春が近付いてきたとはいえ、まだ日が高く上るまでは空気が冷たい。
冒険者ギルドの内部も例外ではなく、人が集まってくるまでは冬の空気に満ち溢れている。
思わず身震いしてしまいそうな寒さの中、受付嬢は黙々と業務準備を整えていく。
ギルドの職員にとってのペンと紙は、冒険者にとっての装備も同然。毎日点検は欠かせない。
どれだけ気をつけていても起きる時は起きるが、決して怠慢によって起こしてはならない事態だ。
そんなもの起きた時に買いに行けばいい、と言う者もいるだろう。なら買いに行く間の業務はどうなるのか?
そこで滞った業務を片づけるために時間を費やせば、その後に控えている次の業務はどうなるのか?
一つの遅れはそれだけに留まらず、全体に影響を与えてくるものだ。
これを無視してただ単に墨がない、としか見ることが出来ない者はまかり間違っても知者面などしてはいけない。
一つの物事は全体に繋がっていて、一つ一つの物事が集まって全体を作っているのだから。
もっとも一つの物事から全体を見るのはとても難しい事であるし、受付嬢も出来るとは言えないのだけれども。
そんな風に時折ちょっと思考が横道に逸れつつも、受付嬢はつつがなく点検を済ませ支度を終える。
あと一ヵ月もすれば完全に春を迎え、大勢の冒険者志望 ――― 新人冒険者
つまり、冒険者ギルド最大の繁忙期が訪れる。そうなればこの行為は一層重要さが増してくるというものだ。
長い長い列をなして登録を待つ新人達を待たせて、墨やらペンやらを買いに走る。そんな光景はあってはならないというもの。
迷惑をかけるのは勿論のこと、冒険者ギルドそのものが新人達に侮られることになるやもしれない。
侮れるとまではいかずとも、ギルドという存在に対する信頼が損なわれる可能性がある。
ギルドが仲介してくれるから、この依頼には裏はないだろう。依頼人が冒険者を騙して陥れるようなことはないだろう。
そんな信頼があるからこそ冒険者達は安心して依頼に集中できるのだ。また、その信頼と引き換えにギルドは仲介料を取っているのだ。
ギルドが成立する前の古の頃は『騙して悪いが』という事態が横行していたらしいが、それも昔の話。
そんな案件を駆逐したギルドとは信頼に足るもの。今までもこれからもそうでなくばならない。
みっともない所を見せて、新人達を不安がらせてはいけないのだ。
そうでなくとも冬が明け、氷精が去っていくこの時期は依頼が増え始める。それに伴い、冬籠りを終えた冒険者達も活動を再開し出す。
比較的手隙だった冬とは違い、一々業務を止めて買いに行っている暇など殆どない。
だから点検と確認はとても大事なのだ。別に忙しい時期に限った話ではないが。
そうして準備を終える頃にはちらほらと人が集まり出し、始業を ――― 依頼が張り出されるその時を待つため其処此処に陣取り出す。
まだ新人が来るには時期が早いため、殆どの冒険者は見知った顔ぶれとなる。
「まだちっと早い時間やで、旦那。商売相手の所には遅く行くのは論外やけど、早すぎるのも迷惑なんやで?」
「時間に遅れるのが嫌なんだよ、俺は。遅れないよう少し早すぎるぐらいから待ちたいんだ」
「かーっ。意外と肝が小さいんやな、旦那。もっとふてぶてしいと思ってたで」
「そこは律儀とか規則正しいと言うべきじゃないのか?」
だから、そんな会話をしながら顔を見せた男女の二人組が新顔であると受付嬢はすぐに気付いた。
男の方は特に目立った ――― 種族として目立った所がない。恐らくは
年の頃は二十歳かそこらで、背は少し高め。東方風の変わった衣装と
腰にあるのは
また、武器にも防具にも真新しさもなく使い込んだ物品特有の汚れや跡が見られる。
つまり「冒険者になるから」と昨日今日買って来たものではない。幼少期からそれらの扱いを学び、手に馴染んだものを持ち込んだ人間なのだろう。
そういう人間は決して珍しくない。生まれが騎士や貴族だという新人の中には、時折こんな風に一端の武人が混じる事がある。
他にも事情があって騎士や傭兵から冒険者に転じる人間もおり、そういう手合いは新人でありながら鋼鉄等級辺りよりもずっと見事な風格を漂わせていたりする。
彼が持っているのはそういう雰囲気であり、湾刀という変わった武器から傭兵の方だと受付嬢は推測した。
体格もしっかりしたもので、筋骨隆々というわけではないが鍛えられているのが分かる。
どう転んでも戦士として素人だとか駆け出しだということはないだろう。
人相の方はと言うと、中々に悪くない顔つき ――― 顔立ちをしている、と言うべきか。
人目を引くほどにパッとした華や明るさがあるわけではないが、目鼻の一つ一つが無難に整っている。
それらがこれまた無難に調和し、顔にある。それはつまり無難に顔の全てが整っているということで、少なくとも「悪い」と言われることはない。
むしろどちらかに分類しろ、と言われれば文句なしに美男子に分けられるだろう。
そういう人間に対してはちょっと警戒心が働いてしまうのだけれど、それを表に出さない程度の術は職員として当然心得ている。
女の方は逆に、華やかで見栄えする美貌が真っ先に目に入ってくる。
尖った耳を見る限り
それでも、他者が彼女を見た時真っ先に目を見張るのはその容貌だろう。
些か勝気な印象を与えるのはその口から発せられる変わった訛りと、やや吊り上がりがちな瞳のせいか。
そして豊満な ――― 決して太っているのではなく、出るところが出て後は引っ込んでいるその肢体もまた眼を引くだろう。
森人とは細身なもののはずなので、その点は彼女には当て嵌まらない。恐らく彼女は半森人なのだろうと受付嬢は推測した。
厚手の
――― 腰に差しているのは
投矢帯とそこに付属している
ああいった武器を好むのは主に都会の
単純に護身のために求めた物、と見るべきか。
首から下げている金の車輪は交易神の聖印で、彼女が神官あるいは信徒であることを示している。
神官服を着ていないことから、恐らくは後者か。
――― 行商人とその護衛、ですかね。
冒険者ギルドの職員として働くこと5年。その経験が彼らの会話の内容や風体、その他受付嬢自身言語化はし難い細かな事柄から得た情報を統合しそう結論付ける。
商売相手、と言っていたが上からは何の連絡も来ていない。飛び込みで売り込んでくるということもまずないだろうから、恐らく依頼人として来たのだろう。
護衛の男性の腕が立たないとかそういう事は無さそうだが、単純に数が必要になったのかもしれない。
状況次第だが、護衛というなら質より数。無論程度はあるけれど。
幾ら達人でも一人は一人。依頼人を守りながら足止めをするだとか、敵を倒しに行くだとかは出来ない。
一人がいることが出来るのは一か所だけだ。
対してそこそこの腕前でも五人いれば、複数の事が出来る。数を割り振って役割を分担して、最悪一人が依頼人を連れて逃げたりも出来る。
数とは力であり、それだけで優位を生み出すものだ。そうでないなら ――― ……
――― あの人のゴブリン退治も、もう終わってますものね。
安っぽい鉄兜を被り、薄汚れた革鎧に身を包んで戦い続ける彼の姿を思い浮かべる。
彼は一人しかいない。だから彼は一か所にしかいれない。そうでないなら、彼はこの四方世界に存在するゴブリン全てのもとへ現れている事だろう。
だが現実はそうではない。そうではないのだ。だから彼は今日も何処かで戦い続けている。
そんな風に脇道へと逸れかけた思考を自らの頬を軽く叩いて断ち切り、受付嬢は意識を切り替える。
彼のことが気になるのは仕方ないとしても、業務を疎かにしてはならない。
やるべきことは山積みで、その上ちょっとした間違いが依頼を受ける冒険者の生死に関わってくるのだ。
全力で取り組まねばならない。業務に慣れたからこそなおのことだ。
受付嬢が気合いを入れ直して程なく、業務開始を知らせる鐘の音がギルドに鳴り響く。
依頼が張り出され、冒険者達がコルク板に群がり剥ぎ取っていく。人の動きが始まり、業務が始まり、俄かにギルドが活気を帯び始める。
常日頃のようにその業務を捌いていくうちに、受付嬢の頭からは先程の二人の事は消えていた。
正確に言えば意識しているゆとりがなかった。一つ一つの依頼に丁寧な対応をするならば、そんな余裕などなくて当たり前だ。
「次の方、どうぞ!本日はどのようなご用件でしょうか!」
「冒険者登録をしたいのだが」
だから、その二人の事を思い出したのは窓口 ―――― つまり面と向かって、その男と相対した時だった。
依頼を出す側だとばかり思っていた男は、なんと依頼を受ける側になるつもりだったらしい。
女の方もどうやらそのつもりらしく、男の後ろに並んで順番を待っている。
これには流石に受付嬢は驚いたが、その驚きは胸の内に抑え込み営業スマイルを浮かべる。
「わかりました。では、文字の読み書きは出来ますか?」
「問題なく」
「では、こちらに記入をお願いします。ご不明な箇所がありましたらお教えしますので、お聞きください」
「わかった」
冒険記録用紙にスラスラとペンを走らせていく男を見て、受付嬢は彼が貴族の出だろうと当たりをつける。
礼儀正しくはあるが貴族特有の雰囲気 ――― 人によって「気品」と言うか、「大仰で偉そう」と言うかは別れるそれが所作の端々から漂っている。
そして何より近くで見れば服の生地や仕立てが安物でないことが良く分かる。騎士階級では中々こうはいかない。
卑しからぬ身分の次男以下。成人したばかりでないことから、後継ぎに子供が生まれるなどして代役としての役割が無くなり家を出てきたという辺りか。
装備に使い慣れた風情が見えるのは、ひょっとすると戦に出ていた経験があるのかもしれない。
となれば
「はい、これで登録は終わりとなります」
仮に彼が勇者や英雄の類であったとしても、まだ冒険者としては一度も依頼を受けたことのない登録したばかりの新人。
つまり駆け出し未満の存在であり、白磁等級から始まることとなる。こればかりは絶対の規則だ。
――― 時々、それが不満で暴れたりする人もいるんですよね。
他分野で既に一定の成功を納め、実績や実力が確かな者達が冒険者になる時。それに基づき「自分は高い等級から始まる」と思っていることがある。
確かにその考えには一理あるのだが、冒険者としての実績ではないので白磁等級とせざるを得ない。
無論全く評価しない訳ではない。それに基づいて技能に関しては高い評価をする。
しかし、それに不満を持って苦情を入れて来たりする者は当然いる。気持ちは解るが、そういう時は「規則は規則」で切り捨てるより他ない。
それでも文句を言うようなら、人格査定の問題でやはり白磁等級相当と言ってしまえる。
だが文句に留まらず、不満を暴力にしてぶつけてくる者も稀によくいる。そんな輩は白磁の認識票ではなく、首枷を貰う事になるのだが。
故に「彼もそうなるのではないか」という不安がどうしても浮かぶ。その不安を胸の奥に抱えつつも、受付嬢は笑みを崩さない。
熟練の職員としての慣れと誇り。それを支えに何時もの新人登録のように、白磁の板に彼の名前を書き記した。
それを一切の文句もなく受け入れ、白磁の認識票を受け取って首につける彼 ――― 湾刀武者の姿を見て。受付嬢はホッと小さく息を吐くのだった。
―――
「しっかし、何度見てもチャチなもんやな。ま、大量に作ってバラ撒くもんやから仕方ないけど」
「なんだ、金や銀で出来てると思ってたのか?」
「せやせや。で、それを売り払いに行こか思っとったんや」
「そして金が市場に溢れ返り価値が暴落するわけだ」
「いやあ、ホンマにそうやったら暴落する以前に価値がないと思うわ。旦那もまだまだやな」
「俺が話に乗ると落とす仕組みはやめろ」
神官射手と軽口を叩きながら、湾刀武者は街道を進んでいた。
彼女と話す時は大方このように最後にこちらを落として話にオチをつけて来ようとするのだが、彼はそれを嫌悪せずむしろ楽しんでいた。
それは神官射手が話好きで明るく快活な性格をしているというもあるし、本当に腹の立つ落とし方はしてこないというのもある。
また、湾刀武者自身が鷹揚な性格で気にしないというのもあるだろう。
――― 後は見た目の問題だろうな。
醜女であったとしてもまあ気にはしていなかったが、
見た目で差別するな、という言葉はもっともだが的外れな部分も含んでいる。人はまず見た目だ。
美醜も立派な才能であり武器なのだ。それを全く無視するのはおかしな話だろう。
まして、所作や身なりで美とはある程度補えるものなのだから。無論ある程度、であり無理なものは無理だが。
そんな事を思いながら、湾刀武者は首に下げていた認識票を引っ張りだして見やる。
認識票 ――― ただの白磁の板に過ぎないそれを彼は大層気に入ったのだが、神官射手は気に入らないらしい。
白磁等級から始まるのが気に入らない……などというわけではなく、文字通り白磁の素材や色が気に入らないだけのようだ。
こちらとしてはなんなら等級が上がってもこれを使わせて欲しいぐらいなのだが。
「そういや旦那、なんで手紙配達なんて依頼受けたん?旦那のことやから討伐依頼を受けると思っとったんやけど」
「ん?ああ、お互いの事を知っておこうと思ってな」
「なんや、口説くつもりかいな。旦那が貴族様の後継ぎになるんならウチは喜んで嫁ぐで!」
「いや、俺も相手は選びたいし……」
「なんや、不満があるっちゅうんか!」
「そうじゃなくてな。二重の意味で。お互いの脚や体力を知っておく必要はあるだろう」
「あー、そういうことかいな。納得や」
楽しさのあまりついついあらぬ方向へ逸れがちな話を元に戻し、湾刀武者が言った言葉に神官射手はすぐ納得する。
脚とは言葉通りの意味で、つまりどれだけ歩けるかだ。
言うまでもなく、冒険者の基本とは歩くことだ。怪物と戦うにも遺跡に潜るにも、まずはそこまで歩いて行かなければ始まらない。
それも、ただ歩くのではない。装備を纏い、食料や野営道具等の荷物を抱えて歩いて行くのだ。
馬車を使うにしても駆け出しの頃はそんな余裕はなく、そもそも馬車には行けない場所も多い。だがそんな場所でも平気で踏破していくのが冒険者なのだ。
それ故体力も当然重要になる。歩くだけで疲れ果てていたら意味がない。
歩いてそこへ行くのが目的ではなく、目的を果たすためにそこへ行くのが冒険者なのだから。
どれだけの距離を歩けるのか。どれだけの速さで歩けるのか。どれほど余裕を持って歩けるのか。
これを知っておくことはともすれば実力や技能以上に重要になってくる。
それをお互いが知るために、数日かかる距離を行く手紙配達という依頼を彼は選んだのだ。
――― 意外と考えとるんやな。
叔父にまんま騙されたことや何処か楽観的な考えをしている辺り、やや世間知らずで考えが足りない人間だと思っていたがそうでもないらしい。
あるいは人を疑うのが苦手なだけで、他の部分では案外頭が回るのかもしれない。
だとすれば
少し速度を落としているとはいえ、軽装かつ身軽な半森人の自分と遜色ない速度で半日以上歩ける脚力。
これだけ金属製の装備をつけながら、ガチャガチャ音を立てずに歩いているのは何らかの技法によるものだろう。
冒険者としても戦士としても立派にやっていける人材と言っていいだろう。
ますます
商売人として話を絶やさず相手の懐に入る。そういった技術として身に付けたものもあるが、それ以上に彼女は生まれついての性として話を絶やさない。
沈黙するぐらいなら愚痴を言っていた方がまだいい、というのが彼女の心情だった。
それに話題なら幾らでもある。その日の天気に始まり今日ここまでの道程で見たものに、これから行く先で見るであろうもの。
野営中の食べ物についてや配達先で食べたいもの、街に戻ったら食べたいもの。
他にも客と話を合わせるために仕入れた知識で色々話す事が出来る。
話題とはそれそのものが一種の商品と言っていい。であるなら、商売人が商品を切らすなどありえない。
故に彼女は相手さえ嫌がらなければ幾らでも話し続けられたし、相手の事を嫌いでなければ話し続けたいのが彼女だった。
とりあえず一番気になる話題 ――― 辺境の街の街道沿いに建っていた、妙に警備が厳重でちょっと手を加えればすぐにでも野戦陣地になりそうな牧場の事を話題にする。
神官射手が仕入れた情報によればあの牧場は中々評判が良く、ギルドにも品物を卸しているという。
試しにチーズを買ってみたが確かに味は良いものだった。隠れた絶品、とまでは言わないがその辺のものより一段上と言っていい。
先立つものがあれば、そして牧場主がその気であれば。大量に買い付けて王都に売るのも充分選択肢として成り立つ。
そんなチーズの話から牧場の造りの話になり、防備の異常さが一種の
牧場主はさぞ偏屈で凄腕の職人といった風情の男だろう、と推察するに及んだ頃に彼らはそれを見つけた。
この峠を越えれば目的地、という谷間。その奥の街道に鎮座するのは ―――
「
「……わぁお。旦那、走って逃げよか?」
「よせよせ。確か魔術を使うらしいぞ、アレは。後ろから狙い撃たれたいか、魔術を回避する術があるなら別だが」
マンティコア。ある英雄の冒険譚においては最初の難関として立ちはだかったという、人の頭と獅子の胴と蠍の尾を持つ怪物。
個体差があるらしく頭が老人だったり顔だけが人で他の頭は獅子だったり、尾が蠍ではなく蛇だったりと様々な種類がいると聞く。
また個体によっては毒を持っていたり人語を解し意思の疎通まで可能だという。中には街を牛耳る犯罪組織の幹部を務めているものまでいるとかいないとか。
目の前の相手は概ね伝承通りの姿だが、背中に立派な蝙蝠の翼を備えている。備えているからには飛ぶのだろう。
まかり間違っても新人冒険者では勝てるはずがない、戦いにさえならず餌とされるであろう実力を持った怪物。
湾刀武者も正面から一対一というのはあまり歓迎できない相手だ。
「まあ、向こうが呪文を使えるかどうかは知らんがな」
万全の状態なら、だが。
目の前のマンティコアは全身に傷を負い、明らかに疲弊している。他の怪物と争ったか、あるいは討伐に来た冒険者と戦ったか。
いずれにせよそれに勝利したものの、無傷では済まなかったということだろう。
こちらの姿を認めつつも、一定の距離から唸り声を上げるだけで踏み込んで来ないことからもそれが分かる。出来れば戦いを避けたいのだ。
背を向ければ襲ってくるかもしれないが、警戒しながら徐々に下がれば逃げ切れないこともない。
手負いとはいえど危険な事には変わりなく、ただの旅なら迷わず安全を取るところだが……
「この峠を越えなアカン以上、やるしかないっちゅうことやな」
「その通り」
この先に目的地がある以上避けては通れない相手なのだ、これは。
それに手負いであるなら、油断はならないが決して勝てない相手ではない。ましてや二対一であるならば。
神官射手の技量と使える奇跡、その回数を頭の中で確認すると湾刀武者はすぐに方針と覚悟を決める。
マンティコアの方も戦闘が不可避だと悟ったようで、身を沈めすぐに飛びかかれる姿勢を取りジリジリ間合いを詰めてくる。
対峙する双方の合意は成り立った。後は殺し合うだけだ。
「とりあえず斬り込む。外したら助けてくれ」
「大雑把やな!了解!」
彼女の返事を聞くより早く、湾刀武者は左足を前に出すと右腕だけで柄を握り耳の辺りまで持ち上げる。
また、刃はマンティコアではなく身体の外側へと向ける。もし心得がある者が見れば訝しむだろうが、これこそが肝要なのだ。
そして左手を軽く添えると、軽く膝を曲げマンティコア同様飛びかかるかのように軽く身を沈める。
ともすれば剣を知る者から「珍妙だ」と笑われかねない特異な構え。だがそれと対峙したマンティコアは奇妙な不安に囚われた。
見たことのない構えだ。剣を使う者とは幾度となく戦ったが、一度としてこんな構えは見たことがない。
それはこの男が剣術というものを知らないからだ、とは言えなかった。むしろ逆の思いがこの怪物の胸中に湧いていた。
未知への恐れに怯みそうになるが、誇り高き獅子の身体がそうさせるのか。あるいは散々人を喰らい冒険者を返り討ちにしてきた怪物としての矜持か。
男は剣を天に向け、腕を持ち上げている。つまり上から下への斬り下ろししか攻撃はありえない。
なら距離にだけ気をつけて、横に動きさえしてしまえば剣は外れる。
警戒すべきは女による牽制や妨害、あるいは回避後に来る男の動きを囮とした女の攻撃だろう。
そう結論付けると、マンティコアはさらに一歩思考を進める。男の一撃を避けた後は真っ直ぐ女に向かうべきだ。
女は金属の鎧やそれに類する装備をつけていない。装備に魔法の品がない事も、魔力の流れから解る。
爪か牙で腹や喉を抉ってやれば容易く殺せる。男はそれからじっくり殺せばいい。
あるいは、女を咥えて逃げてしまってもいい。敵を前に逃げるのは性に合わないが、手傷を癒す方が先決だ。
肉付きの良いあの女を食えば傷の治りも早くなることだろう。
そうやって思考を進めながら、マンティコアはジリジリと前に出て行く。湾刀武者は構えを崩さず、一歩も動かない。
あと数歩で一気に飛びかかれる間合いになる。マンティコアがそう思った瞬間 ―――
湾刀武者の身体が、跳んだ。鎧の重さなど一切感じさせずに、マンティコアの予想よりずっと早く、速く、遠く跳んでくる。
驚きで一瞬反応が遅れる。そして横に動くか、こちらも跳びかかり正面から迎え撃つかで判断がさらに一瞬遅れる。
その遅れの間に距離が詰まる。そして刃が届く間合いに入った瞬間、湾刀武者は後先のことなど一切考えず刀を振っていた。
刃を外側から相手へと向け、捻り打ちにすることで威力を高める。
膝を折り刃と同時に腰を落とし、刃に体重を預ける。
左手は使わず右手一本で石を投げるかの如く剣を振り降ろし、最速の一撃を生み出す。
勝敗も生死も二の太刀も捨て、ただこの一刀を速く、迅く、ただ疾く振ることだけを。振り切りことだけを考える。
己の全てをこの一撃に込め ―――
「チェストォォォォォォォォォ!」
気合いを込め出せる限りの大声で絶叫しながら、湾刀武者は渾身の一刀を振り下ろす。いや、振り下ろした。
「……未熟だな」
振り切った後の刀を見て、上半身を真っ赤に染まらせた湾刀武者はそう呟く。
振り下ろした湾刀の刃は地面に切っ先を食い込ませ、そこで止まっていた。刃の軌道上にあったものは全て斬り裂いて。
軌道上にあったもの、つまりマンティコアの身体は……
「……おっそろしい声と一撃やな。真っ二つやないか」
聴力に優れた彼女には先程の声は少々強烈過ぎたのか、両手で耳を抑えながら神官射手がこちらへ近付いて来る。
神官射手の言う通り、マンティコアの身体は縮まった姿勢のまま見事に両断され脳漿と血をその場にばら撒いていた。
いや、両断というのは正確なところではない。頭部から首にかけて、つまり当たった刀身の長さ分だけが斬られている。
人の身体で最も硬い頭蓋骨も、弱弓なら弾いて見せる獅子の強靭な肉体も、全てだ。
自分の見積もりが甘かったことを神官射手は痛感する。剣の腕など彼女には分からないから仕方ないと言えば仕方ないのだが。
「これで未熟ってどういうことやねん。ひょっとして旦那、触れずに斬ったとかいう伝説の剣士でも目指し取るんか?」
「いや、そうじゃない」
そもそもあの伝説はあくまで伝説であって、事実ではないと自分は思っている。
湾刀武者はそう言いながら刀を振って血を飛ばし、懐から鹿のなめし革を出して丁寧に刀身を拭う。
そして刀身の血が拭きとれたことを確認してから、ようやく自らに降りかかった帰り血を拭い出す。
あくまで優先すべきは湾刀だと言わんばかりの態度だ。
「地面さ」
「地面?旦那の湾刀の刃がめり込んどったな。正直ドン引きやで」
「切っ先がめり込んで止まったから未熟なんだよ。今のは本来腕を下ろしきるまで地面も斬る」
この刀法の開祖は卓を斬った息子に対し、卓の下の床まで斬るのが正しいと言って実際にやってみせたと聞く。
自分の師も切っ先のみならず刀身が中ほどまで埋まる程度には斬ってのけていた。
そう、
それに比べたらなんと己の未熟な事か。
「ウチからしたらそれも伝説であって、事実ではない気がするんやけど」
「いや、これは事実だろう。師匠は似たようなことを出来ていたからな」
「旦那の師匠、
「まさか」
信じられないといった表情を見せる神官射手の言葉に苦笑しながら、湾刀武者は首を横に振る。
そして刀身や目釘を念入りに確認すると、ようやく刀を鞘に納める。威力が大きいということは武器への負担も相応に大きく、破損しやすい。
故にアレを使った後は手入れと点検を怠るな、と師に口煩く言われたものだ。
実際、使った後に刀が折れたり曲がったりはよくしたので言われるのは当たり前ではあったのだが。
「ほーん……まあええわ。さーて、牙折って爪折って、と」
「……何をしているんだ?」
「決まっとるやろ。マンティコア討伐の証を取っとるんや。こういう手合いは懸賞金かかっとるもんやで?」
「なるほど」
短剣を取り出し、マンティコアの死骸から手早く何かを剥ぎ取っていく神官射手。その行動の意味を聞き、湾刀武者は深く頷いた。
大物を一太刀で仕留めて満足していたが、言われてみればその通りだ。大物ということは金になる相手のはずだ。
この手傷を負わせた冒険者 ――― あるいは旅人か傭兵かは知らないが、とにかく自分より先に戦った者が相討ちに持ち込んでいたのならそれは許されない。
討ったのはその人間の手柄であり、横取りするなどやってはならない。恥を通り越して忌むべきことだ。
だが手傷を負わせたとは言え、その誰かは仕留めたわけではない。あくまで仕留めたのは自分だ。いや、自分達だ。
ならばこの首に懸賞金がかかっているならば、自分達が受け取ってしかるべきだろう。
金が出ないとしても、マンティコアを仕留めたという栄誉は受けることが出来る。それはともすれば金銭以上に価値のあるものとなるだろう。
その際に証拠が必要となるのは当然であり、神官射手の行動は正しい。むしろ自分が抜けていたと言うべきか。
いずれにせよ、自分の足りないところを補ってくれたのだ。そして自分は彼女に足りない武力を補った。
これぞ仲間のあるべき姿と言えるだろう。
「うっし、取れたでー!」
意気揚々とマンティコアの牙と爪を掲げる神官射手を見ながら湾刀武者はそんな事を考える。
要はこうして自分は刀を振るい、刀でしか解決できないことをやればいいのだ。他は彼女がやってくれる。
彼女にも出来ないことは別の仲間を募り、任せればいいだろう。
成程、自分は本当に戦うだけでいいのだ。命懸けかつ最も危険なのは当然で、代償としてはむしろ安い。
そう考えるとかえって叔父に騙されて良かったのかもしれない。
もちろん今すぐ結論を出せるほど冒険者として経験を積んだわけではない。まだ手紙配達しか受けていない ――― それもまだ途中で、終わったわけではない。
しかし、ある種の気楽さを感じているのも確かだった。
少なくとも人に剣を教えるよりは、自分で剣を振り回す方がずっと自分向きだと湾刀武者は思う。
「さて、そろそろ行くか」
「せやな。これが本命やなくて、ただの寄り道やもんな」
そう。もしこれが「人頭獅子退治の件」と称されるような物語であればここでおしまい。めでたしめでたしで、後は帰るだけだ。
だがこれは単なる手紙配達の依頼で、このマンティコアはその道中に出てきた一匹の怪物に過ぎない。
つまり、やるべきことはむしろこれからだ。
「報奨金出たら例の牧場のチーズ買うて見るとええで。あらホンマ美味いもんやで」
「そんなにか。少し興味が湧いてきたな」
「その代金であの牧場が段々要塞みたいになっていく、って考えたらもっと買いたくならん?」
「……俄然興味が湧いてきた」
何事もなかったかのように他愛ない会話を交わしながら、また二人は歩き出す。
手紙を届け、受取印を貰い、また辺境の街へ戻ってギルドに報告する。そこまでが手紙配達というもの。
まだまだ彼らの初依頼は半分も終わっていないのだ。
8割方チェストば書きたかっただけにごわす。