『横綱』とは、人にして唯一注連縄をその身に張ることをを許された、神の依代。『神の化身』として土俵に君臨する者──……
「……と言えば聞こえはいいが、身も蓋もない言い方をすれば大相撲を盛り上げるための舞台装置だね。ま、その大仰な名前の通り、期待される重圧はご覧の通りだが……」
「何を土俵でくっちゃべってんだ!作法も守れねぇなら今日にでも辞めちまえー!」
「刃皇ー!どうせなら全勝優勝で引退だー!」
「外国人力士を追い出せ草薙ー!いつになったら勝てるんだー!」
「……」
大相撲初場所、十二日目【刃皇─草薙】。
結びを飾る土俵に、観衆の怒号とも言うべき叫びが場内に響きわたる。
期待、怒り、嘆き……、様々な想いが飛び交う中、それを浴びる当の2人は慣れた様子で土俵に上がっていた。
『観客の声をまるでものともしません両雄!十二日目の結びの一番、良くも悪くも注目される刃皇と草薙の対決です!』
『無敗の刃皇に対して草薙は9勝2敗、後がありません。負ければ優勝の目が潰える瀬戸際、しかし勝てば全てが覆る立ち位置でもあります。草薙には何がなんでも勝ってほしいところですが……ッ』
解説が言葉に詰まるのも無理はない。
草薙の成績は傍から見れば好成績であるが、昨日の取組──童子切との対決に敗れた手前、期待値は思いの外低いのが現状であった。
大和国が偉大な大横綱だという事は周知の事実。
しかしいつまでも過去の妄執に囚われている草薙に、観客はすっかり辟易しているのだ。
──だが、それも先場所までの話。
(私が大和国を倒したのは22歳の頃……、すでに衰えが見え始めていたとはいえ、自他共に認めるほど一方的な勝負だった。願わくば全盛期の大和国と相撲を取りたいと長年思っていたが……)
大横綱・大和国の息子、久世草介。四股名“草薙剣”。
神器の名を四股名に携えた彼が、刃皇のその夢を見事に叶えてくれた。
しかし想定外だったのが、どうやら自分は全盛期の大和国ですら圧倒するほどに成長を遂げていたという事。
(まぁそれは仕方のない事だ……、私とて伊達で綱を張っているワケではない。大相撲を背負い導くのに、強さは必要不可欠だからね)
今年で33歳となる壮年の刃皇。
まだまだ衰えを見せぬ『体』に、なお一層冴え渡る『技』。
そして大関や国宝たちに追いかけられる日々は『心』に充足感をもたらし、今が絶頂と言っても過言ではなかった。
(だからこそ圧倒的な力を示した後、引退する。優勝回数45回目とキリが良いのもあるが、負けて引退するなどゴメンだからね)
衰えて土俵を去る、その背を見届けた刃皇だからこその価値観。
そしてこの一番は、自分がその背中にならない為の試練でもあった。
「……そういうわけで、私の愛を受け止めてくれよ?大和国の息子よ」
刃皇が数多の顔、複数の相を出現させ草薙の前に立ちはだかる。
油断の二文字はない、持ちうる全てを惜しみなく出して勝利を……──優勝を攫う。
その凄まじい気迫に、今まで野次っていた観客たちが一斉に押し黙った。
「時間いっぱい!手をついて!」
立行司、40代木村庄之助の声が声高に響いた。
結びの一番のみを裁く彼は、かつての灼熱の日以上に緊張した面持ちで短刀に手を添えていた。
(……あの日も土俵の上に人間は私1人だった。普段の刃皇はやれ威厳がない、品格に欠けるなどと言われるが、極限に集中した刃皇関はまさに神と呼ぶに相応しい貫禄がある。事実、騒いでいた観客たちもそれを感じ取り押し黙った)
人ならざる気配。
この姿を見て『品格がない』などと誰が言えようか。悪魔のような神々しさに、人々はただ畏れ入る他なかった。
──そう、人の身ならば。
ザン!!と草薙が掌を下ろした。
最強の神を前にして『受けて立つ』この姿勢は、刃皇と同等の神の領域に足を踏み入れている事を意味していた。
立行司がゴクリと喉を鳴らす。
(最高位東大関の草薙関は今や西に堕ちた……。しかしこの気配はどうだ、全盛期の大和国を知る私は、その
灼熱の九月場所、あの時は全盛期の大和国の再来に身震いした。
だが今は、それを超えた“草薙剣”という神の気配に戦慄を覚えていた。
(次代の横綱を担うのは童子切だと人々は言う。……しかし私個人としては、草薙関ほど注連縄に見合う力士はいないと断ずる!)
大横綱の息子だからではない。
草薙本人が醸し出すこの気配が、今年で50年を迎える行司人生の中で最も強大な力士だと感じたからだ。
ともすれば刃皇すら霞んで見える。その圧倒的な気配に体の震えが止まらなかった。
刃皇もそれを分かっている、理解している。
それでも彼は勝つ。
経験、歴史、格──……あらゆる実績に裏打ちされた『本物』の力で、幻想を打ち砕くのだ。
(草薙、貴様は紛うことなき強者……、横綱の風格を備えている。しかしその実力に反して結果が伴っていないのだよ、素質だけが一級品のままなのだ)
刃皇の片手が土俵に付く。
草薙の潜在能力は刃皇自身がよく分かっている。それを踏まえてこう言うのだ。『私が勝つ』と。
「……」
「……」
ドクン……ドクン……、と誰かの鼓動が耳に反響する。
緊張の一瞬。賽は刃皇によって投げられた。
(お前の真価を魅せてみろ、草薙!)
「はっきよい!!」
バチイィン!!と空気が弾けた。
密着する筋肉、交差する腕。
蛇の瞳孔、伍つの
目の前に立ち塞がる『神』への勝ち筋を──……
「ッ!?」
ドスン、と誰かが倒れた。
見上げる刃皇、見下す草薙。
あろう事か、刃皇が尻もちをついていた──
「……ッしょ、勝負あり!
静まり返る国技館に、立行司の声が響き渡る。
皆、唖然としていた。
これから大勝負が始まると期待していた中の、この決着。
あまりにも呆気なく、史上最強の横綱は土に付けられた。
『……は、え……っけ、決着がついてしまいました……っ!しかしこれは、一体何が起きたのでしょうか……!?』
『スローで見てみても、正直何が起きたのか分かりません!四つに組んだと思われた瞬間、刃皇が突然バランスを崩したように見えますが……!』
決まり手すら分からず解説も困惑する。
その中で大和国親方だけは、この取組の全容を理解していた。
「前後に揺さぶったか、草介」
(前後に、揺さぶられたのか……)
いまだ尻もちの状態で思考する刃皇も、遅れて気付いた。
立ち合い、衝突し組んだ瞬間の出来事。
右上手を取った草薙が投げのモーションに入る、その刹那に刃皇の『後の先』が発動──……するはずだった。
上手投げの引き寄せる力。
それに対応しようと重心が動いた瞬間、そこを突き放されたのだ。
──『対の先』
この一連の動作に無理やり理屈を付けるとするならば、この言葉が最も適切であるだろう。
相撲の極意と言われる『後の先』。これは相手が仕掛けてきた技に合わせて掛ける技──相手が完全に攻撃動作を始めてから完封せしめるものである。
対して『対の先』。
それは相手の動きを予知し、それに負けぬよう動作を起こして同時に仕掛けながら一瞬早く動き勝つものだ。要は動き始めを捉えて殺すのである。
草薙はこの『対の先』を応用し、ある技を仕掛けたのだ。
それは呼び戻し──通称、仏壇返し。
これは一見豪快な技であるが、その実タイミングが非常にシビアな技である。
腕力だけでは絶対に不可能。相手の動きを見極めなければ決まらない、まさに神の御業──……
(上手投げに身構えた……、ただそれだけの反動でこの私が……)
見下ろしてくる草薙、その佇まい。
この光景に刃皇は激しい既視感に襲われた。
(……そうか。これが貴方の見た景色か……)
刃皇は審判部に座る大和国親方と一瞬目が合わさると、ゆっくりと立ち上がった。
そしてそのまま一礼し、何事も無かったように土俵から去っていった。
全勝優勝して各界から去る、という花道を穢されたにも関わらず癇癪を起こさない刃皇の後ろ姿に、誰もが言葉を無くして見送るしかなかった。
『あ、あの刃皇が為す術もなく倒されてしまいました……!この光景は、かつての若き刃皇が大和国を敗った時の再現ではないでしょうか!?』
『草薙関も淡々と手刀を切って退場していきます……!我々はこの感情をどうすればいいのか、ここまで観る者を置いてけぼりになる取組は初めての体験です!』
大波乱というのも生温い、想像を絶する結果となった十二日目、その結び。
草薙が圧倒的な勝利を収め、刃皇は今場所初めての黒星となる。
これにて全勝優勝は消失。残り三日を残す初場所は、もう誰にも予想がつかぬ混沌と化した。
神の化身とされる横綱。刃皇は人を謳歌し神になると
大相撲初場所、十三日目──
【刃皇─冴ノ山】