クラシックも半ば、ハルウララを鍛えているトレーナー・柏崎は、どういうわけか──彼女の隣でランニングマシンを稼働させていた。
「ウララ、あと10秒でスピードが上がります。スパートをかけるつもりで走りましょう」
「はっ、はっ、はっ!」
「──2……1……走って走って走って!」
「う~~~っらら──!!」
ハルウララが使っているランニングマシンが速さを増し、彼女も足の回転を速める。柏崎もやや速いランニング程度だが、かれこれ30分以上はハルウララに指示を出しながら走り続けていた。
周りで別の器具を使ったトレーニングをしているウマ娘と、その指導をしているトレーナーから奇異の目で見られながらも二人は走り続ける。
レースの最終直線で行うスパートと同じ速さで走らされているハルウララだが、徐々に足の回転が遅くなり、それを見越してか更にタイマーが作動して速度が遅くなった。
「そのままランニングマシンが停止するまで足を止めないように。この前のように最高速度のまま転んで壁まで吹っ飛びたくないでしょう」
「は、ひぃいぃ」
「……はい、お疲れ様です」
完全に停止したその上で、ハルウララはぜえはあと大きく呼吸を繰り返す。
隣で同じように稼働を止めた柏崎がマシンから降りて荷物からシェイカーを2つ持ってくると、鮮やかな橙色の方を手渡した。
「ウララ、人参スムージーです。プロテインを混ぜてあるので飲んでください」
「わっ、ありがとうトレーナー!」
受け取ったハルウララは、シェイカーを開けて中身を煽る。冷やされていたプロテインで喉を潤しつつ、柏崎にタオルで顔の汗を拭われると、両手でシェイカーを握りながら問いかけた。
「ねえトレーナー、トレーナーがトレーニングする必要ってあるの?」
「さあ。別に良いのでは? そもそも学園から禁止されませんし」
──トレーナーはウマ娘の知識担当と言っても過言ではない。要するに、走るのは自分ではないからと運動不足になりがちなのだ。故に、トレーナーがウマ娘用のトレーニング器具を利用するのは、基本的に黙認されている。
柏崎以外が使おうと思わないだけで、誰でも使えはする。ウマ娘用に調整されている器具でウマ娘相手に指示をしながら自分も走り込むことが出来るかと問われたら、話は変わるが。
「……次のレースはこれに出るとして、そこまで体を絞る必要もない、となれば」
「トレーナー? どしたの?」
「──ウララ、明日は休日なので、気分転換にお出かけしましょうか」
「──!」
ぴんっ、と耳と尻尾が天を向いた。プロテインスムージーを飲み干して橙色のヒゲを口に生やしたハルウララは、桜模様の虹彩を輝かせて柏崎に飛び付──く直前で顔面を押さえ込まれる。
「おでかけ! いいの!?」
「おや。嫌ですか」
「嫌じゃないよっ!」
「では、決まりですね」
ハルウララの顔面から手を離して、汗で蒸れたジャージのジッパーを下ろし、別のタオルで汗を拭いながらトレーニングルームを出る。
その柏崎の後ろを着いていったハルウララだが、その背中を見ていたウマ娘たちの表情は、苦々しく歪んでいた。
「嫉妬半分、驚愕半分か」
「なにか言ったー?」
「……いえ、なんでもありませんよ」
トレーニングをしながら感じていた周りの視線。それらが負の感情混じりであることを、柏崎はきちんと認識している。
GⅢ、GⅡと着々とレースで結果を出してきているハルウララに向けた、『まさかあのハルウララが』という、嫉妬と驚愕の感情。
──なにもしてこないだけマシか。
そう内心で独りごつ柏崎は、ハルウララとの外出のことにそっと意識を変えていた。
──翌日の昼、外出で気分が高まっているハルウララの左手を掴んで車道側を歩く柏崎は、周りからの視線に少しばかりげんなりとした顔をする。遠巻きに撮影してくる輩を見回しては、それとなく歩く位置と歩幅を変えてハルウララを撮ろうとする携帯やカメラに写り込んでいた。
「一言聞けば許可出すってのに。ったく」
野次馬根性と言うべきか、赤信号は皆で渡れば怖くないと言うべきか。
『だって皆がやってるんだから』という心理状態は、いつだって人を大胆にするのだ。ハルウララの手を強く握って足を止めさせて、遠巻きから聞こえるシャッター音と彼女の間に体を滑り込ませながら、柏崎はそんなことを考える。
「──ウララ、そこのお店で帽子を買いましょう。気温が強くて、熱中症になりますから」
「帽子?」
「はい。ウマ娘用のモノなので、穴が空いているやつを買いましょうね」
「おー……!」
ちょうど帽子も扱っている洋服店の前で足を止めた柏崎の提案に、ハルウララはよくわかっていないながらも楽しそうに頷く。
「……めんどくせえな」
重いため息をついて、店内のクーラーで体を冷やす。──見て見てトレーナー! という声のする方を向いた柏崎は、穴の空いたニット帽のようなものを被るハルウララに苦笑をこぼした。
「……それは目出し帽だろ」
顔を隠せさえすればなんでも良いだろうが、目出し帽は『隠す』のベクトルが違う。無難にウマ娘用の麦わら帽子を選んだ柏崎に対して、ハルウララが何故かデフォルメされた人参のプリントされたベースボールキャップを選んでいた。
「ウララ、人参のマークを見て決めましたね」
「えっへへ、可愛いでしょ~!」
「はいはい。じゃあ、買ったらそれを被ってお出かけの続きをしますからね」
呆れ混じりの微笑を浮かべて、ハルウララから帽子を受け取りレジに向かう。
そのまま被るからと値札を切ってもらい、それから二人は夕方になるまで──柏崎だけが背後に視線を感じながら散歩を続けるのだった。
──数日後、一週間後にレースを控えるハルウララの指導を続けていた柏崎が生徒会室に呼ばれていた。ノックを三回行い、それから入る。室内には、生徒会長のシンボリルドルフが待機していた。
「わざわざ会長が私を呼ぶということは、なにかウララが粗相をしたのですか」
「ふふ、自分の担当は信じてあげてほしいな。私が呼んだのは君自身に興味があったからだよ、柏崎トレーナー」
「さいですか」
飄々とした態度で喉を鳴らして笑うシンボリルドルフは、柏崎の真っ先にハルウララを疑う態度に返答する。自分に興味──と言われて、柏崎は眉を潜めて、当然として警戒した。
「──あのハルウララの担当となり、彼女を勝たせるに至る。果たしてどう思っているのかな……と、少し気になったんだ」
「……ウララを勝たせるくらい、私でなくとも出来ますよ。走り方を矯正して、芝ではなくダートを走らせればいいだけですよ」
「謙遜するのだね」
「事実でしょう。
──ぴくりと、シンボリルドルフの眉が痙攣した。座る姿勢から柏崎を見上げる瞳と、後ろで自分の手首を掴む姿勢で立ちながらシンボリルドルフを見下ろす瞳がかち合う。
「私が初めて見た時点で周りの誰もがウララを舐めていて、私自身もウララが勝つイメージは持てなかった。
「……ほう?」
「『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』と言いますよね。
『ウララが弱い』というのは、評価であって原因ではありません。『原因があって勝てないから弱いと評価される』んです」
──故にこそ、フォームの矯正と、適当な場で走らせるという最低限の努力が出来れば、あとは『不思議の勝ち』を引き寄せられる。
そんなことは、柏崎でなくとも出来た筈なのだ。目先のハルウララという『弱いウマ娘など担当したくもない』と、誰も彼もが考えたから、自然と柏崎が担当するしかなかったというだけで。
「今さらになってウララを他のトレーナーに任せるつもりはありませんが、まあ……順当にダート・マイル路線で走らせて、URAファイナルズに出場させるつもりではありますよ」
「そうか。ファイナルズはシニアの12月のレースが終えてからだが……例えばそう、有マ記念なんて興味はないのかな?」
「はあ。会長も無理難題を仰る」
──無理ですよ、アレは。
柏崎はあっけらかんとした顔で言う。
「……驚いたよ、ウマ娘の未来を担うトレーナーの口からそんな言葉が出てくるなんて」
「芝が苦手だからダートを、中・長距離なんて出来そうにない身体能力だからマイルを。
ここまでやってようやく
「信じてみるべきではないか」
「はて、何を。ゲート開放直後にウララ以外全員が転ぶことをですか?」
──なんでこんなムキになってんだ、と柏崎は脳裏に疑問を浮かべながら独りごちる。
「……会長がウララに何を期待しているかについては興味ありませんが、恐らく貴女の期待は、ウララにとって荷が重いモノですよ」
「──柏崎トレーナー、私は……」
決心したようにシンボリルドルフが口を開いた──瞬間。遮るように聞こえてきたノックの音が聞こえ、あろうことか許可を取る前に何者かが入室してくる。その一瞬だけ、二人の思考は不快感という意味で合致していた。
「失礼しますぅ、アポ取ってた山城ですけども」
「──予定より10分ほど早いようだが」
「いやすんません、どうしても我慢できなくて」
柏崎の耳に届く、些か人の神経を逆撫でするヘラヘラとした態度の声色。
このままではシンボリルドルフか来客──山城と名乗った背後の男に手を出しそうだと自己判断して、彼女は会釈をして部屋を出ようと振り返る。そして、柏崎と山城の目が合った。
「────」
「…………」
学園内見学許可証の札を入れたネックストラップとカメラを首に下げた山城の目が、柏崎の顔を見て一瞬硬直し、驚愕と苛立ちを見せる。
柏崎もまた、刹那の内に覚えのある先日の視線を思い出し嫌悪と苛立ちを覚えた。
そのまますれ違い、部屋を出ようとして──
「──山城さん。貴方は確か……現在活躍中のウマ娘の取材をしたい、とのことだったね」
「そうなんですわ、ほら……例えば期待の新星がおるやろ? なんやったっけ──」
勿体ぶった演技で、額を指で叩いて、それから──背後の柏崎の地雷を無自覚に蹴り飛ばす。
「……そう、ハルウララとか?」
「────おい」
「……? なん──」
──や? と続けようとした山城の口が閉じられる。柏崎が左手で振り向いた山城の顎を掴み、万力のごとき握力で無理やり閉じさせながら、シンボリルドルフの使うデスクに体を押し倒す。
「ぐ、ぉ、ごぉおっ……!!?」
「っ──柏崎トレーナー!」
「その気色
「ご、こぁ──」
反論するべく開けようとした口が開かず、唇の端から空気が漏れる。『盗撮』というワードを耳にしたシンボリルドルフが、机に山城を押さえつける柏崎を刺激しないように問いかけた。
「柏崎トレーナー、盗撮とはどういうことだ」
「休日にウララと出掛けたとき、コソコソ私たちを撮影しようとしてた奴が居ました。
ウララだけは撮られないように体で遮ったり帽子で顔を隠したりしたんですが──」
「──あの動き、あれやっぱり気付いとったんか!? ……あ、やべっ」
手の力が緩んだ隙にと口を開き、山城は見事に自爆する。バ鹿だろお前、という柏崎の呟きを最後に、改めて左手の握力が強まった。
「ぶぉごごごごっ!!!」
「盗撮出来ないからって堂々と取材を申し込むその図々しさは正直なところ尊敬するが……なんでそれで成功すると思ったんだよ」
「ぼぇっ、ぐぉお……っ!!」
ミシミシミシミシ……と顎から嫌な音が響き、山城の額からぶわっと脂汗が滲み出る。眼前で行われている暴行に、一旦冷静さを取り戻したシンボリルドルフがようやく待ったを掛けた。
「……柏崎トレーナー、彼が本当に盗撮をしていたのかどうかについての言及は我々の仕事ではないし、それ以上の暴行は君のトレーナーライセンスの剥奪に繋がってしまう」
「──命拾いしたな」
渋々。本当に仕方ないといった態度でようやく手を離した柏崎と、支えを失いずるずると床に落ちて座り込む山城。顎が無事か触診する彼に、おもむろにシンボリルドルフが問い掛ける。
「……それで、山城さん。ウマ娘に対する取材とのことだったが──どうする?」
──ズンッと、凄まじい威圧感に目に見えて空気が重くなる。彼女の『どうする?』という質問は、今の山城には死刑宣告に等しかった。
「………………。いや、その……今日はもう、帰ります。はい」
完全に萎縮した山城は、どこか調子づいていた勢いと心をへし折られる。
彼は記者としては若手も若手。言ってしまえば、勢いでどうにかしてきたビギナーズラックの持ち主。とどのつまり──今回が初めての大きな失敗だったのだ。
記者あるいはマスコミの類いの悪意を
怯えるように体を丸める──無意識にカメラを守るようにした山城の敗走。
そんな彼の背中を見て、柏崎は一拍置いて
「山城」
「ヒエッ……な、なんですか」
「ハルウララの番記者、お前がやれ」
「…………はい?」
突然の柏崎が下した許可に、山城どころかシンボリルドルフですらポカンと口を開ける。
「えっ、いや……な、なんでなん?」
「ここまで警告されてもまだ問題を起こすような奴なら、最終的にお前が行くところは警察じゃなくて病院だからな。ウララの取材をさせてやるから、目の届く場所で大人しくしてろ」
「──つまり、事実上の飼い殺しやろ?」
「…………」
柏崎は口ごもる。振り返った先で座るシンボリルドルフもまた、何も言わない。残念ながら当然、この場に山城の味方は存在しない。
ちょっと調子に乗ったツケでとてつもない利子を押し付けられた彼は、静かに泣く。
「これからよろしく」
「…………はい」
こうして柏崎は、新たな仲間を加えるのだった。