キン。と柝の乾いた音が花道の奥から響いてきた。
その瞬間、場内の視線が東の花道へと集まる。
『東方より、横綱刃皇、土俵入り致します』
そのアナウンスに、ワッ!と観客たちが一斉に沸く。
そこから立呼出、立行司が姿を現し、再びキン。と柝が叩かれた。
次いで露払いの力士──黄泉比良坂が現れた。
彼は緊張と若干の恥じらいからか、表情をこれでもかと強ばらせて出てきた。
その背後から横綱・刃皇晃が悠然と歩んでくる。
腰には白く輝く雲龍型の横綱を張っており、その顔は無表情。注目など歯牙にもかけず、まっすぐに土俵を見つめていた。
そして最後、太刀持ちを務めるのは『国宝』大包平彰義。
彼も緊張の欠片も見せず、慣れた様子で淡々と歩を進めていた。
キン。と柝の音が響く。
ザッ、と土俵の手前、力士たちが横一列に並んだ。
化粧廻しにはそれぞれ“刃”・“皇”・“晃”と煌びやかな刺繍が拵えてある。
立行司がひとり先行して土俵に上がると、それに追随するように彼らも土俵に上がった。
キン。と全員が蹲踞の姿勢になると、場内アナウンスから彼らの名が上げられた。
『横綱、刃皇。露払い、黄泉。太刀持ち、大包平。行司は木村庄之助となります』
キン、キン。と2回、柝の音が鳴り止むと同時。
パァン!と強烈な柏手が放たれた。
刃皇だ。
彼はもう一発、ゆっくりとした所作だが勢いよく柏手を放った。
パァン!
──……と辺りが静まり返る中、刃皇が立ち上がり前に進んだ。
仕切り線を跨いで仁王立ちとなると、再びの柏手。
パァン!パァン!と手を擦り合わせ、バッと片手を広げた。重心を横へ移動させ、刹那に屈む。
──ぶわり、と右の足が高々と舞い上がった。
高い。
頂点でつま先がピタリと止まり、かと思えば一気に腰が振り下ろされた。
「ッよいしょおー!」
ズン!と叩き伏せられる大地。
空気が震撼し、人々が一斉に掛け声を張り上げた。
「……」
低い。
胸がつきそうなど低い姿勢を維持する刃皇。
だが、その顔は変わらず無表情──その中に真剣さを滲ませ、ピクリとも動かぬ全身に光が注がれる。
そこからズッ、ズッ、と少しずつ、少しずつ上体がせり上がっていく。
滴る汗。
殺気立つ鋭い眼光。
四股を踏む。その動作ひとつにどれほどの集中力を捧げているというのか。
鬼気迫るとはまさにこの事。
横綱のその背は語っていた。「これが最後になる」と──……
「ッ!」
完全に立ち上がった。
その姿に観客が万雷の拍手を贈り、彼を讃える叫び声があちこちから上げられた。
と、再びの右足が振り上げられた。
「よいしょぉー!!」
踏まれた四股。
そこから流れるように、今度は左足が上げられた。
「よいしょぉー!!」
威風堂々の仁王立ち。
歓声と拍手が入り乱れ、その身を華々しく包みこんだ。
刃皇はしばらくその場に留まっていた。この喝采を堪能するように目を閉じ、どこか満足げな微笑を浮かべてそこに佇んでいた。
そしてゆっくりとした足取りで土俵の端へ移動する。
蹲踞の姿勢をとると、パン!パン!と2拍手、土俵上全員が立ち上がった。
2回の柝の音、1拍おきに叩かれる柝の音色を背に、踵を返した朝陽川部屋の力士たちは花道の奥へと去っていった。
その背を見送る視線は様々。
称賛、信奉、嫌忌……、中でもあと一歩及ばなかった力士たちの遺憾の意を含んだ視線が強烈で、その背を黙って見送ることしか出来ない己に憤慨していた。
──……数名を除いて。
「俺を差し置いてその顔はまだ早いやろ、横綱」
東大関、童子切安綱が独り言つ。
時期横綱として名高い彼は今、かつてないほどに奮起していた。
今宵の結びの一番を待たずしてこの哀愁漂う土俵入りをしてみせた刃皇に、非常に闘争心を煽られたのだ。
大相撲の行く末を担う者として、優勝を目指す者として──、なにより刃皇を超える存在となるために、心を激しい業火で燃やしていた。
彼だけではない。他にも優勝戦線を駆ける者たちがその目に闘志を燃やして猛っていた。
1敗を守る刃皇であるが、待ち構える童子切の存在により優勝ラインはいまだ2敗だと睨まれているのだ。
優勝決定戦──……、その言葉が多くの者の脳内にチラついていた。
──だが、その中で誰とも被らない視線を持つ者がいた。
今この時、刃皇の最も間近に居た2人の力士。
「……」
「……」
東小結、大包平彰義。
東前頭十七枚目、黄泉比良坂。
この2人だけは刃皇に感情を揺さぶられる事なく、終始静かなものだった。
黄泉は土俵入りの舞台に緊張こそしていれど、横綱に視線を送ることは無く。
大包平は薄目で刃皇の大きな背を見つめるだけで、その表情は少したりとも動かない。
彼らが胸中に何を抱えているのか、それは本人たちしか知りえない。
ともあれ大相撲初場所、千秋楽。史上最強と名高き横綱・刃皇晃のこの雲龍型土俵入りにて、その幕が上がった──
◇◆◇◆
(なにを満ち足りた顔してんだ、刃皇関!俺はまだ、アンタと戦えてねーんだぞ!)
幕内下位力士、そして勝ち星の少ない関取たちの取組から始まった両国国技館、その公衆トイレにて。
今場所西十六枚目、柴木山部屋所属の白狼昇──バトが心中穏やかではない様子で用を足していた。
彼がぷりぷりと怒っているのは言わずもがな、かの横綱・刃皇の引退宣言についてである。
45度目の優勝を果たしたら引退する、というその言葉を律儀に守り、今場所ついに優勝に王手をかけた刃皇。
叩き上げられた国宝たち・奮起するベテラン勢を一蹴し、有終の美を飾らんとする今の状況に彼は憤っているのだ。
──横綱と同じ目線で戦えない自分に。
(幕内力士になるのが遅すぎた!刃皇の引退阻止を直接阻めない今の番付が憎い、ただ待つだけの身が許せねぇ……!)
出世スピードで言えば、彼は並の力士より抜きん出て早い。
だがそんなものは言い訳だ。現時点で直接刃皇に関われないことの、なんと悔しいことか。
荒々しい気性となっていたバトは、手ぬぐいで手を拭きながらトイレから出た時、出入口で人と衝突した。
「ん、すんませんっス……って、加納さん?」
「バト……、いや白狼関」
ぶつかった相手は加納──大包平だ。
彼は「いや、こっちこそ悪かった」と謝り、続いて「……なんでこんな遠い場所のトイレに?」と疑問をぶつけた。
バトが頭の裏を掻いて答える。
「いや、ちょっと気が昂っちゃいまして。少し落ち着こうと散歩してました。……というかソレはこっちのセリフですよ、ついさっきまで太刀持ちしてたじゃないですか」
「はは。いや、恥ずかしながら、今だに支度部屋の空気が苦手でね。……それより今場所のお前は絶好調だな、前場所とは別人のような快進撃じゃないか」
そう、白狼は現在12勝2敗、優勝戦線の最前線を走っていた。
上位と割が組まれ始めたが、日頃から国宝の一振りとベテラン大関を相手に猛稽古しているのだ。その実りは実に逞しいものだった。
今場所のダークホースとなった白狼に、しかし大包平は不敵に笑った。
「獅童……童子切関が刃皇を土に付ければ優勝決定戦が始まる。……今日、勝ち星を上げればそれに参加できる位置だな」
ピリッ、と空気が震えた。
白狼と大包平の視線が厳しく交差したのも束の間、加納はフッ、と力を抜いた。
「ま、無用な心配か。『加納さんより強い』もんな、お前は」
そのまま通り過ぎようとする加納に、バトは修羅を漂わせて返事を返した。
「ああ、俺は強いぜ!アンタもまさか、負け越してるからって投げやりな相撲を取らないでくださいよ、大包平関!」
「……」
6勝8敗、大包平の現在の成績である。
東小結に位置する彼は強い。だがその強さに反して成績が振るわない理由は、ひとえに『心』の有り様にあった。
前場所での【無道】による荒れた軌跡、それと刃皇の引退宣言に懸ける覚悟を──……
(俺は良くも悪くもその場の空気に影響される。そういう『人間』さ。だからこそ……)
「あぁ。ぶっ殺してやるよ、白狼!」
雑念を振り払い、何もかも顧みず戦う。
それがこの飢えた獣と真正面から戦うための礼節だ。
かつて鎬を削り合ったチームメイトと、今日この場所、千秋楽の土俵で向かい合う。
大相撲初場所、千秋楽──
【大包平─白狼】
「……ふむふむ。2人とも殺る気十分みたいやねぇ。これはいい記事になりよるよ」
火花飛び散る最中、聞き慣れた関西弁が現れた。
2人はギョッとして声のした方に振り返ると、記憶より長くなった髪の中に見慣れた顔があった。
「っえ、咲ちゃん!?」
「お久しぶりやなぁ、アキさん。バトさんも柴木山部屋での稽古ぶりやな」
天王山咲──スポーツ雑誌『月刊相撲道』で辣腕を振るう、今色んな意味で注目されている若手ライターだ。
彼女は2人にボイスレコーダーを差し向けながら、意気揚々と話しかけてきた。
「今場所快勝を続けるバトさん……白狼関を追ってみたらその先にはなんと!千秋楽で胸を合わせる大包平関と謎の密談を交わしている場面を目撃や!これはスクープやで……!」
手帳になにやら凄い勢いで書き連ねる咲。
その気迫に押され、加納が「いやいや……、星の売り買いなんてしてないからね?」と謎の焦りを見せた。
そんな加納の様子にくすりと笑う咲。
「ジョーダンや。包平関ならともかく、白狼関がそない腹芸出来るワケないもんな」
「フン、当たり前だよ。そんなんで勝って何が嬉しいんだか」
皮肉を対して馬鹿正直に受け答えるバト。
そんな空気に毒気を抜かれた加納は、「それで、本当は何しに来たんだ?」と尋ねた。
咲は「え、ホントに白狼関と包平関への取材やで」とあっけらかんに答えた。
「鳥取白楼高校出身の力士はみぃんな私の獲物や。しかもお兄様ラブの犬猿コンビの対決なんて、私が取材しないで誰が取材するんっちゅー話よ」
言いながらバシャバシャ写真を撮りまくる咲。
すっかりライターとしての姿が板についている彼女に、バトは真剣なトーンで気になっていた事を聞いた。
「咲ちゃん。アニキ……童子切関は今、どんな調子だ?」
「……集中しとるよ。恐いくらいにな」
咲も目を細めて答える。
脳裏に浮かぶのはつい先刻での支度部屋、兄である天王山獅童──東大関“童子切安綱”の胡座姿。
十四日目終了時点、現在の成績は12勝2敗。
昨日、三日月宗近から敗北を喫し国技館が大いに沸いたことが記憶に新しい。
そんな彼の無言の列気は他の力士にも伝播しており、支度部屋は異様な静けさに包まれていた。
一瞬たたらを踏んだ咲だったが、直ぐに気を持ち直して大関に突撃した。
「おにーさま♡どないしたん、そんな怖い顔して。もしかして緊張してるん?」
「ん?おぉ咲か。なんや気色悪い呼び方すんなや、せっかくの集中力が吹き飛んでしもたわ」
わしわしと小さい頭を乱暴に撫でてくる、その大きな手。
いつもの調子、いつもの磊落な様子だが、しかし血の繋がりの前では誤魔化せなかった。
されるがまま、咲は小さく呟いた。
「……柄にもなく、ホンマに緊張しとるんやね」
一瞬の停止。しかし直ぐにフッ、と微笑んだ。
「アホ言え、武者震いや。今日俺が勝てば優勝決定戦に持ち込める……、そして2敗の奴らも全員勝てば、アホほどオモロくなりそうやろ?せや、俺と同じあのアホにも伝えとけ、『2番手を倒してこい』ってなぁ──……
……って感じや。お兄様は白狼関をご所望みたいやよ」
「おぉ、アニキ……、いや童子関!へっ上等だ、首を洗って待ってろよ大関!」
兄のモノマネで再現してみせた咲を前に、白狼の目はさらに激しい闘志で燃え盛った。
反面、大包平は……
「焚き付けが雑、露骨な煽りだな。本当に緊張しているのか、獅童……。まぁ、その言葉には単純にムカつくがな……!」
こちらも闘志……というより最早【無道】を纏って猛っていた。
もとより殺る気だったが、予期せぬ天王寺兄妹の襲来によりさらに殺る気が膨れ上がった様子だ。
「簡単に俺を倒せると思うなよ、白狼!」
「上等!強いアンタを倒して、俺が横綱の引退を阻止してやる!」
再びバチバチと散る火花。
そんな2人を懐かしむようにして微笑ましく眺めていた咲は、何の気なしにこんな提案をした。
「ほな、勝った方には私がほっぺチューしたるわ。どや、嬉しいやろ」
気心知れた、勝手知ったる元チームメイトへのこの冗談。
特に加納など幼少の頃からの付き合いであるし、もはや兄妹のような感覚である。
実際、加納は「はは、魅力的なご褒美だな」と笑って流していた。そしてバトの方も……──
「はー?咲ちゃんのチュー?そんなん貰ってもなー」
「なんやとー?私のチューの何が不満な、ん……ゃ?」
笑いながらバトの腹にパンチした咲だったが、その言葉は尻すぼんでいった。
何故ならバトが、言葉とは裏腹に視線はキョロキョロ、頬を赤くしてひどく落ち着きがない様子だったからだ。
明らかに満更でもない感じ……、期待を孕んだ確かな動揺だった。
「あれぇ?えぇっと……っ」
この反応に、自身の発言にだんだん恥じらいが芽生えてきた咲。
彼女は急に反転、背を向けると「あ、あー……他の関取にも取材しに行かなきゃやー」とその場をあとにした。
髪の隙間から覗いた耳は真っ赤だった。
「へぇ。バトお前、そうだったのか」
加納は意外そうに、しかし納得した様子でひとり神妙に頷いていた。
(高校の頃はけっこう2人きりで行動してたしなぁ。ありえるか)
去る咲の背中をボーッと見つめるバトに、加納にしては珍しくイタズラ心がはたらいた。
「咲チャンノチューハ俺ノモノダ」
「ああ゛!?俺のだし!!!…………あ、いや、違うんス、別にそんなんつもりじゃなくてっスね……」
彼等の千秋楽の、幕が上がる──