でもしようか。いやぁ、最近は寒くてお昼寝するのも一苦労だからね。二人だとあったかくていいなぁ~」

 

「…………。」

 

 白墨はうつらうつらと、もう目を開けるのも辛そうにして私に寄りかかる。座り込んでいる白墨の片腕を掴めば、人形のようにぷらーんと持ち上がり、私はその隙間に身体を埋めた。

 そして、その大きな腕に自分の身体を絡ませて、私も目を瞑る。

 

「やっぱり、ああ……あったかいなぁ、私と違って………」

 

「……。」

 

 もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐ同じになれる。一人は終わり、孤独は共有するための時間となる。

 それまでいったいどれほど待つだろうか?もしかしたら何十年も先かもしれない。その時を想像して私は思わず顔を綻ばせた。

 

 まどろみの中で夢を描く。ただ待つだけのその時間すら、メインディッシュを待つようにもどかしくて、楽しみだった。

 

 

 

 

 

 

 その日の修行は雨の中行われた。あの日ほどの大雨ではないけれど、それでも傘は欲しくなるような日。

 肌にべちゃりと張り付く髪が鬱陶しい。

 前に雨で霊夢が熱を出したのもあって休みにするか迷ったが、博麗の巫女が晴れの日限定じゃあ頼りない。ぬかるんだ地面、視界の悪さ……そういった環境の変化にも慣れてもらわなきゃ困る。

 

 そういうわけで、いつもより当たりの強い霊夢には恒例となった妖怪狩りをさせていた。

 

 俺は見ているだけである、もはや何かをすることもなかった。

 

 ――だから油断していたのか?

 まさか。

 どんな状況でも万が一というのは起こり得る。だから俺はその日も見ていた、しっかりと確認していたハズだった。

 

 だという言うのに”ソイツ”は突然現れた。保険として周囲に張り巡らせた灰の目の警戒網を潜り抜け、雨音に紛れ、その毛に覆われた体を巨大化させて霊夢の背後から襲い掛かる。

 

 見た目は端的に言えば熊だった。全長四メートルはあるだろう巨体に獣の牙、直前まで身を縮ませてからの奇襲を見るに多少の知能はあるのだろう。でもその程度。

 

 結局は今まで倒してきた妖獣と変わりはない。霊夢も奇襲に驚くこともなく、くるりと身を翻して愛用の御札へと手を伸ばす。

 

 ”愛用の御札へと手を伸ばす”、多分反射で、いつもの癖でそうしたのだろう。霊夢の対処は完璧だった。普段ならきっとそのまま終わり、二秒後には涼しい顔でこっちへ向かってくる。

 だが、その日は”雨”だった。

 

「あっまず……」

 

 ぐしゃりと濡れた御札を手にしてようやく気付いたのだろう。

 ハッとしたように霊夢がつぶやく。

 妖怪相手に無類の強さを誇る御札も、雨の日ではただの紙切れ。雨でなければ御札でよかった、きっとそれが突然の事でなければ霊夢は封魔針を使って、それで終わりだった。つまるところ、これは霊夢のうっかりだ。

 

 俺はその光景を見ながら、”ああ、今日休みにしなくて良かったな”なんて考えていた。

 やっぱり実戦経験も大事だ。こういう失敗は結構頭に残る。相手が弱すぎて意味がないかもしれないなんて思ってたけど、実りはあった。

 

 勝手にそう評価しながら手を構える。

 雑魚とは言えあの巨体、それに霊夢は人間だ。まともに殴られたらひとたまりもない。今日のことは教訓として今後に繋げればいい。そのための修行だ。

 

 結界の槍は必要ない、というか近付いてないから使えない。

 妖力弾を練って熊へと向ける。命中率に不安はあるが、あれだけデカければ問題ない。

 そう俺は何も考えずに妖力弾を放とうとして――

 

 ――しかし、それが放たれることは無かった。

 

 何も起きない。ただ霧散する様に練った妖力が消えていく。あり得ないことだった。ただの妖力弾、なんら難しいことは無い。それが不発?なぜ?

 突然歩き方を忘れてしまったかのような気持ち悪さがせり上がってくる。

 

 何かがおかしい。

 そもそもコイツはどこから出てきた?周りは常に灰の目で監視している。いくら近付く直前まで身体を縮めていたとしても俺が気付かない筈がない。

 最近ではほとんど何もしていないが、百年単位で人里全体を監視し続けてきたのだ。こんな妖獣一匹、見逃すなんて……

 

 そこまで考えてようやく、ようやく気付く。常に展開して何かしらを監視している……もはや身体機能の一つとさえ言えるだろう灰の目……そのリンクが切れている。

 

 灰の目は展開されている。ならば何時から切れた?俺はこの数時間なにを見ていた?……何も見ていない……もしかして初めから?初めから、俺は灰の目のリンクがきれていることに気付かなかったのか?

 

 意識を戻せば、その熊型の妖獣は木々を邪魔そうになぎ倒し、霊夢に向かってその大口を開いてみせていた。

 霊夢は動けていない。御札を投げる姿勢で止まったままだ。妖力弾は何故か使えず、他を試すような迷っていられる時間はない。

 

 

 瞬間、俺は駆け出した。

 

 肉体が自壊しない程度に妖力で身体強化する。

 久方ぶりの全力疾走。身体が軋み、力に任せて地面を蹴り飛ばす。

 間に合うかはギリギリだ。

 

 クソ、おかしい。俺はこんなに遅かっただろうか?

 身体が重い、息が上がり始めている。思えば今日は朝から身体の調子が良くなかった。雨のどんよりとした空気のせいだと思っていたが、それだけとは思えなかった。

 

「……っ!」 

 

「うわ……!ちょっ……!」

 

 妖獣と霊夢の間に滑り込み、左手で霊夢を抱えて右腕はそのままコイツに噛ませてやる。

 俺の身体半分ほどの大きな口が、咥える様に右腕を挟んでいる。ガッチリと牙が腕を貫通しているのが分かり、押しつぶされるように鮮血が流れた。まるでジュースでも絞るみたいにぐちゅぐちゅと不快な音を立てている。

 

「……。」

 

 思えばこういうグロテスクな傷を負うのは久しぶりだった。勇儀にシバかれていた頃を思い出す……ああいや、あんな事思い出したくないな。

 

 俺は一度息を整えてから右腕に目一杯妖力を込めて……全力で腕を引き抜いた。

 牙が貫通しているままに無理矢理引き抜く。

 当然腕は無事なわけがなく、前腕筋は引き裂かれ、腕の皮がベロンとめくれて口内に取り残される。ついでに無理に身体強化したのも相まって、肩がズタズタに壊れて使い物にならない。

 

 痛い、そりゃあもう無茶苦茶に痛い。皮膚が剥がれて肉むき出しだ。視覚的にもあまりよろしくない。でもこれで()()()()()()、自由に動ける。

 

 チラリと霊夢を見れば顔を真っ青にし、口はキュッと結んで一言も喋ろうとしない。

 それでも視線は俺の右腕一点に集中しており、身体はわずかに震えていた。

 うん問題なさそうだ、大人しい方が都合が良い。

 

 再び目の前の巨体へと意識を向ける。

 血で口元を汚した妖獣が見下ろすように俺を見ている。

 美味しかったのだろうか?人肉評論家のルーミアからは結構好評の肉だ。

 

 でもタダじゃない、相応の対価は払ってもらう。

 俺は相手の口に()()()()()灰を爆発させる。

 

「――グァ!?」

 

 爆発と言っても殺傷能力はない。だが、想像すればわかるだろう。口内で飛び散る大量の灰、当然喉の奥……気管の方まで飛び散り、張り付くわけで――

 

「グォッ……アァ!?ォオアッ!オ、ガアァア!?」

 

 ――つまりは滅茶苦茶むせる。

 作戦成功。きっとこいつは口の中を洗浄したくてしたくてたまらないだろう。

 抉れた皮膚に灰を隠す、なんてあんまり気分の良い事じゃないが、四の五の言ってられない。

 

 こいつが灰まみれボンバーでむせている間に背を向けて走り出す。原因不明の不調で妖力弾を生み出せない以上、これ以上の攻撃は俺には出来ない。

 

 走り出してすぐに怒り狂ったような獣の咆哮が響き渡る。

 

 ――痛い。

 

 確認する余裕はないが、滅多矢鱈に木々がなぎ倒される音が聞こえることから、相当お怒りらしい。短気な奴だ、こっちは肉が抉れてるんだぞ。

 

 ――痛い。

 

 それにしても今日は調子が悪い、やはりいつもより息が上がるのが早いし、肺が圧迫されるような不快感が酷い。

 

 ――痛い。

 

 しかし幸いなことに平坦な道ではなくここは森の中、多少体力が減っても直線勝負じゃなければ自信がある。

 

 ――痛い。

 

 だから……。

 

 ――痛い。

 

 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。

 

「――ッ。」

 

 ゴリッと鈍い音と共に奥歯を噛み砕く。脂汗が酷い、身体の内側は信じられないほど熱いのに、風が震えるほどに俺を冷やす。

 

 風……風が痛い、突き刺さる、突き刺してくる。

 ぶらんと繋がっているだけの右腕が風に触れる度、激痛を起こす。

 治らない、なぜ治らない。痛い、痛む、痛みが終わらない。続く、続いている、連続している。

 途切れることのない痛みの信号が、繋がっているだけの右腕から発され続ける。

 

 チカチカと視界が明暗する。このまま意識を手放してしまいたくなるのをグッと堪えて、無理矢理身体を動かす。

 口内の痛みで理性を保つ。歯が砕けて血が零れるが、右腕から流れる量に比べればないようなものだ。

 

「ね、ねぇ……」

 

 ふらりとしたところに怯えるような、不安そうな霊夢の声が響く。

 悪いが今は構っていられるほど心に余裕がない。

 

 痛みが引かない、消えない。いつもなら数秒もせずになくなるものがずっと残っている。

 異質な感覚に疑問を抱くことすら許されず、ふらふらと体が不安定に揺れる。

 これも痛みのせい……いや違う、血だ。血を失いすぎたんだ、ああ……まずい。ちゃんと真っ直ぐ走れているのか?わからない、ただ酷く痛む。

 まずい、まずいぞ。血を垂れ流してる、臭いを辿られる。

 

 すぐさまぷらぷらと使い物にならない右腕を無理やり地面に擦り付ける。

 どっと汗が噴き出て吐き気がこみあげてくる。

 それらすべてを抑え込んで、地面を、大地を作り直していく。自らの都合が良いように、間違っても臭いから辿られることのないように。

 

 あとはもう、出来ることは走るくらいしかない。

 ただ、走って、走って、我武者羅に走り続けて……気が付けば、博麗神社に着いていた。

 耳がキーンと音を弾き、酸欠気味の脳が回復し始める。

 

 随分前から撒いていた気もするが、もうどうでも良い。

 

「わっ!」

 

 神社を見て、張りつめていた糸が切れる。同時に力が抜けて霊夢を落とした。

 気にする余裕はない。

 

「はぁっ……はぁっ……っ」

 

 一歩一歩、何とか歩いて神社の縁側に腰を下ろす。

 疲れた、疲れた本当に。

 右腕に目をやる、未だに治る様子はなく、見るも無残な酷いものだ、いてぇ。

 

 ああ、でも……今になって冷静に考えれば、逃げる必要なかったんじゃないか?確かに霊夢は危なかったけど、あの不意打ちを防いだ時点で霊夢に頼めば、それで解決だったんじゃ?

 あんな妖怪、霊夢なら瞬殺じゃないか?

 あれ、ここまで走ったの無駄か?

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 よそう。

 

 息を整えてから顔を上げれば、見たことのない顔をした霊夢と目が合った。あんな雑魚に尻尾を巻いたということで呆れられてしまったらしい。無理もない。

 

「……ね、ねぇその右腕」

 

 あー、うるさい。頭に響く。

 ただでさえ変な顔をしていた霊夢が、改めて俺の怪我を見た事で更に悪くなっていく。まるでそっちの方が怪我人みたいだ。

 

 ダメだな、本格的に眠気が限界に近い。視界が……ぼやけてきた。

 

「……疲れた。寝る。」

 

 それだけ言って、瞼を下ろす。寸前、オロオロと不安そうな霊夢が見えたが気にしないことにする。

 一度瞼を下ろしてしまうと途端に耐え難い睡魔に襲われて、すぐさま俺は意識を手放した。

 

 

 「…………。」

 

 周りが暗い。次第に視界がはっきりしてきて現状を確認する。

 もうとっくに日は沈んでおり、俺は意識を失う前と同じ姿勢のまま縁側に座っていた。

 眠る前に嫌というほど感じていた痛みは綺麗さっぱり無くなっており、右腕にはやや過剰に包帯が巻かれている。何か薬品の匂いもする……霊夢がやったのだろうか。

 

 包帯に手を置き、能力を使って分解する。

 パラパラと包帯は粉になり、右腕が晒される。あれほどグロテスクな見た目になっていた右腕は、傷一つない綺麗な状態に戻っていた。舌で確認してみれば、砕けた奥歯も治っている。

 

 うん、これでようやく元通り。

 昼間のはなんだったのだろうか、よくわからないがしっかり治ってくれていてほっとする。あんな激痛が四六時中続いたら地獄だ。

 

 不意に立ち上がろうと横を見ると、巫女服のまま、すうすうと寝息を立てる霊夢が目に入る。

 どうやら今の今まで隣にいたらしかった。まだまだ冬の寒い時期、布団も敷かずに……これじゃあ本当に風邪をひく。

 

 どうしたものかと一瞬視線を外すと、先程までそこで寝ていたはずの霊夢がパッと消えていなくなる。

 

「霊夢なら布団に運んでおいたわよ」

 

 どこからともなく声が聞こえる。驚いて振り向くと、月に照らされるように紫が隣に座っていた。

 毎度のことながら心臓に悪い登場だ。紫はいつの間に勝手に淹れたのか、白い湯気をまとった湯呑を手渡してきて……俺は何も言わずに受け取った。

 

「ふぅ~温かいわねぇ」

 

 おちゃらけた声、紫に倣って一口飲めば、じわりと身体が温まる。

 

「……どうした。」

 

「んー?」

 

 間延びする声で紫が誤魔化す。こいつは用もなしに会いに来るような奴じゃない。また面倒ごとかもしれないと身構えてはいるが、どうやら今度は少し毛色が違うらしかった。

 いつもと違って、迷うような悩むようなそぶりを見せて……そしてぽつりと呟いた。

 

「あなた、もう仕事はやめなさい」

 

「……。…………?」

 

 え?解雇?最初に頭に浮かんだのはその二文字。しまった好き勝手やりすぎたかもしれない、もしくは天狗相手に紫の名前で威張ってたことがバレたのか……。いやいやあれはもう数十年前のことだぞ、そんなねちっこく……。

 

「人里の監視も、霊夢との修行も……ああ、あといつもの報告書もいらないわ。今までご苦労様」

 

「……それは、無職か。」

 

「え……は?む、むしょっ……。く、くくっあはっ!あははっ!ええ、ええ!そうね、そういう事になるのかしら?無職……んふ、んふふ。あなたは今日から無職よ。ふふっ」

 

 何がツボだったのか、ぽかーんと口を開けっぱにしたかと思えば、吹き出すように紫が笑いだす。

 

「……困ったな。」

 

「~~ッ!……っ!!…………。……っ!!」

 

 こっちは真剣だというのに、口を開けばなおも笑いを堪えるように紫が身体をくねらせる。

 意味が分からん……。

 

 とはいえ困るのは本当だ。給料も毎日の甘味もなくなってしまう。別にすぐに金に困る様なお財布状況ではないが、とにかくそれは困るのだ。

 

「あー可笑し、久々に笑ったわ。あなたが……らしくもない事考えるのね。そんな心配そうにしなくてもお金や甘味は今まで通りあげるわよ」

 

 目尻に溜まった涙を拭いながら紫が言う。

 ……尚更わからないな。仕事はしなくていいのに報酬は今まで通りとは……。冗談で言っていたが、これじゃあ本当に年金生活だ。

 

「もう十分。今までよく働きましたーってこと。だからあなたの今後はこうして縁側に座って茶をしばくこと。はい、これ今日の甘味」

 

「……いただきます。」

 

 紫らしくない、裏があるんじゃないかと勘ぐってしまうのは仕方がないだろう。

 けれども裏があるんじゃと疑う心とは裏腹に、腕は勝手に甘味に吸い寄せられる。今日はたい焼きだ、緑茶に合う良いチョイス……粒餡なのも舌触りが良くてグッド。

 

「……今日の事、悪かったわね」

 

 珍しく、真面目な顔で紫が言う。今日のことと言われても、何の話かさっぱりで、口にあんこを含んだまま、俺は小首をかしげた。

 

「……なにがだ?」

 

 探るように聞いてみたが、紫は申し訳なさそうに笑うだけだった。

 

「いいえ……いいえ、何でもありませんわ」

 

 紫は芝居がかったようにそう言うと、俺の首に手を伸ばして、木彫りのペンダントを掛けてくる。警戒しながらも、俺はされるがままに受け入れた。

 

「……なんなんだ。」

 

「肌身離さず付けておきなさい。……まあ、お守りみたいなものよ。あなたの身に何かあったら、私に知らせが来るようになっているわ。……ふふ、あなたにこういうアクセサリーは似合わないわね」

 

「……。」

 

 似合わないと言いながら、紫は満足そうに俺の首筋を撫でる。嫌味なやつだな。

 

「それじゃあ……そろそろ帰るわ。もうあんまり力を使っちゃダメよ?」

 

「……。」

 

 釘を刺すように言い残し、紫はスキマを開く。

 そして完全にスキマに隠れる直前、小さく振り向き……けれども何も言うことはなく静かに消えた。

 勝手に来て、勝手に帰っていく、いつも通りの紫だった。

 

 ほうっと白い息を吐く。

 既に飲み干してしまった湯呑からは、まだほんのりとした温かさを感じる。俺は特に意味もなくそれを両手で包んだ。

 そう、特別なことは何もない。

 夜は静かなままだった。




灰くんは元の肉体が一般人とほぼ変わらないので、本気で妖力による身体強化をすると身体がぶっ壊れる。なお、身体がぶっ壊れるほどの強化をしても大して強くない。
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